『ヘクトールにも決める権利はあるから』
幼く愚かだった頃の自分は、そんな物分りがいい素振りをした無自覚の逃げ台詞を何度繰り返してきただろう。
振り返るだけで死にたくなるほど恥を重ねていたあの頃は、皆そんな自分にひたすら甘かったからそれで良かったのだ。何も気付かないままヘクトールの優しさに甘えて皆がそのように場を譲ってくれて。そんか暖かなゆりかごのような環境に身を委ねていればそれで満たされていたのだ。
だが今は違う。
自分を取り巻く環境全てが変わってしまっていることを、今更ながらに強く自覚し胸を痛ませる。みっともなく縋って叫び出したいくらいの焦燥の衝動を寸でのところで必死に押し留める。
今この世はこの国は平穏に人々が過ごしていて自分はどこにでもいる一般人であり雑踏を構成するひとりであり人類最後のマスターなんて壮大な肩書もなく誰かに特別配慮が施される存在では決してないのだ。
故に、ヘクトールが賑わう観光地でひとりふらりと佇んでいれば声をかけられる場合だって十分にありえるのだ。拐ってしまおうと目論む人が現れることだって十分にありえるのだ……!
自分ではどう足掻いても敵いそうにない美人で素敵なお姉さんが、ただゆるく笑ってそこにいるだけで様になる、精悍さが隠しきれていない素敵なおじさまヘクトールに声をかけて並んで談笑をしている。なんとオークションで目玉でも不思議ではない絵画のような光景であろうか。
こんないつまでもガキ臭さが抜けないちんちく男が隣にいる状態に比べたら、どれだけ……!
今更ヘクトールからの愛を疑う余地などどこにもない。自分が望み続ける限りヘクトールは自分に寄り添い続けてくれるだろう。知らぬ裏で何かしていることはあったとしてもどこまでも真面目で誠実である男が何も言わずにふわふわとどこかで火遊びに興じることもあるまい。もちろん眼前のお姉さんだってただ声をかけただけで下心があるわけではない可能性だってある。むしろそっちの可能性のほうが高いだろう。今現在渦巻いている大波乱な感情は完全に自分ひとりの盛大に滑稽な空回りである。自覚はある。分かっている。
信頼はある。
信頼はあるがしかし、
その強大な信頼があったとしてもなお、その上に余裕の顔を浮かべてあぐらをかけるほどの余裕など、今の自分にはありはしないのだ────────!
「おーマスター、思ったより早かったな。かき氷ありがとう。どっち食べていいやつ?」
「ヘクトールはオレのです!」
「はっ!?えっ!?ええ…………っと?……あぁりがとうございます?」
美女との会話もそこそこに、にこやかに別れて両手にかき氷を持つ彼の姿を見るなり嬉しそうに寄ってくるヘクトールに爆発したように彼は訴える。も、今更そんな当然をいきなり何の話かとさっぱり検討もつかないヘクトールはただただ泣き出しそうなほどの必死さに目を丸め、戸惑うことしか出来なかった。