カツ、カツ、カツ、と。
靴先は、高い音を立て、忙しなく石畳を打つ。
道すがら何度も出会った外壁は、全てが空に染められて、いつもの白さはどこへやら、くすんだものばかり。
鼓動を早める心臓を収めるために吸った空気は、強い潮の香を纏っていて、つんと鼻をついた。
爽やかなものとは程遠い湿気った空気、小走りで急げば急くほど、それはじっとりと肌にまとわりつく。
その不快さに、思わず一度足を止めて。
汗を拭おうと、一度額に袖を当てて——青年は、今日ばかりは仕立ての良い服を着ていたことを思い出し、その手を止めて、再び歩き出した。
相変わらず、足音は忙しない。
時には、同じ道を。時には、通ったことのない裏路地を。
額に玉のような汗を浮かべながらも、階段を駆け上がった先——ようやく「それ」は見つかった。
『artifical frowers and dolls』
窓の向こう、吊られたプレートに記されている褪せた文字。
他の建物と変わらず白塗りの壁ではあったけれど、天気とは一切関係なく、元々くすんでいるよう。全体的に古ぼけた外観の店だった。
けれどその反面、店先はやたらと灰色がかった今日とは不釣り合いなくらいに、彩られていた。
吊られた鉢や、壁に据え付けられた花壇、ガラス窓の向こうに見える一挿し。
花、花、花。
ずっと育ってきたこの港町ではあまり見たことのないそれに、思わず息を漏らして。
青年はすぐ近くにあった一輪を指先で軽く撫ぜた。
乾いた、ざらりとした感触。
直後、指先に触れたのはそんなものだった。
——これが、花なのか……?
思わず、目を丸くして。青年が一歩たじろいだ、その時だった。
「……造花では、ないでしょうか?」
ごくか細い声を、青年の耳は拾った。
「……確かにそうだね。僕が鈍かったみたいだ」
聞き慣れたその声を、確かに彼は間違えなかった。
振り向き様に映った女性の姿——純白のワンピース、丁寧に編まれた亜麻色の髪。支度に時間がかかるからと先に自分を送り出しただけあって、華やかで普段よりずっと目立つ服装だったのに。
「……いえ……ジニア、さん。鈍い、なんて——別にそんなつもり、じゃ……」
つば広帽が落とす影のせいで、上手く表情は捉えられない。
けれど、先ほどよりもか細くて——消え入りそうな声から彼女が言わんとしていることを察するのは、さほど難しいことではなかった。
「いや、ローザ。僕も別にそんなつもりで言ったわけじゃないんだ。ほら、僕が鈍いのなんていつものことだし。ちょっとした冗談みたいなものだよ」
「そう、ですか……?」
彼女は生真面目すぎる。
重々承知していたはずではあったけれど、相変わらず調子の変わらない妻——ローザに慌てて返事をして。
少々の息切れののち、ジニアは今度こそ耐えかねて額の汗を拭った。
自分もこんな調子じゃ、かえって彼女を不安にさせてしまうというのもまた、重々承知していたけれど。それにしても心音がうるさすぎる。
「……それじゃ、入ろうか」
声をかけても、妻は頷くのみ。きっと、彼女も緊張しているのだろうと半ば割り切るように、彼はドアノブへと手をかけた。
錆びついた外見とは裏腹、案外それはすぐに回って。
カランカラン、と。ドアを開けると共に、涼しげなベルの音が鼓膜を揺らした。
店内は、外よりもずっと多くの花で埋め尽くされていた。
赤、青、黄、多彩だ。どれも目を引いてくる。
おそらくこれも造花なのだろう。どれも目にしたことのないものばかりだった。
それでも、どんなに彩り豊かな花よりも、ジニアの目を引いたものがあった。
「いらっしゃいませ」
ギィ、と腰を軋ませながらも礼をする少女。
華やかな店内の中では、かえって目立つ褪せた人形。
カウンターに佇むそれもまた、彼が初めて目にするものだった。
* * *
「……すみません。営業中、でしたよね?」
「構いません。本日は随分とお客様も少ないので。お気になさらず」
剥げかけた壁紙に、煤けたガラス。座らされたソファーもまた、硬くて腰を痛めてしまいそうなもの。
唯一装飾と呼べそうだったのは、写真立てと瓶に挿された一輪の花。
二人が通されたのは、店の奥の方——表よりも随分と飾り気のない部屋だった。
「確か、人形をご所望でしたか?」
「……ええ。人形師の方に、会わせてもらっても?」
それにしても、居心地の悪い場だった。
ローザは尚更募った緊張感のせいか、黙りこくったまま。
正面に座る人形は、無機質な瞳で、ずっとこちらを捉える。
早く他の人間と話がしたい——この空気感でもまともな会話ができる相手。ジニアが望んでいたのは、そんなものだったけれど。
「いえ。人形師は私です」
極めて無機質に、かつ端的に告げられた言葉。
予想に反した現実に、思わず目を白黒させながらも彼はもう一度、目の前の人形を観察した。
腰まで伸びた髪は、元々は何か色がついていたのかもしれないけれど、色が抜けたせいか真っ白。
それとは対照的に、頬は白さの名残を残したまま、くすんでいる。
そして、一切の生気を感じない、乾いたような、硝子の瞳。
容姿は、15才ほどの少女に近いもので——この暑さにしては丈の長いブラウスやスカートのおかげで関節はちっとも見えなかったが——あまりにも作り物然としていた。
「……人形師、ですか」
「ええ。店先のプレートに記された文字と、私がここの店主であるという事実が揺らがない限りは」
——どうにも、話が噛み合わない。
人形師が人形を作る。その構図に違和感を覚えて聞き返してはみたものの、返ってきた答えでは何も覆らない。
それでも、この街で人形師がいるのはこの店だけ、というのもまた事実だということを、彼は知っていた。
「それでは、ご用件をお聞きしてもよろしいですか?」
「……ええ」
こちらの様子を気にする素振りもなく、変わらぬ声音で発された問いに頷いて。
「僕たちがお願いしたいのは——“子供”なんです」
未だ額に汗したまま、ようやく要件を伝えられたことに、思わず一息吐きかけたけれど。
「“子供”——ですか。それでは次に、所望する理由について、伺ってもよろしいですか?」
間髪入れずに彼女が口にした、もう一つの問い。
そして、ペンを片手に人形師が見つめている相手が自分ではなく、黙りこくったままのローザであることに、彼は気がついた。
——これは……私が話さなければならない、ということ?
未だ深く被ったままの帽子。影に覆われてはっきりと見えなくても、その視線が訴えてきているのはそういった趣旨のことであったのだろう。
人形師の一切揺れぬ視線と、ローザのこちらに縋るような視線をそれぞれ見比べて。彼はため息混じりながらも、口を開いた。
「……代わりに、僕が」
「奥様の方に、お聞きしたいのです」
それを遮ったのは、瞳をこちらに向けぬまま発された声だった。
先ほどまでの無機質さとは裏腹、毅然としたもので。
少々尻込みしたまま、結局ジニアは妻に対して頷くことしかできなかった。
「……その……私たち、結婚してから今日で、3年……で……」
かなりの間を置いて、ローザは言葉を発した。
しかし、それは放られたまま。段々と萎んで、やがては消え行き。
人形師はおろか、ジニアにも。視線を合わせようとせずに、彼女は質の良い布地を強く握りしめて、ただ震えるのみで。
「続きをお願いします」
この程度の長さでは、大してメモを取るにも時間がかからなかったのだろう。
震えるローザに対して、人形師は態度を変えることなく、続きを促す。
「……やっぱり、続きは僕が……」
「奥様のお話を聞く必要があるのです。人形作りとは、そういうものですので」
思わず漏らしてしまった声にも、過剰なほどに強情に返して。
もう彼女が望む通りにしなければならないと、きっと、二人して理解せざるを得ない状況だったのだろう。
表情一つ変えない人形師を一瞥したのち、もう一度妻の方を向いて、ジニアは頷いた。
「……それ、なのに……私の体質のせいで……どう、しても……」
けれど、か細い声ながら再びローザが口にした言葉が最後まで発されることはなかった。
途中から混ざった嗚咽。
伏せられた顔。
その仕草の一つ一つで、妻がこの状況に堪えきれなくなっていること。
何度も、何度もここに来るまでに相談をして、彼女の悔恨も、決心も、全て——というのは、傲慢かもしれないけれど。少なくとも、知っていた。
だからこそ——だった。
「あとは、僕が答えます。これ以上は、彼女を追い詰めないでくださいっ!」
発した声で、ジンジンと喉が痛むぐらいに。久々にここまで声を荒げた。
それほどまでに、見るに耐えない姿だったから。
「でしたら、お引き受けできかねます」
だというのに、一辺倒で。
——妻の方が答えないなら、こんな仕事は受けられない。人形は諦めろ。
こればかりは無機質さとはまた別種の、毅然とした態度だった。
そして、言葉が孕んだ意味を察してしまったせいだろうか。
「——っ」
口を開きかけたまま、言葉は喉につっかえて発されることはせず。
ジニアは、言い淀んでしまった。
気持ちのやり場がわからずに、握りしめた布地は厚い。それだけ、普段よりも上質な服だった。
今日という日が大切だったから——何度も話し合って、これだけ準備をしてきたというのに。
——諦めなきゃ、いけないのか。
歯を食いしばって、さらに強く、拳を握り締めた時だった。
「——できなかったのです」
耳に入ったのは、あまりにもか細い声だった。
ほんの少しの雑音で、すぐに消え入りそうで。きっと、向かいの人形師には聞こえないぐらいの声量で。
それでも——妻の声を、自分が間違えるわけがなかった。
「どう……しても——どうしても——子供は、でき、なかったのです」
僅かに混ざった嗚咽。彼女にはどうしようもないのに、気に病んでいるのだけは読み取れた。
だからこそ、慰めでも——何でもいい——とにかく、声をかけたかった。
けれど、彼女の視線は自分にではなく人形師の方へ。一切揺らぐことなく向けられていた。
「でもっ、でもっ——強く望んだのは私で……だから——」
——そう、だった。
「それ」は確かに、自分が望んだものでもあったけれど。誰よりも、望んでいたのは——。
「——諦めることは、できません」
もう、言葉は途切れようとも萎んで消えゆくことはなかった。
そして、少なくとも彼女がここまではっきりと、他者に意思を伝えた瞬間をジニアは未だ見たことがなかった。
いつの間にか、喉奥に詰まらせていた言葉は飲み込んでしまっていた。瞬きも忘れてしまっていた。
「——お願いします」
最後に彼女が人形師に告げた一言と、その深く頭を下げた姿は——強く瞳に焼き付いた。
* * *
「まずは、謝罪をさせてください。先ほどまでの失礼な態度、そして質問、失礼いたしました」
どれほどの時間が経っただろう。
再び人形師が口を開いたのは、その言葉を聞いて弾かれたようにローザが顔を上げたのと同じタイミングだった。
しかし、態度も表情も先ほどまでとは全く違う。
一度頭を下げた後、顔を上げた時の人形師の口元は、真一文字に引き締められたものではなく、幾分か綻んだものになっていて。
無機質さの中にも、幾分かの温度を感じとれた。
「それでは、少々説明をいたします。通常、人形とはお客様から掬い上げた記憶を元に、疑似的な知性を植え付けたもののことを指します。これは、ご存じですね?」
「い、一応は」
どこか、調子のずれたような質問だったけれど。
彼女はいたって真面目な表情のまま、言葉を継いだ。
「——しかし、この店で生まれる人形は決して、“模造品”であってはなりません。“オリジナル”でなければ、ならないのです。だからこそ、お客様がそれを迎え入れるのに相応しい方か、どれほどそれを望んでいるのか、試しておりました。重ね重ね失礼にはなりますが、奥様が少しばかり消極的に映りましたので」
「それでは——作って、いただけるのですか?」
「ええ。誠心誠意、お受けいたします」
少しばかり不安げな口調で問う妻に対して頷きながらも、人形師はペンを取る。
「——ですから、まずは継いでいくための断片を——思い出を、お話しください。お二人なら、問題ないと思われますので」
相変わらず硬い口調ではあったけれど、そう説明する彼女の表情は随分と柔らかくて……もしかしたら、微笑んですらいたのかもしれない。
その言葉にようやく力が抜けて。ソファーに深く体を預けた時、目と目があった一瞬。思わず、自分自身も表情が緩むのを感じながら。
妻と軽く目配せをして、ジニアは口を開いた。
* * *
——完成はまだ先になりますが、先に、お二人とお子様の未来への“祝福”として——“バラ”を贈らせていただきます。
店を出る際に渡された桃色の造花をそっと撫ぜながら、ローザは薄く微笑んで、そっと一言口にした。
「……私、ずっと後悔していました。子供ができなかったのは、自分のせいなのに。わがままで人形を望んで、ここに来て。ジニアさんにたくさん気を使わせてしまったこと」
——君のせいじゃない。そんなこと——あるわけがないじゃないか。
彼女の、少しばかり後ろ向きな言葉を聞いて、そう反射的に口にしてしまいそうになった、その時だった。
強い、強い風と共に、視界を真っ白なものが掠めた。
残ったのは、強い潮の香だけ。妻の帽子が持ち去られたらしいことに気づくまで、そう時間はかからなかった。
慌てて、追いかけようとしたけれど。
自身の肩に手をかけた妻の表情を見たジニアは、少しばかり目を見開いて、先ほどまで喉につっかえていた言葉を飲み込み、すぐに足も止めた。
その代わりに、久々に見たその表情を前に、再び向き直った。
——何故って、君が——。
「でも、ジニアさんが——あなたが、私を庇ってくれたから。怖がることなんてないって。そう思えてきて」
——顔いっぱいの笑顔を、見せてくれたから。
「そうしたら私、一歩踏み出せて。だから——っ」
最後に紡がれた言葉。風に吹かれてもなお、はっきりと届いた言葉。そのたった一つを受け取って。
ジニアは、深く頷いた。
* * *
* *
*
「こんばんは、お姉様」
関節を軋ませながらもしゃがみ込み、持っていた花を石畳の上に置いて。
彼女は、墓石と目線を合わせるようにして口を開いた。
「今日はお客様に贈ったのと同じ〝バラ〟です。感謝の意味も持っていますので——なんて。お姉様なら、知っていますか」
答える相手がおらずとも彼女が語りかけ続けていた、その時だった。
ポツリ、と。
手向けた花に一つ、雫が落ちた。
当然、布でできたそれには弾くことなどできやしないために、一つのシミができる。
それをきっかけにして、二滴、三滴、やがては雨に変わって。
降りしきる雨粒は、容赦なく彼女をも濡らし、色が抜けて仄白くなった髪も、くすんだ頬も、弾けなかった分の水滴は、そのまま吸われていく。
「……けれど、この花に棘はありません。相変わらず〝模造品〟です。本物では、ないのです。……ごめんなさい」
それでも、そこかしこがシミだらけになろうと、彼女がそこから離れることはなく。
俯いたまま動かない彼女の表情は、ひどく歪んでいた。