またしてもお待たせしました
ジンは目の前に立ちはだかる巨大な獣を、改めて観察した。
泥に覆われた頑丈な体躯。鋭い爪を備えた逞しい四肢。そして、額に浮かぶ赤黒い月を思わせる独特の模様。その姿には、どこか見覚えがあった。
(……待てよ。こいつは、もしかして……)
ジンの脳裏に、以前目を通した資料の内容が蘇る。
六英雄の一体であるバサギリ。その正体を調べていた際、ジンはかつてヒスイ地方と呼ばれていた時代のシンオウ地方について、様々な文献を読み漁っていた。
当時のヒスイ地方には、現在ではほとんど確認されていない珍しいポケモンが数多く生息していたという。バサギリもその一体だが、資料には他にも興味深いポケモンが記録されていた。
その中に、目の前の獣とよく似た姿をしたポケモンがいたのだ。
(……ガチグマ。確か、リングマが特殊な条件で進化した姿だったな)
ジンは記憶の中にあるガチグマの姿と、目の前の巨獣を照らし合わせる。泥に覆われた身体や発達した四肢など、共通する特徴は多い。
しかし――
(……妙だな。資料に載っていたガチグマとは、明らかに姿が違う)
記録に残されていたガチグマは、基本的に四足歩行だった筈だ。しかし、目の前の個体は二本の後ろ脚で堂々と立ち上がっている。
体格も通常のガチグマより一回り大きく、全身を覆う泥の付き方も異なっていた。何より特徴的なのは、その額だった。
(確か、ガチグマの額にある模様は黄色い満月のような形だった。だが、こいつは……)
赤黒い泥が額の一部を覆い、まるで欠けた月のような模様を形作っている。更に、左目の周囲は黒く変色しており、右目とは明らかに異なる不気味な印象を与えていた。単なる個体差として片付けるには、あまりにも相違点が多い。
(……なるほど。恐らく、こいつはガチグマの特殊個体か)
ジンは一つの結論に辿り着いた。
何らかの理由で、通常のガチグマとは異なる姿へ変化した個体。あるいは、長い年月をかけて独自の進化を遂げた存在なのかもしれない。
(かつてのヒスイ地方に生息していたポケモンが、遠く離れたキタカミの里にいるとはな。それも、資料にない特殊個体とは……)
ジンは僅かに目を細めた。珍しいポケモンとの遭遇に、好奇心が刺激される。しかし、今は悠長に観察している場合ではない。
(通常のガチグマなら、ノーマルと地面タイプ。だが、こいつも同じとは限らない。それに、特殊個体なら未知の能力を持っている可能性もある)
ジンは思考を切り替え、相手の動きへ意識を集中させた。
巨体から繰り出される攻撃は、まともに受ければ致命傷になりかねない。加えて、背後には負傷した女性とポケモンがいる。迂闊に動く訳にはいかなかった。
(……まずは相手の実力を確かめる必要があるな)
ジンは静かに息を吐くと、隣に浮かぶユキメノコへ視線を向けた。
「ユキメノコ。無理に近付くな。まずは距離を取って様子を見るぞ」
「メノ!」
ユキメノコは力強く頷き、ゆっくりと前方へ滑り出る。対する巨大な獣もまた、二人を警戒するように低い唸り声を上げた。
「グルルルル……!」
その鋭い眼光を真正面から受け止めながら、ジンは僅かに腰を落とす。
(さて……一体、どれほどの実力を持っているのか)
未知のガチグマを相手に、ジンは慎重に最初の一手を考え始めた。
「ユキメノコ!『かげぶんしん』だ!」
「メノ!」
ジンの指示に応じ、ユキメノコの姿が一瞬ぶれた。
次の瞬間、その身体が二つ、三つと分かれていき、瞬く間に十数体ものユキメノコが巨大な獣を取り囲むように展開する。どれも本物と見分けがつかないほど精巧な分身だった。
(まずは様子見だ。相手がどう反応するか……)
ジンは攻撃を急がず、ガチグマの動きを注意深く観察した。
通常であれば、突然増えた敵を前に多少なりとも戸惑いを見せる筈だ。あるいは、手当たり次第に攻撃を仕掛けてくるかもしれない。
しかし――
「グルルルル……」
ガチグマは動かなかった。
十数体ものユキメノコに囲まれているというのに、焦る様子も、警戒を強める様子さえ見せない。ただ、その場に堂々と立ち尽くし、低い唸り声を漏らしているだけだった。
(……随分と肝が据わっているな)
ジンは僅かに目を細めた。
長年この森で生き抜いてきた個体ならば、相応の戦闘経験を積んでいても不思議ではない。まして、赫月の悪魔などという異名で恐れられる存在だ。並大抵のことでは動じないのかもしれない。
(だが、これだけの分身を前にして、全く反応しないというのも……)
そう考えた、その時だった。
「グオオオッ!」
ガチグマが突然、右腕を大きく振りかぶった。
「……っ!」
ジンが反応するよりも早く、その巨大な拳が勢いよく振り抜かれる。
凄まじい風切り音が響き、拳の軌道に沿って空気が激しく圧縮された。次の瞬間、目に見えるほどの衝撃波が生まれ、一直線に放たれる。
(……真空の波!?)
ジンは咄嗟にその軌道を目で追った。
だが、そこで異変に気付く。
攻撃が向かった先には、数多くの分身が存在していた。しかし、その衝撃波は分身には目もくれず、まるで最初から狙いを定めていたかのように、一体のユキメノコへと迫っていたのだ。
「ユキメノコ! 避けろ!」
「メノッ!?」
ジンの指示を受け、ユキメノコが咄嗟に身体を捻る。しかし、間に合わなかった。
「メノォォッ!!」
凄まじい衝撃がユキメノコの身体を直撃した。小柄な身体は木の葉のように吹き飛ばされ、周囲に展開していた分身も一斉に掻き消える。
「ユキメノコ!」
ユキメノコは空中で何とか体勢を立て直そうとするものの、勢いを殺しきれず、背後の大木へと叩き付けられた。
「メノ……ッ!」
鈍い音と共に木の幹が揺れ、枝葉が激しく舞い落ちる。ユキメノコは苦しそうに声を漏らしながらも、どうにか地面へ落ちる寸前で浮遊を取り戻した。
「大丈夫か!?」
「メ、メノ……!」
返事はあった。だが、その声には明らかな苦痛が滲んでいる。ジンは一瞬だけ安堵すると、すぐさまガチグマへ視線を戻した。
(まさか……今のは『しんくうは』か?)
ジンは先ほどの攻撃を脳裏で振り返る。
拳を振り抜くことで生み出された真空の刃。その特徴は、格闘タイプの技である『しんくうは』と酷似していた。
しかし、そう考えると一つの疑問が生じる。
(……だが、おかしい。『しんくうは』は格闘タイプの技だ。ゴーストタイプを持つユキメノコには、本来なら効果がない筈……)
ユキメノコは氷とゴーストの複合タイプ。格闘タイプの技は氷タイプに対して効果抜群だが、ゴーストタイプの性質によって無効化される。
それにもかかわらず、先ほどの攻撃は確かに命中し、ユキメノコを大きく吹き飛ばした。しかも、不可解な点はそれだけではない。
(『かげぶんしん』で回避率を上げていたにもかかわらず、あいつは一切迷うことなく本体を狙ってきた……)
十数体もの分身に囲まれながら、ガチグマは全く動揺する様子を見せなかった。それどころか、最初から本体の位置を把握していたかのように、正確な一撃を放ってみせたのだ。
(……単に運が良かっただけか? いや、それにしては……)
ジンは小さく首を振った。
偶然、本体を狙い当てた可能性は否定できない。しかし、ゴーストタイプに格闘技が命中したという事実まで、偶然で説明することはできない。
(ゴーストタイプへの攻撃を可能にする能力……それに、回避率の変化を無視するほどの命中精度。もし、この二つが同じ原因によるものだとしたら……)
ジンの脳裏に、一つの可能性が浮かび上がる。
(……特性か)
ポケモンには、種族ごとに様々な特性が存在する。
中には、本来なら無効化される筈の技を命中させたり、相手の回避率の変化を無視したりするものもある。そして、目の前にいるガチグマは、通常とは明らかに異なる特殊個体だ。
(姿だけでなく、特性まで変化している可能性は十分にある。だとすれば、こいつは……)
ジンは改めてガチグマを見据えた。その巨体は微動だにせず、鋭い眼光だけがこちらを捉えている。
(……厄介だな)
もしも推測が正しければ、ユキメノコの得意とする回避戦術は通用しないことになる。素早い動きや分身で相手を翻弄し、隙を突いて攻撃する。それがユキメノコの基本的な戦い方だ。しかし、相手がこちらの回避率を無視して攻撃を命中させられるのなら、戦術そのものを見直す必要がある。
(もっとも、まだ一度攻撃を受けただけだ。決めつけるには早いか……)
ジンは冷静に思考を整理する。
現時点で確かなのは、通常なら無効となる筈の格闘技が命中したこと。そして、『かげぶんしん』を使ったユキメノコの本体を、迷わず狙ってきたことだけだ。
それが未知の特性によるものなのか、あるいは別の能力によるものなのかは、まだ判断できない。
(……いずれにせよ、迂闊に攻撃を受ける訳にはいかないな。最悪の事態を想定しつつ、まずは、こいつの能力をもう少し確かめるとしよう)
相手の正体は、ある程度見えてきた。だが、その実力も能力も、まだ未知数のままだ。ジンは慎重に距離を測りながら、次の一手を考え始めた。
(『かげぶんしん』が通用しない可能性が高い以上、下手に撹乱を狙うのは危険だな……)
ジンは素早く思考を切り替えた。
相手の能力が完全に判明した訳ではない。しかし、これ以上受け身に回っていても状況は好転しないだろう。ならば、こちらから攻撃を仕掛け、その反応を確かめるまでだ。
「ユキメノコ!『れいとうビーム』!」
「メノォッ!」
ユキメノコが両腕を前方へ突き出すと、周囲の空気が急激に冷え込んだ。
次の瞬間、青白く輝く冷気の光線が一直線に放たれる。凍てつく光線が夜の森を切り裂き、ガチグマへと迫った。対するガチグマは、迫り来る攻撃を前にしても微動だにしない。
「グルルルル……!」
ただ低い唸り声を漏らすと、大きく口を開いた。
その瞬間――
「……っ!?」
ガチグマの口元に、赤黒い光が集まり始めた。
まるで血に染まった月を思わせる不気味な輝き。それは瞬く間に膨れ上がり、周囲の空気を震わせるほどの膨大なエネルギーへと変わっていく。
(……何だ、あの技は!?)
ジンが目を見開いた直後、ガチグマが凄まじい咆哮を上げた。
「オオオオオォォォォッ!!」
轟音と共に、赤黒い光線が放たれた。
それはユキメノコの『れいとうビーム』と真正面から激突する。凍てつく冷気と赤黒いエネルギーがぶつかり合い、凄まじい衝撃が周囲へ広がった。
しかし、拮抗したのはほんの一瞬だった。
「なっ……!?」
赤黒い光線が、青白い冷気を押し返し始めたのだ。それどころか、次の瞬間には『れいとうビーム』を正面から打ち破り、そのままユキメノコへと迫ってくる。
「メノッ!?」
ユキメノコが驚きの声を上げる。
あまりにも圧倒的な威力。回避しようにも、既に光線は目前まで迫っていた。
「ユキメノコ!『まもる』!」
「メノォッ!!」
ジンの鋭い指示に応じ、ユキメノコの前方に半透明の障壁が展開された。その直後、赤黒い光線が障壁へと激突する。
「くっ……!」
凄まじい爆風が巻き起こり、ジンは思わず両腕で顔を庇った。
地面が激しく震え、周囲の木々が大きく揺れる。吹き荒れる風に枝葉が千切れ、土埃が視界を覆い尽くした。
「ユキメノコ!」
「メ、メノ……!」
土埃の向こうから、ユキメノコの声が返ってきた。
どうやら『まもる』は間に合ったらしい。半透明の障壁が消え、ユキメノコがゆっくりと姿を現す。その身体に新たな傷は見当たらなかった。
(……何とか防げたか)
ジンは安堵の息を漏らしかけた。しかし、すぐに表情を引き締める。
あまりにも突然の攻撃だったため、咄嗟に『まもる』を指示する事しかできなかった。ユキメノコも防御に全神経を集中させており、次の行動へ移る準備が整っていない。
(まずい……!)
ジンはガチグマへ視線を向けた。
もしも今、先ほどと同じ攻撃を放たれれば、再び『まもる』で防げる保証はない。まして、あれほどの威力を持つ攻撃だ。まともに受ければ、ユキメノコが戦闘不能に追い込まれる可能性すらある。
「ユキメノコ!警戒しろ!」
「メノ!」
ジンの声に応じ、ユキメノコが身構える。その直後、ガチグマが再び動いた。
「グオオオッ!」
巨大な右腕が大きく振りかぶられる。
(来るか……)
ジンは咄嗟に身構えた。
しかし、ガチグマの口元に赤黒い光が集まることはなかった。代わりに、その巨大な拳が勢いよく振り抜かれる。
凄まじい風切り音と共に、真空の刃が一直線に放たれた。
(……『しんくうは』!?)
「ユキメノコ!避けろ!」
「メノッ!」
ユキメノコは咄嗟に横へ飛ぼうとする。しかし、『まもる』を使用した直後だったこともあり、反応が僅かに遅れた。
「メノォッ!!」
真空の刃がユキメノコの身体を捉え、再び大きく吹き飛ばした。幸い、先ほどの赤黒い光線ほどの威力はない。ユキメノコは空中で体勢を立て直すと、何とかその場に踏みとどまった。
「……大丈夫か?」
「メ、メノ……!」
苦しそうではあるものの、まだ戦う意思は失っていない。ジンはその姿を確認すると、再びガチグマへと視線を向けた。
(……何故だ?)
先ほどの攻撃を思い返す。
『れいとうビーム』を真正面から打ち破った、あの赤黒い光線。凄まじい威力を持つ技であり、ユキメノコの『まもる』が間に合わなければ、間違いなく大きなダメージを受けていただろう。
それほど強力な技を持っていながら、ガチグマは追撃に『しんくうは』を選択した。
(……奇妙だな)
ジンは僅かに目を細める。
確かに『しんくうは』も厄介な技だ。特に、ゴーストタイプであるユキメノコに命中する以上、警戒する必要がある。
だが、威力だけを比較すれば、先ほどの赤黒い光線の方が遥かに上だった。しかも、ユキメノコは『まもる』を使用した直後で、次の行動へ移れずにいた。ガチグマにとっては、絶好の追撃の機会だった筈だ。
(あの状況で、わざわざ威力の低い技を使う理由があるのか……?)
ジンはガチグマの様子を注意深く観察した。
巨大な獣は相変わらず低い唸り声を漏らし、こちらを鋭く睨み付けている。戦意が失われた様子はない。それどころか、今にも次の攻撃を仕掛けてきそうなほどの威圧感を放っていた。
(……いや、待てよ)
そこで、ジンの脳裏に一つの可能性が浮かび上がる。
(使わなかったんじゃない。使えなかったとしたら……?)
あれほど強力な技だ。何らかの制約が存在していても不思議ではない。例えば、使用した直後には再び放つことができない、といった制約だ。
(……なるほど。そう考えれば辻褄が合う)
ジンは小さく頷いた。
ガチグマは、ユキメノコが体勢を崩している絶好の機会を逃してまで、威力の劣る『しんくうは』を使用した。もしも先ほどの赤黒い光線を連続して放てるのであれば、わざわざ別の技を選択する必要はない。
(つまり、あの技は連続して使用できない可能性が高い……)
無論、まだ確証はない。だが、少なくとも一つの有力な仮説にはなった。
(……あれほどの威力を持つ技を、好きなだけ連発できる訳じゃない。それが分かっただけでも収穫だな)
ジンは静かに息を吐いた。
最初の『かげぶんしん』では、相手が回避率を無視する特殊な能力を持っている可能性が浮かび上がった。そして、今の攻防では、赤黒い光線に何らかの使用制限が存在する可能性が見えてきた。少しずつではあるが、未知のガチグマの能力が明らかになり始めている。
(……なら、次は動きを確かめるか)
ジンはガチグマの巨体を改めて観察した。
先ほどの赤黒い光線は、ユキメノコの『れいとうビーム』を真正面から打ち破るほどの威力を持っていた。あれを再び受けるのは避けたいところだが、幸いにも連続して使用できない可能性が高い。
「ユキメノコ!スピードで翻弄するぞ!」
「メノ!」
ジンの指示に応じ、ユキメノコが勢いよく飛び出した。白い身体が夜の闇を切り裂き、地面すれすれを滑るようにガチグマへ接近する。
「グルルル……!」
ガチグマは迫り来るユキメノコを睨み付けると、巨大な右腕を振り上げた。太い腕が勢いよく横薙ぎに振るわれる。しかし、ユキメノコは直前で身体を沈め、その下を難なく潜り抜けた。
「メノ!」
攻撃は虚しく空を切り、その勢いでガチグマの巨体が僅かに傾く。
「そのまま背後へ回り込め!」
「メノ!」
ユキメノコは素早く方向を変え、ガチグマの側面を通り抜ける。ガチグマも身体を捻って追いかけようとするが、その動きはユキメノコの速度に追いついていない。
(……やはりな。あの巨体では素早い動きに対応するのは難しいらしい。特に、急な方向転換には時間がかかるようだな)
先ほどの『しんくうは』のような遠距離攻撃は厄介だが、直接腕を振るう攻撃ならば、ユキメノコの素早さで十分に回避できる。
「『ふぶき』!」
「メノォォォッ!!」
ガチグマの背後へ回り込んだユキメノコが、大きく両腕を広げた。次の瞬間、周囲の空気が急激に冷え込み、猛烈な吹雪が巻き起こる。凍てつく暴風が木々を激しく揺らし、無数の氷の粒がガチグマの巨体へ襲い掛かった。
「グオオオォォッ!!」
ガチグマは咆哮を上げながら両腕を交差させ、吹雪を受け止める。しかし、広範囲に吹き荒れる冷気を完全に防ぐ事はできない。泥に覆われた身体へ次々と氷が叩き付けられ、逞しい四肢にも白い霜が広がっていく。やがて吹雪が収まる頃には、ガチグマの足元一帯が薄い氷に覆われていた。
「……どうだ?」
ジンは注意深く相手の様子を窺う。ガチグマはしばらく俯いたまま動かなかった。
しかし――
「グルルルル……!」
低い唸り声と共に、ガチグマがゆっくりと顔を上げた。
その巨体には厚い氷が張り付き、全身を覆っていた泥も所々が凍り付いている。特に、至近距離から吹雪を浴びた背中には無数の傷が刻まれ、凍てつく冷気によって赤く変色した皮膚が覗いていた。
「グオオオォォッ!!」
ガチグマは怒りに満ちた咆哮を上げると、身体を大きく震わせた。張り付いていた氷が砕け散り、足元へと零れ落ちていく。しかし、全ての氷を振り払った後も、その呼吸は僅かに荒くなっていた。
(……効いてはいるな)
ジンは相手の様子を冷静に観察する。
先ほどまでと違い、ガチグマの身体には明確なダメージが見て取れた。『ふぶき』は確実に効果を発揮している。
だが――
(……それでも、まだ余裕があるか)
ガチグマは力強く地面を踏み締めると、再びユキメノコへ鋭い眼光を向けた。その姿に、戦意が衰えた様子はない。
(通常のガチグマと同じタイプなら、氷技は効果抜群の筈。それも至近距離からの『ふぶき』だ。相当なダメージを受けてもおかしくないんだが……)
確かに攻撃は通用している。しかし、想定していたほどのダメージではなかった。
(……なるほど。こいつは特殊攻撃に対する耐久力も相当高いらしいな)
見た目通りの頑丈さに加え、特殊攻撃への耐性まで備えている。その一方で、先ほどの接近戦ではユキメノコの動きに対応しきれていなかった。
(素早さはこちらが上。だが、特防は向こうが相当高い……。やはり、一筋縄ではいかない相手だな)
吹雪による傷を負いながらも、その巨体は揺るぎなく立ちはだかっている。どうやら、この程度の攻撃で簡単に倒れてくれる相手ではないらしい。
(だが、ここまで情報が集まれば十分だ)
通常のガチグマとは異なる姿に、未知の能力。そして、凄まじい威力を誇る赤黒い光線。確かに厄介な相手だ。しかし、ここまでの攻防で、その特徴もある程度は把握できた。
(素早さはこちらが上。特殊攻撃への耐久力は高いが、氷技は確実に効いている。それに、あの赤黒い光線には連続して使用できないという制約がある可能性が高い)
無論、全てが推測に過ぎない。だが、これ以上慎重になりすぎれば、かえって相手に反撃の機会を与えてしまう。
「ユキメノコ!ここからは一気に攻めるぞ!」
「メノ!」
「まずはスピードで翻弄する。縦横無尽に駆けろ!」
「メノォッ!」
ジンの指示と同時に、ユキメノコが勢いよく飛び出した。白い身体が地面すれすれを滑るように進み、ガチグマの側面へ回り込む。
「グルルル……!」
ガチグマは素早く首を動かし、ユキメノコの姿を追った。しかし、ユキメノコはその視線を振り切るように高度を上げると、今度は頭上を通り抜ける。ガチグマが振り返った時には、既に反対側へと移動していた。
「グオオオッ!」
苛立ったような咆哮と共に、ガチグマが巨大な右腕を振り抜いた。その拳から放たれた真空の衝撃波が、一直線にユキメノコへ迫る。
(……『しんくうは』か!)
しかし、ジンとユキメノコはそれに対して慌てずに対処する。
「ユキメノコ!避けろ!」
「メノ!」
ユキメノコは空中でくるりと身体を翻した。まるで宙で踊るかのように軽やかに回転し、迫り来る真空の衝撃波を紙一重でかわす。そのまま滑らかに姿勢を立て直すと、ガチグマの正面へ向き直った。
「今だ!『れいとうビーム』!」
「メノォォッ!」
ユキメノコの両腕から、青白い冷気の光線が放たれた。ガチグマは咄嗟に腕を持ち上げようとしたが、攻撃を放った直後では間に合わない。
「グオオオォォッ!」
凍てつく光線が巨体を直撃した。猛烈な冷気が全身を駆け巡り、先ほどの『ふぶき』によって傷ついた身体をさらに凍り付かせていく。ガチグマは苦悶の咆哮を上げながら後退した。その巨大な足が地面を削り、周囲の木々へと身体をぶつける。
「……よし!」
ジンは小さく拳を握った。先ほどの『ふぶき』に続き、今回の『れいとうビーム』も確実にダメージを与えている。ガチグマの呼吸は明らかに荒くなり、巨体を支える両脚にも僅かな震えが見られた。
(……流石に効いてきたな)
いかに特殊攻撃への耐久力が高くとも、効果抜群の氷技を立て続けに受ければ無事では済まない。それまで圧倒的な威圧感を放っていたガチグマも、今や明らかに追い詰められていた。
「グルルルル……!」
ガチグマは荒い息を吐きながら、ゆっくりと顔を上げた。その鋭い眼光がユキメノコを捉える。次の瞬間、巨大な口が大きく開かれた。
「……っ!」
ジンは即座に異変を察知した。ガチグマの口元に、見覚えのある赤黒い光が集まり始めたのだ。
(……来るか!)
赤黒い光は瞬く間に膨れ上がり、周囲の空気を震わせるほどの膨大なエネルギーへと変わっていく。先ほど『れいとうビーム』を真正面から打ち破った、あの強力な技だ。
「グオオオオオォォォッ!」
ガチグマが凄まじい咆哮を上げる。直後、赤黒い光線が放たれた。血に染まった月を思わせる不気味な輝きが夜の森を照らし、一直線にユキメノコへ迫る。
しかし――
「ユキメノコ!『まもる』!」
「メノォッ!」
ジンの指示に応じ、ユキメノコが素早く両腕を広げた。
その前方に半透明の障壁が展開され、迫り来る赤黒い光線を正面から受け止める。凄まじい衝撃が周囲へ広がり、地面が激しく震えた。
周囲の木々が大きく揺れ、巻き上げられた土埃が二体の姿を覆い隠していく。それでも、障壁が砕けることはなかった。やがて赤黒い光が消え去り、土埃の向こうからユキメノコが姿を現す。
「メノ!」
「グルルルル……!」
しかし、ガチグマはまだ諦めていなかった。荒い息を吐きながらも、巨大な獣は再び口を開いた。その口元に、今度は淡い桃色の光が集まり始める。
「まだ、動けるか……」
ガチグマの頭上に月を思わせる光が浮かび上がり、そこから眩い光が降り注ぐ。集められた光は瞬く間に膨れ上がり、強力なエネルギーへと変わっていった。
(……『ムーンフォース』か!)
先ほどの赤黒い光線とは異なるが、こちらも強力な特殊技だ。しかも、ユキメノコは今しがた『まもる』を使用したばかりだった。
(連続で『まもる』を使うのは危険だ。ならば……!)
「ユキメノコ!木々を利用して回避しろ!」
「メノ!」
ジンの指示に応じ、ユキメノコが素早く飛び出した。その直後、ガチグマの口元から桃色の光線が放たれる。ユキメノコは地面すれすれまで高度を下げると、近くの大木の背後へと滑り込んだ。
しかし、光線はそのまま大木へと直撃する。太い幹が一瞬にして砕け散り、無数の木片が周囲へ飛び散った。
「メノッ!」
ユキメノコは振り返ることなく、次の木へと移動する。だが、ガチグマは顔を動かして光線の向きを変え、逃げるユキメノコを追い続けた。次々と木々が破壊され、夜の森に激しい振動が広がっていく。
(……あの状態で、まだこれほどの威力を出せるのか)
既にガチグマは『ふぶき』と『れいとうビーム』を受け、相当なダメージを負っている。それにもかかわらず、放たれた『ムーンフォース』の威力は凄まじいものだった。
(やはり、こいつは見た目に反して特殊攻撃を得意としているらしいな……!)
しかし、いくら強力な技であっても、無限に放ち続けられる訳ではない。
「ユキメノコ!そのまま駆けろ!」
「メノ!」
ユキメノコは木々の間を縫うように飛び回った。時には幹の陰へ隠れ、時には急激に高度を変えながら、追いかけてくる光線を紙一重でかわしていく。ガチグマも必死にその姿を追うが、素早い動きに対応しきれず、光線は次々と周囲の木々を破壊していった。
「グルルルル……!」
やがて、ガチグマの口元から放たれていた光が徐々に弱まり始める。それでも巨大な獣は攻撃を続けようとしたが、遂に光線が途絶えた。
「グオォ……!」
ガチグマは大きく息を吐き、僅かに頭を下げる。度重なる攻撃と、それによる消耗が限界に近づいていた。
「……勝負所だな。ユキメノコ!一気に決めるぞ!」
「メノォッ!」
ユキメノコが木々の陰から飛び出した。白い身体が夜の森を駆け抜け、無防備になったガチグマへと一直線に迫る。ガチグマもその姿に気づき、慌てて右腕を持ち上げようとする。しかし、既に遅かった。
「『れいとうビーム』!」
「メノォォォッ!」
ユキメノコが両腕を突き出すと、青白い冷気の光線が放たれた。至近距離から放たれた一撃は、ガチグマの巨体を真正面から捉える。
「グオオオオォォォッ!」
凍てつく冷気が全身を駆け巡り、既に傷ついていた身体を容赦なく襲った。ガチグマは苦悶の咆哮を上げながら大きく後退する。しかし、今度は踏みとどまることができなかった。巨大な両脚が震え、身体がゆっくりと傾いていく。
「グル……ルル……」
それでも、ガチグマは最後までユキメノコを睨み続けていた。だが、遂にその力も尽きた。巨体が地面へと崩れ落ち、周囲に積もっていた落ち葉が大きく舞い上がる。
「……今だ!」
ジンは素早く腰に手を伸ばすと、空のモンスターボールを取り出し投げつける。ボールは倒れたガチグマの巨体に触れると、中央のボタンから赤い光を放った。
次の瞬間、ガチグマの身体が赤い光に包まれ、その巨体が吸い込まれるようにモンスターボールの中へと収まっていく。地面に落ちたボールが、一度大きく揺れた。
「……!」
ジンは息を呑み、その様子を見守る。ボールが再び揺れる。しかし、次の瞬間にはさらに激しく振動し、今にも中からガチグマが飛び出してきそうだった。
「…………」
ジンが見つめる中、ボールが三度目の揺れを見せた。
そして――
中央のボタンが小さく光り、ボールの動きが完全に止まった。
「……よしっ!」
ジンは思わず拳を握った。しばらく待っても、モンスターボールが再び動き出す様子はない。どうやら、無事に捕獲できたらしい。
「よくやったな、ユキメノコ。お前のおかげで助かったよ」
「メノ!」
ジンが優しく頭を撫でると、ユキメノコは嬉しそうに目を細めた。
もっとも、その身体にはガチグマとの戦闘で負った傷が残っている。ジンは労うようにもう一度頭を撫でると、地面に落ちていたモンスターボールを拾い上げ、ポケットに納めると、背後を振り返った。
そこには、先ほどガチグマに襲われていた女性と、傷ついたガーディの姿があった。少し離れた場所にはゼイユも立っており、どうやら二人とも無事らしい。
「ご無事ですか?」
「あぁ、ワタシは大丈夫だよ。それよりキミこそ平気? あんなポケモンと戦ってたんだからさ」
「俺は大丈夫です。ユキメノコも多少怪我はしましたけど、心配はいりません」
「そっか。それならよかった」
女性は安心したように息を吐くと、ジンの隣に浮かぶユキメノコへ視線を向けた。
「それにしても驚いたな……まさか、あのガチグマを捕まえちゃうなんて!キミ、すごいトレーナーなんだね」
「いえ、ユキメノコが頑張ってくれたおかげですよ。それより……」
ジンは女性の傍らに横たわるポケモンへと視線を向けた。
「貴女のポケモン、直ぐにでも治療が必要ですね」
「あっ……そうだった!」
女性は慌てて自身の相棒の傍らにしゃがみ込んだ。
「ガーディ、大丈夫? もう怖いポケモンはいなくなったからね」
「クゥン……」
ガーディは弱々しく鳴き声を上げたものの、起き上がる様子はなかった。その身体には幾つもの傷が残っており、呼吸も荒い。
(……かなり弱っているな)
「早く治療した方がいい。ゼイユ、近くにポケモンセンターはあるか?」
「さ、里になら一応……でも、この時間だと多分、寝ちゃってると思う。うちのジョーイさん、時間外労働とかしないタイプだし」
(どんなジョーイだよ……)
ジンは小さくため息をつく。キタカミの里の事情は知らないが、ポケモンドクターとしてどうなのかと思ってしまった。
(……まあ、今はそんなことを考えている場合じゃないか)
「それなら、俺達の船に来ませんか? ポケモンドクターの仲間がいるので、ガーディを診てもらえると思います」
「ポケモンドクターがいるの?」
「えぇ、かなりの凄腕ですよ。それに船には治療に必要な設備もありますから、きちんと手当てできる筈です」
その言葉を聞いた女性は、安心したように表情を緩めた。
「そっか……それなら、お願いしてもいいかな?」
「もちろんです。早速戻りましょう」
ジンは頷くと、改めて周囲を見渡した。
「……あれ?」
そこで、森の様子が先ほどまでとは大きく変わっている事に気づいた。ガチグマと遭遇した時には、辺り一面を不気味な霧が覆い、少し先の木々すら見通せなかった。しかし、今ではその霧もすっかり薄れ、木々の隙間から月明かりが差し込んでいる。
(……霧が晴れている?)
ジンは不思議に思いながら、先ほどガチグマが倒れていた場所へ視線を向けた。
(……もしかして、あのガチグマが関係していたのか?)
確証はないが、ガチグマを捕獲した直後から霧が晴れ始めたことを考えると、無関係とも思えなかった。加えて、激しい戦闘によって周囲の木々が何本も倒れ、森の中には大きく開けた場所ができていた。ジンは木々の隙間から見える地形を確認すると、ある事に気づいた。
(……なるほど。これなら帰り道も分かりそうだな)
先ほどまでは濃い霧と生い茂る木々に遮られ、自分たちがどこにいるのかさえ分からなかった。しかし、今なら遠くの地形まで見渡せる。ジンは周囲の木々や地面の傾斜を確認しながら、ここまで歩いてきた道筋を思い返した。
(確か、あの辺りから森の奥へ入ってきた筈だ。なら、向こうへ進めば……)
「……よし。帰り道は分かったぞ」
「えっ、本当!?」
ゼイユが驚いたように振り返る。
「ああ。霧が晴れたおかげで周囲の地形が見えるようになった。それに、戦闘で木々が倒れたから、進む方向も分かりやすくなってる」
「そ、そうなんだ……」
ゼイユは周囲を見渡したものの、いまいち分かっていない様子だった。
「まあ、あんたが分かるって言うならいいけど……本当に大丈夫なんでしょうね?」
「多分な。少なくとも、さっきよりはずっと分かりやすい」
「そこは自信を持ちなさいよ!」
ゼイユの言葉に、ジンは苦笑を浮かべた。
「とにかく、ここに長居する理由もない。早く戻ろう」
そう告げると、ジンは女性へと視線を向けた。
「歩けそうですか? 無理ならガーディを預かりますけど」
「ううん、大丈夫。ワタシはそこまで怪我してないから。それに、この子はワタシが抱いててあげたいんだ」
女性はそう答えると、腕の中のガーディを優しく抱き直した。
「クゥン……」
「もう少しの辛抱だからね」
その声に、ガーディは小さく鳴いて応えた。
「それじゃあ、行きましょう。俺が先頭を歩きます」
ジンはそう告げると、月明かりに照らされた森の中へと歩き出した。ゼイユと女性も、その後に続く。先ほどまで不気味な霧に閉ざされていた森には、いつの間にか静かな月明かりが戻っていた。
そんなこんなでガチグマ(アカツキ)ゲットです!
☆10
レッドシールドさん
高評価ありがとうございます
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