その日の夜、小料理屋<花の里>のカウンターには、右京と尊が静かに杯を重ねていた。
店の常連である二人は、普段の定位置に座り、黙って盃を口に運ぶ。
二人の纏う空気が普段と違うことを察した店の主人、月本幸子もまた、何を口にすることもなく粛々と料理を作っていた。
「……やりきれないですよね」
尊がポツリと呟いた。
「目の前で母親が殺されて、その犯人が動機も何も語らないまま飛び降りて」
尊の脳裏に浮かぶのは、日中苺プロダクションを訪れた際に見た二人の子供の姿だ。泣きじゃくりながらも、自分の見たことを一生懸命説明しようとする子供の姿だった。
あの時、尊の心の中に芽生えた気持ちは何であったか? 尊は自分でもよく分からなかった。同情や哀れみではない。それは、正義感のようなものであったかもしれないし、あるいは、義侠心に近いかもしれない。
だが、いずれにしても、自分がこの事件を解決したいという強い衝動を覚えたことは確かである。
「僕も、同じです」
右京はそう言ってから、日本酒をグイッと飲み干した。右京も多くは語らない。アイドルがストーカーに殺害されたという事件は、今日本で最も注目されているニュースだ。そのアイドルに隠し子がいたという事実は、そうそう職場以外で口にしていいことではない。
この店の主人が客から聞いた話を誰かに話すような人物ではないことは尊も右京も知っている。だから、時に捜査中の事件のことを二人でこの店の中で話すこともないわけではない。ただ、流石に今回の事件について他言することは憚られた。
尊は、徳利を手に取り右京のお猪口に酒を注ぐ。
「ですが、彼は辛い記憶と真正面から向き合い、僕たちにその時のことを話してくれました。僕たちもあの少年の勇気に応えなければなりません」
「明日は早いんですか?」
幸子が二人に声をかけた。
「ええ。ですので、幸子さん」
「はい、分かってますよ。お茶漬けですね」
右京の言葉を受けて、幸子は手早く準備を始めた。
「ああ、僕は」
「神戸さんはわさび少な目。杉下さんはわさび多め。ですよね?」
幸子がこの店<花の里>の主人になってからはそう長くはない。しかし、常連客の好みを把握するくらいには十分の時間だ。
ややあって二人の前にお茶漬けが置かれた。
先代女将、宮部たまきのころから変わらない鮭と海苔をメインにしたお茶漬けだ。
「早ければ今日の夜から雪が降るって天気予報で言ってました。これで身体を温めてお帰りください」
夜食代わりに出される茶漬けを平らげ、右京と尊は店を後にした。
翌日、雪の降る中出勤した二人は、特命係に宛がわれた小部屋にカバンと上着を残して庁舎内の鑑識課の部屋へと赴いた。
「お待ちしていました」
二人を出迎えた米沢の前には昨日菅野良介の部屋から押収したデスクトップパソコンが鎮座している。
「菅野の部屋から押収したパソコンを調べましたが、杉下警部が仰っていたようなアイさんの行動を調査しているような形跡は一切ありませんでした。画像データ、映像データ等が多数保存されていましたが、その全てがライブやイベントの際に撮影されたもので、事件への関連は薄いものばかりです。メールのやり取りもなし」
「アイさんのことを調査した際のデータが、すべて消去されている可能性は?」
尊の問いかけに、米沢は首を横に振った。
「私もその可能性があると思って、データの復旧を試みました。ですが、削除されたデータもありませんでした」
「となると、菅野が自力でアイさんの自宅を探し当てたとは考えにくいですね。となると、残る可能性は関係者からの住所のリーク」
右京は米沢に尋ねる。
「ここ一月の、ブラウザの履歴はどうでしょうか。SNSで誰かとやり取りをしていたとか」
「SNSや掲示板の書き込みはありましたが、事件に繋がるようなやりとりは何も。スマホの方も調べましたが、結果は同じでした。スマホに登録されていた連絡先も、家族と学校関係者ばかりで芸能関係者の連絡先は一つも登録されていません」
「米沢さん、菅野のパソコンの中を少し見させてもらってもよろしいですか」
「かまいませんが……何を見るので?」
右京は米沢の問いに答えることなく画面を操作する。他のファイルには目もくれずにブラウザを開き、履歴やブックマークを漁り始めた。
そんな右京を横目に、尊がため息をつく。
「菅野が誰からリークを受けたのか、それが分かる端緒はなしですか」
「残念ながら。私も、忸怩たる思いです。こんなに後味の悪い幕引きは初めてです」
「幕引き?それは一体どうして」
尊が不思議そうに尋ねると、米沢も悔しそうな表情を浮かべながら答えた。
「今朝、中園参事官がこの事件については被疑者死亡のまま書類送検すると言い出したのです、捜査員についても最低限の裏とりだけに従事し、送検の準備を進めるように」
「それはまた随分と早急ですね」
尊は驚いた。被疑者死亡とはいえ、裏付け捜査がまだ十分にされているとは言い難い中で送検というのはあまりにも性急な判断だ。尊も右京もそう感じた。
「どうやら、マスコミに菅野の死亡時の状況を嗅ぎ付けられたらしいです。警察が被疑者を追い回して目の前で死なせるという失態を犯したという論調が激しくなる前に送検して、警察の中ではこの事件を終わったことにしたいのでしょうなぁ」
「内村部長らしい判断ですね」
尊は吐き捨てるかのように言った。
刑事部のトップである内村完爾は、上層部の意向に忠実な人物だ。具体的にどこから声をかけられたかは分からないが、今回も上層部のどこかから早期送検を促す圧力があったことはまず間違いないと尊は確信していた。
その時、マウスを動かす右京の手が止まる。
「神戸君、これを見てください」
「宮崎デジタルニュース……杉下さん、このページがどうかしましたか?」
尊は右京の顔を見た。
「菅野はこのサイトをブックマークに登録していました。閲覧履歴を見る限り、月に1度か2度のペースですが、定期的にこのサイトを閲覧していたようです。ですが、菅野は東京生まれの東京育ち。両親の出身も関東で宮崎に縁もゆかりもないはずの彼が、何故わざわざ宮崎のニュースをチェックしていたのでしょうか?」
「確かに妙ですな」
米沢が口を開く。
「私の友人の中には地方の新聞の4コマ漫画が好きで、敢えて遠隔地の新聞を電子版で読む友人や、ご当地アイドルのファンで地方の新聞を購入する友人がいますが、彼らは購入動機からして、ほぼ毎日新聞を読みます。地方の新聞の電子版を時々見るためだけにブックマークするのは不自然ですね」
米沢の言う通りだ。見る限り、このサイトはよくある地方新聞の電子版らしく、特に目立ったコンテンツがあるわけでもない。その地方に住む人間向けのニュースを発信する、ごくごくありふれたサイトである。菅野良介がそのようなサイトを定期的に巡回する動機がないのだ。
「……いや、宮崎?まさか!!」
その時、尊の脳裏に一つの可能性が浮かぶ。
そして、それを肯定するかのように、右京は尊の目を見て静かにうなずいた。
「そうです。アイさんが出産をした病院が宮崎。そして、その出産の当日担当医の雨宮吾郎が行方をくらませている。斉藤社長の話によれば、彼はアイさんの出産日に突如行方をくらましたそうです。失踪届が出ていますが、未だに発見されていません。」
「態々宮崎のニュースを定期的にチェックしていたのは、菅野が雨宮吾郎の失踪に関与していて、それに関連する記事がないか確認するため?……となると」
「ええ」
右京は尊の言葉を受けてゆっくりと答える。
「毎日というわけではなく、定期的に記事をチェックしていたのは、自分が隠したものが表沙汰になっていないか気になったからと考えれば、筋が通ります。もしも菅野が雨宮吾郎医師の失踪に関与していて、かつ隠したいことがあるとすれば、隠蔽した雨宮吾郎の遺体が見つかったという記事が出てないか探していたと考えるのが自然でしょう」
「菅野が、雨宮吾郎の殺害にも関与していたと?」
「あくまで、現段階では僕の推理にすぎません。ですが、宮崎と菅野の繋がり、そしてアイさんの子供のことを知っている人物のうち唯一行方が分からない雨宮吾郎医師の動向。これが今回の事件に無関係だと、どうしても僕には思えないのですよ」
右京はそう言って立ち上がった。そして、尊に対して告げる。
「神戸君、君まだ有給は残っていましたね?」
本当は月本幸子が花の里2代目女将になるのはSeason10の正月スペシャル後なので、拙作がそこから神戸君が卒業するSeason10最終話までの間の話とすると、推しの子本編でアイの事件が少し早い雪の降る数日前と描写していたことと矛盾しますが、そこは拙作の世界においては月本幸子が花の里の女将になるのが早まったというオリ設定ということでよろしくおねがいします。
流石に、相棒を描くのに花の里が出てこないのはピクルスのないハンバーガーみたいなものですし。