右京からの頼み事を済ませた角田は、一仕事終えた達成感に浸りながら特命係の小部屋で勝手知ったる手つきでコーヒーをサーバーからパンダがあしらってあるマグカップに注いだ。
今日は、この小部屋の本来の主である二人は不在だ。普段からこの部屋の主の目の前で全く遠慮なくコーヒーを楽しむ角田だが、その二人が居ない時にも勝手にこの部屋に出入りしており、全く遠慮がなかった。
普段右京が腰掛けている皮張りの椅子にどっかりと座ると、角田は満足げな表情を浮かべてコーヒーを口にする。鼻腔に広がる香ばしい香りがたまらない。そして、舌の上で転がすように味わいながら、ゆっくりと飲み込む。窓の外にちらつく雪を眺めながら味わうコーヒーは、至福の時間であった。
「やっぱ、この部屋で飲むコーヒーは美味いねぇ」
角田は知る由もないことだが、実はこの小部屋で使われている豆は特別なものでも何でもなかったりする。
神戸尊の前任者の亀山薫はコーヒーに対する拘りと右京をも感服させる舌を持ち合わせていた男だった。この部屋にサーバーを設置したのも薫であったし、薫はそれなりに美味な豆を選んで補充していたため、実際にこの部屋で飲むコーヒーは他部門のインスタントコーヒーよりも美味だったことは間違いない。
そして、角田もそのおこぼれにあずかっていた。
しかし、神戸尊はそもそもミネラルウォーターを愛飲しており、右京も紅茶党であったためコーヒーメーカーを使用する人間が角田だけとなった。角田から豆の補充も特命係の仕事だと押し付けられた結果、尊が自腹を切る羽目になったわけだ。
とはいえ、特命係がこの部屋に入り浸る角田に世話になっていることも事実であり、無下に断れなかった尊は適当に豆を購入して定期的に補充するようになっていた。一時はインスタントを使っていたが、角田から豆がいいとクレームが入り、渋々豆に戻すこととなった。*1
もちろん、豆の質は拘りのあった薫の時代とは雲泥の差があるものだったが、角田は少し味が変わったかな?と感じる程度で特に不満はなかった。
結局は、角田にとっては職場を抜け出して特命係の小部屋で飲むからこそコーヒーが美味しいということだ。
そうして、右京の席に座って寛いでいると、特命係の小部屋に珍しい客人が現れた。
「あれ?特命は?」
遠慮なくズカズカと入ってきた人物を見て角田は少し驚いた。
そこには伊丹の姿があったからだ。伊丹の後ろには三浦と芹沢の姿もあった。
「おう、珍しいお客さんだね」
いつもなら、特命係に自分たちから接触することは極力控えているトリオ・ザ・捜一の三人だったが、今日に限ってはこの小部屋に用があるようだった。
しかも、どこか焦っているような感じを受けた角田は首を傾げた。
「あ、課長。杉下警部がどこにいったか聞いてますか?」
芹沢が慌てた様子で尋ねてきた。
「あの二人なら今日から有給とってるよ。なんでも、二人で宮崎に行くんだってさ。暇でいいよねぇ」
角田が羨ましそうな顔をしながら答えると、トリオ・ザ・捜一の三人の顔色がサッと変わった。
「ん?あの二人に何かよう?」
「例のアイドルが自宅でストーカーに殺害された事件なんですが」
三浦の言葉を聞いて角田も思い出したように答えた。
「ああ、B小町のアイの事件だろ。確かに警部殿はその事件に首突っ込んでるみたいだね」
「その事件のことで杉下警部にどこまで調べてるのか進捗を聞こうとしてたんですけどね」
「バカ!!特命に教えを乞いに来たような言い方すんな!!」
伊丹は芹沢の頭を思いっきり叩いた。
この部屋に来た時点で、特命係に助けを求めているようなものなので今更隠す必要性があるのかと角田は思うのだが、どうやら彼らの中ではそういうことではないらしい。
「昨日、中園参事官がこの事件については被疑者死亡のまま書類送検すると言い出したんですよ。どうせ内村部長の指示でしょうけどね」
三浦が忌々しいといった表情で吐き捨てるように言った。
「捜査員についても送検の準備のための最低限の裏とり以外の捜査は不要、とにかく早急に送検するようにって指示ですよ。マスコミに警察が被疑者を追い回して目の前で死なせるという失態を犯したという論調を展開される前に送検して、厄介ごとは検察に任せればいいって考えてるんでしょうけど」
「お前らはそれに納得してないみたいね」
角田が察すると、伊丹は悔しそうにうなずいた。
「あのストーカーに、被害者の住所を教えたヤツが絶対にいる。ストーカーが自力でアイドルの家を特定して、刺殺したなんて単純な事件じゃない。自分もまだ、あの事件の幕引きに納得できていないんですよ」
「それで警部殿のお知恵を拝借しようと考えたわけだ」
「勝手に現場に来たり、鑑識の米沢のところに入り浸ってたり、色々調べてるみたいですからね。本来なら現場から追い出すところ、温情をかけて見逃してあげてるんです。たまにはその分の借りを返してもおうと考えたまでですよ。それで、なんであの二人は宮崎に行ってるんですか?」
「なんでも何も、お前たちの追ってる事件絡みだろ」
角田は右京から頼まれて用意した雨宮吾郎の資料を伊丹に渡しながら言った。
「雨宮吾郎?どっかで聞いた名前だな」
「おい、それって確か、ガイシャが妊娠していたころの担当の産婦人科医じゃなかったか?」
伊丹の横から資料をのぞき込みながら三浦が言うと、伊丹がハッとした顔をした。
「あ!!ガイシャに子供がいることを知っていて、唯一その行方が分からなくなってた男か!!」
「杉下警部が事件当日から目をつけてたっぽい人ですよね」
余計なことを口走った芹沢の頭部に伊丹の張り手が炸裂した。
菅野良介の最期の言葉を聞いていた伊丹は彼の最期の言葉「アイツが裏切った」という言葉から、アイドルであるアイに子供がいたことがファンへの裏切りであり許せないと考えた末の犯行であると考えていた。
尤も、アイの関係者の中でアイに子供がいることを知っている人間の洗い出しを始めていたところで中園から捜査の打ち切りの命令を受けたため、洗い出しは全く進んでいなかったのだが。
因みに、雨宮吾郎の名前についても伊丹が自力でたどり着いたわけではない。事件発生直後に右京が斉藤から雨宮吾郎の名前を聞き出していたとはつゆ知らず、伊丹は昨日斉藤のもとを訪ねてアイに子供がいることを知っている人物は誰がいるのか尋ねていた。
半ば呆れた表情を浮かべた斉藤から「そのことなら既に特命係の杉下警部に説明した」と告げられた時の敗北感と、「仕方ないからもう一度説明する」と面倒くさそうに言われたときの屈辱は忘れられないものであった。
「それで、警部殿はなぜこの雨宮吾郎に目をつけてるんです?」
しかし、自分たちのメンツを丸つぶれにされてもなお特命係を頼ることを伊丹は選んだ。それは、早々に事件の幕引きを図った内村に対する反発か、あるいはたとえ特命係を頼ろうとも事件を解決してみせるという刑事の誇りか、あるいはその両方か。
どちらにせよ、伊丹たちにとってこの事件をこのまま被疑者死亡のまま終わらせるつもりは毛頭なかった。しかし、捜査の糸口すら見えていない状況ではどうしようもないこともまた事実。
「警部殿はそいつの失踪に何か裏があると踏んでるんじゃないの。預金の動きとか入出国履歴を調べてほしいって言われたから」
「……入出国履歴なし、それで預金の異動もない。免許の更新もなく、住民票の異動もないとなると、ホトケさんになってる可能性が高いな」
角田の言葉を聞いて伊丹がボソリと呟いた。
「宮崎までそれを確かめに行ってるってことですか」
「態々休暇まで使って宮崎まで行ける身の軽さというか、フットワークの軽さはさすがだよねぇ」
角田は感心したように言った。
「全く羨ましくも思えない暇さ加減ですがね」
三浦は苦笑しながら答えた。
「有給使って自腹切って捜査のために態々九州まで行く行動力には感心どころか呆れますよ」
「ま、その行動力に見合う成果を出せるのが警部殿だからね。今回もその雨宮吾郎という男の遺体でも発見するんじゃない?」
角田は冗談めかして言ったつもりだったが、トリオ・ザ・捜一の三人はなぜか真顔になった。
あの杉下右京のことだ。休暇まで使って宮崎に行って全く収穫がないということはありえない。そう断言できるほどには三人は杉下右京という組織には全くなじまない偏屈紳士の捜査能力を信頼している。
「……おい、菅野の関係者、もう一度徹底的に洗うぞ。送検のための裏取りをしているように誤魔化しながら時間を稼ぐ」
「いいのか?」
三浦の問いかけに伊丹は小さく首を縦に振った。
「ここで送検の準備を素直に進めたところで、警部殿が何か掘り起こして来たらどうせ送検はストップでまた色々と調べなおす羽目になるんだ。なら、無駄な送検作業なんてやってる暇があるか」
「一理あるな」
三浦も納得した様子でうなずいた。
「角田課長、それでは我々は忙しいので、これで失礼します」
伊丹たちは立ち上がると、角田に挨拶をして部屋を出て行く。
角田はそれを見送った後、ポツリと呟いた。
「自分から仕事をつくりにいくだなんて、アイツらはアイツらで無駄に勤勉だよねぇ」