「え?マスター風邪?」
「うん。このところの気候差にやられたみたいで……申し訳ない」
弱々しく語るロマニにヘクトールはすっとんきょうな声をあげる。
しかし言われて振り返れば納得はある。
火山の火口付近に呼吸も凍る谷底にオアシスを探すのも困難な砂漠のど真ん中に汗を滲ますことすら許さぬと言わんばかりの湿度にまとわりつかれた亜熱帯の森に……。とにかく極端であった。
礼装で生命活動は基本的に守られてはいたが……脳がついてこれなかったのだろう。いくら順応力が高い子ではあるとはいえ、流石に無理が出てしまったようだ。
しかし特異点はこちらの事情に配慮した発生などしてくれないし解決のために現場に赴けるのは彼だけなのだ。今回は申し訳ないにしても何とか彼が倒れぬように調整しつつ何とかするしかないのだ。
そして今は療養に努めねばならないわけで
「とりあえずヘクトールは栄養剤と食事を藤丸君の部屋に持ってって。しばらく様子を見ててくれたらなおよし。起きたらご飯あっためて食べさせてね」
「はい?」
「藤丸君の部屋の鍵持ってるでしょ?よろしくね」
「はい……」
マスターの部屋の合鍵なのだ。当然他者に渡すとなれば現在の最高責任者の許可が必要なわけで。ロマニが知っているのは当然なわけで。ならばそれを効率的に有効利用しようと思うのは当然なわけで。
しかしまあ、あの好きを知らないまま恋を囀ずる恋愛乳幼児はどう説明してどう許可を求めたのやら。
この生暖かい表情と声音で分かるような分からないような。まあその辺は気付いていないことにしよう。今はそこに気を割いている場合ではない。意識を向けすぎれば還りたくなる。
「じゃあ僕これからダヴィンチちゃんとプロトたちとスケジュール組み直すから~」
「はいよ。今度はちゃんとしてくださいね」
慌ただしく立ち去るロマニとこれ以上脱線するわけにもいかない。託された荷物を手に彼の部屋へと向かうのだった。
「マスターご無事です?ヘクトール入りますよ?」
そう言って開くドアは相変わらず合鍵を渡した意味とはと問いたくなるノー施錠であった。
残る職員たちは皆善良でサーヴァント相手に施錠など意味はない。世界のための協力者であるサーヴァントたちが契約者であり守るべきマスターに悪事を下すわけがない。そしてそんな皆を自分はいつでも迎え入れる気持ちがある。
そのような信頼の基に鍵はかけられていないのだろう。それでもやはり鍵はかけていたほうがいいと思う。
ベッドの下の気配だって今静かに眠っている彼に何かしようという気がないのも確かだけれども。
やっぱり鍵はかけていたほうがいいと思う。
言っても聞いてくれないと思うけど。
やれやれと息を吐き、任された荷物をデスクに置く。
熱……は、ないようだ。顔色も悪くないし軽く触れた額もさほど熱さはない。単純に疲れが噴出しただけなのだろう。
「……ぅ、ヘクトール?」
「身体はどうです?」
「ドクターが大げさなだけだよ」
「まあ、いくら元気でもドクターに言われたら休むしかないでしょうなあ」
「はい」
少々苦笑い気味に語るがまず間違いなく正しいのはロマニの方だろう。知らずに無茶をして倒れられるよりもずっといい。無茶をしたら無茶をした分だけどうにかなるなんてものは若さ故の思い上がりなのだから。ペース配分が身に付くまではこちらで調整訓練してやらねばならない。
「まあ付き合ってあげなさいな」と笑い撫でれば嬉しそうに彼も笑う。
「しかし、寝込むといいこともあるものだな」
「そうかい?」
「ヘクトールが部屋に来てくれた」
「…………」
なんてことを心底幸福そうに言ってくれるのだこの子供は。半ば寝ぼけて溶けている声で何を言ってくれているのだ。
一瞬で熱をもちぐらつく心を即座に立て直して「いいから休みなさい」ともう一度頭を撫でる。
「はぁい」と目を細めて再び眠りにつく。どんな状況下でも寝つきがいいのはいいことだ。急なおつかいで手元に木工作業を出来る物がないのが残念だな仕方ない。椅子に腰かけ彼が図書室から借りている本を手に取り目を通す。これで暇は潰れるだろう。
だからマスターの健康にも悪そうなのでそう殺意をベッド下から漂わせないでください。
煙る怨念に冷や汗を滲ませつつも気付いている素振りは一切見せないまま、最近召喚ゲートをくぐってきた英雄の戦歴に意識を降ろしていくのであった。