『まだそこまで眠くないしちょっとだけでもレポートに手をつけておこう』なんて軽い気持ちでPCを立ち上げキーボードに指を置いた夜更け入り。
そこからの時間経過が全く分からない。
思った以上に集中力が跳ねて指が躍り廻りここで一段落と思っておこう。そう息をついて窓に目を向けたら外が白んでいたのである。完徹だ。
進捗が良好なのはいいことだが、ここまでするつもりは……。初手にペースを上げてしまうと後々の息切れが深刻に……。それで真面目に命取りになりかけた記憶も相まって心が急速に干潮を引き起こしていく。テンションが落ち着いていくにつれて脳が眩暈と眠気を訴えてくる。
とりあえず休まなくてはならない。ちょうど今日は完全にオフだ。ヘクトールも何もなさそうだから一緒に何かしたいなと思っていたのに。しかし何でもない日に無理をして喜ぶ人ではない。残念だが諦めよう。
今さっきまでハイだった名残も混ざって大きくうねる思考を冷ますべく上着を羽織って部屋を出てベランダに立つ。陽気な気候は増えてきているがやはり明け方は肌寒い。しかしおかげで脳が冷えるのも早い。清涼な冷風に身が撫でられて気分が切り替わっていく。漠然と存在していた疲労が全身にのしかかっていく。
元々閑静な住宅街に必要最低限な商店街が小さく賑わう地に突如生えた高級ビルなのだ。寝静まる者が多い朝を越えても静かな地区なのだ。その近くに並ぶ町工場の作業音がわずかに流れ聞こえてきたりもするが、眠りくつろぐことに支障が出るほどではない。むしろ生活の鼓動のようにも感じられて心地よいと思えるくらいだ。住むこと自体には馴れてしまったがそれでも自分には不相応の場所に暮らしているという心は相変わらず強い。しかしやはり、過ごしやすさと安全性に最先端の人たちが技術と情熱を注げるだけ注いでヘクトールが良しと判断した場所なのだ。居心地はいいに決まっている。
でもやっぱりひとりで住むなら前の6畳間で十分だったかなあ……。
高層から静む街を眺めながらもう何度目か分からない思考の末路にやれやれと息を吐いた。
「おはようマスター。ミルクあっためたんであったまってくださいな」
「おはようヘクトール。ありがたくいただくよ」
優しく後ろからかかる声を彼も柔らかく受け取った。一体いつからこちらが起きていることに気付いていたのか。その疑問はとうの昔に考えないようになってしまった。ともかくヘクトールという男はそういう男なのだ。そう処理しなければ思考が永久に迷宮に飲まれてしまう。
「これから朝を作るけど、何かリクエストあります?」
「そうだなあ…………。卵焼きなら甘めがいい」
「了解」
本当はリクエストなんてなく何でも良かったのだが、聞く側としてはそれでは困るだろう。そう思ってなんとか絞り出したが、参考になっただろうか。彼がヘクトールについて分かっている部分は格段に少ない。笑っていることを信じるしかない。心地よい優しさに甘えるばかりだ。
「マスターそうだそうだ」
「うん?」
ベランダから立ち去る際、ふと振り返るヘクトールに彼も振り返る。
「オジサン最近忙しさが詰まっちゃって疲れ抜けてなくてさあ。朝食べたら今日は昼まで寝てたいんだけど、いい?」
「…………」
ああ、この人は本当に、
「こちらもそういう気分だったんだ。そうしよう」
「ありがたい」
にひと笑い今度こそ退散するヘクトールの背を見送りミルクのカップに口をつける。外のほどよい肌寒さを内から温めるほどよいあたたかさだった。
「人を駄目にするヘクトール」
何度となく思った言葉に「そして今は自分専用」と言わずに付け加えると思わず口角が上がるほどの幸福感に包まれた。
やはり疲れているな。
しみじみと呆れがちに自覚しながら彼は緩やかにミルクのカップを傾けた。