「いい子だねぇ、アクア?」
どうしたものだろうか。
職場にアイドルが妊娠してきて、ビックリするほどショッキング! して、山の中で俺は死んだ。
何言ってるか自分でもわからんが、これが真実、マジもマジ、大真面目。
そんなわけで産婦人科医のゴロー先生は死んで、俺は地獄に行くこともなく推しの腕の中でゆったりとくつろいでいる。
全身柔らかくてすぐ眠くなる赤子が今の俺。
まあそんなわけで、今俺は星野
超常的な出来事に逆らおうという気はあまりない。
医者の端くれであった以上はこの仕組みを解き明かしたいと思わないでもないが、今はこの赤ちゃんライフを思い切り楽しもう。
だって推しのアイドルが甘やかしてくれるんだぜ?
最高だろ?
そんな天国に浸っていると、幸せ空間を断ち切る様な鳴き声が事務所に響く。
妹だ。
「アイ、アクアは任せて。」
「うん。
──はぁいなんでちゅかー?」
転じて父親の腕に包まれ、泣き叫ぶ妹の元へ向かったアイを見送る。
正直なところ、俺から父親である陸川ダイチに対する不満は今のところない。
それどころか
鍛えられた腕に包まれると不安定なんて文字とは無縁な抱っこが出迎えてくれて、適度な揺れと熱が眠りへと誘う。
もはや大量睡眠兵器。
まあ、あんきゃああんぎゃあと泣き叫ぶ妹がいるせいで、眠ることもままならないが。
「どしたのアクアー?」
「そっちはルビーだよー。
......名札でも作るか?」
「名前ぐらい覚えろよ、親だろが。」
「はー、嫌でちゅねールビー?
日本の男は母親を幻想視しすぎて。」
「パスポートも持ってないやつがグローバルな事言ってんな!
まあいい、今後の活動について軽く話し合うぞ。」
そう言って引っ張り出してきたホワイトボードには父親が書いたんだろう筆跡で、可愛らしくアイの復帰と
手始めの復帰第一弾は今日のNステ、いわゆる音楽番組の生放送から。
仕事の間は陸川ダイチと、社長夫人の斎藤ミヤコさんが面倒を見てくれることになっている。
「子供達仕事場に連れてっちゃダメ?」
「ダメに決まってんだろ!」
基本的にアイが二児の母とは知られちゃいけない事実だ。
アイと俺たち兄妹が一緒にいれるのは家の中だけ、随分と手狭ではあるが確実な守り方だ。
「めんどくさー。
困っちゃうよね、ダイチ?」
「仕方ないことではあるからなぁ。
こっちの両親は忙しい時期に入って応援も頼めないし。
でも僕の方は冬休みが近いこともあって学校が早くなる。
出来る限りのことはするから、アイはやりたいことを頑張ってね。」
そう考えると、アイはいい母親とは言えないかも知れない。
だけど周りの人からのフォローは手厚いし、案外なんとか──
「おっと。」
「──っっっぶねぇ〜......!」
ならないかも知れない。
危うく現役アイドルの乳が溢れそうになったところ、すんでのところで父親が手を伸ばしてそれを防ぐ。
結果的にその胸を鷲掴みにする形となってしまったが、コラテラルダメージみたいなもので仕方がない。
アイはケタケタと笑って『えっち〜』と揶揄い、ダイチは童貞じゃないはずなのに童貞みたいな頬の染め方をしてすぐに手を離した。
なんだこの...... なんだ。
「あっぶな、危うくおっぱい晒しちゃうところだった〜。」
「本当に気をつけてね......?」
夜、ミルクをあげて疲れ切った体を休める。
赤ちゃんというのは奇想天外にして予測も何もかもが不可能な乱数みたいなもので、真面目に対応しようとするととてつもない疲労が体を蝕む。
これでも鍛えているからマシな方ではあるのだが、いかんせん社長夫人の方は生放送を見るとか、それどころではなさそうなほどグロッキーだ。
「晩御飯どうしましょう。
コンビニでご飯買ってくるか、テキトーなパスタの二択ですけど。」
「なんでパスタなの、まあ頼むけど......」
「モテたいならパスタ作るでしょ!?
俺が小学校低学年の時には常識でしたよ!」
「嫌な小学生ねぇ。」
動機は不純でも、そこから生まれた代物は悪くない出来ばえ。
使った食材は明日にでも買い直しておこうと思いつつ、いつもよりずっと早い時間だというのに襲ってきた睡魔に負けてソファの上へ倒れ込む。
まどろむ意識の中、聞こえてきた声が鮮明に脳へと到達する感覚に少々の思考を始めた。
『B小町の皆さんです!』
ああ、そういえば今日復帰日だ。
アイの勇姿を見れる絶好の機会だったんだけれど、瞼が開かないから見れないんだよ。
録画、家の方でしてくれば良かったかな。
『ご飯と言えば、うちの子が──』
うちの子?
うちの子たちはかわいいよ、文字通り食べてしまいたいほどかわいい。
実際にやったらそれは我が子を喰らうサトゥルヌスになっちゃうのであれだけど、できることならアクアとルビーは顔を焼かれないで一生を終えて欲しいものである。
その為には...... とりあえず、あの子達が自由に道を選べる程度のお金が必要かな。
高校までは絶対に行けとお父さんからきつく言われてる手前、中卒で働きますなんて言えないし、基本はアルバイトで大体月八万くらい。
アイドルのお仕事が二十万くらいだとしたら、2人合わせてサラリーマンの平均月収より少し低いぐらいか。
厳しいものだ。
......あ、どうやらB小町のパフォーマンスが始まるらしい。
眠たい目を薄目にして、耳だけ澄まして聴く体制を整える。
社長もよくやるものだ、僕にも言えることだが、こうして表に出た以上『やっぱり子供がいるのを公表しまーす』なんね普通に公表するよりダメージが大きくなる。
つまりはもう後に引けない。
けど、それもわかる。 わかってしまう。
僕らは全員、星野アイがもっと上に上に羽ばたいていくのを見ていたいんだ。
何があっても時間が過ぎても、そこの考えが変わる事はない。
僕らみんな嘘つきだよ。
「ズレずにはいられないんだ......!」
そうなんだよ。
彼女は周りを突き動かす── いや待て、アクア喋った?
いやいや、流石にそんなはずない。
まだ一歳にもなってないのに赤ちゃんって喋るものなのか?
おそらく幻聴の類だろう、気にせずテレビを──
「あー! Nスタ始まっちゃってるじゃん!
きゃーやばー!! ママ超カワイイー!!」
ルビー?
ねえルビー? 喋ってるよねこれ。
なんかやたら鮮明に喋ってるし、これはちょっと...... 寝よう。
疲労が溜まり過ぎてるんだ、仕方がないからさっさと寝よう。
「生放送はリアタイにこそ意味があるのに。
もー、どうして起こしてくれないかな!」
「俺は何度も起こしたぞ。」
隣で喋るこのアホは、新しい人生における僕の妹。
星野ルビー、こちらと同じく何処かの誰かの生まれ変わり。
......ため息を吐いて、つくづく思う。
アイとダイチには普通の子供を抱いて欲しかった。
こんな可笑しい双子じゃなくて。
「アクア、ルビー......」
不意に後ろから声が聞こえ、咄嗟に赤ちゃんモードに入る。
しかし杞憂だったようだ。
それはダイチの寝言。
夢の中でまで兄妹を抱いているのか、表情は優しげで安らか。
伸ばされた手に触れると、小さく笑う。
「かわいいな......」
深い眠りに入ったか、腕から力が抜けてぐでんと抜け殻のように腕を下ろした。
「なんかフクザツ。
父親がいないと私たち産まれてなかったけど、推しのアイドルに彼氏がいるって。
未来永劫父親という役目以上の幸運、訪れないんじゃない?」
「やめとけ、これでもファン歴で言ったら先輩だぞ。
あと疲れ切ってるのだってお前がところ構わず泣き叫ぶからだ。」
「それが赤ちゃんの仕事ですー。」
子供が言うことではなかろうが...... 前途多難である。