―――月が、綺麗で。泣きそうに、なるのは。
「いく、よ。……、」
どうして。私は貴方が好きなのに。貴方が好きだから、ここにいるのに。
「ごめん‥‥ごめん、ね‥‥」
ねぇ、どうして。
どうして、そんなカオするの?
「私ッ‥‥私、はッ‥‥‥‥」
―――いつの、日にか。別れが来るから。
あぁ、どうして私は、こんなことしてるんだろう。
時折、はっと冷静になる。このためだけに新調したシーツは肌触りが良くて、ベッドはふわふわ。そして私の両腕の先には、手首をつかまれて動けなくなっている喜多郁代がひとり。
『私は、いったい何をしているんだろうか』。
これ以上そのことを考え続けると罪悪感に押しつぶされてしまいそうな気がしたので、私はまた熱に吞まれるだけである。
もう無駄な事なんて何も考えなくてもいいじゃないか。どうせ今日で終わるんだ。全部。だったら今ここで全てをぶちまけてしまったほうが、あとあと後悔も少ないというものではないのか。
そう思った。そうだ。そうだから動くんだ。口には出さないけれど、私はずっとそう思ってるのだ。
そう思ってるのだが、手が動かない。しびれるような、震えるような、そんな不可解な衝動が私を襲って、眼の奥にある熱いものをぽろぽろと零していくのである。
「…郁代が。悪いん、だよ」
違う。彼女は何も悪くない。悪いのは全部私である。
自分の気持ちを押し殺せなかった自分が、変人でマイペースな山田リョウを保てなかった自分が、彼女の気持ちを分かっていながらも、それを受け入れようとしなかった自分が、
なにもかも、悪い。
生まれて初めて、理性を捨ててしまいたいと思った。理性も記憶も、“山田リョウ”を構成しているもの全部をかなぐり捨てて、一人の愛に飢えた獣になりたかった。
だが、“私”がそれを許してくれない。結局私は好きなひとを押し倒しても何もできない意気地なしで、それを否が応でもわからせられてしまう。
「…ごめん、ごめんね‥‥」
初めて彼女に会ったとき、彼女が初めて、私の人生の中に現れたとき。彼女はずっと、私を好きだと言った。
わかっていた。それが“好き”なんて感情ではなく、憧れから来る盲目的な想いだという事も。
理解っていた。彼女の好きな“山田リョウ”が、醜い私自身を隠すために作った、ウワベだけのソトヅラだという事も。
受け入れたくなかった。私は。そのことを。
郁代が私に抱いているのは憧れではなく恋慕なのだと。
そして、それは私のソトヅラではなく本当の私へと向いているものなのだと。
そう、自分自身に錯覚させていた。
そうやって、私は。彼女への劣情の詰まった恋慕を、正当化していたんだ。
『相思相愛』なんて綺麗な言葉で、現実から目を背けていたんだ。
「…ごめんね」
バンド内のいざこざなんてものは、本来“私”が最も嫌うもののひとつである。
それを、『ソウシソウアイ』で正当化して。私は、熱に溺れる。
「好き」
ひとつひとつ、零れていく。“私”で閉じ込めていた熱が。
「不器用なとこも、真っすぐなとこも、大事な時には逃げ出したりするけど、本当は健気で努力家なとこも、全部」
“クールでマイペース”な“山田リョウ”の隙間から、内側に隠していたどす黒いものが溢れ出してくる。さようなら、私の丹精込めて作ったソトヅラ。私は理性を捨てて、獣になります。
「好きだよ」
好き。好き好き好き好き好き好き好きスキ好き好きすき好き好き好き。
一度感情のダムが決壊して、私はもう止まらないや。はは。あはははは。
手首を握る力をもっと強くして。ぐっと顔と顔を近づける。
やはり、郁代の顔は何度見ても可愛い。困惑したような、拒否するような仕草をしながら、瞳の奥で何かを期待している今の表情も、可愛い。だが、その瞳に映っているのは“私”ではなく“ソトヅラ”であることは、何度実感しても哀しい。
「リョウ、先輩…?…なんだか、いつものリョウ先輩らしく、ないですよ…?」
…ふぅん。
「へぇ。…そっか」
“私らしくない”か。おかしいな。私は、こんなにも私なのに。ソトヅラをかなぐり捨てた、私。実に私。
…はは。あっはは。あっははははははははっ。
あーっはははは、あ―――――――――――つらい。
「もしかして、なにか悩んでるんじゃ…確かに私じゃ頼りないかもしれませんけど、話を聞くくらいなら…」
「…悩み、か‥‥…」
さぁ、どうする山田リョウ。今なら引き返せるぞ。
『ごめん、ちょっと疲れてたみたい』なんて言って郁代を解放すれば、醜い私は気の迷いとして夜露の中に消え、妄信少女とクールなソトヅラとの、平和で平和なお泊り会のはじまりである。
でも、それが正解なのだとしても。私と郁代との関係が、今日ここで終わってしまうのだとしても。
もう、私は止まらない。止まりたくない。もうこれ以上、自分の気持ちを隠し通せる自信がない。
「リョウせんぱ」
「好きだよ」
さらに、ぐっと、近づく。お互いの吐息がかかって、視界にはもう、郁代しか映らない。
ねぇ、郁代。…別にいいでしょ?私が君に、こんなことしたって。だって、私の事好きだって言ってきたのは、そっちの方だもんね?
感情の歯止めがきかなくて、何とも言えない高揚感と、何とも言えない哀しさが私を襲う。私はもう壊れかけのようである。…いや、もう既に壊れてしまっているのかもしれない。
時計の針の音が、やけに煩い。そう思ったのは、人生で初めて、かも。
深夜2時。窓の外に見える空は、雲の隙間もないくらい真っ暗で。星座なんて見えやしない。
―――遥か彼方、僕らは出会ってしまった―――
……もし、仮に。郁代が、ぼっちに連れ戻されなかったとしたら。
もし、仮に。郁代が、結束バンドに入らなかったのなら。
もし、仮に。郁代が、私なんかとは出会わなかったとしたら。
もし、仮に。そうだとしたら。……それは、二人とも幸せだったんじゃなかろうか。
―――カルマだから。何度も出会ってしまうよ―――
彼女は何回も私の人生に現れて、私の心を引っ掻き回していく。
まるで、呪縛みたいに。
……ふと、思うことがある。
もし、仮に。私が存在しなかったとしたら。
『山田リョウ』が、君の思うような、“ソトヅラ”通りの人間なのだとしたら。
‥‥それは、みんな幸せだったんじゃなかろうか。
「だから、いいでしょ?」
彼女の琥珀色の瞳を覗き込む。そこに映り込んでいるのは、“私”で、いまここにいるのは、私。その琥珀の中に、どうしたら私は私を見出すことが出来るだろうか。
私がそれを模索するのは、私の理性が戻った後か、それとも、理性を完全に捨てきった後か。
どうなるかはわからないが、とにかくながい夜になるだろう。
妄信少女と、醜い私との。ながい、ふかい、夜。
「―――だって、私たち、“ソウシソウアイ”、でしょ?」