硝子の瞳を、雫が濡らした。
ぽかりと空いた空洞、その縁をなぞり、雫は磁器の頬を伝う。
瞬きひとつ、起こることはなかった。
ぽつり、ぽつり、と。空から落ちてくる雫は、次第に数を増やしていく。
やがては、雫と呼べないほどに——雨が降り始めたとしても。硝子は天へ向けられたまま微動だにしない。
濁った視界の中、確かに焼き付いたもの。空が陰る前に舞った、一片の花弁。
追っていたものはもう、薄紫色の空へ溶けて、どこかへ行ってしまったはずだったけれど。
頬を、幾つもの雨粒が打ったとしても。
糸によって継がれた関節に、どれだけ水滴が染み込んだとしても。
〝人形〟は未だ、空を見上げていた。
* * *
僅かに傾けていた頭を、「それ」は上げた。
目の前には、走り書きと瓶に挿された一輪の造花。指を軋ませながらも、薄紫色の花弁をほんの少しだけ撫ぜて。
それから、膝も軋ませつつ、立ち上がった。
磁器と床版、僅かに床と擦れたせいで、ギィと耳障りな音が立つ。
あまり、関節の可動具合が良くないのだろう。
とはいえ、それも随分と慣れたものではあったが。
接地した足だけでなく、着ていたカーディガンの隙間から覗く腕も、首筋も、頬ですらも。人の目によく触れるところも含め、それらは全て、無数の擦り傷と共に、くすみ、灰色がかっている。
そして、極め付けに、窓の外を見つめる硝子の瞳は、ほとんど濁りきったものだった。
水平線から昇る陽が、水面を橙色に染め上げる。
少し早く朝の訪れを告げるように、蒸気を吐き出しながら、何隻もの船が港に別れを告げる。
日差しを避けるために塗られた石灰によって出来上がった白い外観、そんな建物と、その先に広がる海——眼下に広がる港町は、朝を迎えていた。
だけれど、濁った硝子玉で捉えられる景色の中では、どれも濁ってしまっていて。
「さほど、前のメンテナンスから経っている訳でもないでしょうに」
「それ」は——少女の姿を模した「彼女」は、すっかり古ぼけた自分と褪せた景色を見比べて、無機質な声で愚痴を漏らしながらも、再び机に戻った。
錆びた関節にグリスを差すのは、今月に入ってから何度目だったろう。二度目、あるいは三度目だったか。今使っている瓶ですら、既に空になりかけている。
しばしばとる休息でさえ、最近は役に立っていないように思えた。
一日のうち三分の一は活動をしておらずとも、関節の劣化は進む。
けれど、それぐらいならまだ良いもので。何よりも劣化が深刻なのは〝記憶〟だった。
ほつれた記憶を、元あったように直す作業——まるで睡眠のように、唯一、彼女が人間のように時間を充てることができる休息。
だというのに、近頃はどんなに時間をかけても意味を為さなくなってきていた。
転がされた珠のように、記憶は無造作に散らばったまま。
——さればこそ、それを継ぐ糸は——。
首は、軽く傾げたまま。外に出てみると、潮風が頬を撫ぜた。
きっと頬を錆びさせてしまうだろうそれに、ため息を一つ。
それから彼女は、ドアに吊り下がっていたプレートを〝CLOSE〟から、逆さに返す。
『artificial flower and doll』
外にかかった木製のプレート。
元から刻まれていた〝造花〟。周辺地域では育つ種類が少なく、保存も容易ではないために希少とされている、花の模造品。
滅多にお目にかかれないものから季節に合わないものまで——彼女の家を兼ねたその店は、中々に繁盛していた。
そして、もう一つ。後から書き足された〝人形〟の文字。
磁器でできた、人を模した体。疑似的な知性と、植え付けられた記憶——人の模造品たる〝人形〟を取り扱っている店であること。
褪せかかった文字は、その証左で。
それを書き足した時からもう、店は彼女のものとなった。
〝人形〟でありながらも、この町で唯一の〝人形師〟。
未だ名もない彼女にとっては唯一、肩書きと呼べるものだった。