何気に、沈黙が始まった。何となく、会話に窮している。
敢えて話題を提供するのではなく、自然に受け答えが出来るのであれば違っていたろう。更に、今は救けを待つ身の上。世間話などしている余裕はない。
急に、妙な緊張を覚える。眼前の漆黒の空間に、目の焦点が合う。
暗黒。
そうだ。
今、凄まじく濃い漆黒にいるのだった。
サンタミカエラの裡に、現実という槍が突き刺さり、中心核を穿つ。
途端。
いきなり、ぞわっ、と全身を悪寒が駆け抜ける。
一気に、忘却し掛かっていた恐怖が、怒涛となって彼女の内部に充満し、堰を切ったように溢れた。それは瞬時に内面すべてを掻き乱し、幾重にも襲い来る津波となって精神を覆い尽くす。
両親が自分を殺そうとした夜の、闇。
現在、目の前にある、闇。
時間も場所も違う二点が、理屈など弾け飛ばして結び付く。
震えが、湧く。枯野を焼き尽くす野火の如く、あっという間に全身に拡がっていく。
ぶる、ぶるぶる、と手指が、両脚が、小刻みに震動する。両眼を正円に見開いたまま、動けない。視線を逸らさねばと思えば思うほど、凝り固まった身体は尚更可動出来なくなっていった。異常に冷たい汗が、首筋を、脇を伝うのが自覚される。
「サンタミカエラ?」
傍らのキリエが、異変に気付いた。
空気の振動として伝達されるほどに、自分の身体は異様な状態なのだと思える。しかし最早、視界を移動させることも出来ず、引き攣ったような頬の張りで表情を変えることもままならない。
まるで、呪詛を受けたと同様。
キリエの赫い瞳が、心配げな色を包括し、こちらに向けられる。
「震えてる?」
「て・・・てやんでェ・・・震えて・・・ねェよ・・・」
「寒い?」
「そうじゃ・・・ねェ・・・ねェよ・・・寒くもねェ・・・」
言葉も覚束ない。打ち消して虚勢すら張れない。如何ともし難い。
自分が何に翻弄されているのか、黒髪の少女は既に察していることだろう。彼女の眼の色が、更に慈しむような彩りを醸し出したからだ。
だが今、この空間に差し込む微かな灯りが、それ以上明るくなる気配はない。纏わり付く墨の如き漆黒は、容赦の欠片もない。
遂に、弱まり切った台詞が、サンタミカエラから転がり落ちる。
「・・・やっぱ・・・暗い・・・とこは・・・や・・・」
直後。
赫い瞳が、自分の正面に回り込む。
静かで、羽根のような身のこなし。そのまま両膝立ちになった輪郭が、闇に浮んだ。
途端。
ぐいっ、と上半身が、いや、全身ごと前屈みに引き寄せられた。
「なっ!」
ぽすっ、と何か柔らかい物に顔が埋まる。それがキリエの胸であるということに気付くのに、少しの時を要した。背中と首の後ろに、彼女の腕と思われる感触がある。右耳が少女の鎖骨下に当てられていた。呼吸を遮らないよう、上手い具合に顔を傾けてくれている。
抱き寄せられたのだ。
キリエが両腕で、サンタミカエラを、身体ごと包み込むように。
床に座り込んでいる自分の半身が密着し、膝立ちの彼女の胸に右頬が押し当てられ、彼女の左右の腕が翼のような柔和さで優しく包み込み、尚且つしっかりとこちらの身体を繋ぎ止めていた。
不意打ちの行動に、かあっ、と顔全体が発火したように火照る。
「キリエっ! 何をっ・・・」
「ちょっとの間、我慢して。吸血鬼の私じゃ、嫌なのは解るけど・・・」
嫌悪感はない。サンタミカエラはそれを口にしようと試みる。
だが、またもや言葉が詰まる。ただ今度は、猛烈な気恥ずかしさと、戸惑い。
「私は目は瞑っているから、大丈夫。貴方も目を瞑ってて」
この期に及んで、彼女は自分の眼が与えるであろう脅威に、気を遣っている。
しかし、こちらも目を閉じる、とは。
「目を閉じてれば、暗いのは当たり前。だから、瞑ったままで・・・」
ああ、そうだ。その通りだ。
言われた通り、瞼を閉じる。
不思議と、落ち着く。そこには恐怖の対象の闇ではなく、いつも眠る時に見える純黒がある。
キリエの言葉が深い響きを伴って、頭上から降りてきた。
「落ち着いて。貴方は、今、ひとりじゃない」
瞬時に、先程の会話が自分の中で反芻される。
この遭難で、ひとり取り残されている訳ではない。キリエがいる。キリエとふたりでいる。両眼を伏せている今、頬に伝わる温もりが何よりの証明だ。
脳内に、蕩けたような感覚が湧く。ほおっ、と短く吐息を漏らす。
「あったけェ・・・」
「私でも、体温はあるから」
彼女の胸板に押し当てられた右の耳朶に、とくん、とくん、とやや高めの鼓動が流れ込んでいることに気が付いた。
(キリエの心臓の音・・・)
こんな音を聞いたのは、いつ以来だろう。
幼い時、母に抱かれていた、日々。
和やかな微笑みと、自分の名を呼ぶ静かで美麗な声質。
(母さま・・・)
記憶の母の心音と、今のキリエの心音が、同調し、一致。
陽に包まれた暖かい家庭があり、確かに自分を育んでくれたことを、思い出した。
突然。
前触れもなく、眼球が熱を帯びた気がし、間髪入れず。
ぶわっ、と目頭から、落涙。
抑えようと瞼を固く締める。しかし、歯止めが利かない。次々と泉のように湧き、目の両端を押し退けて溢れ、滝のように流出し始める。両頬を伝い、そのままキリエの胸元に零れ落ちていく。
喉の奥に、突き上げる何かがある。それが口蓋から涙腺を何度も殴り、涙を生んでいる。
「声を出しても大丈夫よ。多分、他には聞こえない」
恐らく両目を閉じているであろう彼女が、気を配った言葉を差し出してくる。
言われた通り、発声に転化して出そうとしてみた。
詰まる。思った通りに、声を上げられない。
「・・・う・・・うあ・・・うああ・・・」
大音量で泣き喚けば、随分すっきりするかも知れない。でも、口を全開にしても、喉の奥から微量の声が吐かれるだけで、塞がれた如く出て来ない。
感情が余りに強烈過ぎて、涙以外の吐出が不可能になっていた。
キリエの慈愛。
言葉の過ぎる、あるいは足らない自分に遣ってくれる、優しさ。
他の者に対してはどうか判らない。それは今やどうでもいい。暗黒に恐怖する自分を受け止め、包括してくれる。嬉しかった。これほどのありがたさを覚えたことは、あっただろうか。
〝聖女〟―――幾度も、繰り返されてきた印象が、この瞬間に完全一致する。
サンタミカエラは、縋るように全身をキリエに預ける。
大粒の涙は治まらず、尚も堰を切ったように流れ落ちる。
「私は一緒に泣けないから、いっぱい泣いて。私の分まで」
彼女が、自分を抱き締める腕に、きゅっ、と力を入れるのが認識出来た。
そして、キリエが、穏やかで透明な声質で囁く。
「暗闇を流せるくらい」
微かな光が入るだけの漆黒の空間で、サンタミカエラは、存在を許されたような感謝を裡に満ち溢れさせる。
自分が〝聖女〟と認めた少女の胸に抱かれ、そのまま彼女は、心が意識を手放そうとするのを感じる。
だが今度は、それは食い止めた。繋がっている今を、失いたくなかったからだ。
陽が傾いた地上に目が慣れるのに、それなりの時間を要した。
ラーラマリアからの連絡で、アンナロッテ以下5名の修道会兵士の連携で、聖レジーナ大聖堂地下に落下したサンタミカエラを救出する作戦は成功を収める。今、キリエと並んで、回廊の傾斜のない床に両足を踏み締めて、しっかりとした姿勢で立っている。周りには、この活動に力を貸してくれた全員が自分たちを囲んでいた。
アンナロッテが、ふう、と息を継いでから言葉を発する。
「怪我がないようで何よりですが、念の為、医療棟に寄ります。もし必要ならそこで休んでもらいます」
「大袈裟だって。痛ェとこもねェし、大丈夫だって」
「いえ、あれだけの深さを落ちたのです。まったくの無事な筈がありません」
ちら、と背後の、10ヤードほど離れた地面に目を遣る。救出作戦の為に削られた床石と赤土、その中心付近に、はっきりと見える亀裂と開口部。あの地下、漆黒にいたのだな、と判る。
「改めて、ご助力感謝します、コマンダンテ」
「なぁに、お安い御用さ。牽引用ワイヤーがあったのが幸いだったね」
にひっ、と人懐こい笑みを浮かべ、ラーラマリアが口を開く。右肩に、半径1ヤードほどに幾重にも巻かれた銀色のワイヤーが担がれ、彼女は反対の手で、ポン、とそれを一度だけ叩いた。
それが合図となり、全員が移動の為に歩を進め始める。
5名の修道会兵士が先を歩き、ラーラマリアとアンナロッテが肩を並べて続く。サンタミカエラは、キリエと左右に並列で最後尾に位置した。
ラーラマリアが、ちょいちょい、と左人差し指で地面を示し、アンナロッテに顔を向ける。
「それにしても、古の地下道跡とか・・・ソリアには厄介なのが埋まってるね。知ってたのかい?」
「ここが都市化する以前のことは、あまり・・・次の事故が起こる前に、文献を調べ直す必要がありそうです」
厳しめの締まった声色が、ペストマスクの奥から響く。
ふたりからやや離れて歩きながら、サンタミカエラは、横目でキリエを見る。
暗闇の時は可視出来なかった、艶やかな黒髪。透けるような純白の肌。純黒の衣服が、一層それを引き立たせている。そして、無限の煌きすら感じる、赫の瞳。
視線に気が付き、キリエの眼が向いてくる。宙で絡む、眼差し。
どき、と、心臓が跳ねる。そして、早鐘を打ち始める。
サンタミカエラは、ごく、と生唾を飲む。
「・・・大丈夫よ。言われなくても、誰にも話さないから」
滑らかに、少し安堵すら感じ取れる口調で、彼女が言葉を放ってくる。
む、と支えるような反発を覚え、即座に喋り返す。
「てやんでェ、話すなとか、んなこと言ってねェだろ?」
「私は話さないけど、貴方が誰かに話したければ、任せるわ」
発言に安らかな、凪の如き安寧。唇の端に、落ち着いた微笑。
そう言うと、キリエは再度進行方向に目を向けた。
一通りそれを凝視し、サンタミカエラも、改めて前方に顔を据える。彼女に察知されないように小さく口端を歪め、聞こえないように短く舌打ちをする。
(誰にも話せるかよ・・・)
暫く、そのまま進行し、途中で振り向いてみる。かなり離れた救出場所を網膜に焼き付け、隣のキリエに目線を繋げ、また前に視界を位置させた。
自分の裡に根付いた想いを、解析してみる。
すぐに、理屈は解った。
(こんな・・・大事なこと・・・)
頬が、薄紅に染まる。
言葉にすることは出来まい。いや、したくない。それで軽くなってしまうかも知れなかったから。
遭難から日常への帰還を果たした、この日を最後に。
サンタミカエラは、暗闇に怯えることはなくなった。
キリエの行為が、慈しみが、赫い瞳が、それを上書きしたのだった。
「キリエ~吸血聖女~」二次創作小説【 遭難:了 】