艦隊(Re)これくしょん ~ 白杜太一は艦娘たちの指揮を執るようです ~ 作:IronCat
~帰還~ 1
2012年12月上旬・・・某日、現地時間0930頃。
北緯21度19分50秒、西経158度24分44秒・・・ハワイ、オアフ島南西の洋上に、白い航跡を残しながら1隻の艦艇が西に向かって航行していた。
全面鼠色の艦体に甲板には白い線塗装、艦首にぶら下がった主錨の脇には3508の艦番号、そして艦尾にはためく朝日のような紋様の艦旗・・・日本の海上自衛隊所属の練習艦〈かしま〉である。
〈かしま〉はこの日、多数の次期幹部を乗せ数ヶ月に及ぶ遠洋航海の最終寄港地であるパールハーバーを出港し、母国へと進路を向けたところであった。いよいよ日本に帰れるとあって、艦橋で船を運航する乗員たちの顔も明るい色に染まっている。
「いやぁ、土壇場で計画が変更されたときはどうなることやらと思ったが、なんとかここまできましたねぇ」
針路を見定めるため羅針盤を睨みつけていた航海長が顔を上げ、ニカッと歯を見せる。その顔は寄港地での上陸の成果か、真っ黒に日焼けしていた。
それと対照的に生白い顔でゲンナリとした表情を見せるメガネの幹部に、航海長はテカテカと擬音が聞こえる笑顔を見せた。
「どうしたどうした。覇気が無いなぁ、船務士」
「・・・いえ、ちょっと翻訳に手こずってまして」
「課題のやつか?」
「はぁ」
「いっぱい人いるんだし手伝わせればいいだろぉ?」
「米軍からの情報はそういう訳にもいかなくて・・・」
練習艦〈かしま〉とその僚艦には航海長の言うように次期幹部となる者たちが多数乗艦している。彼らが人手として使えれば確かに多少の量の翻訳作業はものの数ではないだろうが、あいにく現在船務士が取り組んでいる内容は、まだ自分の専門分野もわかっていない幹部候補たちには聞かせられない、米海軍の行動内容を含んでいた。
「なら、自分でやるしかない。仕方ないねぇ」
話はこれで終わりだと言わんばかりにバッサリと切り捨てられる。船務士はついにため息をついた。忌々しそうにバインダーに挟まった分厚い書類を、机の上の航海日誌の脇に放る。
彼らが今話していた「課題」とは、もちろんそのままの意味ではない。今まさに遠洋航海に出港しようという段階で、強引に上からねじ込まれた情報収集の指示であるということ、そして練習艦という〈かしま〉の特色から自然に生まれた一種の隠語である。
実は、ここ数年、世界各所の海で大小問わず海難事故の発生件数が急増していた。単なる転覆や座礁と思われる事故、航海中針路を見失って一時行方不明、嵐も無い凪の海域で謎の沈没など。そのまま乗組員ごと港に帰ってきていない船も少なくない。日本の領海においても、緩やかではあるが同様の傾向が見られると分析され、運輸省を始めとする海に関係する各省庁に警戒の呼びかけがあったのだった。
それが今年、2012年の4月であり、海上自衛隊もその呼びかけに応えて独自の情報収集に動き始めた。それがつまり〈かしま〉に課せられた課題、遠洋航海の期間及び航路を変更し、太平洋沿岸諸国を巡って現地海軍や沿岸警備隊から海難事故に関するもろもろの情報を収集せよ、という指示であった。ちなみに、日本としてのライフラインと言えるアラブ諸国への航路についても、ソマリア沖、アデン湾への派遣部隊が同じ指示で帰路の途中に情報収集をしているはずであった。
船務士の様子に、艦橋の一番右に設えられた席に座っていた艦長が体を起こす。温和そうな白いものの混じった眉と皺の刻まれた口元に苦笑が浮いていた。
「まあまあ、そんなに腐るな。情報収集は常に細かなものの積み重ねだよ・・・ほら、見せてみろ」
そう言って手のひらを上にして船務士に向かって手を伸ばす。若干躊躇したが、船務士は「すみません」と恐縮しながらバインダーを艦長に手渡した。
「なになに・・・深海から・・・隠れた船・・・白い、亡霊の・・・艦隊・・・? なんだこれは。事情聴取の内容も入っているのか」
「仔細まで報告しろとのことでしたので・・・」
「彼らはモビーディックとでも遭遇したのか」
艦長は興味深そうに用紙をめくり続けていく。
中には明らかに乗員や機器の故障が原因と思われる事故もある。だが、船体に残された傷や複数の証言を合わせると、海の上、あるいは海中で何かと遭遇したとしか思えない状況も同じくらい存在していた。そして、それらに共通しているのは・・・
「・・・直前に機器が故障したという証言が多いな」
「事故後の調査で正常に稼働したものもあったらしいので、責任逃れの可能性もあるかもしれません」
「それにしたって、G−SHOCKは壊れんだろう」
左手で顎をこすりながら唸るように言う。日焼けした手首には、孫から貰ったと照れくさそうにいつも着けている年季の入った腕時計がはめられていた。
「他に何か、気象条件とかの共通点は無いか?」
「特には・・・時刻もまちまちですし、ああそうだ」
艦長の言葉に、ふと思い出したように船務士は眼鏡を直した。
「時間がまちまちなのに、海や空が赤かったという内容の証言は多かったですね」
「朝夕ではなく?」
「はい。時間の記憶違いにしては数が多いので気にはなりました」
「過去に、荒天の予兆として同じような気象現象が起きたことはあったのか?」
「気象長に調べさせます」
船務士はバインダーを返されると、艦橋の後ろにある電話の方へと足早に去っていった。一息ついて艦長は椅子に座りなおす。
「赤い海・・・。まさか・・・ねぇ」
もう一度顎をこすり、そして何かを思い出したように「ああ」と呟いて首を捻った。
「おぉい、姐さん。そう言えば、君も確か赤い海を見たことがあったと言ってたよね」
「え?」
艦長が振り向いた先で、熱心に双眼鏡を覗いていた女性幹部が驚いたように顔を上げる。両手を下ろし体ごと艦橋の内側に向き直った。
そこにいたのは、まだ若い女性であった。おそらく実習で乗っている次期幹部の一人なのであろう。背筋を伸ばすと女性としては長身で、先程の船務士とほぼ変わらないか、もしかしたら少し高いかもしれない。だが、いかついという雰囲気は無く、スラリと伸びた手足となだらかなカーブを隠し切れていない身体つきはたおやかで、彼女の周囲だけ空気が和らいでいる様に錯覚するほどである。
髪は黒く、おそらく長いのだろう。今は後頭部にまとめられていて、部隊帽の後ろからお団子状に飛び出している。化粧っ気が薄く、自然体だが整った顔立ちにはそれ以上の付け足しは必要無いと思われた。唯一、少し太目の眉がアクセントになっていたが、世の9割の男性はそれが彼女の魅力の1つであると考えられるくらいには調和していた。
今、その顔は突然声をかけられたことに驚き、愛嬌のあるびっくりまなこの表情を浮かべている。唇が開き、聴き心地の良いトーンの声がこぼれ出した。
「私ですか? 何の話でしょうか」
「以前、面接したときだよ。姐さん、よく夢を見るんだっていってたじゃない」
「・・・ああ!」
艦長に姐さんと呼ばれた若い女性幹部が笑顔になる。とたんに、艦橋内の全部の空気が和らぐ気配がした。華やかではないが、どこか安心する、素朴な佇まい。
彼女が「姐さん」と親しみをもって呼ばれるのは、その雰囲気に理由があった。同期の女性隊員から姐さん姐さんと自然に頼られる様になり、男性同期にすら呼ばれる様になり、遂には〈かしま〉乗員にも知れ渡って、艦長の耳にも届いたのであった。以来、〈かしま〉内では「姐さんが〜」と話せば誰でも彼女の事とわかるようになってしまった。
その、穏やかな雰囲気のまま「姐さん」は言葉を続ける。
「それは夢の話だって言ったじゃないですか。本当に見たわけじゃありません」
「でも、何度も見るってことは、よっぽど印象深い体験をしたことがあるってことなんじゃないか?」
「どうでしょうね・・・夢って記憶と違って脈絡無い感じですし」
指先を顎に当て、考え込む。そしてあらそう言えば、と唐突に話題を変えた。
「夢と言えば、私昨日夢みたいな体験をしました」
「ほお」
「上陸中の事なんですが」
そこに、航海長がからかい気味に口を挟む。
「なんだなんだ。舵輪より大きなハンバーガーでも食べたのか?」
「それは夢のある話ですね」
彼女が男性顔負けの健啖家であるのは、その愛称と同じくらい知れ渡っている。それを航海長はからかったのだが、「姐さん」は手を打って喜んだ。
「でも違うんです。昨日、上陸中に神社にお参りに行ったんですけど」
「神社に?」
「はい。帰りの航海と、行方不明になってる方のご無事をお祈りしようと思いまして」
「良い心がけだ」
温和そうな艦長の眉がますます下がる。艦橋内の他の乗員も似たようなものだ。一説にはこの航海中、誰がこの練習艦のマドンナを射止めるかで独身男性乗員間で熾烈な戦いがあったとか。だが、現在のところその勝負は勝者無しで終わりそうな気配である。
そんな裏話はつゆ知らず、彼女は朗らかに話を続けた。
「その際、神社の方から預けられたものがあるんです」
「姐さんに? お守りか?」
「いえ、日本に帰るまで持っていて欲しいと・・・今持ってきます!」
さっと身を翻してドアを抜けて艦内に飛び込んでいく。顔を見合わせる艦長と航海長。一部の乗員は、マドンナを狙う伏兵かと、トンチンカンな心配をしている。
さして時間をかけず、すぐに「姐さん」は戻ってきた。・・・その手に、年季の入ったくすみ具合の黒い袋に包まれた、長大な荷物を手に持って。巧みにするりとドアを抜けたが、明らかに天井に突っかかるほどの長さで斜めに傾けていなければ艦橋内に入らない。その異様な存在感に、艦橋内の雑多な声がピタリと止んだ。
「なんだそれは・・・薙刀でも入っているのか?」
「航海長、おしいです! 答えは弓です」
茶化しがまことになり、航海長も口をつぐんだ。「姐さん」は注目の視線に気がついているのかいないのか、それともあえて無視を決め込んでいるのか。鼻歌でも歌いそうなウキウキとした雰囲気で袋の口紐を緩めた。
そこから出てきたのは、間違いなく弓であった。西洋の弓ではなく、握りの上下で長さの違う日本の長弓である。弦は張られておらず、そのため航海長の言ったように長物に見えていたのだった。
「こちらが預かりものの弓なのですが・・・艦長は弓道をたしなんでおられましたよね?」
「・・・久しく引いていないが」
「良いものなのか、見ていただけますか?」
キラキラと擬音を感じるほどの目つきに促され、思わず「ああ」と頷き艦長席を降りる。「ではお願いします」と片手で手渡された瞬間、取り落としそうになってたたらを踏んだ。
ずしりと重い。
体躯に恵まれているとは言え、女性が片手で持っていたとは信じられないほどの重量感だ。キョトンとした視線を感じつつ、艦長はなんとか堪えて両手で弓を持ち上げた。
装飾も何もないそれは、無骨という言葉を通り越して実用品そのものの機能美を保っている。あちこちが擦り切れ、握りのあたりは手のひらの形にえぐれている。それは同じだけ手の皮を削った修練の跡を感じさせた。そしてなにより、使い込まれているというより、これは・・・。
(10や20ではない・・・かなりの数の命を狩っている・・・!)
表面に返り血が付いていたりもしていない。見た目は素朴で飾り気の無い使い古しの弓だ。だが、そこから発せられる重い気配に、艦長は直感した。暑くも無いのに額に汗が浮き、こめかみからつうっと流れた。
「―――良いものでしょうか?」
「・・・え?」
不意にかけられた言葉に、我に返って顔を上げる。そこには、「姐さん」がいつもの和やかな表情で立っていた。
「その弓、良いものでしょうか。私には良いものに思えるのですが」
「良いもの・・・?」
良いもの、よいもの・・・善いもの。ふと思う。命を多数殺めた「武器」にも、果たして善悪の区別があるだろうか? 武器は、使い手によって、その目的によって善にも悪にも傾く。どれだけ殺そうとも、それが人を守るための行いであれば・・・その者を後世では英雄と呼ぶだろう。英雄が手にした武器も然り。
「・・・その、私には鑑定はできないな・・・古いものだということしか」
それだけ絞り出す様に呟くと、ずしりと重いそれを差し出した。
「そうですか・・・。仕方ありませんね、ありがとうございました」
彼女は少し残念そうに言うと、艦長の手からヒョイとそれを取り戻した。しっくりと手のひらに馴染み、まるで体の一部であるかのように危なげない。「重くはないのか」と、その様子に思わず声をかけようとしたところで、横から別の乗員に声をかけられた。
「艦長、よろしいですか」
「・・・なんだ?」
「少し、妙なものが見えます」
航海の指揮を採っていた幹部の1人が、ウィングに身を乗り出しながら喋っていた。〈かしま〉の後方を指さしている。
「後ろの見張りが気がついたのですが・・・」
「うん」
艦長も自分の席から双眼鏡を持ってきてウィングに出て、目に当てる。その幹部は真剣な表情で言葉を続けた。
「本艦の後方、オアフ島のある海域・・・海が、赤いです!」
「・・・!」
双眼鏡の視界の中、確かに海は赤潮とも異なる緋色に染まって見えていた。海面に反射しているのか、空まで赤黒く濁り始めている。
「まさか・・・」
その艦長の呟きは、艦橋中央部の素っ頓狂な声に遮られた。
「あ、あれぇ・・・? コンパスに異常、いや、これ故障かぁ!?」
舵輪を握っていた乗員が天井に設置された電子式のコンパスを睨んでいる。その数値は、まさにその舵輪を勢いよく回したかのように止まる様子も無くクルクルと周り続けていた。さらにその直後、艦橋後方にいた先程の船務士が、受話器のコードを一杯に伸ばしながら血相を変えて叫ぶ。
「通信機故障! 衛星回線が全てダウン、ネットワークから切断されました! 無線機も半分以上使い物になりませんっ!」
「なんだおい、通信員がコンセントに足でも引っ掛けたか?」
航海長が余裕の表情で茶化す。船務士はむっとした表情をしたが、気を取り直して続けた。
「暗号を使った通信はほぼ駄目で、現在、汎用のHF帯無線機のみ生きている状況です」
「ふうん。何だか分からんが何か起きているってことか。よし、各部に装備機器が使えるか確認させてくれ! 気象長には一応太陽活動の状況も調べさせてくれ」
「りょ、了解!」
航海長の指示に船務士は飛び上がり、受話器を置くと今度は館内号令用のマイクに飛びついた。放送で流れ始めた機器の確認の号令を聞きながら、ふと思い付いて艦長は艦橋に戻りながら手空きの乗員に声をかける。
「おい、発生時刻を記録しておいてくれ。今・・・」
左手首を胸元まで持ってきて、そこで動きが止まった。目を瞬かせる。思わずという感じで呟きが漏れた。
「・・・G−SHOCKが、壊れた・・・?」
腕時計のデジタル表示は、00:00のままパカパカと点滅を繰り返していた。
その時、艦橋内にザザッとスピーカーノイズが響き渡った。航海長が素早く無線機に飛びついてボリュームを調整する。
『・・・ーデー! メーデー!』
「国際無線で救難信号!」
「どこだ! 場所はっ!」
艦長の問いに、ウィングから「姐さん」の声が追いかけてきた。
「あそこ! 民間航空機!」
どやどやと艦長を含め艦橋内にいた乗員がウィングに出てくる。「右110度!」と彼女が指差す先には、オアフ島へ着陸体勢に入っていたのか、空の低いところをジャンボジェット機が異様な挙動で翼を振りつつ飛行していた。そこに何か、黒い大きなハエのような飛行物体が無数にまとわり付いている。
「いけない! 速度を上げて振り切らないと撃墜される!」
「・・・面舵反転! 救助活動が必要になるかもしれん!」
即座に決断を下す艦長。「おもーかーじ!」と〈かしま〉は即座に回頭を開始した。
「生きている無線でパールハーバーに連絡を取ってみます!」と船務士が艦内に飛び込み、それに続いて他の幹部たちも自分の所掌の出来ることをやるために戻っていく。ウィングには見張りと艦長と赤い海面を睨みつける「姐さん」が残された。
「忙しくなるかもしれん。君も一旦下に・・・」
「・・・いえ、今ので補足された・・・? 頭の中で、何かが・・・」
「どうした? あまり乗り出すな、戻れ・・・!」
艦長が肩を掴んで引き戻そうとした時、彼女がはっと顔を上げた。上空に視線を向け、高く登った太陽の方向を睨む。
「・・・敵機直上っ! 爆撃が来ますっ!」
艦長が見上げると、そこには先程航空機に纏わりついていたものと同じような飛行物体1つ。同時にヒュルル・・・と何かが高空から落ちてくる音が聞こえてきた。ドクン、と体の中央で鼓動がして、カッと頭の芯が熱くなる。とっさに叫んだ。
「総員、低い姿勢! 衝撃に備えっ!」
その声がマイクに拾われ、艦内をエコーを伴って駆け抜け、数瞬の、間。
直後、轟音と共に〈かしま〉艦内は激動に見舞われた。
「おおおおお・・・っ!!」
船体が45度程も傾き、下から巨人に突き上げられたかのように持ち上がる。即座に今度はジェットコースターもかくやと垂直に近い海面を滑り落ちた。机の上の物が重力を失って宙に舞い、先程の船務士の力作がバインダーのバネから外れてバラバラに艦橋内に散乱する。どぉんと滝壺の底に落ちるような衝撃とともに、艦橋よりも高く打ち上がった波が前面の窓に叩き付けられた。海水に混じって粉々に砕けたガラス片が艦長席にも降り注ぐ。
「ぐぅっ・・・! 全員異常無いかっ!?」
這いつくばって床に溜まった海水に浸りながら、艦長は必死に声を張り上げた。側で聞こえたうめき声に振り返ると、ウィングで見かけた見張りが脇腹を押さえて蹲っている。膝立ちになってその背中を叩く艦長。
「おい、おい! 怪我したのか!? 聞こえるか!」
「だ、大丈夫です・・・机にぶつかっただけで・・・」
「よし!・・・他に怪我した者は! 近くに倒れている者はいないか!」
艦橋内の様々な場所から返事が返ってくる。艦長はぐるりと頭を巡らし、めちゃくちゃになった艦橋の被害状況を把握しようとした。そして、その瞬間、先程の返事の中に「姐さん」の声が含まれていなかった事に気がついた。まさかまだ外に、と慌ててウィングへと振り返る。
―――果たして、そこに「彼女」はいた。
しっかりと強い眼差しで、前を見据えて。
波飛沫に飛ばされたのか、部隊帽は消えていた。髪を留めていたものも一緒に無くなったのか、長い黒髪が潮混じりの強い風にバサバサとなびいている。そしてその左手にはあの弓が、いつの間にか弦が張られた状態で存在していた。
「君・・・中に・・・!」
艦長の言葉が続かない。そこにいる「彼女」は数分前までの穏やかな「姐さん」と違っていた。同じ顔立ち、同じ出で立ちなのに、何か、根源的な何かがすっかり変わってしまっているように思えた。
「艦長、ヘルメットとカポックをお着けください! それと、対空戦闘を下令します!」
「ああ・・・」
航海長に防護装備一式を手渡される。そして艦内にカンカンカンと緊急アラームと一緒に号令が流れ始めた。
『対空戦闘ーっ! これは訓練ではない、繰り返す、これは訓練ではない!』
突然の襲撃に凍っていた艦内が、生き物のように鼓動を開始した。ドカドカと体内を流れる血液の様に〈かしま〉艦内を乗員たちが動き始める。即座に戦闘のために装備を身に着けた者たちが艦橋内に姿を現した。
だが、その状況になっても艦長は動けない。ウィングに向けた視線を外すことができない。その光景に、見惚れていた。
弓を持った彼女の向こう、空の上で戦いが広がっていた。先程の黒い飛行物体を銀に塗られた航空機が追い回し、次々に撃墜していく。その活躍でまとわりついていたものを追い払われ、先ほどのジャンボジェット機が姿勢を取り戻すのが見えた。そしてその空戦の最中をくぐり抜け、つぃ、と同じような銀の航空機が〈かしま〉に接近する。「ぶつかる!」と思った瞬間、「彼女」が差し出した手の上で不意にその姿が消えた。大きな飛行機が急にラジコンのようなサイズに縮んだ様に見え、艦長は目を瞬かせる。
「―――敵空母を発見しましたか。ご苦労様です」
彼女が腕を曲げ、その上の何かに話しかける。そして、頷いて前方を見据えると、すっと上空へと右手を伸ばした。何かを掴む様な仕草をすると、その手に一本の線のような光が煌めく。
(・・・矢が!? 一体どこから?)
その手には、一本の矢が握られていた。先程の航空機と同じ色の銀の羽根を持ち、中央には赤い丸が描かれている。
握った矢を静かに弓につがえる。あの恐ろしい存在感と剛健さを伴った弓を、彼女はいとも簡単に引き絞った。ピンと張られた弦が静止した瞬間、空気の流れが止まり、時間すら流れを停めたように全てがスローモーションになる。そして・・・裂帛の気合を込めた発声。
「赤城攻撃隊―――発艦始めっ!!」