眼前にあった彼女の姿は、横に移動している。
正面の視界は、純度の濃い闇。
サンタミカエラは、怖れが生まれる前に、右側に顔を向けた。
自分とキリエの間は、拳ひとつ分ほどの至近距離。
彼女の横顔が、網膜に映る。微量な薄明りに浮ぶ顔立ちと、側方からでも判る赫い眼の輝き。その存在が今、暗黒への恐怖に屈しない力を与えてくれている。
ただ、あまり凝視し続けると、反って訝しがられるだろう。
居住まいを正し、サンタミカエラが頭上を見上げ、微かな射光を見詰めて口を開く。
「ソリアの地下に、こんなとこあったのかよ・・・」
「かなり古い地下道か何かみたい。多分、この間の戦いの時、あちこち壊されたから・・・運悪く、地上と繋がったみたいね」
同調したように視線を天井の方に向け、沈着な声質で、キリエが言葉を繫げる。
確かに、冷静に感覚を研いでみると、長い期間滞留していた澱んだ雰囲気と、黴の臭いが鼻を衝いてくる。更に空間中に、土埃のような、ざら、とした荒い感触が漂ってもいた。
暫し、同じ方向に目線を上げて、ふたりが黙する。
ふと、キリエがこちらに顔を向け、少し目を伏せる。
「ごめんなさい」
「あ? 何で謝ってんだよ?」
間髪入れず、疑念を放り投げ、迷うことなく視線を絡めてみる。
「前に、暗いのを怖がってる貴方を、ガキ、って言ったこと・・・謝るわ」
彼女の詫びが、忘れ掛けていた記憶を呼び起こす。そういえば言われたことがあった、と。
ただ、その時は互いに怒鳴り合っていたくらい、言いたい放題だった筈。心も傷付かなかったし、遺恨を覚える根深さではなかった。結局それ以降失念して、すっかり忘れていた。正直、謝罪される程ではない。
短く息を吐き、サンタミカエラが言葉を零す。
「んなこと、今更謝られても・・・」
「そうね。謝って済む話じゃない」
「そうじゃねェよ! 別に気にしてねェから! 謝んな!」
それは本音だった。実際に発言に対する怒りなどない。
しかし、キリエの瞳には、贖罪の彩りが保たれたままだった。
「でも・・・やっぱり・・・」
「ああもう! この話は終わりだっつーの! 鬱陶しい!」
思わず、声が大きくなる。絡んだ紐を断ち切るように。
そして、返す言葉が尖ってしまう。だがこれ以上、余計な謝罪の文言など聞きたくはなかった。
吃驚したように、キリエの両目が丸くなったのが、眼前に見て取れる。驚かせるつもりもなかった。
すう、ふうう、と肩を上下させ、サンタミカエラは深く呼吸をする。それから瞼を少し閉じ、尚且つ彼女の赫い眼が視界に入る角度で目線を固定し、言葉を漏らす。
「まあ・・・確かに・・・暗い場所にいると、その度に父さまと母さまと、あの夜のこと思い出す・・・そっから・・・ガキん時から、一歩も進んでねェんだ・・・闇に怯えて、ビビッて、心ん中じゃ泣き喚いてる・・・」
自分の声色が、自虐に塗りたくられているのが認識された。
反面、改めて口にしてみると、少しだけ気持ちに圧し掛かった重みが和らぐのが判る。言葉にすることで、裡に刻まれた傷の痛みが鎮まる。自覚し直すことが、自浄作用となっているのだ。
ふっ、と自嘲気味に息を継ぎ、サンタミカエラが呟く。
「今みてェに・・・遭難して置き去りにされた気持ちで・・・」
何気に、右手を掲げて、掌を覗き込む。闇が濃い。手袋の輪郭しか可視出来ない。
二拍ほどの間を置き、キリエの声が聞こえてきた。
「今は、ひとりじゃないでしょ?」
はっ、と即応して顔を上げる。真っ直ぐに彼女の瞳に、視線を放り込む。
絡む眼差しの奥に、優しい煌きがある。
これが、キリエの赫い眼。自分の中で〝聖女〟と重ね合わせた、輝き。
かつてあれほど恐怖した赫眼ではない。今や、求める対象ですら、ある。
軽い陶酔が、自分の奥底から湧いて、心身に満ち始めた、頃。
「吸血鬼の私では反って不安だとは思うけど」
逆にキリエの、自虐に染まった声が、転がり落ちる。
サンタミカエラが、ぐうっ、と言葉に詰まった。困惑が表情に宿る。何か言わねば、一層深く彼女が申し訳なさを感じるに違いない。
しかし、何と言えば良いのだろう。
上手く会話が繋げられる気がしない。
「いや・・・その・・・」
見詰めあったままの姿勢で、唇を、もご、もご、と動かす。
もともと誰かを褒めるのが苦手だった上、以前は怖れと敵意をぶつけていた相手。
長い、間。
やっと、搾り出すように、消え入りそうな声で、サンタミカエラは言葉を差し出した。
「何だ・・・その・・・気は紛れる・・・」
すぐ後。
キリエの視線が、緩んだ気配を醸し出す。
自分の発言に安心してくれたのが、こちらにも伝播してくる。
サンタミカエラが小さく呼吸をして、居住まいを正し、姿勢を正面に向き直してみる。隣の少女も同じように、身体を元に戻した様子だ。再度、ふたりは瓦礫で形成された斜面に並んで座した。