旅をしたいと旅をしながらずっと思っていた。
世界なんて身不相応のものなんて背負わずに。心の基盤に臨戦態勢なんて敷かずに。ただゆっくりと空を見て景色を見て地図を開いて道を歩くような。そんな旅を。
もちろん。あの頃からしたら贅沢な望みであったからそれを口にしたことなどなかったが。そういう願望はずっと長らく奥底にあったのだ。
しかし世界が元に戻ったからといってそれを自由に出来るかと言われたらそうでもない。
旅より先にこなすべき日常は容赦なく累積していき旅に当てられる余裕などなかなかないものだ。旅をする前に為すべきことを十全にやらずして出る旅というのは本当にしてもいいのだろうか。
そんな風に思うと結局旅行誌を買って眺めネットの海を漂うことで満たされたことにする日々になってしまうのだ。まあ物足りないのも事実だが、本当に、それも楽しい日々だったのだ。
その心が急変したのはやはり言うまでもなくヘクトールの帰還だろう。
こちらの気持ちとしてはヘクトールの手を離すなどもうあってたまるかと強く決意している。そのためには家に帰れてまともに普通に暮らせるようになったら、返しきれない恩を返したかった両親たちからまた背く愚者になる覚悟もあった。悲劇気取りで酔っているだけだとしても、それでも掴んでいたかった人なのだ。本当は、一度だって手放したいなんて思ったことのない人だったのだから。
けれどそれはあくまで自分だけの意思だ。
自分の意思とは、もしくはヘクトールの意思とも誰の意思とも関係なく別れが訪れることはある。容赦なく切り落とされることはある。
その時に、日常に埋もれていた惰性で本当は出来たはずだった何かを零し続けていたことを悔いることなどしたくはないのだ。
「で、マスター。今度はどこに行きたいんだい」
「どこにしようかな。候補は絞れてきたんだけど……、こっちとこっちだと課題の〆切を考えればやっぱり…………でも詰めればあるいは、こっちのほうがお安く済むし、でも一回はここの風景見ておきたいかな!って思ってしまうし……。徹夜もいいけど移動風景も楽しみたいから」
今やれることを全部やれていれば多少跳ね回るくらい許されるのではないのだろうか。
そう開き直って日常の回転速度を少々上げて彼はまた旅に出ることにした。見れるだけたくさんの景色をふたりで見たいと努力することにした。
オーバーロードで倒れない程度に加減はしているが少々無茶なスケジュールの時もあるがそれも含めて充実した日々であった。
しかしヘクトールにそんな彼の焦燥のような衝動が分からないわけはない。
「どうせなら余裕があるほうを選びましょうよ。景色なんてゆっくり眺めてこそなんですから。金ならオジサンも働いてるんですし」
「そう?でもそれに頼り切ってしまうのはなあ」
「ほら、オジサン年だし」
「そう?いつだって断然こっちより体力あるくせに」
「そういう話でなく」
ヘクトールと共により多くの平穏な色彩を。一秒でも多くの思い出を。
旅行誌を広げて張り切るそう彼に、それとなくそれとなくペースを抑えようとするヘクトールがいるのだった。
「俺はもうどこにも行きませんよ」と言えれば少しは落ち着くとは分かっているのだけど。ヘクトール自身もまた安易にそう言い切れない不安を抱えているために、そんな彼の焦燥に乗ってしまうところもあるのだった。