気が付くと、狭い空間にいた。
天井が低い。瞼を開いた眼前に見える。
急速に回復していく感覚で、自分が横になっているのを自覚した。頭の中に掛かった霞が、緩やかに解けていく。視界の端から端が明瞭になっていくのを、サンタミカエラは感じている。
自分の既知の場所によく似たそこが、停車している馬車の室内だと理解するのに、さほどの時間は要しなかった。そして今、その座席に横たわっているのだと認識する。
軽く首を左右に振って見回し、彼女は、ハッ、とした。向かい合わせの座席に誰かが座っている。
銀色の長い髪の女性。シスターが着用する漆黒の修道服に、ウィンブル。何となく重たそうな瞼の奥から、サファイアのような透明な瞳が、じっ、とこちらを凝視している。歳の頃は十代半ばだろうか、顔の幼さよりも妙に落ち着いた雰囲気を纏っている。
表情を変化させずに、女性が薄い唇を開く。
「気分はどうですか?」
芯が通った、沈着な、しかし涼し気な声色。
サンタミカエラが、視線を彼女に据える。そのまま惹き付けられたように、眼差しを絡め始めた。
「初めまして。防疫修道会の、アンナロッテ=アントワナ=アンクルといいます。ご両親はお気の毒でした」
アンナロッテと名乗った女性の言葉が、湿り気と憐れみを帯びる。
自宅建屋で起こった惨劇が、自分の裡に再投影された。眼前で異形の風体と成り果て、親族と使用人を殺害し、挙句に滅せられた二名が両親であったと、今の一言で確定される。
「父さまと母さまが・・・」
「ええ。狂血病に罹って、ベラスケス家の方々を全員、でした。生き残ったのは貴方だけです」
不思議と、絶望感は薄くなっている。恐怖の最深部から戻って来れた安堵から来ているのだろうか、それとも、アンナロッテの声質が癒してくれているのだろうか。
思った以上に、身体に力が戻っていると自覚したサンタミカエラが、上半身を起こそうとする。
それを、黙したまま、アンナロッテが右掌を翳して制する。軽く、一度だけ首を縦に振る。今は横になっていろ、ということだろう。
再度、身体を椅子の長手に預け、身体を横向きにして、彼女を改めて、じっ、と見詰めた。銀髪が透明で清んだ輝きを帯びている。端正な顔立ちで線が細く、また綺麗だと感じる。漠然とだが、きっとこういう人が将来は『聖母』と呼ばれるのだろう、と、思える程だ。
アンナロッテが、表情を変えずに口を開く。
「名前は、何と?」
「え? わ・・・私・・・サンタミカエラ・・・」
「お幾つですか?」
「・・・7歳」
「私の方がお姉さんですね。今年、10歳になりました」
「ええっ! もっと上だと思った!」
思わず身体を起こし、素っ頓狂な声を上げた。
即座に我に返り、サンタミカエラは、はっ、とする。自分の言動を顧み、すかさず口元を右手で覆って目を見開いた。失礼な言い方であったことに気付き、申し訳なさそうな目線で眼前の少女を再び凝視し始める。
大声にも眉ひとつ動かさず、気に障った様子もなく、アンナロッテは穏やかに微笑んだ。
「よく言われます」
慈愛を包括した、柔らかい言葉。
サンタミカエラが、ほおっ、と全身の強張りを解きながら息を吐く。併せて、果てしない安心感が一挙に自分の中を満たしていき、それは全身を巡っていく温かさへと変貌していった。
静かな動作で、もう一度身体を横臥させる。再び、力を抜いてみる。
アンナロッテの右掌が、羽根のような優しい仕草で自分の髪を撫でているのが判る。
「今は、休みなさい。何か欲しい物があれば、遠慮なくおっしゃって下さいね」
その発言が、安息という烙印となる。
父母を、親族を、親しい者を一気に失った悲しみは、いずれ実感となって自分を襲うだろう。だが今は、存在を許されている事実を噛み締め、心身を休ませよう―――サンタミカエラは、急速に被さってくる微睡みの中、そう感じている。
そのまま彼女は、温もりを深く実感しながら、意識を手放した。
気が付くと、薄暗い建屋のホールにいた。
聖レジーナ大聖堂の玄関からかなり入ったこの場所で、サンタミカエラは床にしゃがみ込んでいる。高い位置にある明かり取りの窓からの陽光が、弱い。今は日没に近い時間か、既に陽は沈み切っている筈だった。
自分が随所から出血しているのは、自覚している。先程の戦闘で受傷した箇所から、点々と後に残るほどの血が流れ、足跡のように後方に連なって存在する。苦痛で呼吸が乱れ、荒い。
それでもサンタミカエラは、腰のホルスターから、短銃を引き抜き、構える。
「近付くなっつってんだっ! 吸血鬼っ! その赫い瞳でこっちを見るなよっ!」
銃口は、傍らに立つ少女―――キリエに向けられた。彼女の右目が、僅かに見開かれる。傷の手当てをせんと手にしている布が、前後に揺らぐ。
黒髪に、漆黒の衣服とブーツが闇と同化しているかのようだ。そこから晒されているキリエの手足の肌は、深みがある白さ。そして自分を見詰める瞳が、鮮血の如き赫色であった。
黒衣の者を滅する弾丸『煉滅弾』を充填した短銃を向けられても、キリエは恐れた様子はない。少し驚いたように眼を開き、こちらを見詰めている。
「同じ赫だっ! 父さまの瞳と! 母さまの瞳とっ!」
自分の言葉の後、一瞬で脳裏に、惨劇の夜の映像が浮かび上がる。
サンタミカエラの持つ銃が、小刻みに震え始めた。同時に、それは全身に伝播していき、否応なしに怯えを具現化させる。更に追い撃ちの如く、喉の奥に熱い塊が湧き、短く吐く。先刻の戦闘時の怪我が口内の何処かしらを傷付け、血を口腔に溢れさせ、彼女はそれを口角から流していた。
構うことなく、抗うような目線を、サンタミカエラはキリエに向ける。
「・・・ふたりが吸血鬼になってしまった、あの夜・・・真っ暗な中に・・・赫い瞳をギラギラさせて・・・私を捜してた! 血を吸う為に!」
眉間に皺を寄せた苦悶の表情と、拒絶で見開かれた両眼。
対するキリエの顔に、翳りが降りてくる。
再び肺から突き上げるような呼吸で吐血した後、サンタミカエラが言葉を落とす。
「大好きだったのに・・・父さまも・・・母さまも・・・」
抑えようのない絶望感で染め上げられた、声。
途端。
キリエが眉を下げ、僅かに唇を開く。
瞳が緩み、微かに泣くような眼差しを浮かべる。
はっ、とサンタミカエラが、息を飲んだ。
先程までの赫の両目とは、違う―――色は一緒だが、何かが、違う。
この彩りは、何と表したら良いのだろう。
それを感知した直後、全身の震えが即座に治まっていた。両膝立ちで銃を向けた姿勢で、真っ直ぐに眼前の少女を凝視する。おのれの裡の冷たく尖った感覚が、沈静化していくのが感じ取れる。
すっ、と静かな動作で、キリエの右掌が上がり、口が開かれる。
「約束するわ、サンタミカエラ。誰にも、もう、そんな思いはさせない」
無限の如き透明な、声質。
何処までも清んでいて、尚且つ、不動の芯が貫かれたような。
サンタミカエラが、言葉を失った。
何という、凛。
穿てない盾の如き不退転の意志が、眼前の立ち姿から放たれている。
「必ず・・・私はあいつを・・・黒衣の者を斃す」
伸ばした右手で、煉滅弾の短銃身を握り、キリエが言葉を張る。
同時に、ぶれない堅固な目線が注がれている。サンタミカエラが、眼差しを絡める。
(・・・赫い・・・瞳・・・)
自分の知っている吸血鬼の眼球の色と、似て非なる色彩。
深い、どこまでも深い、透明な。
吸い込まれそうだ、と思う。
あれほど怖れていた赫い目ではない。むしろ、このままずっと見詰めていたい。
(綺麗だ・・・)
サンタミカエラの中に、酩酊感が溢れていた。
キリエの視線に、静かで荘厳な表情に、自分の裡が急速に満たされていく。
最早、あの最悪の夜の恐怖を、彼女の赫い目に重ねることは出来ない。何故なら、目の前の少女は吸血鬼であるが、畏れる対象である理由が消し飛んでしまったからだ。
いつの間にか、キリエの右掌に短銃が握られている。力を抜いたつもりはない。離した覚えもない。ただ、無意識が既に結論を出していた。黒衣の者を滅する闘いを託してもいいのだ、と。
気が付けば、全身の力は抜けていて、冷たい床に座り込んでいた。その間、サンタミカエラの感覚や感情は、ひたすらキリエへの事象で塗り潰されていたのだった。
既に、彼女は背を向け、大聖堂の奥へと歩みを進めている。
遠ざかる背中に目線を預けていたが、未だに上げたままの右手に視界を移してみる。銃を握っていた型で、指が固形した様相を呈している。
顔を伏せ、サンタミカエラが呟きを零す。
「・・・てやんでェ」
キリエの背後に投げるように、また自分自身に言い聞かせるように。
身体の緊張感は完全に解け、両手脚を緩和させ、項垂れて両の目を伏せる。傷の痛みはあまり強くなくなったが、ここまで失血した量が多かったのか、脳内に靄が漂っている感覚だ。
サンタミカエラは、思い出していた。
アンナロッテが話していた〝血塗れの聖女〟の逸話を。
吸血鬼と化して尚、人として気高き魂を失わず、闇の王を滅した、という。
閉じた瞼の裏に、キリエの姿が投影される。
〝血塗れの聖女〟が寓話であり古の言い伝えである以上、真実は判らないし、実際に見たことがないので一致はしない。だが、サンタミカエラが、ひとつの結論を得る。
(聖女・・・って・・・あんな感じなんだろうなぁ・・・)
少なくともキリエは、キリエの眼だけは、自分の怖れの一部を上書きして消した。
充分だった。聖女の条件があるとすれば、最低限の項目は、既に達成している。
やがてサンタミカエラが、薄れゆく感覚の中、悔しそうに口角を上げる。
そのまま彼女は、不思議な満足をほんの少し覚え、意識を手放した。