「知らない天井だ…」
そのセリフを知っている人なら、いつかはどこかで使いたいセリフを自然とはいた拓美は、病室のベッドの上ゆっくりと目を開いた。
自身の腕には複数の点滴の管が刺さっており、見れば自分の手を両手でしっかりと握りしめたまま、ベッドにもたれ掛かるように寝ている女性の姿が目に入った。
耳元からは、ピッピッピッと規則正しく鳴く電子音が聞こえ、目線を横に向けた先には自身の心音を計る心電図が見える。
「あの…」
恐る恐る、寝ている女性へと拓美は声をかけた。
「拓美? …起きたのね? 目を覚ましたのね!」
すると、自分の手を両手で握りしめていた女性が声をあげ、涙混じりにそう言ってきた。
シチュエーションからして、藤代拓美の母親だろうと思われる人物は、歳の頃は30代半ばといった所だろうか…
藤代拓実と同じような長い黒髪で、見た目も20代と言われても通じるような若々しさで、糸目の優しそうな雰囲気の人物であった。
「…ええまあ、その…お母さん…ですよね? この度は、本当にご心配おかけしまして…その…」
「なに言ってるの、この子は…待ってて、今お医者さん呼んでくるから! あ、あとお父さんも!!」
そう言って自身の元から慌ただしく離れていく人物を尻目に、拓美は(そうか…成功したのか…)と、あの出来事は夢ではなく現実だったことを実感すると共に無事に藤代拓美の身体に憑依できたことに対して安堵していた。
「拓美! 目を覚ましたのか!?」
そんなことを、どこかぼんやりと考えていた拓実の元に、ガラッと慌ただしく病室のドアが開かれると、藤代拓美になってから気を失う前に電話ごしであるが、初めて聞いた声が聞こえてくる。
急ぎ足で自分の元へ近づいてくるその人物は優しそうな雰囲気の母親とは違い、短髪で目付きが鋭い、背筋の伸びた母親と同じくらいの歳の男性であった。
「は、はい。 …えっと、その声は…お父さんですよね? 自分がここにいるってことは、無事に助けて頂いたんですね?」
「お前…何を他人行儀に…」
長らく話してなかったとはいえ、血を分けた実の娘から他人のような扱いを受けた藤代拓美の父親は、そういえば…と電話ごしでも何処か違和感のあった娘の様子に違和感を感じていた。
「拓美…もしかして俺たちのことを覚えてないのか?」
「あなた…もしかして記憶が?」
ここに来る途中にも妻から拓美が自分のことを、母親だとキチンと認識していない様子だと聴いていた父親は、思い切ってそう尋ねる。
「……」
一方、そう聞かれた拓美は、どう答えたら良いかと悩む。
彼女との約束から、できれば上手にこの子を演じて親孝行して喜ばせたい所だが、なにせ自他共に認めるコミュ障であることから、そうそうに根をあげてその設定に乗っかることにした。
「はい、すみません。 実は…自分の名前だけは、ハッキリ分かるのですが…その他のことは、ぼんやりとしか覚えていなくて…」
「拓美…」
「おまえ…やっぱり…」
どうやら、素直に信じてくれた両親に罪悪感を覚えながら感謝した拓美の元へ、傍らでじっと会話を聴いていた医師が声をかけてきた。
「ふーむ、どうやら強いショックによる一時的な記憶喪失かもしれませんね。 詳しい事は検査してみないとなんとも言えませんが…なんとも、今はまだ目覚めたばかりですし、決して小さい怪我ではありませんから、しばらく安静にしてもらって、また後日詳しい検査をしましょう。」
「…はい」
そう告げられ返事を返したのは拓美のみで、両親はというと、下を向いて俯いてしまっていた。
「…それでは」
…と、医者が去った後の病室に、沈黙だけが残る。
父親は、悔しそうに顔をゆがめていて、母親は涙こそでていないが今にも泣きそうな顔をしていた。
こんな自分が、彼女に乗り移ったことからそんな顔をさせてしまって申し訳なさを感じた拓美は、そんな二人に声をかけることにした。
「あの…すみません。 自分が…その…覚えていなくて…」
罪悪感からいっそ全てを話してしまおうかとも考えた拓美であったが、せっかく助かった娘の中身が全くの別人で、実の娘はやっぱり亡くなっていましたなんて言える訳がなく、簡潔な謝罪しか述べる事が出来なかった。
「馬鹿もん! お前が謝る必要が何処にある! 悪いのは、お前をこんな目に合わせたヤツであり、そして…そんなお前を守ってやることが出来なかった俺だ…!」
悔しそうに、拳を握りしめて父親が話す。
「ええ、そうよ。 貴女は何も悪く無いの…悪いのは私…私がもっと貴女に寄り添っていれば…今頃、こんな…」
母親の目からは、堪えていた涙が溢れだす。
電話を貰って父親と共に向かった先には、頭部から血を流して身体中痣だらけの娘が倒れていて、やっと目覚めて安心したかと思えば記憶がないと言うのだから、母性という心理がある母親にとってはもう限界で、より強い自己嫌悪に襲われていた。
「違う!お前は悪くない、俺が…!」
「いいえ…いいえ私が……」
そう言って、自分の為に悔しさを滲ませる父親…。
悲しみから涙を流す母親を見て、拓美の心中もまた、さらに罪悪感をつのらせていった。
「あの…すみませ……」
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「ありがとうって言いたいの。 育ててくれた両親にありがとうって」
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罪悪感からまた謝ろうとした拓美の脳裏にふと、実際の藤代拓美の言葉が浮かんだ。
(ゴメン、違うよな)
今、二人にかける言葉は謝罪ではない。
自分の為に涙を流し、怒ってくれていること、そして助けてくれた事への感謝の言葉だ。
そう思い直した拓美は、ゆっくりと言い直す。
「ありがとうございます、お父さんお母さん。助けてくれて… こんな自分の為に泣いてくれて、怒ってくれて…ありがとう。」
「馬鹿…者…」
「……拓美」
しかし、今度は母親と一緒に父親まで泣き出してしまって、夕陽が差し込み茜色に染まる病室では、しばらく両親の泣き声がこだまするのであった。