油断大敵という言葉がある。
これはまあ読んで字の通り、『油断はいっちゃん大きな敵ですよ』と伝えるための四字熟語である。
......現在の僕にぴったりな言葉だ。
「うーん。」
小学生のテストとか授業の内容って上から見れば簡単で、適当な答えとわかりやすい文を書いておけばいいと思う人もいるかもしれないが、当事者にとってはそうじゃない。
ドン引きするほど難しいし、頭が痛くなるほど考えなくてはならないのだ。
......とはいえ、予習しておけばわかるような事。
普通に授業を受けてちゃんとノートに記しておけば、ある程度時間に余裕を持って答えの見直しとかも出来るはず、なのだが。
『これからもアイのこと、よろしくね?』
「──あっ。」
時折横切る嬉しい記憶に、どうしても脳内にある思考部分が割かれてしまう。
そして力が無意識に手へと伝わり、鉛筆の芯が折れる。
三回目くらいか、ここまでくると手慣れたもので、さっさと筆箱の中から替えの鉛筆を取り出して握った。
今までこんなことは無かった。
いや、十年ちょっとの短い人生なのだから、当たり前と言えば当たり前なのだが。
こうして考えてみると、役者になりたいなんて夢を掲げていたのに僕は経験不足が過ぎる。
役者になるっていうのはいわば『はじめまして』の人間になるっていうことで、そうやって演ずるために必要な前提は
僕は男で、そこから考えつくものがあるとするなら、例えば恋多きプレイボーイや悲運の男、はたまた──
『あんたなんか邪魔なのよ!!
私の
心の擦り切れた復讐鬼。
ともかくいろいろと、役者になった人間は演じることになる。
そしてその演技を、他人であるはずの自分からその人自身になる事をサポートしてくれるのが経験と努力、そして知ること。
なんとも言えない話ではあるが。
「──ほい、テスト終わりー。
回収するぞー、名前書いたな?」
「あー...... いや、こういうこともあるか......」
鐘が鳴り、とても怠かった五時間目とテストが同時に終わったことを告げられる。
......結局、テストは最後まで埋められず百点は確実に無くなった。
余計な事、そう断じるべき思考だとはわかっているが、それでも僕は『役者』というものに対する考えを抑えることはできない。
表では事務所を辞めて前に進もうとしていても、心の裏ではいまだにあの世界から放たれた光に焼かれたままなのだと、僕は僕の心を理解している。
帰りのホームルーム前。
この時間を使い、友達と遊びの約束をしたりする小学生は多い。
まあ僕には関係のない話だよな、と彼らを少々羨ましく思いながらホームルームの開始を待っていると、無愛想な面持ちの女の子からある紙を渡される。
『ありがと』と返しても返事は返ってこず、彼女は逃げるようにして友人の輪へと戻ってしまった。
......申し訳なく思っているのならそれでいい。
でも、
中島 ユキ。
さっき紙を渡してきた女の子で、今は時折ドラマにも出ているような子役。
可愛くてかつ要領が悪いわけでもないので、これからも彼女の仕事は増えていくだろう。
というかよく考えついたものだ、後ろから思い切り尖ったもので刺してから花火で焼くなんて事。
まあ見事にその考えはハマって僕は道を閉ざされた。
渡された紙を見れば、それは先生からの伝言。
どうやら答えのない白紙の部分があったこと、それが大変珍しかったようで、放課後に呼び出しを喰らってしまった。
急ぎたい用事があるのだが...... でも教室の中で話され無かっただけよしとする。
「おいダイチ、呼び出しくらってるじゃん!
──退学?」
こういう輩がいるので。
子供の方が大人より残酷とはよく言ったもの。
というか、実際義務教育で退学とかあるんだろうか?
少し前に話題だった少年革命家だってあくまで不登校、退学とかは無かった。
「僕の方が成績いいし、ならないよ。」
「は?! うっざお前死ね!」
もう慣れた。
「体調悪かったのか?
去年から二年間陸川を見てきたけど、先生初めてだぞ。」
「はは、そうですね......」
......どう言ったものか。
この先生は僕が火傷跡を携えて来ても忌避するどころか心配し、深く気にしてくれている教師の鏡みたいな人。
そういう人に『体調悪かったから』と嘘をつきたくはないし、別につく理由もない。
これで他人にすぐ話す人だったらアレだが......彼にはそういうのもないだろう。
「実は、少し前にアイドルのライブに行って。
それからずっと、心がふわふわしてるっていうか。」
「おお、アイドル。
......アイドル? 早くない?」
「すごいですよ、アイドル。」
先生は深く息を吐き、口を抑えて考え込む。
恐らくは僕がクラス内で話すことが極端に減り、いたはずの友達と疎遠になっていることがアイドルに関連しているのではないか、とでも思っているのだろう。
とんでもない、むしろアイドル...... というかB小町単体ではあるが、彼女達はとても良い人たち。
僕の友人関係が崩壊したのは...... 子供特有のことということで。
「先生としては友達と話してほしいが......
そのアイドルってどんな名前なんだ? SMAPとか?」
「B小町......」
「どなた?」
「
「──ほへぇ。 その帽子もセンターの子からもらったってことね。」
「はい。
僕にとってはファン一号の証で、ぎゅうって心の中に色々な感情が詰め込まれて......
どう言ったら良いかわからないけど、アイやB小町から心が離れてくれないんです。」
両手で大事に掴む帽子に視線を落とす。
白い生地に、不細工なウサギと星のバッジ。
僕に似合うかどうかで言えば似合わないだろうが、それでも大切で身につけておきたい証なのだと。
......勉強が本分の学生が、アイドルに現を抜かしてテストがアレっていうのは言い訳できないが。
先生は何かを懐かしむようにこちらの頭へ手を乗せると、物憂げに窓の外へ視線を移す。
そして一つ息を吐いたかと思うと、一つの言葉で僕の心を断言した。
「ん、そりゃあ
「恋?」
「そう。
よくある『愛してる! 大好きー!』じゃないが......
ラブスタイル類型論ってのがあってな、もしかしたら陸川の心ってのはそれにある6つの恋に当てはまるんじゃないかって思うわけ。
......まあお前の心はお前のもの、無責任ではあるけど、好きなようにすれば良い。
あ、テストはちゃんとな?」
恋、なんて知らなかった。
そりゃあそう、僕はまだ小学生。
......頬の赤みを隠すように帽子を深く被り、ランドセルを背負う。
なんだか少し逃げ出したい気分だったが、『ちょっと待て』と呼び止められてもう一度椅子に座った。
「それはそれとして、お前がちゃんと授業を受けてるかはチェックする。
ほい、水を冷やすと減った! 何で?」
「体積が減るから?」
「ブッブー!」
「えー!
じゃあこう、水が凍るときにギュッとなったからとか──」
場所は変わってライブ会場。
今回は父親が休みということで付き添いに来てもらい、チケットとかは自分のお小遣いから。
今回も前列の方で......と行きたかったところだが、前回のライブがSNSや特定層の口コミで広がったのか人が多い。
大人の海に溺れては歌を聴くことすらままならないので、後ろの方から余裕を持ってみることにする。
「やっぱり凄いな......」
これもまた自費で購入したペンライトを誰の邪魔にもならない自己満足の範疇で振りながら、踊りと歌声の融合に酔いしれる。
先生はこれを恋だと言い張ったが、それもあながち間違いではないかもしれない。
みんなが全力で、誰一人としてだらける事なく凛としているというだけなのにただただ魅力的。
心を奪われっぱなしだ。
というわけでライブが終了。
普通ならここでさよならなのだろうが、なんと今回は握手会があるということで。
......普通こういうのってもう少し時間が経ってからやるものでは?
疑問符が浮かびこそすれど、かくいう僕もそのためのチケットを持っている。
どうせしばらく使い道のないお金、ここぞというときに使うべきだろう。
「──お、呼ばれたぞダイチ。」
自分の握手券に書かれた番号が呼ばれ、お父さんに背中を押されて列に並ぶ。
やはり一番人気であるようで、10秒そこらではけていく人たちを見送りながら自分の番を待ち、遂に現れた彼女へガラス細工を扱うように優しい握手を交わした。
「あ、久しぶり〜!
帽子も着けて来てくれたんだ!」
「はい!
あー、その、プレゼントとか大丈夫って聞いたので、これどうぞ。」
彼女が覚えていてくれた事に喜びを感じながら、犬だったら尻尾をブンブン振ってるだろうってくらいの笑顔で元気よく答える。
猫と狐の方が僕は好きだが。
さて、渡したかったプレゼントとはこれ。
手が荒れなくて臭いのキツくない消毒液、ジェルタイプ。
やはり握手会とかで気になるのは、不特定多数と握手することから来る雑菌の付着。
それは僕も例外ではなく、だからこそこれをプレゼントしようと思い立ったのだ。
他の人はアクセサリとかで、僕もそっちにしておけばよかったと思うけど、よそはよそでうちはうち。
「心配してくれるの? ありがと!」
形だけとは言え喜んでいただけたようでホッとする。
あと3秒くらいでこの握手も終わりだが、良い時間だった。
フッと気が抜けたみたいで──
「はい!
口走った。
やってしまったかもしれないと焦り、思わず手を離して口を押さえる。
アイもあっけに取られた表情をしており、普通に考えて会って二回目の人間がこんなこと言って来たらそういう顔もするだろう。
恥ずかしさに爆発しそうになっていれば、不意に額へ衝撃が走った。
何事と見てみれば、その衝撃の主人はアイ。
こちらの額を突き、笑っている。
「──私も!」
帰りの車。
大好きという言葉に対して返された、私もという一言はまるで台風のように心を荒らし尽くした。
結局の結論として辿り着いたのは、おそらくあれはアイドルとして放った言葉であろうということ。
普通になにか、彼女と相思相愛というわけではない。
当たり前だけど。
とはいえ、それはもう過ぎたこと。
恥ずかしい思い出は頭の片隅に追いやり、今回のライブ、その見どころを思い出そう。
やはりダンスの中にあるターン。
B小町全員が息を合わせてくるりと一回転する要注目シーンであるが、皆が鬼気迫ると言えるほどの完成度を──
「──アイ、それってあの子供から貰ったやつ?」
「うん、結構ちゃんとしてるやつ。
使いやすいし、持っておこうかなって。」
「大胆というか、変な子だよねー。
まあファンってそういうもの、なんだろうけどさ。」
「......」
最初のライブ。
ステージの袖から少しだけ観客席が見えて、大して多くない人の数に、アイドルになれば人を愛せるなんて夢だったのかなって思っていた。
......でも、一番前にいた男の子は求めてた。
だから『大好き』なんて突拍子もないことを言われたのに、不思議と嫌な感じはしなかった。
彼の名前は......なんだっけ、覚えてないけど。
「社長?」
「あん? どうした?」
「嘘も愛になるのかもね。」
「ハッ、そう言ったろ。
ここじゃ終わらねえぞ、ゆくゆくはドーム──」
......ああ、そうだ。
『大好き君』だったかな。