清々しいほどの透き通った青空に巨大な入道雲が伸びている。アスファルトを照りつける陽光は力強く、あたりからは蝉の鳴き声が響いていた。吹き抜ける風は熱気を帯び、交差点を進む通行人の額からは汗が零れ落ちていく。
点滅する信号機からはカッコウの音源が聞こえてくる。数人の子供たちがせわしなく走り、初老の男はマイペースに歩みを進めていた。のたりのたりと歩く男は、結局、信号が変わり切っても男は渡り切ることができなかった。
それを見て、この暑さで余裕のないトラックの運転手は思わずクラクションを鳴らした。男は自分のことを棚に上げて運転手の方を睨んだ。初夏というには些か暑すぎる日、そんなふとした日常の一コマであった。
運転手は男の様子に舌打ちをする。思わずカッとなった。何か言ってやらねば気が収まらないと窓を開く。運転手は、半ば身を乗り出すようにして男を見る。男は運転手の方を向いて固まっていた。その表情は唖然としているようであった。
自身に恐れをなしたかと、少し気を良くした運転手。彼は「おい、お前ぇ」と口にしたところで、違和感を覚えた。あれほど煩かった蝉の声が一切聞こえない。そればかりか信号が変わったというのに、どの車も動き出してはいなかった。
「あっ、あ」
初老の男の口から小さな悲鳴が漏れる。運転手は思わず振り返る。
見えてきたのは真っ赤な目玉。悪魔の如き異相。トラックよりも遥か高い場所に凶悪な顔が浮いている。ズンとトラックが揺れる。怪物が荷台に腕を置いたのだ。荷台の高さは3メートルもあるはずなのに、それを優に越す巨体である。
グルルルルと身の毛がよだつ音が鼓膜だけでなく、全身の細胞を揺らし、腹の底に響いた。運転手の呼吸が止まった。獅子に似た顔、鋭く不揃いの牙、歪んだ2対の大角、不気味な脚で立ち上がる巨体、熊のような異形の腕。バサリと怪物の背から闇の如き翼が広がった。瞬間、怪物の口内から莫大な音が放たれる。それは人の魂さえも震わせる咆哮だった。
「キマイラだぁ!!?」
人々は驚愕しながら、その名を叫んだ。
誰もがその怪物の存在を知っていた。
その叫び声を皮切りにキマイラと呼ばれた怪物は腕を力任せに振るった。飴細工のように荷台がひしゃげた。悲鳴を上げて周囲の人々は逃げ出した。
世界総人口の半数以上が「個性」と呼ばれる超常能力を持つ超人社会。多種多様な個性をもつ人々の中には悪意を持って力を振るう者がいる。それが超常犯罪者、通称ヴィランである。ヴィランはそれこそ街のゴロツキから凶悪犯罪者まで多岐に渡る。その中でも今、最も世間を騒がせている存在。それがキマイラである。
音もなく突如として現れる異形の怪物。正体不明の破壊者。理性なき獣。あらゆる通り名はその危険性を表している。目的もわからず、言葉さえ通じない、無差別に破壊を振りまく恐るべき化け物はいつしか「融合超獣キマイラ」と呼称されるようになった。
人々は走った。運転手は命からがらトラックから身を放り出す。瞬間、キマイラの怪腕によってトラックがさらに鈍い音を立てて砕かれ、ガリガリと削り千切られていく。ザバンという水音がした。もはや原型を留めていない車体からガソリンが漏れ出した。
破壊尽くされたトラックに興味を失ったのか、キマイラは周囲を見回す。そして近くに設置されていた郵便ポストを見つけると、鷲掴みにて力任せにひきちぎる。ポストはそのままはす向かいのコンビニエンスストアに投げ飛ばされた。轟音を立ててはじけ飛ぶガラス。その衝撃でなぎ倒される信号機、裂かれた電線からスパークしながら火花が散った。不運にもその火花が先ほど漏れ出したガソリンに引火、爆発が巻き起こる。他の車両にも引火して辺りはすぐに火の手が上がった。それに興奮したのか怪物は天を仰いで咆哮する。炎にやかれてもその巨体は無傷であった。
もうもうと黒煙が立ち上るそこは日常のから一変し、地獄のようになった。
「う、うあぁ」
衝撃と恐怖によって腰を抜かした運転手は、未だ動けずその場に縮こまっていた。その身が無事なのは奇跡としか思えなかった。なんとかキマイラから距離をとろうと這い回る彼は喘ぎ、情けない声を上げた。
それが良くなかった。
怪物の耳がピクリと動くと振り向き、怪物の目玉が運転手の姿を捉えたのだ。グルルルルと唸りながら近づく怪物に、運転手の心臓が跳ね上がった。運転手はアスファルトの地面を揺らしながら近づいてくる怪物から目をそらすことはできなかった。
十数メートルはあるその巨体を前に、運転手の思考が死んでいく。怪物の腕がゆらゆらと揺れて爪がアスファルトを抉った。怪物はまさに彼の目と鼻の先にまで近づいた。怪物の呼気が男に触れる。皮膚が焼け爛れたかと錯覚するほどの熱をはらんだ吐息だった。怪物はその巨大な顎を開き、運転手の眼前に迫った。成人男性の身長よりも巨大な牙と灰色の舌が見えた。
シャッ、という音が運転手の耳に届いた。
無残にも人間が嚙み砕かれた音、ではない。
それは運転手の体を抱きとめる影がアスファルトを擦った音だった。
まさに間一髪。
怪物の巨体を縫うように滑り込んで来た男がいた。
彼は素早くも優しく運転手の体を抱きかかえ、瞬時に怪物から距離をとったのだ。すんでのところで運転手は救われたのである。運転手を救った男は特徴的なスーツを纏っていた。筋骨隆々の長身のその男は力強く語り掛ける。
「もう大丈夫!」
世界総人口の半数以上が「個性」と呼ばれる超常能力を持つ超人社会。その力を悪に用いるものがいる一方で正義のために行使する者たちがいた。それが「ヒーロー」である。ヒーローは弱者を助け、悪を挫く正義の使者である。
「あ、あなたは!」
運転手は彼のことを知っている。彼は運転手を優しく立たせると、小さなマントを翻して怪物の元へ歩みを進めた。キマイラは現れた乱入者を威嚇するように巨体を揺らして、再びグルルルルと唸った。しかし彼はまるで平然としている。この街の平和を守る正義の使者。この街の平和を守る我らがヒーローは恐れを知らなかった。
その勇敢なヒーローの名を運転手は叫んだ。
「スライディン・ゴー!!」
紫と緑のカラーリングに男らしい顎をもつ最近プロになった若きヒーロー、スライディン・ゴーその人であった。
「卑劣なヴィランめ!この私が成敗してくれる!!」
スライディン・ゴーは自身の力を存分に発揮し、仁王立ちのまま、音もなくキマイラに肉薄した。キマイラはその怪腕を振り上げて彼めがけて叩き付ける。轟音が響き、土煙が吹きあがった。直撃すれば肉片一つ残らないであろう一撃。しかし、その煙を切り裂くように、彼の姿がスイー!と現れる。
「GO! SLIDIN-GO!!」
どこからともなく聞こえる声に乗せて、彼の拳が振るわれる。
拳はキマイラの頭部へと突き刺さり、巨体を吹き飛ばした。
巨体は交差点を超えていくつかの建物を巻き込みながら転がっていく。スライディン・ゴーは吹き飛んだキマイラを追うように、再び仁王立ちになると、スイー!と進んだ。
いくつもの残骸をかき分けるようにしてキマイラはガチガチと牙を鳴らして近づいてくるスライディン・ゴーを威嚇する。腕や脚、尾や羽を滅茶苦茶に叩きつけて咆哮、さらなる破壊の嵐が巻き起こした。少しして怪物の右腕と破壊された建物の残骸や電柱がドロリと融けだした。そしてズルズルと集まり、形を成していく。右腕の肘辺りから長大で無骨な剣のような何かが生えた。
これが「融合」超獣キマイラのおそらくは個性であった。辺りのものを肉体に吸収し、自身の肉体を変異させる力。その驚異的な能力によってキマイラは多くのヒーローたちを病院送りにしてきたのである。
しかし、その変異を見てもスライディン・ゴーの表情は変わらない。
「それがどうした!!」
スライディン・ゴーは変わらず音もなくアスファルトを滑ってキマイラへと向かった。キマイラは全身を弓のように引き絞る。そして数秒後、スライディン・ゴーはなぜか大きくジャンプした。瞬間、キマイラはコマのように巨体を回転させた。右腕の大剣をつかった薙ぎ払い。行動は単純だが、巨体がもたらす破壊はこれまでの比ではない。キマイラを中心にして、周囲のあらゆるものが砕かれ、押し流され、千切り飛ばされた。だが、それでも
「GO! SLIDIN-GO!!」
スライディン・ゴーは倒されない。薙ぎ払いを華麗な跳躍で見事避けた彼は、キマイラの大剣の上に着地。そのまま音もなく疾走し、怪物の狂相へと突撃していく。
「GO!! SLIDIN-GO!!!!」
そしてそのまま右拳をキマイラの頭部へと叩きつけた。凄まじい威力が込められていたのであろう。怪物の凶悪な牙がいくつもの砕かれ、グギリと怪物の首が折れ曲がった。ズシンとキマイラは後方へと倒れた。ぴくぴくと痙攣する怪物を見下ろす、スライディン・ゴー。彼は右腕を天へと突きたてて叫んだ。
「GO!!! SLIDIN-GO!!!!!!!!」
正義の前に悪は栄えない。スライディン・ゴーの力強い右腕はそれを証明しているようだった。
○○○○
「いや、ちょっとやりすぎだろ」
一連の流れを見て、つぶやく人影がいた。
片手に双眼鏡、片手にホットドックを齧る彼女の名前は鳴無聲(おとなし こえ)。まだまだ幼さの残る少女である。彼女がいるのはスライディン・ゴーとキマイラが激闘を繰り広げた場所から少し離れたビルの屋上。聲は小さく舌打ちをすると「まぁ金さえもらえれば、どうでもいいか」と呟いた。
聲は携帯電話を取りだして気だるげに連絡を入れる。携帯電話はスライディン・ゴーの耳につけたインカムへすぐさまつながった。
【あー、じゃあお疲れ様でーす。あっ例の場所に100万な。絶対に期日までに払えよ?払えなかったら、このこと全部ゲロって、その上でぶち殺すからな】
彼女がそういうと、通話を切ることもせずに携帯電話を踏みつけぐしゃぐしゃに破壊する。足がつきそうなものはすべて消すのが仕事の鉄則である。バラバラになった残骸を手すりの隙間から落としていく。双眼鏡の向こう側のスライディン・ゴーはビクンと震えて耳を押さえていたが、彼女は気にしなかった。
グルルルルという音が聲の耳に届いた。それだけで聲の表情が明るくなる。彼女の足元がドロリと融けて、何かがするすると聲の背中にへばりついた。
「おかえり!今日の演技も最高だった」
「た…だいま」
へばりついた何かがそう呟いた。こちらの声は聲のものよりもさらに幼い。彼は混色流(こんしょく ながれ)という少年であった。流はまたもやグルルルルという音を鳴らして、なんと体を聲の中に沈めていった。聲は手慣れているのか、身じろぎひとつしない。
「このホットドック、値段の割になかなか美味めぇよ」
そう言って聲はホットドックをまた齧った。聲の内側から、聲にしか聞こえない音が響く。
【ほ……んと、だ……うま】
「だろ~」
流の個性は「融合」。自身の肉体を様々なものと一体化させ、形や性質を変異させる能力である。キマイラも彼の個性が作り上げた怪物だ。コンクリートなどの個体、水道水などの液体を混ぜ合わせて怪物の形に整えたものである。多くの材料を使って大きな質量で高密度の体を得れば破壊力は簡単に手に入れることができる。グルルルルという音は個性を使い融合する時の音であった。
つまり「融合超獣キマイラ」とは少年と少女が二人作り上げたヴィランである。それも破壊が目的ではない。ろくでもないヒーローから依頼を受け、ある程度暴れて、その後やられるというストーリーを売るのだ。いわゆるマッチポンプ専門の職業怪人であった。
「つうか、あのスライディン・ゴーだっけ?パワー系の個性でもないくせにここまで派手なストーリー提案しやがって」
【ま……だまだ、か、けだし……だから、かっ、こいいとこ……ろ、みせ、たかった?】
「なんだそりゃ」
聲はヘラヘラと笑った。
双眼鏡にはポーズを決めたスライディン・ゴーに野次馬が集まってきたところだった。誰もがヒーローを褒め称えているようである。スライディン・ゴーの後ろに倒れたキマイラはドロドロと融解していた。これで証拠は残らない。スライディン・ゴーは集まってくる市民へ手を振った。嘘っぱちの英雄と噓っぱちの平和がそこにあった。
「ホント、くだらねぇな」
聲は呟いてホットドックをまた齧った。