夜凪景 in 推しの子   作:抹茶れもん

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夜凪景 in 推しの子

 

 現代的なビル群でも、閑静な住宅街でもない。

 それは、人の手によって現在に蘇った江戸の街並み。

 

 

「十年以上前から、ずっと撮りたい映画があった」

 

 

 私は参勤交代を題材とした時代劇のエキストラにアルバイトとして参加し、そして叩き出された。

 レイやルイには悪いけれど、やっぱり私には役者の才能なんて無かったんだと痛感し、それでも……それでも未練がましく佇んでいた、そんな時。

 

 ちょび髭を生やし、くたびれた雰囲気をした長髪のおじさんに呼び止められた。

 

「ま……そんなわけで、今はその為の仲間を探してる」

 

 その人はついさっき、お侍さんに跳び蹴りしてしまった私にアドバイスをくれた人だった。

 彼の助言のおかげで、最後は跳び蹴りをすることなくお芝居ができた。

 結局、追い出されてしまったのだけど。

 

「さっきの芝居は惜しかった。

 お前はその身に余る才能の活かし方を知らなさすぎた。

 だが、そいつを自在にコントロールすることさえできれば、お前はきっと誰もが見上げるような——夜空に輝く星のような役者になれる」

 

 彼は懐から名刺を取り出し、私に見せた。

 

「五反田(ごたんだ)泰志(たいし)。映画監督だ。お前は?」

 

 

 役者に、なれる?

 

 

 オーディションにも落ちて、ついさっき現場からも叩き出された私が?

 俄かには信じ難いけれど……。

 

 でも、目の前の彼が嘘や出まかせを言っているようには見えなかった。

 むしろ、期待に満ちた目をしている。

 

 

 役者。

 ……女優。

 

 

 いつも銀幕の向こう側に在り、決して手が届かないと半ば諦めていた存在。

 

 そんな彼らと同じように、私もなれるのだと。

 そう確信している眼だった。

 

 それは紛れもなく、私自身が画面の奥の彼らに食い入る際に浮かべる瞳。

 人が星に目を輝かせるときに見せる光だった。

 

 目の前の映画監督は、いっそ無邪気なほどに今日初めて会った私のことを信じていた。

 

 

 ——なら、私が彼に応える言葉は決まっている。

 

 

「夜凪(よなぎ)景(けい)。役者」

 

 

★☆

 

 

 中学三年の一月も半ばに近い頃。

 義務教育の終わり一歩手前と言ったところだ。

 

「ふー。これで一旦作業終了、か」

 

 この時期になってくると全国の受験生諸君の文字通り寝る間も惜しんで勉強に追われる姿を一望できる。

 

 だがしかし、俺こと星野(ほしの)愛久愛海(あくあまりん)……いや、この名前を思い浮かべるだけで悶え苦しみたくなる。

 

 ……俺こと、星野アクアに限って言えば話は別だ。

 

 なにせ、俺は俗に言う転生者。

 そして前世は東京国立医大卒のれっきとした医者だった。

 人生二周目の学力アドバンテージは絶大であり、高校受験ごとき赤子の手を捻るようなものである。

 

 そんな俺は、五反田泰志という映画監督に弟子入りのような真似をしている。

 今日も今日とて五反田監督が寄生虫している実家兼スタジオにて、割り振られた映像の編集作業に勤(いそ)しんでいる。

 

 俺の目的は芸能界に潜り込み、そしてそこに居るはずのとある人物の情報を得ること。

 

 元々は役者志望であったが、自分の実力がそれほどでもないことは早い段階でわかってしまった。

 平々凡々、それが俺の役者としての限界だと。

 そんなこともあり、現在は裏方のディレクターあたりを目指している。

 

 しかし、転生者とはいえ俺は未だ中学生の身の上だ。

 現場入りして戦力になれるかと言われれば疑わしい。

 だからこそ監督の指導のもと映画制作の手伝いをしているというわけだ。

 

「しっかし、遅いな監督。

 確か今日は時代劇の撮影手伝いに行ったはず……」

 

 まぁ、撮影にアクシデントは付き物だ。

 色々あって長引いているのかもしれない。

 例えば、素人役者のエキストラが俳優にドロップキックかましたとか。

 いや、さすがにそんなことはないだろう。

 もし居たらそいつは素人通り越してやべぇキチガイだ。

 

 休憩がてらに益体もないことを考えていると、ドバーンッという轟音と共に部屋の扉が開かれた。

 監督のお帰りだ。

 しかし随分と慌ただしい。

 

 そしてドアを蹴破る勢いでダイナミック入室してきた中年映画監督は、セーラー服をきた艶やかな黒髪をした見知らぬ女子学生を連れていた。

 

「おい、喜べ早熟! 掘り出し物を見つけてきたぞ!」

「返してこい」

「なんで!?」

 

 いや、なんでと言われても。

 無精髭生やした40半ばのオッサンが見たとこJCぐらいの少女を自宅兼スタジオに連れ込むとかモロに事案じゃねぇか。

 

 アウトだアウト。

 絵面が犯罪的すぎる。

 

 というか作業場に入るなりキョロキョロと部屋を見回しているこの子もこの子だ。

 最近の女子ってこういうのが趣味——

 

 

「ここが、五反田さんの仕事場なのね」

 

 

 その子が一言発しただけで、一瞬で思考に急停止がかかった。

 

「ッ……!」

 

 なんだ、こいつは。

 視線を惹きつける引力が尋常じゃない……。

 

 

「映画がいっぱい置いてあるわ」

「そりゃあ映画監督の部屋だからな。

 一通り名作は揃ってるし、あんま名は売れてねぇけど見どころのある作品もそこそこ仕入れてある」

 

 

 特別なことは何もしていない。

 ただ、興味深そうに呟きをこぼしているだけ。

 

 

「私、『ローマの休日』が好き。

 あと『カサブランカ』とか、『風と共に去りぬ』とか。

 素敵よね。女優さんが皆(みな)綺麗で」

 

 

 なのに、どうしてここまで視線が吸い寄せられる?

 

 呼吸、姿勢、目線、所作、声量、声質、話し方。

 どれを取っても浮世離れしているようで、しかしそれが自然であるかのように見えてしまう、得体の知れない美しさというものがそこにはあった。

 

「……あんた、一体何者だ?」

 

 ゾクリとした身震いを誤魔化すように、俺は監督が連れてきたその女子に問いかける。

 

 

「夜凪景。役者。はじめまして」

 

 

 ……監督のやつ、掘り出し物って言ってたな。

 そりゃ有頂天にもなるだろう。

 この夜凪という女子から醸(かも)し出されるオーラは、どことなくかつての「アイ」を彷彿とさせる。

 

「あなたの名前は?」

「あ、ああ。すまん。

 星野……愛久愛海(あくあまりん)」

「あくあまりん?

 すごい名前。もしかして芸名?」

「……………いや、本名」

 

 くそっ、これだからキラキラネームは!

 こういう時絶対気まずくなるからデメリットしかねぇ!

 まぁ、アイが付けてくれた名前だからトータルでプラスだけど!

 

「アクアでいいよ。

 というか人前でその本名言われたら狂い死ぬ」

「わかったわ。よろしくね、アクア君」

「まぁ……よろしく。夜凪」

 

 いきなり下の名前……いや、別に気にはしないけど。

 この子、どうにも他人との距離感の測り方が独特だ。

 会話のテンポ感とかが普通とちょっとズレてる気がする。

 

「『あくあまりん』ってカタカナ? それとも漢字?」

「一応、漢字。

 ……『愛してる』の愛に、永久の久、もう一度同じ愛に、海と書いてマリンと読ませる当て字。

 これで、『アクアマリン』って読むらしい」

「そうなのね。

 良い名前だと思うわ」

「いや……別に、変に気とか遣わなくていいから。

 ふざけた名前だってのは、俺が一番よくわかってる」

「? なんで?

 名前に『愛』が二つも入ってる。

 アクア君は、きっととても愛されて生まれてきたのね」

「……まぁ、母親が付けてくれた名前だし。

 俺自身は、別に嫌いとまでは思ってない」

 

 やっぱり変わってるな、こいつ。

 今まで本名を知った奴は、例外なく何とも言えない顔をしたもんなのに。

 こいつは真面目くさった顔でこんなこと言うんだもんな。

 

「おーおー、随分仲良くなんのが早いんじゃねーのか?

 どうした早熟、いつも周りに壁作ってばっかりなお前が珍しい。

 一目惚れでもしたか?」

「そんなんじゃない。

 寝言は寝て言えよ子供部屋おじさん」

「子供部屋おじさん……?」

 

 実家の子供部屋で成人過ぎても過ごしている中年男性のことをそう言うんだぞ、夜凪。

 

「おぉい!? それは言っちゃいけねぇやつだろ! 風評被害だ!!」

「そうだったのね……!」

「事実だろ」

「そうだったのね……!」

 

 この監督もそろそろ親元を離れた方がいいと思うんだよな。

 そんなだからいつまで経っても結婚できないんだよ。

 

「都心に広い実家あると家出るメリットないの!

 クリエイターあるあるだから! 俺みたいな奴結構いるから!」

 

 それはそれでなんかすごく嫌だ。

 

「ったく……まぁいい。

 それにしても俺が驚いたのは本当だぞ。

 お前らどっちもコミュ障で友達いなさそうだからな……早いとこ意気投合してくれたのは嬉しい誤算だ」

「うるせぇよ」

「そうね。

 私、今まで友達いたことないわ」

 

 突然の虚しい過去カミングアウトやめろ。

 

 あと俺は別にコミュ障じゃない。

 話し相手ぐらいちゃんと居るし、必要なら初対面の相手でも臆せず話しかけられるし。

 役者に最も必要とされる能力は結局のところコミュ力だって、あんたに口酸っぱく言われてきたからな。

 

 よって俺はコミュ障ではない。

 

「じゃ、お前らも打ち解けてきたみたいだし。

 ほら、仕事行くぞ」

「今から? 俺聞いてないんだけど」

「言ってないからな。

 CMの撮影だ。

 そこで早速夜凪を使う。お前も一緒に来い早熟」

「ハァ!?」

 

 おいそれ本当に聞いてないぞ!

 今日は映像編集の仕事だけだったろ!

 というか今のところ最初から最後まで俺の予想外の展開しかないんだが!?

 

「お前ももう15だろ。そろそろ現場の空気にもう一度触れとけ。

 裏方やるのも役者やるのもお前の勝手だが、早めにやっとくに越したことないだろ」

「……まぁ、そりゃそうだけど。

 勝手に現場連れて行ってもらっていいのか?」

「だってお前5歳で現場来てたじゃん。

 それに今回お前は夜凪の芝居を観(み)ているだけでいい」

「は?」

 

 どういうことだ?

 『夜凪景』という女優の名前は聞いたことがない。

 てっきり新人だと思っていたが……。

 

「夜凪、お前役者って言ってたけど、芸歴は?」

「ないわ。

 1週間くらい前にオーディションに落ちて、それから今日時代劇のエキストラから追い出されて、五反田さんに連れてこられたから」

「マジかよ」

 

 もしやとは思ったが、やっぱり芝居未経験者じゃねぇか!

 それでいきなりCM撮影?

 頭おかしくなったのか?

 

「じゃあダメだろ。撮影を前から予定してたなら尚更だ。

 監督、あんた夜凪を強引に捩じ込んだのか? 元々オファーしてた女優とか居なかったのかよ?」

「今回は諦めてもらったさ。

 まぁ当然、後で埋め合わせはするつもりだが」

 

 それは、なんというか。

 

「……らしくないな」

「ははっ、そうかもしれねぇ」

「何故そこまで夜凪に入れ込む?」

「観ればわかるよ、お前も」

 

 どうかしてる。

 本当にらしくない。

 こんな、熱に浮かされたような監督は初めて見る。

 まさか、これも夜凪の影響か……?

 

 

「私、今までただ昔の自分になることをお芝居なんだと思ってた。

 だから知らない感情は演じられないと思ってた」

「……夜凪?」

 

 

 部屋の棚にある映画を物色していた夜凪が、いつの間にか俺を見ていた。

 しゃがんでいるからか、俺を見上げるような姿勢になっている。

 真っ直ぐに目を合わせる夜凪の瞳に、吸い寄せられるような自分を俺は感じていた。

 

 

「でも違った。

 今日まで私は私がこんなにも酷い人間だったなんて知らなかった。

 私の中には、まだ私の知らない私がたくさん眠っているんだわ」

「……」

「私、もっと知りたい。

 役者でいたい。

 役者でいなくちゃならないの。

 だから……アクア君にも手伝ってくれると、とっても嬉しいわ」

 

 

 ……ったく、業界人っていうのはどいつもこいつも。

 手間ばかり掛かるじゃじゃ馬だらけだ。

 それでいてどうにも放っておけないのがなお性質(タチ)が悪い。

 

「わかった、わかったよ。

 俺も付いて行く。これで良いな?」

「ほんと!? ありがとう、アクア君!」

「いやなんでお前がそんな喜んでんだよ。

 俺が居ても観ているだけだぞ」

「私、思い返してみれば観客の前でお芝居をしたことがなかったのよね。

 だからアクア君が見ててくれるなら、がんばろうって気持ちになりそう!」

「そういうもんか……?」

 

 ……夜凪は少々変わり者だと思うが、素直で良い奴だと思う。

 だが、俺はどこかこいつに危なっかしいものを感じている。

 絶対、近くで見張ってないと色々やらかすタイプだ。

 アイとかがそんな感じの危うさを持っていた。

 

 だからこれは、俺の自己満足的な不安解消のため。

 そのために付き添う、ただそれだけの話だ。

 

「うし、話はまとまったな? んじゃあ早速出発だ。

 夜凪、気合い入れていけよ」

「がんばるわ」

 

 ふんす、と気合い十分なアピールをする夜凪。

 俺は一抹の不安を抱えつつ、彼女と共に監督のワゴン車に乗り込んだ。

 

 

★☆

 

 

 日も落ちてきた夕暮れ時。

 俺達は撮影現場に到着した。

 

「……懐かしいな」

 

 現場に顔を出すのは久しぶりだ。

 まだ俺が無邪気に『星野アクア』の才能を信じていた頃に出入りしていた場所。

 分不相応な夢を見たそこには、相も変わらず特有の異様な熱気が充満していた。

 

「アクア君、どうかした?」

「いいや、くだらない思い出に浸ってただけだ。気にするな」

「そう? なんだか寂しそうにしていたから、気になって」

 

 変なところで鋭い奴だな、お前。

 しかし……寂しそう、か。

 

 俺は、目前に鎮座しているキッチンセットに目を向けた。

 これから夜凪が立つ芝居の舞台。

 俺はまだ、あの場所に焦がれているというのだろうか。

 

 いや、違う。

 無駄な感傷も感情も、全部置いてきたはずだろ。

 こんな無駄で余計なもの、今の俺には必要ない。

 俺にとって役者なんて手段の一つに過ぎないのだから。

 目的を履き違えるなよ、俺。

 

「夜凪。打ち合わせ始めるぞ」

「あ、五反田さん」

「今回はシチューのウェブCMの撮影だ。

 テーマは『父親のために初めてキッチンに立った娘』。

 初めて料理をする娘が、仕事から帰ってくる父親のために慣れない手つきでシチューを作り、喜ぶ父親の笑顔を思い浮かべながら、味見をして顔を綻(ほころ)ばせる……こんな感じだ。

 良い演技期待してるぞ、夜凪」

「…………わかったわ」

 

 良い演技、ね。

 監督があそこまで入れ込むほどの芝居か。

 俺もこれで製作の端くれだ。

 それがどれほどのものなのか、興味がないと言えば嘘になる。

 

 シチューの販促CM。

 『父親のために初めてキッチンに立った娘』ってことは、娘がいる父親がターゲット層か。

 

 夜凪のやつ、不器用そうに見えるけどちゃんと料理できるのか?

 いや、演じるのは料理初心者の娘役。

 なら料理の腕なんて最初から求められていない。

 シチュー自体は後で別撮りして一本化すれば良いし。

 

 台本がないのは初心者だからか、時間が無いからか。

 それとも夜凪の演技とやらをより映えさせるためなのか。

 

 まぁ、何にせよ。

 まずはお手並み拝見といこうか、夜凪景。

 

 

「カァァァット!!!!」

 

 

 そう思っていた時期が俺にもありました。

 

「おいコラ何やってんだ夜凪ィ!

 達人かお前! 真剣にやれ!!」

「し、真剣よ! 味見してみる!?」

「『真剣に作れ』って意味じゃねぇよ! 真剣に演じろバカタレ!!」

 

 夜凪はプロ顔負けの手捌きで見事に超美味しそうな模範的家庭シチューを作り上げていた。

 ほかほかと上がる湯気と共にまろやかな香りがスタジオ中を満たし、夕食時ということもあっていやに食欲をそそる。

 ここが料理教室なら100点満点の太鼓判を押すところだ。

 

 だがしかし、ここは撮影現場だ。

 求められるのは美味いシチューではなく、上手い演技。

 監督の演出やクライアントの意向に沿えないのであれば、その役者は文字通りただの役立たずだ。

 

 同じことを思ったのか、製作サイドも難色を示している。

 ……クライアントとか露骨に文句言ってるし。

 スタッフ間に流れる空気もピリついてきている。

 悪い空気だ。

 

 ……ここからどう巻き返す気だよ監督。

 このままじゃ夜凪ともども信用失墜の大ピンチだぞ。

 

「あのなぁ、夜凪。

 お前にとって芝居は何だ?」

「……思(・)い(・)出(・)す(・)こ(・)と(・)?」

「わかってるならその通りに演(や)ればいいだろ。

 初めて親父に料理を作った日のことを思い出すだけでいい」

 

 は? 思(・)い(・)出(・)す(・)?

 何言ってんだ監督達は……。

 

 いや、そういえばさっき夜凪がそんなことを言っていたような。

 それに、監督の下で何年も仕事の手伝いをしてきて得た知識の中に、それらしいものがあったはずだ。

 そう、確か——。

 

「『メ(・)ソ(・)ッ(・)ド(・)演(・)技(・)』。

 その役を演じるために、役の感情と呼応する過去の自身の記憶を追体験する演技法。

 カチンコの合図と共に過去に戻り、カチンコの合図と共に現在に戻ってくる。

 それがお前の……夜凪景の芝居だろ」

 

 メソッド演技!!

 

 そう、それだ。

 役に深く没入し、迫真の感情演技を魅せる異能にも似た演技法!

 

 メソッド演技ができる役者はごく少数に限られる。

 小手先の表現技法では辿り着くことができない領域の芝居を可能にする絶技。

 だが深く過去に潜る必要のあるこの演技法は、時に自己と役の境界を曖昧にし、戻って来ることができない者も後を絶たないとされる、諸刃の剣。

 

 ハイリスク、しかしハイリターン。

 それがメソッド演技という演技法。

 

 ……残念ながら、俺には夜凪がそれを使いこなしているようには見えないが。

 そもそも、役に入ることすらできていないんじゃないか?

 

 またしても不安が鎌首をもたげる。

 やっぱり、こんな急造の撮影は強引にでも止めておくべきだったか……。

 

「そんだけ料理が上手ぇなら一回くらいは親父に振る舞ったことがあるんじゃねぇの?

 今必要なのはそれを思い出すだけだろ。

 お前にとってそれぐらい簡単なことじゃねぇか」

「…………私、今まで一度も父親に料理を作ったことがないわ。

 だから、戻るべき過去がないの」

「あー、そういうパターンねぇ……。

 んじゃ、どうすっかな……」

 

 …………父親、ね。

 どこもかしこも碌なものじゃないらしい。

 或いはそういう星の下に生まれた奴らが、勝手に引き寄せられてるだけなのか。

 

 俺達の父親だってそうだ。

 アイを孕ませて行方知れず。

 挙げ句の果てには——

 

 ……はぁ、仕方ない。

 乗りかかった船だ、ちょっと助太刀してやるか。

 

「別に、父親じゃなくてもいいだろ」

「え……?」

「母親でも、兄でも姉でも弟(おとうと)妹(いもうと)でも何でもいい。

 とにかく、お前が初めて誰かに料理を作った記憶を思い出せ」

 

 何も、無理に父親のためというイメージにこだわる必要はない。

 そもそもこの場に居る誰一人、夜凪が誰の為に料理をしているかなんて気にしていない。

 

「初めて、料理をした……思い出」

「そうだ。

 今、この場でお前に求められているのは『愛』だ。

 監督は、誰かのために直向(ひたむ)きな努力を厭(いと)わない、夜凪景という女の愛情が観たいんだよ」

 

 何年同じスタジオで雑用やってると思ってんだ。

 監督の撮りたい画ぐらいコンテを見ずとも手に取るようにわかっている。

 

「言っておくが、俺はまだお前のこと認めてないからな。

 ……だから本気で演(や)れよ夜凪景。

 俺も、お前の芝居(愛)を観てみたい」

「私の、愛情……」

 

 夜凪は、ポツリと反芻するように呟いた後、目を閉じ顔を伏せ——

 

 

『カレーライスだったわ』

 

 

 役に入(・)っ(・)た(・)。

 カチリ、とスイッチが切り替わるように現場の雰囲気が一変する。

 

「ッ……!」

「おい、カメラ回せ!」

 

 監督が小声で撮影スタッフに指示を下す。

 その隣で、俺は小さく身震いした。

 先程まで夜凪に不信感を抱いていた空気が、一瞬で霧散してしまったように感じたからだ。

 

 ただ、夜凪が一言発しただけだというのに。

 

 

『ずっと料理を作ってくれてた人が、突然いなくなって。

 ルイとレイも毎日泣いていて』

 

 

 その演技は静かだった。

 しかしそれ以上に、演技を観た者全てを釘付けにする。

 そんな、剥き出しの感情に脳髄を揺さぶられるような、強い芝居。

 

 

『私は2人に笑ってほしくて。

 お母さんがよく作ってくれたカレーを作ろうと思って。

 包丁なんて初めて持ったから、2人とも心配そうに私を見ていて』

 

 

 発声もまだ甘い、粗のある演技だ。

 だが、そんな些末事(さまつごと)は誰も気にしていなかった。

 なぜなら覚束(おぼつか)ない手つきでシチューを作る夜凪を見るだけで、その鮮烈でそれでいて純粋にも感じられる芝居の虜にされてしまうから。

 

 

『子供みたいに不器用に……』

 

 

 夜凪は危なっかしく玉ねぎを切っていく。

 そして、なんの躊躇も見せず、自然に指を包丁でざっくりと切っていた。

 

 ……正気じゃない。

 一体、どんな経験を積めばこんなキチガイ染みた演技ができる?

 

 

『とても痛かったけど、2人が泣くといけないから。

 笑って誤魔化したの』

 

 

 必死に痛みを堪え、それでも弟妹を心配させじと無理に浮かべた微笑。

 滲(にじ)み出した血を舐めとる仕草。

 まるで夢を見せられているような、現実と入り混じるような究極の演技。

 

 それを観て、俺は。

 

 俺は……知らず知らずのうちに、掌(てのひら)に爪が食い込むほど拳を握りしめていた。

 

 

 人生で初めて、迫真の『芝居』に魅了された。

 

 

「……味は?」

 

 唯一、呑まれきっていなかった監督が夜凪に問う。

 夜凪はそれに、慈しむような笑みを湛えてこう言った。

 

 

『コゲて苦くて、皆で笑っちゃった』

 

 

 カットがかかり、しかし数秒誰も身動きが取れなかった。

 

 そして綻ぶように、誰かがパチパチと拍手をしたのを皮切りに、現場の皆が喝采(かっさい)を上げて夜凪の演技に賞賛を送った。

 

 

「え、えっ。えっ!?」

 

 

 芝居の解けた夜凪は年相応の少女のようで、無数の拍手にやや混乱しているようだった。

 だがすぐに頰を紅潮させ、はにかむような笑顔を見せた。

 

 

 ……彼女の笑顔を、俺はそこで初めて見た。

 

 

 それは、夜空に浮かぶ満天の星空を思わせるような、美しい笑顔だった。

 

 

★☆

 

 

 帰りのワゴン車の中で俺の隣の席に座った夜凪は、今日の撮影で撮った素材を何度も何度も繰り返し、食い入るように眺めていた。

 

 今、俺達が向かっているのは『苺プロ』。

 俺が所属している事務所だ。

 監督曰く、五反田スタジオより手広く事業をやっている苺プロに夜凪を預けた方が何かと融通が利いて便利なのだとか。

 

 というかまだ雇用契約してなかったのかよ。

 いいのか、そんな状態であんな暴れ回って。

 

 ……ま、いいんだろうな。

 クライアントもプロデューサーも満足していた。

 良い仕事をしたと、認めてもらえたということだ。

 

「夜凪」

「何かしら」

「いや、初仕事の感想を聞いとこうと思ってな」

 

 監督の声に一瞬顔を上げた夜凪は、再び映像の中の自分に視線を落とした。

 

 

「驚いたわ。

 私って、思っていたより綺麗なのね」

 

 

 ……ああ、そうだ。

 夜凪の演技は美しかった。

 いっそ、恐ろしさすら感じるほどに。

 

 

「皆が笑って、拍手してくれて。

 あんなの初めてだった。

 まるで——夢を見ているみたい」

 

 

 手放しの賞賛。

 万雷の拍手。

 

 これは麻薬のようなものだ。

 一度、芝居の喜びを垣間見た人間はもう止まれない。

 

「そりゃあ良かった。

 お前を口説(くど)いた甲斐があるってもんだ」

「うん、ありがとう五反田さん。

 私を見つけてくれて」

「はっ、だがこんなもんで満足してもらっちゃ困るぞ。

 お前はもっと上に行ける」

 

 芸能界には、数えきれないほどの才能が集まる。

 

 凡人の何倍も努力ができる秀才も。

 決して真似のできない天才も。

 そしてその中でも、稀に凡人はおろか秀才や天才と呼ばれる人間ですら及びもつかないような、まさに神に愛されたかのような『本(・)物(・)』が現れる時がある。

 

 夜凪の演技を観て確信した。

 

 こいつは……俺とは違って。

 どうしようもなく、『本(・)物(・)』ってやつなんだろうと。

 

「思いっきり遊べよ、夜凪。

 芸能界(この世界)は、決してお前を飽きさせねぇ」

「うん!!」

 

 監督の心底楽しそうな笑顔がバックミラー越しに伺える。

 と、鏡に映った監督と目が合った。

 

「……何だよ」

「いや? べっつに〜?」

 

 くそ、言いたいことがあるならハッキリ言えよ。

 気持ち悪いニヤケ面すんな!

 

「あ、そうだった。

 私、アクア君にまだお礼を言っていなかったわ」

「え? あ、ああ……さっきのアレか?

 別に、あれは何となく口出しただけで、どうせ監督が似たようなこと言っただろうし。

 特に礼とか言われるほど、大したことはしていない」

「ううん、それでも……あの時私を助けてくれたのはアクア君だから。

 ちゃんとお礼を言いたいの

 お礼を言わせて」

「……」

「ありがとう、アクア君。

 アクア君のおかげで、私は今まで以上にお芝居のことが好きになれた」

 

 夜凪はそう言って、俺の手を両手で包み込むように握った。

 吸い込まれるような宵闇の瞳が、俺の顔を真っ直ぐに見つめている。

 

 

「だから、ありがとう」

 

 

 ……こいつは、本当に。

 嫌になるほど画になるな、全く。

 

「くくっ、ははははは!」

「……何だよ」

「いや、すまんすまん。なんかめっちゃ面白くてつい」

「オイ」

「ところで早熟。今日、わざわざお前をこの現場まで連れてったのは何でだと思う?」

「……さぁな」

 

 思えば、俺は今もぎゅーっと手を握りしめてる夜凪に些細な口出しをしただけで、本当に撮影を見ていることしかしていなかった。

 てっきり何か面倒臭い雑用でもさせられると身構えていたのだが。

 

「ククク……俺はちゃーんと見てたからな?

 夜凪の演技を観てる間、お前が悔しそ〜うに拳を握りしめてるところをなぁ〜?」

「なっ……!」

 

 違う、あれは別に悔しかったとかじゃない。

 第一、俺はもう役者の道なんてとっくに諦めて——

 

 

「まぁ聞け。

 役者ってのはどこまで行っても獣みたいなもんだ。

 言い聞かせて、取り繕って、自分の本心に蓋をして。

 その程度じゃ納(おさ)まり切らねぇ。

 自分より遥かに格上の演技を観て、条件反射でどうやってこいつの芝居を喰ってやろうかと考えちまう」

「……そんな、ことは」

「良い加減素直になれよ、アクア。

 役者やりたいんだろ? 顔に書いてある。

 一度や二度の挫折で日和(ヒヨ)ってんじゃねぇ。そういうセリフは使える武器(もん)全部使ってから吐きやがれ。

 凡人面するには十年早えーよ」

 

 

 監督は真面目くさってそう言った。

 ……くそ、おかしいな。

 いつもなら適当に茶化して、煙に巻いてしまえるっていうのに。

 今は、その言葉がどうにも心に重くのしかかる。

 

 夜凪の演技を観て。

 俺は、心が震えてしまった。

 

 こいつの抜き身の刃のような凄烈な感情表現は、それこそ観ている者の奥底に封じたと思っていた感情さえ、剥き出しにしてしまえるのか。

 もしかしたら、監督もこれに当てられたのか。

 

 はっ……だとしたら、こいつはとんでもない人(・)た(・)ら(・)し(・)なのかもな。

 

「アクア君」

「……何だよ」

「アクア君って、役者じゃなかったの?

 てっきり、私これからアクア君と一緒に映画とか撮影していくんだと思っていたのだけど」

 

 それは幻想を抱きすぎだろ。

 俺と夜凪じゃ釣り合いが取れるわけがない。

 瞬(またたき)きほどの小さな星が、漆黒の夜空に輝きを呑まれるのは自明の理だ。

 

「私は、アクア君がやりたいようにやるのが良いと思う。

 けど……もし、アクア君と一緒に、これからお芝居ができたなら」

 

 だけど、ああ。

 もし、辛いことも何もかも全て捨て去って。

 こいつの隣で……思い切り芝居ができたなら。

 

 

「きっと、それはとても楽しいと思う」

 

 

 ああ、きっと、そうなんだろうな。

 その生き方は、きっと幸せで、とても楽しいものなんだろうな。

 

 でも、ダメなんだよ。

 

 俺の脳裏には、まだあ(・)の(・)日(・)の鮮血(光景)がこびりついている。

 

 いつも、いつも、いつまでだって。

 あの日の後悔を忘れることは一生あり得ない。

 後悔が、きっと俺を離さない。

 

 アイをあんな目に遭わせたやつが、この世にのうのうと生きているっていうのに。

 

 

 どうしてそいつを放っておいて、俺だけ幸せ(楽)になれるだろうか。

 

 

「……ま、夜凪の言う通り最終的にどうするか決めるのはお前だよ。

 だがな、一(・)度(・)し(・)か(・)な(・)い(・)人生だ。

 どの道に進もうと勝手だが……後悔のない選択をしろよ」

「……ああ。

 俺は、俺のやりたいようにやるだけだ」

 

 俺の内心がぐちゃぐちゃになってしまっているのを察したのか、監督は深く溜め息を吐きながらそう言った。

 ……悪いな。

 俺はどうしても、止まるわけにはいかないんだよ。

 

「とはいえ、現状お前は俺の弟子だっつーことには変わりねぇ。

 だから師匠として、お前に新しく課題を振ってやるよ」

「課題?」

 

 いつしか車は停まっていた。

 そこは既に見慣れた苺プロの事務所前だった。

 

 そして監督もまた、真面目な話もお開きだと言わんばかりにニヒルな笑みを浮かべ、親指で夜凪を差して宣った。

 

 

「アクア、お前を夜凪の『教(・)育(・)係(・)兼(・)お(・)目(・)付(・)け(・)役(・)』に任命する!!

 喜べ早熟、お前好みのツラが良くて魅力と才能溢(あふ)れる女のお守りだ。

 ま、とりあえずドラマ撮影に2人セットでブチ込んどいたから、そういう方向で頼むわ。

 せいぜいこいつをこの国トップの女優に育ててやってくれ。

 期待してんぞ、早熟」

「……………は、はぁ!?」

「あら、ということはまだ一緒にお仕事できるの?

 じゃあ改めてこれからよろしくね。アクア君」

「はあぁぁぁーーーー!!!!?」

 

 

 それ結局役者やることになるじゃねぇかよ!!!

 さっきまでの俺のシリアスな葛藤を返しやがれ!!!!

 

 そんな言葉にならない俺の魂の慟哭(どうこく)は、星の瞬(またたく)く夜空の彼方に吸い込まれてゆくのであった。

 

 

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