突如人類最後のマスターとなった少年は、日々張り詰めていると思われるほど己を律しているような人間だった。
短くまとめれば清涼かつ厳格。漂う空気は修練に励むための清廉な森の奥で瞑想に勤しむ修行僧のような。そんな空気を持つ人であった。
世界を彩った数多の英雄から力を預かる身の者として最低限そうあらねばならない。そう己に課した責務のひとつと思っていたらしい。
まあそんな日々も年単位となると多少崩れて緩み溶けてしまうこともあったが、くりーむぱんと揶揄される時も多かったが、基本的にそうであったのだ。
そんな彼のスタイルはどうやらカルデア限定ではなかったらしい。日常に戻り穏やかな日々を過ごす中でもやはり彼はどこか張り詰めているようで身体に一本の線が通っているかのようであった。
しかし彼はもちろん完璧な人間ではない。先にも言った通りそうありたいと日々志していたとしてもしても、本格的にその修練の門戸を叩いたわけではない未熟者未満だ。しがない若人学生だ。故にやはり。ふとしたことで気は緩みミスは犯してしまうものなのだ。
「んぎゃーーー!寝坊した寝坊した間違えたー!今日は早く行く日だったのにー!」
「はいはいマスター。おにぎり作っといたから向こうで食べな。あとお弁当」
「ありがとう!助かる!」
このようにばたばたと慌てふためく朝もある。起こしはしないがこうなるだろうと予測し準備していたものを軽やかに渡せばその通りに貰われていく。
朝を食べる余裕もないとバタつく彼にヘクトールはいつも通りにゆるりと振る舞い見送り体制だ。今日という日の朝に特別早い仕事がなくて感謝である。
「あ、マスターちょいまち」
「なあに!?」
おそらく向こうについて落ち着いてから手落ちの忘れ物がいくつか発生してそうな勢いで部屋を飛び出そうとする彼を追いかけ
「はい。大好き大好き〜」
「あ゙あ゙あ゙あ゙!こういう日に限ってじっくり味わう暇がないーーーー!!!俺も大好きーーーーーー!!」
突然のハグに焦る勢いのまま彼もヘクトールの背を高速に撫で回してから改めて部屋を飛び出した。
「はあ〜〜〜〜。我に帰ってから恥ずかしくなるだろうな〜」
それは電車の中でか大学で腰を落ち着けてからなのか。普段はあれくらいみっちりハグをすることなど少ないので。完全にどさくさ勝ちである。歌い出しそうなくらいご機嫌にヘクトールはひとりこぼす。
焦りで冷静さを欠くとこのように隙を突かれていいように扱われたりするのは定石だ。いい教訓になってくれたらいいと思う。日常であれど油断は大敵。血は流さずとも生じる駆け引きというのはあるものなのだ。ヘクトールが本来生きていた世界もそうであったし、彼がこれから身を投じる世界もそのようになっていくのだろうから。もちろん建前である。
さて、今日の自分は完全にオフなのだ。帰ってきたら複数の意味で疲労困憊であろう愛しのマスターからの「やってくれたな」を宥めながらの労いをたっぷりと用意しなくては。
大きく伸びをし身体中の空気を入れ替え、自分にしては珍しいと思うほど気合いをいれて本日の業務に踏み出した。