★ 【回想】(二週間前)太平洋上・太平洋郵船会社客船
晴天の真昼。
四方八方見渡しても、雲はなく、360度の大海原。
巨大な外輪船が、威風堂々とした雰囲気で、太平洋を西へと進路を取っている。
3本の大きなマスト、太い煙突、両脇の巨大な外輪のパドルが水を掻き進行。
最後尾のマストには『Great Republic』と書かれた旗が、風に靡く。
その一室、甲板の一階層下にある、二等船室。
簡易ベッドでほぼ埋められた、簡素な部屋。丸窓から外は、海面が延々と広がっている。
そのベッドに腰を下ろし、仕込み傘の点検をしているキリエの姿。
弾倉の入っていない状態で、ガシャ、ガゴッ、とリロードの動作を繰り返している。
足元には、黒塗り、革張りのトロリーケース。
突然。
部屋全体を、異様な気配が駆け抜ける。
ぞわっ!・・・と、背筋に猛烈な悪寒を覚え、思わず肩を窄めるキリエ。
目の端に船室の丸窓が捉えられた、途端。
窓枠の内側、船の外が、暗転。
キリエ、ハッ!とそれに気が付き、傘を持ったまま、軽やかな動作で丸窓へと近寄る。
ガラス越しの向こうは、何も見えない。
ただ、純黒。
鏡のように、丸窓に自分の顔が映っている。
キリエ「(驚いた様子)夜?・・・え?」
しかし、星も月も見えていない。
黒い紙を貼り付けたような、無地があるのみ。
眉間に皺を作り、じっ、と目を凝らすキリエ。
数秒後。
シャッターを開けるように、急に視界が戻る。
ガラスを通した外は、雲で埋め尽くされた昼間の空と、深い蒼の海。
キリエ、眉を寄せたまま、窓を覗いている。
キリエ《何だったの、今の・・・》
首を傾げながら、振り返る。
ベッドが部屋の反対側に、ある。幅も大きな物になっている。
船室が、広い。内装も、先程とは打って変わった、見慣れない調度品の数々。
目を見開くキリエ。
キリエ《部屋が・・・違う! さっきまでの部屋じゃない!》
床に横になっている、自分のトロリーケースを発見。
即座にそれに跳び付き、パチン! パチン! カパ、と蓋を開く。
床板の上で、貝が口を開けるように、左右に展開するケース。
持ってきた衣類が、綺麗に折り畳まれている。
それを片寄せ、二重底になっている板を外す。
二丁のトップブレイク式拳銃、仕込み傘のカートリッジ、そして隙間なく詰め込まれた浄銀弾の箱。
ほおっ、と少し安堵した吐息を漏らすキリエ。
キリエ《トロリーケースはそのまま。中も変わってない・・・》
そして中から、長い弾倉を取り出し、ガシャコ、と傘の柄に挿入するキリエ。
バタン、とトロリーケースの蓋を閉め、カチ、カチ、とロックを掛ける。
それから仕込み傘を下げ、様子を窺いながら、船室の扉を開け、出る。
廊下、突き当たりの階段に達し、そろり、そろり、と慎重な足取りで昇る。
上の階層、甲板に移動。
キリエ、息の飲む。
船の甲板には、3階建ての建屋。客室と、最上階に艦橋がある。
マストが4本に増え、煙突が更に巨大に、太く、朦々と黒煙を吐き出している。
船全体の規模が、以前よりも一際大きい。
そして、特徴的だった船体両側面の推進装置、外輪がない。
甲板を、船の進行方向の横左右に歩きながら、それらの状況を確認するキリエ。
ただ、動きながら、彼女の表情は唖然とした状態。
見上げる建屋の上部、幾人かの人の姿が、欄干辺りに見える。
キリエ、周囲を見回し、上層へ通じていると思しき階段を発見。
すぐに、速足で昇り始める。
2階へ駆けるように上がり、客室の窓が並ぶ回廊のような廊下を進む。
途中で擦れ違った幾名、この二週間の船旅では、見掛けたことがない。
しかし、今まで船の寄港地は、ない。
ざわ・・・と、胸騒ぎを覚えるキリエ。
船尾が見える場所に到達。
欄干に縋るような仕草で寄り掛かり、そこから近くのマストを見上げる。
後ろから2本目のその天辺に、三角のペナントのような旗が風に翻る。
じっ、と旗を凝視するキリエ。
白い旗に書いてある文字は『Mongolia』。
キリエ《(ごく、と唾を飲み込み)・・・文字が違う・・・船の名前?》
その、少し後。
船乗りの格好をした初老の男性が、キリエの背後を通り過ぎようとしている。
左手にはモップを下げ、右手で自分の顎髭を軽く撫でている。
この客船の水夫と思しき人間。
それに気が付き、踵を返しながら身体を向けるキリエ。
キリエ「あの、ちょっと聞いていいかしら」
水夫「(立ち止まって)はい、何でしょうか?」
キリエ「(旗を指差し)あの旗って、出航の時から同じ?」
水夫「(頷いて)ええ、特に替えてはいない筈ですが?」
キリエ「『グレートリパブリック』って書いてあった気がするんだけど・・・」
水夫「(首を左右に振って)いえいえ、『モンゴル号』ですから、あの旗で合ってます。それに『グレートリパブリック号』って、随分昔に難破して廃船になった船ですよ?」
キリエ「(驚いて)難破!?」
水夫「確か・・・(少し思い出す仕草で)35年くらい前に、コロンビア川のサンド島でした。他社に売却された後でしたけどね。(キリエに視線を注いで)お客様、よくそんな古い船をご存知でしたね。お好きなのですか、船」
キリエ「(言い澱んだ口調で)え・・・ええ・・・まあ・・・」
目線を少し泳がせ、再びマストの頂点に視界を移動させるキリエ。
何度見ても『Mongolia』としか読めない。
暫くの、後。
水夫が、穏やかな笑みを浮かべて、キリエの横顔を見る。
水夫「では、引き続き良い船旅を」
そして、ペコリ、と会釈する水夫。
キリエ、目線を戻し、釣られたように、ペコリ、と小さく頭を下げる。
その後、水夫が立ち去る足音を耳にしながら、暫くの間、立ち竦む。
長い、間。
何かを思い起こしたように、欄干から離れ、元来た方向へと速足で移動。
階段を降り、甲板を経由し、擦れ違う船客には目も呉れず、自分の船室へ。
床の寝そべるトロリーケースの横に屈み込み、パチン、パチン、と開錠する。
パカ、と蓋を開け、その裏側にあるポケットのひとつに右手を突っ込む。
すかさず、中から引き出す四角い厚手の紙片。
目にした途端、一度息を抑えるキリエ。
キリエ《切符も形と大きさが違う! それに・・・日付が・・・》
切符の印刷面を、視線でなぞる。
茫然とする、キリエ。
キリエ「(微かに震える声)1915年6月・・・ジャパン、ヨコハマ行き・・・」
僅かの、後。
一瞬で、さーっ・・・と、キリエの顔から血の気が引く。
キリエ「(驚愕)43年経ってる! 何故っ!」
視線を版面に固定したまま、キリエの両眼が正円になる。
切符を持つ右手が、小刻みに震え出す。
キリエ《これは・・・煉獄さんと逆のケース・・・煉獄さんは亡くなった後、40年前のアメリカに来た。時間を遡って転生したような事例・・・それじゃあ・・・(ぞっ、と背筋に冷たい感覚)私も一度何かで死んだの!?》
動悸が、ドクンドクン、ドクンドクン、と急激に強く、速くなる。
幾許かの間、彼女の思考が凍結。
視界が焦点を失い、瞳に暗い影が落ちる。
そのまま、暫く。
更に、暫く。
キリエ、両の瞼を閉じる。
ふううーっっ・・・と、肺の空気を全部吐き出すような、長い溜め息。
そしてゆっくりと両目を開け、切符を改めて凝視する。
キリエ《・・・落ち着きましょう・・・冷静に・・・考えて・・・》
右手の切符を、改めてトロリーケースの内側ポケットに戻すキリエ。
瞳の色は、いつもの沈着さを包括している、透明な赫。
キリエ《まず、命に関わるような事件や事故に遭遇していない。突然窓の外が真っ暗になった後、私と手荷物以外が変わっていた。その時、気も失っていない。意識ははっきりしていた。つまり、死んではいない。いきなり時間を超えて・・・未来に来てしまった・・・ということ?》
驚愕は影を潜め、冷静な表情になっているキリエの顔。
トロリーケースの蓋を閉じ、カチ、カチ、とロックを掛ける。
ケースをベッドの上に放り上げ、仕込み傘を右手に下げ、立ち上がり、静かな動作で扉から廊下へ。
眉を寄せながら、再度甲板への階段を、一歩一歩、踏み締めながら昇る。
キリエ、客船の広い甲板を、舳先へと歩を進めていく。
先頭近くの、1本目のマストの袂付近に、肩幅に両足を広げ、起立する。
曇天の、薄明るい大海原を、波飛沫を上げながら航行していく、蒸気客船『モンゴル号』。
キリエ《(目を細め、凝らし)私自身と手荷物は変わっていない。何故か切符や船は変わってしまった。その原因も、理由も解らない・・・でも、引き返す方法も判らない・・・》
一度、後方を振り返る。
海面に軌道として描かれる、幅広い白波。
既に、アメリカの大陸は、気の遠くなりそうな彼方。
改めて正面に向き直り、遥か遠くまで続く海と、その端の水平線に目を遣る。
キリエ「(きっ、と鋭利な視線で)進むしか、ないわね」
キリエの艶やかな黒髪が、向かい風に舞い踊る。