side.アクア
嫌なぐらいに綺麗な青空に、飛行機が雲で一本の線を描いていく。
飛行機のエンジン音と、車のエンジン音によるセッションを聞いていると、主役が現れたと言わんばかりに一つの足音が聞こえてきた。
小さな公園、休日の昼間に来るなんて子供か、俺のように黄昏に来た大人ぐらいだろう。
ベンチの背凭れに体を預けている今、空以外に視線を向ける気にもなれなくて。
聞こえてくる音で判断しようと、目を閉じて聴覚に集中した瞬間──奇妙で叫び声にも聞こえる大音量と、軽快な音が響き渡った。
【優柔不断野郎必殺☆処刑ハリセーン!】
公園のベンチで空を眺めている所に、スパコーン! といきなり頭を何かで叩かれた。
言葉で説明すると、なんだこれって言いたいシチュエーションだ。
この合成音に突拍子のない行動。これは後ろへ振り返って確認するまでもない。
「……おい、アキ。外なのに随分だな」
【随分でもなんでもありませんよ。間に合わなくなる前に、慌ててお尻を蹴りに来たんですから】
念の為に振り返って確認したアキの顔は、いつも浮かべている笑みを消失させた無を貼り付けていた。
片手にハリセンがなければ、恐怖を覚えるアキの顔。
というか、どうして俺は急にそんな素っ頓狂な行動に巻き込まれてるんだ?
あかねの相談に乗って、そのまま別れて。
真っ直ぐ帰る気にもなれず、公園で無駄に時間を潰していた所、何故か同じく公園に来ていたアキにハリセンで頭を叩かれている。
こうやって状況を整理しても、意味がわからないな。
本当に、何がしたいんだよ、コイツは。
困惑する俺に対して、アキは大股で俺が座るベンチの前まで歩くと、指を3本立てた右手を顔付近まで近づけてきた。
【一人、いえ、一応三人ですかね】
「何がだよ」
【本当にわからないとでも? 胸に手を当てて、思い浮かべる女の人の数は?】
言われるがままに目を閉じると、さっき会ってきた彼女と、アイドルにしてしまったあの子、何より……あの赤い目で笑う女の子と病室で笑う顔が重なって見える。
あっさりと三人思い浮かべてしまった事実に、俺は口を噤んだ。
【……別に、三人って言われてすぐに思い浮かぶのが悪いって、言いに来た訳じゃないですよ】
「じゃあ、急にハリセンで頭を叩いてまで何を言いたいんだよ」
本当はわかっているのに、相手に解答を求めている。
黒い何かがずるりと出てくるような感覚に襲われていると、アキは深く、ゆっくりと息を吐き出して、口を開いた。
「逃げるな。動かない方が良い結果になることなんて、あり得ない幻想にいつまでも縋るなよ」
戒めのようにもう一度頭に乗せられる銀色のハリセンによって、黒い靄は霧散する。
……お前、いつもの言葉遣いや音声は迷子か?
逃げるように別のことばかり考える思考を見通したのか、アキの目が鋭く輝く。
こういう時に、奴が狼人間だと再認識するのだ。
ギン、と鋭くなった目と威圧に顔を顰めると、アキは鼻で笑った。
【アクアさんが動かなくても解決するって思ってるなら、それは間違いですよ。アクアさんが動かない分、運良く周囲が動いてくれただけなんです】
「それでうまくいくなら……」
【過去に起きたことが、必ず未来でも再現されることはないです。成功体験なんて何度も通用しません】
アキは俺の前に膝をつき、両腕を右手だけで力強く掴んできた。
人外の力はとんでもない。俺よりも明らかに細い手だというのに、掴まれた手はびくともしなかった。
せめてもの抵抗に顔を逸らすと、アキが首を痛くならない程度の力で顔を掴み、強引に視線を修正してくる。
【仮に成功体験に胡座をかいたとして。それで望んでない未来が訪れた時、後悔するのはアクアさんなんですよ。逃げて相手が傷付いたら、今度は逃げなきゃよかったって自分を責めるんでしょ】
「それは、そうだろうな」
【わかってるのにその態度とか……ちょっと、話しましょっか】
俺の右手を左手で掴んだまま、アキは隣の空きスペースへと座った。
見た目も相まって、今の俺とコイツはいちゃついているカップルか何かに見えているのではないだろうか。
そのせいで公園に誰も来ないと思うとやりにくくて、誰か来てくれと願いたくなった。
【1年前、ボクがどうしてアクアさんに注射器を渡したか、わかりますか?】
「お前の悪趣味だろ」
【……失礼な。自分のやったことで取り戻せたって思わなきゃ、バカみたいな思い込みで足踏みすると思ったからですよ、今みたいにね】
はぁ、と質量でもあるんじゃないかと思うぐらい重いため息をついたアキは、俺の額を小突いてきた。
【とりあえず、まず黒川さんのとこを思い浮かべましょうか。番組が終わってからも、普通に連絡してたみたいですけど。どういう印象なんですか?】
「どういうって、まぁ……ぼかしてルビーのことを相談しても、普通に返信してくれるし。いい奴だと思う」
【ほう、安心感ですか。何を話しても許してくれるから、甘えていたと】
……これ、手からリアルタイムで情報を読み取られてるのか。
黙りを決め込もうとする俺の内心を見透かして、アキが睨みつけて牽制してくるので、逃げられない。
【次に有馬さん、いきましょう】
「有馬? 天才子役で、まぁ、話しやすいとか、そんなところだろ」
【似てる気がするから気になる子、と。性格的に友達に近い立ち位置かもしれない……ふむ、予想より距離が遠めですね】
「……さっきから何がしたいんだよ」
【まぁまぁ。それは後にして、最後にルビーさんをどうぞ】
俺の質問には全く答えるつもりがないようだ。
それなら俺だって、協力しなくてもいいだろう。
そう、自分を納得させるための言い訳をして黙っていると、アキは肩を竦めてスマホを近づけてきた。
音量は最小まで絞られているのか、まるで囁くような機械の音声が耳元で再生される。
【答えられませんよね……この一年でアクアさんは一番、ルビーさんを意識してますもん】
普段、アイの器であると豪語しているアキの体は、声も見た目の色も身長も何もかもアイに寄せている。
しかし、今目の前に見えているこの姿は、アキの力で近づけた仮初のモノに過ぎない……という話を、今になって思い出す。
それをどうして今、思い出したのか?
理由は簡単だ。こちらをじっと見るアキの目が、野生の狼のような金眼になっていたから。
色は
夜だから光ってはいないものの、本気で能力を使っているらしいアキは普段の犬らしさなんてどこにもなかった。
【倫理観がーと考えるのも世間一般的には正しいし、好きという感情を『間違い』なんて否定して欲しくないって、個人的には思ってますよ。だから思う存分に悩めばいいと見守っていましたが──そうも言ってられないんですよね】
眼光は鋭いのに、合成音声から聞こえてくる感情はどこか苦しさを感じる。
ただの読み上げソフトの音声なのに、不思議と奴が使っているモノには感情に訴えかけてくるような『音』があった。
【アクアさん、もしも……ボクがルビーさんと付き合うとしたらどうします?】
「それは前も言った通り、別に悪くなんてないだろ。むしろ法律的にも一番良い──」
【じゃあ、ボクがルビーさんと抱きしめあってたり、何なら結婚式とかで誓いのキスをーって、唇を奪うところを見ても、何にも思わないんですね?】
「は?」
それとこれとは話が別だが?
手を繋ぐのも腑が煮えたぎりそうなので見たくないのに、どこまで進むつもりだ? あ?
俺の顔が凶悪だったのか、アキは軽く肩を跳ねさせて、必死にスマホを操作する。
【母親そっくりな女の子に見えるボクでもムカついているんですよ? そんな調子でルビーさんを否定したら可哀想でしょ。もしもルビーさんに彼氏ができた場合とか特に】
「そんなことはない。俺よりも勉強できて、将来有望で顔も良くて金もあって性格も良くて運動神経もよく、ルビーを不幸にしないと──」
【怖い怖い怖い! ルビーさんを渡したくないと言いたいのはわかりましたから、落ち着いてください。ほら、どうどう、どうどう】
どうどうって、誰が暴れ馬じゃい。
俺の頭はホットで落ち着いてるからな。
【茹で上がってんじゃないですか。馬鹿ですが? いや、やっぱりいいです……じゃなきゃ、ここまで拗らせてないでしょうし】
アキは額に手を乗せ、天を仰ぐ。
その目は理解できないものを見るような、哀れみの視線を向けてきていた。
【そこまで思ってるのに、なんでアクセル踏みながらブレーキまで同時に踏むんですか?】
「それは、あいつが妹だからで」
【どんな言い訳を陳列しようが、アクアさんにできることは『ルビーさんを選ぶ』か、『ルビーさんを諦める』ことだけですよ】
「他にもあるだろ、例えば……」
【全部投げ捨てるって? だから勉強のできる馬鹿なんですよ、あなたは】
いや、そんなこと言われたことがないが?
というか、俺はお前にそう思われていたのかよ。
少しショックを受けている俺に対して、アキは容赦なく追撃を放ってきた。
【お願いですからあの時、本当に死んだ方が良かったんじゃって思わせるような真似、しないでくださいよ】
──今のあなたを見ていると、後悔してしまいそうで怖いんですよ。
最後の言葉に、頭を殴られたような衝撃を受けた。
ハリセンなんか比ではない。金属バットをフルスイングされたような、鈍くて、強い衝撃と共に血の気が引いてしまいそうな感覚。
まさか、そんなバカなと思考が再び逃げようとする中、アキは首を軽く横に振ってスマホの再生ボタンを押す。
【最終的にボクから言えることは、後悔するような馬鹿なことはするなってことだけです。本当はもっと言いたいんですけど……時間みたいなんで】
パッと手を離して、ベンチから立ち上がるアキを視線で追う。
すると、自然とここにはいないはずの二人が──ルビーとあかねが揃って立っている所を見てしまった。
「お兄ちゃん、いいかな?」
……おいおい、嘘だよな。
今日はやけにアキが突っかかってくるなと思っていたが、もしかしてそういうことだったのか?
アキの方に視線をやると、奴は諦観するような笑みで右手を横に振り、左手で親指を立てた。
ボクができるのはここまでです、とでも言いたいのか。お前、散々俺の事追い込んでいたのにそれはないだろ、この薄情狼め!
アキに助けを求めている間にも、こちらに近づいてきたルビーが目を眇める。
「お兄ちゃん、アキばっかり見てないでこっち見てよ」
眼を細めて微笑むルビーは俺の顎先を掴み、逸らしていた顔を自分の方へと修正してきた。
いわゆる『顎クイ』と呼ばれるヤツだ。少女漫画やそういうドラマなどでは御用達の。
いつか俺も俳優としてやる可能性は考えていたが、まさかやられる側になるとは思わなかった。
あまりにも自然で、様になってるのが余計に困惑を加速させる。
「ごめんね、お兄ちゃん。本当は私、いつまでも待つつもりだったんだけど……待っている間にもお兄ちゃんが他の女の子を誑すのなら、もう見逃してあげるわけにはいかないかなって」
「ま、待ってくれルビー。約束があっただろう?」
「? でも、今のお兄ちゃんは待っても答えるつもり、ないよね?」
こてん、と首を傾げて見てくるルビーの目が、何故かアイと同じように見えて寒気が走った。
「今まではお兄ちゃんに配慮して良い妹になってたけど、もうやめようと思うの。いいよね?」
あかーん、思わず柄にもなく関西弁が出てくるぐらいあかーん状況だぞこれは。
どういうことだ、俺の知っている妹はもっとアホというか、抜けてて純粋で真っすぐな子だったんだが!?
慌てる内心を見透かしているのか、ルビーは楽しそうに笑う。
「ねぇ、お兄ちゃん。ほぼ病室で12年間過ごしてきたのと今を比べるとさ、明らかに経験も違うし、成長するのは当然だと思わない? むしろ……どうしていつまでも同じままだと思ったの?」
当然の話であった。でも、当然であってほしくなかった。
兄が知らぬ間にこんな妖艶な笑みを浮かべることができる妹になっているなど、知りたくなかったんだが。
この状況を打破するにはどうすればいいのか。もう一度アキに視線を向けてみる。
【中途半端に動いたり、動かなかったりした結果なので、甘んじて受け止めてください】
しかし現実は無常だった。
だが、アキの言うことは全く間違っていない。これは確かに俺の責任である。
逃げて逃げて、逃げ続けてきた結果だ。
ダラダラと夏休みの宿題を先延ばししていたら、提出期限が来てしまっただけ。言葉にするならそれだけのことで。
「お兄ちゃん、イエスかノーでいこう? ノーなら私、アキのところでお世話になるつもりだから」
「はぁ!?」
「だってそうでしょ。好きだった人の側にずっといるなんて未練たらしいし、普通の兄妹に戻るためにもお互い、距離感と時間が必要でしょ?」
間違ってない。散々、俺はルビーに対して倫理観や常識を振り
今更、それに文句を言えるほど厚顔無恥ではないつもりだ。
──なら、俺は今こそ選択しなければならない。
ルビーを選ぶのか、選ばないのか。
すすーっと、アキが黒川を連れていくのを視界の端にとらえる。
アイツとルビーが一緒に暮らす……その答えになる感情は、さっきアキから引き摺り出されたモノだ。
「俺は──」
正直になるか、否か。
アキの
《あきのこばなし》
アキ君は普段、話さないことの方が多いので『実は声が出なかったらどうしよう』と慌てて公園に入る前に発声練習していたのは内緒です。