お待たせして申し訳ありません。
ちょっと短いのですが、これ以上、時間を空けるべきではないと思ったので投稿します
その夜――。
宿の一室では、ジンが机に向かい、一つ一つ丁寧にモンスターボールを磨いていた。
柔らかな布で表面を拭き上げる度、赤と白の球体が室内の灯りを受けて静かに輝く。
旅を始めてから毎日欠かさず続けている日課だ。ボールの汚れを落とし、傷がないか確認する。それは道具の手入れであると同時に、大切な仲間達への感謝を形にした時間でもあった。
「……よし」
最後の一個を磨き終え、ジンは満足そうに頷く。その時だった。
すぅ……。
部屋の壁がわずかに揺らめき、一つの白い影が音もなくすり抜けてくる。
「メノ~♪」
戻って来たのはユキメノコだった。夜風に当たりながら里を散歩していたのだろう。上機嫌そうにくるりと宙で一回転すると、そのままジンの前へふわりと降り立つ。
「おかえり、ユキメノコ」
「メノ♪」
優しく頭を撫でられたユキメノコは、嬉しそうに目を細める。壁を自由にすり抜けられるゴーストタイプだからこそ、こうして夜になると一人で散歩へ出掛けることも珍しくはない。
無論、危険な場所へ近付かない事だけは普段から約束させている。
「今夜は何か面白い物はあったか?」
「メノ、メノ!」
ユキメノコは何度も頷くと、くいくいとジンの袖を引っ張った。
「メノ! メノ!」
「ん?」
今度は部屋の窓際まで飛んでいき、何度も外を指差すような仕草を見せる。
「外を見ろって事か?」
「メノ!」
どうやらそのようだ。ジンは立ち上がり、ブレイブアサギ号の窓から外を覗き込む。
「……あれは」
飛行船の近くに、一人の少女が立っていた。緋色のインナーカラーが入った長い黒髪。昼間、公民館で別れたばかりのゼイユだった。
「こんな時間に……何してるんだ?」
「メノ♪」
ユキメノコはどこか得意げに笑うと、机の上に置いてあったスマホロトムをひょいと持ち上げた。
「お、おい?」
「メーノ!」
止める間もなく、ユキメノコは壁をすり抜け、そのまま夜の闇へと飛び出していく。
「……何をする気だ?」
ジンは苦笑しながら腕を組んだ。ユキメノコは悪戯好きではあるが、意味もなく物を持ち出すような性格ではない。
「まぁ、あいつなりに考えがあるんだろう」
そう判断し、ジンは大人しく戻ってくるのを待つことにした。
数分後――。
「メノー!」
再び壁をすり抜け、ユキメノコが部屋へ戻って来た。その手には、しっかりとスマホロトムが握られている。
「戻ったか」
「メノ、メノ!」
ユキメノコは満足そうにスマホロトムを差し出すと、画面を指差して何度も頷いた。
「見ろって事か?」
「メノ!」
ジンは動画を再生する。映像には、飛行船の近くをきょろきょろと見回すゼイユの姿が映っていた。
『うぅ~~……思い出しただけでも悔しい!』
昼間の事を思い返したのか、ゼイユはその場で地団太を踏む。
『よくも余所者のくせに私に勝ったわね……!』
両拳を握り締め、悔しそうに唸った後、不意に何かを思い付いたように口元を吊り上げた。
『そうだわ!』
悪戯っぽい笑みを浮かべると、飛行船を見上げる。
『明日の朝、寝不足で動けなくしてやればいいのよ!』
『夜通し騒いで起こしてやるんだから!』
『ふっふっふっ……覚悟しなさい、余所者!』
そう言って、一人で満足そうに笑うゼイユの姿で動画は終わっていた。
「…………」
「メノ♪」
得意げなユキメノコとは対照的に、ジンは思わず額へ手を当てる。
「……彼女、本当に面白いな」
「メノォ?」
ユキメノコが首を傾げる。その表情はまるで、「どうするの?」と尋ねているようだった。
「放っておけば、あいつは本当に夜通し騒ぎかねないな……」
ジンは窓の外へ視線を向け、小さく肩を竦める。負けた腹いせに悪戯を企てるなど、普通なら呆れるところだろう。
だが、不思議と嫌な気分にはならなかった。感情が顔にも行動にもそのまま表れるゼイユは、どこか見ていて飽きない相手だった。
「俺一人なら付き合ってやってもいいが、リコ達まで巻き込まれるのは少し困るか」
ライジングボルテッカーズは明日も朝から行動する予定だ。寝不足になれば、本来の目的にも支障が出る。悪戯の標的が自分だけなら笑って済ませる。しかし、仲間まで巻き込まれるとなれば話は別だ。
「となると……」
ジンは少しだけ口元を吊り上げた。ジンがこの表情を浮かべる時は、大抵何か悪戯を思いついた時だ。手持ちになってからの期間はまだ短いが、ユキメノコもいい加減、主人の性格を理解出来て
「悪いが、先に大人しくしてもらおうか」
「メノ♪」
その笑みを見たユキメノコも、何かを察したように楽しそうに微笑む。
「安心しろ。痛めつけたりはしない。だが……少しだけ、反省してもらうかな」
***
夜の静寂に包まれたキタカミの里。
虫ポケモンの鳴き声だけが辺りに響き、ブレイブアサギ号は月明かりを浴びながら静かに停泊していた。その様子を見上げたゼイユは、悪戯を思いついた子どものように口元を緩める。
「よーし……まずは大きな声でも出して――ひゃっ!?」
首筋に、ひやりとした吐息のようなものが触れた。思わず肩を跳ね上げ、勢いよく振り返る。
「だ、誰!?」
しかし、そこには誰もいない。夜風が草木を揺らし、葉擦れの音が聞こえるだけだった。
「……き、気のせい?」
そう自分に言い聞かせるものの、背筋を走った悪寒は消えない。胸を押さえながら周囲を警戒していると――
「……くすっ」
「えっ?」
「くすくす……」
「ふふっ……」
今度は様々な方向から、小さな笑い声が聞こえてきた。
「な、何よ……! 誰かいるなら出てきなさいよ!」
右を見る。誰もいない。
左を見る。やはり誰もいない。
木の上も、草むらも、飛行船の陰も確認するが、人影らしきものはどこにも見当たらなかった。
見られている。
そんな得体の知れない感覚だけが、じわじわとゼイユの心を締め付けていく。
「ま、まさか……お、お化け……?」
昼間までの強気な態度はすっかり影を潜め、声にも震えが混じり始める。
「ひゃあっ!?」
再び首筋へ冷たい息が吹きかけられた。反射的に振り返る。
「い、いない……!?」
やはり誰もいない。心臓は早鐘のように鳴り続け、足が震え始める。
「や、やだ……帰ろうかな……」
泣きそうな表情でブレイブアサギ号へ視線を戻した、その瞬間だった。
「こんばんは」
「きゃああああぁぁぁっ!?」
目の前に、逆さまのジンの顔が現れた。ユキメノコに両肩を抱えられたジンが、音もなく宙から降りてきたのだ。月明かりに照らされたその姿は、まるで幽霊そのもの。
「お、お化けーーーーーーっ!」
ゼイユは悲鳴を上げると、踵を返して一目散に駆け出した。
「あ、おい!」
夜道を全力で逃げていくゼイユ。その勢いはジンの予想を遥かに上回るものだった。腰を抜かしてその場にへたり込むか、せいぜい尻もちをつく程度だろう。そんな反応を想像していただけに、まさか逃走を選ぶとは思ってもいなかった。
「……思ってた反応と違ったな」
「め、メノォ?」
どうする?とユキメノコは訴えかけて来る。
このまま放置しても問題はないのだが、いくら地元とはいえ女性をこんな真夜中に1人で放置するというも些か憚られるのも事実だ。
「……仕方ない。追いかけるか」
「メノ!」
ジンはユキメノコに軽く頷くと、地面へと降り力強く地面を蹴った。夜の静寂を切り裂くように駆け出し、逃げていくゼイユの背中を追う。
「待て!幽霊じゃない!」
そう声を掛けるものの、ゼイユには届いていないのか、あるいは届いていても耳に入らないのか、その足が止まる気配はない。
「お、お化けが喋ったぁぁぁぁーーっ!!」
「違う!少しは落ち着け!」
恐怖に駆られたゼイユは、目にも止まらぬ速さで夜道を駆け抜けていく。ジンも全力で後を追うが、その距離はなかなか縮まらない。
「意外と速いな……」
昼間のバトルでは気付かなかったが、その脚力は驚く程の物だった。木の根を軽々と飛び越え、入り組んだ獣道を迷うことなく駆け抜けていく姿は、この土地で育った者ならではの身のこなしだった。
「メノ!」
ユキメノコも宙を滑るように飛びながらゼイユを追う。それでも距離は思うように縮まらず、三人はそのまま森の奥へ、さらに奥へと駆け込んでいった。
それから数十分後――。
「はぁ……はぁ……はぁっ……」
肩で大きく息をしながら、ゼイユの足がついに止まる。恐怖に突き動かされるまま走り続けた代償は大きく、膝に手をついて荒い呼吸を繰り返していた。乱れた髪が頬に張り付き、額には玉のような汗が浮かんでいる。
「も、もう……無理……」
その声には、先ほどまでの勢いは欠片も残っていなかった。少し遅れてジンも追いつく。距離を詰めると、ゼイユを刺激しないようゆっくりと歩み寄り、数歩手前で足を止めた。
「ようやく止まってくれたか」
「ひっ……!」
ゼイユは肩を震わせながら顔を上げる。だが、目の前に立っていたのは先ほどの幽霊ではない。月明かりに照らされていたのは、昼間に勝負をした余所者――ジンの姿だった。
「本当に悪かった。ただ少し驚かせるだけのつもりだったんだ」
「す、少しですって……?」
ゼイユは荒い息を整えながらジンを睨みつける。
「あんな登場の仕方されたら、誰だって逃げるわよ!」
「そこは否定できないな」
ジンは苦笑しながら頭を掻いた。どうやら悪戯の加減を誤ってしまったらしい。ゼイユがここまで本気で怖がるとは、さすがのジンも予想していなかった。
「それより……」
呼吸が落ち着いてきたゼイユは、気を紛らわせるように周囲へ視線を巡らせる。夜風が木々を揺らし、葉擦れの音だけが静かな森に響いていた。
「……え?」
その景色を目にした途端、ゼイユの表情が一変する。さっと血の気が引き、驚きと焦りが入り混じった表情で周囲を何度も見渡した。
「う、嘘でしょ……」
「どうした?」
「こ、ここ……鬼が山の北東にある、とこしえの森じゃない!」
ゼイユは慌てて立ち上がると、落ち着きを失った様子で辺りを見回す。
「なんで……なんでこんな所まで来ちゃったのよ……!」
木々は空を覆い隠すように生い茂り、月明かりさえほとんど地面まで届いていない。
夜風が枝葉を揺らすたび、不気味な葉擦れの音が森中に響き渡る。その静けさは、人の気配がまるで感じられないからこそ、余計に不安を掻き立てていた。
先ほどまで恐怖のあまり周囲を見る余裕もなかったゼイユだったが、現在地に気付いた瞬間、その恐怖は別のものへと変わっていた。
「そんなにまずい場所なのか?」
ジンが首を傾げながら尋ねると、ゼイユはこくりと小さく喉を鳴らした。
「……この森には、赫月の悪魔の伝説があるの。」
「赫月の悪魔?」
「昔、この森には赫い月の夜になると現れる恐ろしい化け物がいるって言い伝えられてるのよ。」
ゼイユは無意識に声を潜める。夜の森の静けさも相まって、その言葉には昼間とは違う重みがあった。風が木々を揺らすたび、葉擦れの音だけが森に響き、その伝説に現実味を与えているようだった。
「だから、とこしえの森は昼でもあまり近付く人はいない。まして夜なんて……」
そう言ってゼイユは落ち着きなく周囲へ視線を巡らせる。普段の勝気な表情は消え失せ、わずかな物音にも肩を震わせていた。
「地元の人でも、夜にこの森へ入るのは禁止されてるの」
「なるほど。それでそんなに慌てていたのか」
「なるほど、じゃないわよ!」
ゼイユはジンを睨みつけるが、その瞳には怒りよりも焦りの色が濃い。
「ここにいること自体が危ないの! 一刻も早く森を出ないと……!」
彼女の切羽詰まった様子から、それが単なる昔話ではなく、地元の人々にとって今もなお語り継がれる"決して近寄ってはならない場所"なのだとジンにも伝わってきた。
ジンも改めて周囲を見渡す。
鬱蒼と生い茂る木々は視界を遮り、どこを見ても似たような景色が続いている。虫の鳴き声すら聞こえない異様な静けさが、森全体を包み込んでいた。
「ここにいること自体が危ないの! 一刻も早く森を出ないと……!」
「それには賛成だ。だが……」
ジンも異論はなかった。伝説をどこまで信じるかは別として、夜の森に長居する理由はない。そう言って歩き出そうとしたところで、不意に足を止める。
「……どうしたの?」
「一つ問題がある」
「問題?」
「帰り道が分からない」
「…………え?」
ゼイユは言葉を失った。ジンは苦笑いを浮かべながら頭を掻く。
「ここまでお前を追いかけるのに夢中でな。どこをどう走ってきたのか、全く覚えてない」
「ちょっと待ってよ……それじゃ、本当に迷子じゃない!」
「その通りだ」
あまりにもあっさり認めるジンに、ゼイユは思わず額を押さえる。恐怖で怯えていた筈なのに、別の意味で頭が痛くなってきた。
「そうだ!『テレポート』使えるポケモンは?もしくは、飛べるポケモンとか持ってないの?」
「無理だな。今、いるのはユキメノコだけだ。他のモンスターボールは部屋の机の上に置いてきたから、『テレポート』も『そらをとぶ』も使えない」
「う、嘘でしょ……」
ゼイユの表情からみるみる余裕が消えていく。一方のジンは焦る様子もなく近くの木にもたれかかり、周囲をゆっくり見回した。
「慌てても状況は変わらない。ここまで全力で走ったせいで、お互い体力もかなり使っているし少し、休むとするか」
「で、でも……!」
「焦って歩き回れば、余計に森の奥へ入り込む可能性がある。一度休んで体力を回復させよう。その方が冷静に出口を探せる」
淡々とした口調だったが、不思議とその言葉には落ち着きがあった。ゼイユはなおも不安そうに森を見渡すものの、ジンの冷静さに押されるように小さく息を吐き、乱れた呼吸を整え始めた。
暫くその場で休憩し、乱れていた呼吸もようやく落ち着きを取り戻す。ゼイユの肩の上下も次第に収まり、張り詰めていた空気にもわずかな余裕が生まれ始めていた。
その時だった。
「メノ……?」
ユキメノコが何かに気付いたように小さく声を漏らす。その視線はジンたちではなく、森のさらに奥へと向けられていた。普段は悪戯好きなユキメノコが、これほど真剣な表情を見せるのは珍しい。
「どうした?」
ジンもユキメノコの視線を追い、暗闇の奥へ目を向ける。その直後、腹の底まで響くような重い地響きが森全体を震わせた。
「な、何……?」
ゼイユが息を呑んだ瞬間、森の奥から獣の咆哮が夜の静寂を切り裂く。
「オオオオオォォォォッ!!」
その咆哮に続くように、一匹のポケモンの悲痛な鳴き声が森中へ響き渡った。
「ガウゥゥゥッ!!」
苦しみと助けを求めるようなその悲鳴は、一度だけでは終わらない。何度も短く響くたび、森の静寂は恐怖に塗り替えられていく。
木々の間からは鳥ポケモンたちが一斉に飛び立ち、小さなポケモンたちも茂みの奥へ逃げ込んでいく。それがただ事ではないことは、ジンにもゼイユにも十分伝わっていた。
「……助けを求めてる」
短くそう呟くと、ジンは迷うことなく地面を蹴った。暗い森の奥へ一直線に駆け出し、その後をユキメノコが素早く追う。
「ちょっ、待ちなさい!」
ゼイユは一瞬足を止めるものの、悲鳴を聞いてしまった以上、見捨てることはできなかった。恐怖を押し殺しながら、必死にジンの背中を追い掛ける。
木々を掻き分け、荒れた獣道を駆け抜けること数分。地響きは次第に大きくなり、重い足音がすぐ近くから聞こえてきた。
やがて視界が開けた瞬間、ジンは思わず息を呑む。
そこには、二メートルを優に超える巨大な獣が立っていた。全身は泥に覆われ、逞しい四肢が地面を踏み締めるたびに大地が震える。額には赤黒い泥が固まってできた仮面のようなものが張り付き、その奥から覗く鋭い眼光は獲物を射抜くような殺気を放っていた。
その巨体の前には、灰色の体毛と額や尻尾に赤い岩のようなものを纏った子犬ほどのポケモンが倒れている。体には無数の傷が刻まれ、苦しそうに浅い呼吸を繰り返していた。
さらに、その小さなポケモンを庇うように一人の若い女性が地面へ倒れ込んでいた。服は土埃にまみれ、腕には擦り傷がいくつも走っている。それでも必死に身体を起こし、小さなポケモンへ手を伸ばしていた。
「お願い……逃げて……」
震える声も虚しく、巨大な獣はゆっくりと前足を持ち上げる。その一歩だけで地面が鈍い音を立てて揺れ、周囲の木々から葉が舞い落ちた。
巨大な獣が前足を振り下ろそうとした、その瞬間――。
「ユキメノコ!」
「メノ!」
鋭い声と同時に白い影が夜の森を駆け抜けた。ユキメノコは地面すれすれを滑るように飛び、巨大な獣と倒れた二人の間へ割って入る。
僅かに遅れてジンもその場へ駆け込み、女性と小さなポケモンを庇うように前へ立った。突然現れた二人に、巨大な獣は一度足を止める。低い唸り声を漏らしながら、赤く鋭い瞳を新たな侵入者へ向けた。
「あなた達は……?」
背後から掠れた声が聞こえる。ジンは振り返らず、視線だけを僅かに動かして二人の状態を確認した。
女性の服は泥と土埃にまみれ、腕や脚にはいくつもの擦り傷が残っている。しかし、それ以上に酷いのは傍らに倒れている小さなポケモンだった。
灰色の体毛は所々汚れ、赤い岩のような毛にまで土が付着している。全身に傷を負いながらも完全に意識を失っているわけではなく、震える四肢に力を込め、なおも女性の前へ出ようとしていた。
「ガウ……ッ」
「もういいの! これ以上は……!」
女性が必死に手を伸ばす。それでも小さなポケモンは退こうとしない。
その姿を見れば、何があったのか詳しく聞く必要はなかった。
自分より遥かに巨大な相手を前にしても逃げず、傷だらけになるまで主人を守り続けたのだろう。
ジンの表情から、それまで残っていた僅かな柔らかさが消える。
「……そうか」
静かに呟くと、ジンは巨大な獣へ向き直った。
「後は任せろ」
「え……?」
女性が顔を上げる。ジンはそれ以上振り返ることなく、隣へ並んだユキメノコと共に巨大な獣を真っ直ぐ見据えた。
「その傷に報いる」
「メノ!」
ユキメノコも主人の意思を理解したように鋭く鳴き、いつもの悪戯好きな笑みを完全に消す。対する巨大な獣は二人を敵と認識したのか、大きく息を吸い込むと夜の森を震わせるほどの咆哮を上げた。
「オオオオオォォォォッ!!」
大気が震え、木々の葉が激しく揺れる。それでもジンは一歩も退かなかった。背後には、傷付いたポケモンとその主人がいる。ならばここから先へは、一歩たりとも通すつもりはなかった。
夜の森を震わせる咆哮が響き渡る中、遅れてゼイユもようやくその場へ辿り着いた。
「はぁ……はぁ……ちょっと、急に走らないでよ……!」
息を切らしながら文句を言いかけたゼイユだったが、その視線がジンの向こう側へ向いた瞬間、言葉が止まる。
「……え?」
暗闇の中に立つ巨大な獣。
二メートルを優に超える巨体に、泥に覆われた逞しい四肢。そして何より、額を覆う赤黒い泥の塊と、その奥から覗く鋭い眼光。
それを目にしたゼイユの顔から、瞬く間に血の気が引いていった。
「う、嘘……」
幼い頃から何度も聞かされてきた話が、頭の中で蘇る。
夜のとこしえの森に現れる巨大な獣。
赤黒い月を思わせる額。
近付く者を容赦なく襲う、キタカミに古くから伝わる恐ろしい存在。
「まさか……」
震える唇から、掠れた声が漏れる。
「赫月の悪魔……!」
ゼイユの言葉に、ジンは僅かに目を細めた。
「こいつが?」
「そうよ……! 昔から言い伝えられてる特徴と同じ……!」
先ほどまで単なる伝説として語っていた存在が、今こうして目の前に立っている。その事実に、ゼイユの足は無意識のうちに後ろへ下がっていた。
「ジン、駄目よ!そいつから離れて!普通のポケモンじゃない!」
しかし、ジンは動かなかった。
背後には傷付いた女性と、その主人を守るために倒れるまで戦った小さなポケモンがいる。
ここで退けば、再び二人が狙われる。
「普通かどうかは関係ない」
「なっ……!」
ジンは静かにそう答えると、隣に浮かぶユキメノコへ視線を向ける。
「俺達が退けば、あの二人が危ない」
「メノ」
ユキメノコも短く鳴き、巨大な獣から目を逸らさない。
その様子を見たゼイユは何か言おうと口を開くものの、言葉が続かなかった。
ジンの背後では、傷付いた小さなポケモンが苦しそうに呼吸を繰り返している。それでもなお主人を守ろうと、僅かに前脚を動かしていた。
その姿を見てしまえば、ここで逃げろとは簡単に言えなかった。
「……もう」
ゼイユは悔しそうに唇を噛む。
「ほんっと、余所者のくせに無茶するんだから……」
巨大な獣はそんな彼らのやり取りを待つつもりなどないのか、再び低いうなり声を上げる。
「グルルルル……!」
太い前脚が地面を踏み締めた瞬間、鈍い地響きが辺りへ広がり、足元の小石が細かく震えた。
ジンは腰を落とし、相手の動きをじっと見据える。
「ユキメノコ」
「メノ!」
「行くぞ」
短い言葉だけで意図を理解したユキメノコが、ジンの前へ滑り出る。
こうして、赫月の悪魔と呼ばれる謎の巨獣との戦いが始まろうとしていた。
というわけで、少しオリジナルを書いてみました。次回は謎の……まぁ、全然謎じゃないのですが赫月の悪魔とユキメノコとのバトルを書いて行こうと思います
最近のアニポケについて……正直、あんまり面白くないのが素直な感想です。言い訳ではないのですが、仮に連載が続いても今のワンダーボヤージュ編は多分、書かないと思います。
☆9
お茶好きさん
☆10
ツボ系fラン大学助教授補佐さん
高評価ありがとうございます
作品の要望などあれば気軽にメッセージを送ってください