菅野良介の自宅の臨場を終え、特命係に宛がわれた小部屋に戻った右京と尊。右京はいつものように手ずから入れた紅茶を楽しんでいたが、尊は手にもったミネラルウォーターのボトルをもてあそびながら落ち着かない様子だ。
「菅野がアイさん殺害の犯人であることは間違いないでしょう。杉下警部が仰るように、どうやってアイさんの自宅を突き止めたのかは分からない部分がありますが」
備え付けられたホワイトボードには、事件の関係者の写真と情報が記載されている。そのホワイトボードを前に、尊はポツリと自身の考えを漏らした。
「ですが、リークした人物が分かったところでその人物を罪に問えるかといえば、非常に厳しい。インターネットに住所を掲載したり、彼女の子供のことを掲載したならば名誉棄損にあてはまる可能性はありましたが、あくまで菅野個人にアイさんの個人情報をリークしただけなら、それはプライバシーの侵害に留まります」
「日本国憲法第十三条『すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする』プライバシーの権利はこれに基づく基本的な人権の一つではあるものの、その侵害を罰する刑法規定は確かにありません。個人情報はいくらでも悪用されかねないこの時代にプライバシーを侵害することそれ自体を罪に問う仕組がないことは現在の法制度の欠陥の一つと言えるでしょう」
「杉下警部の意見も理解できます。プライバシーの侵害に対する刑罰規定がないことはともかく、プライバシーの侵害に伴う名誉棄損、損害賠償となったところでそもそも警察は民事不介入ですからね。訴え出てくれなければ捜査もできないし、逮捕だってできない。なのに、杉下警部は菅野がどうやってアイさんの個人情報を手に入れたのかを非常に気にしてるように見えます。そろそろ、その理由を教えてくれてもいいんじゃないですか」
尊の問いかけを受け、右京は手に持っていたカップを置き、ゆっくりと口を開いた。
「菅野の最期の言葉が、ひっかかっています」
「最期の言葉?」
「伊丹さん曰く、彼はこう言ったそうです。『アイツが裏切ったんだ!!でも、こんなはずじゃ、こんなはずじゃなかったんだ!!あの時も、今も俺は、俺は!!』」
右京は続ける。
「『こんなはずじゃなかった』これ、君はどういう意味だと思いますか?」
「自分の好意を裏切ったことへの怒り、自分の気持ちを受け入れてくれていたならばこんな結末にならなかったという一方的な主張。それだけじゃないですか?一方的な好意を抱いていた相手を殺傷したストーカーなら、別におかしくないでしょう。」
「なるほど、そのような解釈もあるでしょう。ですが、僕はこう考えています。犯行直前に菅野が考えていた結末と、実際に犯行後に菅野が迎えた結末が違うものであった。だからこそ『こんなはずじゃなかった』という言葉が出た」
尊は首を傾げた。右京の考えについていけないわけではない。ただ単に右京が何を言いたいのか分からず困惑しているのだ。
「菅野の部屋には、練炭と七輪、テープがありました。購入時のレシートによれば、購入は犯行の5日前。これは何のために購入したものでしょうか」
「練炭自殺の定番ですね。窓とドアをテープで目張りして、その中で練炭を燃焼させて一酸化炭素中毒を引き起こして自殺するために買った以外の理由はないと思いますが」
「何故、彼は練炭自殺をしようとしたのでしょうか」
「それは、アイさんを殺害して、自分も死のうとしたからじゃないでしょうか。実際に飛び降り自殺していますし」
「しかし、彼は自殺用に購入した七輪も練炭も、使わなかった」
右京は組んでいた脚を解き、尊に向き直る。
「犯行後に自殺するために七輪と練炭を購入したにも関わらず、それを使わなかった。それは何故でしょうか」
「もともと、アイドルの殺害にはしるような熱狂的、狂信的なファンですよ。正常な心理状態ではなかった人間が、理屈にあった行動がとれるとは思えません。実際に犯行を犯して、その動揺から突発的に飛び降り自殺したと考えるべきでは?」
「そこで、彼の最期の言葉が気になるんですよ。『こんなはずじゃなかった』これは、犯行前の彼の想定と、実際の状況の齟齬から菅野が抱いた思いだったとしたらどうでしょうか?」
「それは、実際に人を殺したとなれば、事前の想定と異なるのは当たり前じゃないでしょうか。人を刺し殺しておいて、その前後で全く同じ考え方ができる人間なんてそういませんよ」
尊は、人はそんなに強くはないと考えている。どんなに強い信念や思想をもっていても、いざ実行に移してみるとそれが本当に正しい選択であったかどうか迷ったりするものなのだ。人の命を奪うという行為であれば迷い、後悔を抱くのは不思議なことではない。
だが、右京の言わんとしていることはそういうことではなかった。
「僕の考えは、こうです。菅野はアイさん殺害の計画を立てた。その時の計画では殺害実行後、菅野は自宅にて練炭自殺をしてアイさんの後を追うつもりだった。しかし、実際に犯行を実行した時、彼にとって想定外の事態が起きた。その想定外の事態に対する動揺が、菅野を突発的、衝動的な飛び降り自殺に追いやったのだとしたら?」
「想定外の事態?」
「アイさんに残っていた外傷は、腹部の刺し傷一つだけ。そして、適切な医療行為が行われた形跡があるとなれば、アイさんは刺された後少しの間は意識があり意思疎通ができる状態であった可能性があります。つまり、犯行時、アイさんと菅野は言葉を交わすこともできたと考えられる」
「……アイさんが菅野と言葉を交わした?菅野は突発的な飛び降り自殺を行うほどにそのやり取りで動揺したと?」
「あくまで仮説に過ぎません。ですが、そう考えると菅野の行動に納得がいくんですよ。そもそも、腹部を刺された場合も、アイさんのように動脈が傷つけられ短時間に大量に出血することにならなければ中々致命傷には至りにくい。菅野は文学部だったそうですから、そのような専門的な知識はなかったでしょう。アイさんを殺して自分も死ぬと考えていた人間が、一目では致命傷とはわかりにくい腹部への一刺しだけで逃走するというのが考えにくい。二度、三度とアイさんを刺していても不思議ではないものの、そのような形跡はない」
尊は腕を組んで思考を巡らせた。
激情に起因する突発的な犯行であれば、一刺ししたところで我に返り自身の行った行為が恐ろしくなり逃げるということもあるだろう。もしくは心臓を一突きし、明らかな致命傷と判断しそれ以上手を出さなかったということはあるだろう。
しかし、菅野の犯行はそのどちらにも当てはまらない。殺意を抱くほどにアイに執着していた熱狂的なファンであれば、確かに右京が言うとおり複数回ナイフをアイに突き立てていてもおかしくない。
「アイさんの言葉が菅野の心を最後に動かした。それが、彼がアイさんに対して一度しかナイフを突き立てなかった理由であり、彼が自宅に帰宅する前に自殺を選ぶほどの動揺を彼にもたらした。それが僕の仮説です」
右京の推理を聞き、尊は腕を組んだまま天井を見上げた。
アイの言葉が、菅野の心を動かした。確かに、筋が通った推理である。菅野の最期の言葉も、練炭を使わなかった理由も、アイが一度しか刺されなかった理由も全て右京の推理で説明できる。
しかし、未だ分からないことがある。
「ただ、この仮説を検証するためには、現場を目撃した人物の証言が必要です」
「……アクアくんに、聴取するんですか」
「そうなりますねぇ」
尊は思わず立ち上がり、右京の前に立った。
「杉下さん、アクア君はまだ4歳ですよ!!4歳の子供に、目の前で母親が殺された時の状況を語らせるんですか!!」
尊は右京の考えに賛成できないわけではない。しかし、尊にはどうしても受け入れられないことがあった。
「目の前で人が死ぬ。ましてや、それが母親だとしたら、あの子がどれだけ怖い思いをしたか、分からないわけじゃないでしょう!!あの子は、この後何年、いやひょっとすると一生その時のトラウマを抱えて生きることになるかもしれない。アイさんの最期の言葉が犯人の心を動かしたなんて事実が、あの子の救いになりますか!?なんの意味があるんですか!!」
怒りを抑えきれない尊は右京に向かって声を荒げた。しかし、右京はいつもと変わらない涼しい顔を浮かべている。
「神戸君。僕は何も、菅野の心境の変化だけが気になっているわけじゃありません。この事件の裏で、糸を引いている人物。それを突き止めるためには菅野が何を考えていたか知る必要があると僕は考えています」
「事件の裏で、糸を引いている人物?でも、アイさんを刺したのは菅野ですよね?」
尊は右京の言葉に頭にのぼっていた血が引いていくのを感じた。それと同時に、右京が何を言おうとしているのか理解できず混乱している。
右京は冷静さを取り戻した尊を見て、再び口を開いた。
「アイさんの転居の事実と、新しい住所を知る人物。その人物が今回の犯行の絵図を描いており、アイさんを殺させるために敢えて菅野にそれを教えたのだとしたら、どうでしょうか」
「まさか……殺人教唆」
「僕は、その可能性を考えています。だから、まだ事件が終わったとは考えられないんです」
尊は右京の言葉を反芻する。
誰が、何のために菅野良介を使いアイを殺そうとしたのか、その背景が全く想像できなかったからだ。
「僕はこれから、斉藤社長のところに行ってアクア君から聴取できないかお願いしに行きますが、君はどうしますか?」
尊の答えは決まっていた。
右京さんのレーダーが黒幕らしき反応をキャッチ
今まで現場検証と聴取しかしてなかったですが、ようやく物語が大きく動き出すかんじです。