大和田拓海が藤代拓美になってから、10日が経った。
意識を取り戻してからは、異常に早い回復を始め、その回復力には、医師も驚きを隠せないといった様子だった。
そのため、一時は生死の境い目をさまよう程の怪我だったのだが、予定よりも早く退院できる運びとなった。
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「早く、戻ると良いわね。 昔の記憶」
「はい」
容態がある程度回復した後病院で行なった検査の結果では、恐らく頭部に強い衝撃を受けたことによる、『解離性健忘』といった精神障害では無いかとの診断になった。
医師の話によると急速に良くなる場合もあれば、長期間をかけて徐々に思い出していくケースもあり、それは人によって様々であるという話だった。
(思い出そうにも、中身が全くの別人なんだから思い出しようがないんだがな…)
母親のセリフにそう返事したものの、内心ではそう思いながら一人冷や汗を流す拓美であった。
「母さんそう焦らすな。 拓美、ゆっくりで良いからな。 今は身体を休める事に集中するんだぞ。」
「…あなた。 そうね、ごめんなさい拓美。」
「…いえ、ありがとうございます。」
退院した病院から自宅へと向かう車中、運転中の父親から優しい言葉と、それから母親の謝罪を受けとめた拓実は、今度は罪悪感から胃がキリキリと締め付けられるのだった。
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「はあー、疲れた。」
そう言って、藤代拓美の住んでいた家についた拓海は、恐らく覚えて無いだろうと案内された彼女の自室に一人で入るやいなや、色々な出来事が重なっての疲労感から、ベッドの上にうつぶせにバタリと倒れこんだ。
(あ、やべ…女子の匂いだ…)
倒れこんだ後に自分がやってる行為に気付き、慌てて身体を起こす。
(ゴメンよ、藤代さん)
と、心の中で謝罪しながらベッドに腰を下ろした拓美の目に入ってきたのは、一枚の全身を写す鏡であった。
「へえ、これが新しい俺かあ…てか、細っ!」
改めて見ると非常に華奢な身体つきをしており、お世辞にも胸は大きく無いと言える。
しかし、身長は恐らくではあるが、160代前半と見られ、女性としてはやや大きい部類に入るが、そのお陰からスタイルは良く見られるといった感じで、見る人が見れば羨ましがる体型をしていた。
「しかし、この前髪がなあ……」
髪の長さは、大体腰の辺りまである綺麗なストレートな黒髪であるが、前髪はまるで自身の目を覆い隠すような感じで伸ばされていた。
その前髪が彼女の存在価値を下げているような感じがして、拓海としてはそれがどうしても許せなかった。
「切っても良いかな? …良いよな?」
そう思いたった拓美は、おもむろに彼女の机の上のペン立てにあったハサミを手に取る。
そして、慎重に自身の前髪を切ろうとしていたその時だった。
「拓美、入るわよー」
と、ノックも無く無造作に開かれたドアの先には母親の顔が覗いていて、それを見た拓美は驚きと共に手を止める。
そして、自分の娘のあまりにも突飛すぎる行動を目撃した母親はその場で硬直してしまい…しばしその場に静寂と共に気まずい空気が流れた。
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「全く、今までどんなに言っても頑なに前髪を切ろうとしなかったのに…いきなりでビックリしたわよ…でも自分で切るのは駄目よ?」
「す、すみません」
あの後、沈黙を破った母親から「……何、してるの?」といった問いかけと共に無表情に怒る姿を見た拓美は「い、いや、前髪が邪魔だったので…」と恐る恐る返事をした。
そしてそんな拓美から呆れるようにハサミを奪った母親から、現在は前髪を切られるといった形になっていた。
「はい、出来たわよ。」
「あ、ありがとうございます。」
そう言われて、閉じていた瞳を開ければ鏡には父親譲りと言った所だろうか、目付きの鋭い女子が写っている。
そして、同じ鏡に写った母親を見れば、スタイルはほぼ藤代拓実と同じであるが、眼差しだけは全く違くて(もしかしたらそのコンプレックスから、前髪で目を隠していたのかもな…)と、今は藤代拓美である拓海は思うのだった。
「傷…残っちゃったわね…」
ふと、切り終わった拓実の前髪を上げて、母親である陽子が悲しげに呟いた。
前髪は、それが隠れるように、かつ邪魔にならない程度の長さに切り揃えられている。
「そう…ですね。」
そう言われて鏡を見れば、自身の左眉の上あたりに斜めに残った傷痕が目に入った。
しかし、現在は藤代拓美である拓海にとっては元々は男性だったこともあり、そこはあまり気にはならないのであるが、反対に鏡に写った母親は意気消沈といった様子であった。
「その…すみません。」
何だか、申し訳なくなった拓美はそう言葉をかける。
「何で、貴女が謝るのよ…」
「いや、それは…」
「謝るべきは、私達の方よ。こんな傷を負わせて…ゴメンなさい。 危険な目に合わせてゴメンなさい…」
そう言って、母である藤代陽子は娘である拓美を後ろから抱きしめた。
抱きしめられたその腕から拓美に震えが伝わる。
生前、泣かせてしまった事はあったが抱きしめられた事はなかったと拓海はふりかえる。
「……」
気付けば、いつも謝ってばかりだったと…
会社では、上司に怒られ謝り、同僚にもこれ以上敵を作りたくないからと謝り、家族にはこんな自分でゴメン…と心の中で謝ってばかりの人生だったと…。
いつしか、『すみません』は拓海にとっての挨拶のようになっていた。
きっと、彼女も…何処か自分に似た藤代拓実もそうだったのだろう…謝罪ばかりで、感謝を述べる事はほとんど無く、それで後悔と未練ばかりが残ったのだろうと拓海は思う。
拓美は抱きしめられた母親の腕を、ギュッと掴んだ。
『良い、来世を…』と女神は言っていた。
ならば彼女の、藤代拓実の為だけではなく、自身の為にも生前出来なかった事をしていこうと思った。
(折角だから、全部、全部頑張って良い来世にしてやろうじゃねーか…)
「…もう泣かないでください。 頑張るから…今まで出来なかった事…全部したいから。 お母さん達とも、もっと話して一緒にいたいので…だから…」
「拓美…」
「だからこんな傷、へでもないです。 いうなれば、女の勲章ってやつですよ?」
「…バカ」
母親を元気づけようと、らしくない無理なジョークをかまして拓美は上を見る。
よりいっそう強く抱かれてしまったが、その腕はもう震えていなかった。