ガシャーーン!!
ようやく覚悟の決まった男がちょうど、自室のドアノブにかかったベルトに首をかけた時だった。
下階の方から、何か大きなガラス製のものが割れたような大きな音が聞こえてきた。
「きゃああーー!!」
それとほぼ同じタイミングで女性のかん高い叫び声が響く。
「今のは、…母さん?」
瞬時に母親の声と認識した男は、慌てて首をベルトから外した。
「一体、何が?」
もうすぐ死ぬ予定だったとはいえ、今まで共に暮らしてきた中で、あの穏やかでいつもどこか抜けているような母親からは想像できない様な…初めて聞く叫び声に、男は何事かと、自身が死ぬ予定だったことも忘れベルトがかかったドアノブを力強く回した。
(一体、なんだってんだよ畜生)
心の中とは裏腹に自身の足は廊下を駆け抜け、まるで子供の頃のように階段を猛ダッシュで駆け下っていく。
絶対に何かあったのは確信できるが、それは今まで平和な世に生きてきた男からすれば、恐らく何かの拍子で食器棚でも倒れそのガラスが割れたのだろうくらいの認識であった。
だが、どうにも嫌な汗が男の頬を伝う…
「はぁ…はぁ…母さん…どうしたの?」
ようやく下階へと降り立った男は、普段仕事と自宅を往き来するだけの生活を送ってきた為に、息もたえだえに頭と目線を下に向けながら母親へとそう尋ねた。
「拓海………。 に、逃げなさい!」
「え?」
これまた聞いたことのない程の高い声で、自身の名前と共にそう言われた男は、ほんの少し落ち着いた呼吸で何事かと顔をあげる。
すると、目に飛び込んできた映像から、今度はヒュッと息を飲んだ…
「沙弥…の彼氏…」
この場合、すでに結婚しているのだから旦那と呼ぶべきであろうが、今の男にそんな余裕や考え等は浮かばなかった。
「…え? …誰?」
それもそのはずで、目の前には自宅のリビングで両親と妹を庇うように立っている妹の夫がいて、見ればその肩口は大きく切られ、彼が着ている白いYシャツは真っ赤に染まっていた。
そして、そんな彼の前では、背景には割れた自宅の窓ガラスがあり、黒い覆面から目と口だけを覗かせたアーミーグリーンのスカジャンを着た男が大きな包丁を手に立っていた。
「…ーー…ーー!?!?」
その男は、突如目の前に現れた拓海に目線を写した後、何かモゴモゴと苛立たしさを覗かせるように喋っている。
きっと、いまだ他の住人がいたことに対しての文句を何か話しているのだろう。
「クソが!」
そして、今度はハッキリとその場にいる全員に聞こえる程に声をあらげて、妹の夫である彼氏に向かって走り出した
「政夫さん!」
自身の夫であろう男性に向かって、危機を察知した拓海の妹が叫ぶ。
「ぐあっ」
しかし、無情にも今度は足を切り裂かれた政夫は叫び声をあげた。
崩れ落ちる政夫に見向きもせず、犯人の男は妹・沙弥へと向かい走り抜ける。
「政夫さー…え?」
夫を心配し、必死に声をかけようとする沙弥は一瞬遅れで自分の身が危険にさらされていることに気付く。
「沙…弥……」
そう口走ったのは、政夫ではなく兄である拓海だった。
人は、自分が死ぬような危険に突如としてさらされた時に全てがスローモーションで見えるというが、拓海はそれを今、自身の死ではなく本当は愛すべき妹が死の危険さらされている現状に対してから、見えていた。
「そんな…ふざけんなよ…畜生」
子供の頃から幾度となく比較され、その度に劣等感を植え付けられたが、決して恨むことはなかった。
うだつの上がらない、自分をいつも自慢の兄だと友達に話す妹に、恥ずかしくあり止めて欲しいと思っていたが、それでも嫌いになることはなかった。
こんなどうしようもない自分を自慢の兄と胸をはっていてくれる妹を彼は心底好きだった。
そんな、自慢の妹が危機にさらされている。
彼の足が動かないはずはなかった。
普段から運動不足な彼なら自分で自分の足を引っかけそうな場面であるが、この時ばかりは力強く、大きく足を踏み出し最愛の妹の前へと駆け出した。
「沙弥ーー!!」
叫びながら、妹と犯人の間へと身体をねじ込ませた。
ズンッという衝撃と共に、自身の腹部から熱い感触を感じ、そして激痛が走った。
「お兄…ちゃん」
背後からは、兄を心配する声が届いており、霞んだ目の前では本当に刺してしまった事への後悔からか犯人が後退りをしている。
「ち、違う…俺は、こんな…違う!」
そう言って、割れた窓から勢い良く犯人の男は逃げ出していった。
「…何が、違うんだよ…馬鹿野郎…」
深く刺された自身の腹部には今も包丁が突き刺さったままで、拓海は薄れゆく意識の中、犯人の背中を見ながらそう呟く。
グラリ…と、身体が後方に傾いていくのがわかる。
そんな自分の元へと、両親や妹の旦那が必死に近寄ってくる。
ポスン…と、預けた自分よりも小さな身体。
目にはいっぱいの涙が浮かんでいる。
「…かやろ…なに泣いてんだよ…」
優しく、それを拭おうと必死に手を伸ばしたがそれまでだった。
「お兄ちゃーーーん!!!」
それが、大和田拓海がこの世で聞いた最後の声であり叫びであった……。