——知らない。
時折胸を抑えるような仕草を見せながら、路地裏でうずくまる少女がいた。
港で海水に足を浸したり、スキップするように無理やり弾ませた足取りで道の真ん中を歩いたり、階段に寝転がってみたり。
けれど、どれくらいの時間、街をふらついてそんなことをしていたか——なんて彼女には知る由もなく。
まだ比較的新しいはずなのに、軋み始めている球体関節だけが〝そうなってから〟どれだけの時間が経ったのかを物語っていた。
しかし、目に見えるボディーの異常などそれくらいのもの。
少なくとも、今自分が苛まれている感覚の元凶がそこにあるとは到底思えない。
「……痛い」
だというのに自然と声は漏れて。
胸を抑える手には、ぎゅっと力が込められる。
そこに欠けたものなんてない。
——なんで?
だからこそ、尚更彼女には理解することができなかった。
まるで穴が空いてしまったかのように空っぽの胸が、すぐさま埋めてほしいと訴えるように、強く痛む理由が。
もう堪えることはできなかった。
痛みは増すばかりで、じわじわと身体中を蝕んでいくよう。そのせいだろうか、もはや身体を動かすことすらも辛くなってきて、少女はその場にうずくまる。
——いなくなる前の“あの人“はこういう時、どうしていたの?
逃げ道を探るために記憶をまさぐって。ようやく思い出したのは、目から水滴を零す行為。
『泣けば大抵、気なんて晴れるわよ』
気が晴れる、というのがどういう感覚なのかはわからなかったけれど、何とかその言葉を思い出し、目の当たりに手を当てて、〝あの人〟がしていたように擦って、少し声も出してみて。
けれど、同じことは起きない。
乾いた瞳は、いつものように開かれたまま。
冷静になって考えてみれば、閉じることすらできないそれに、泣くための機能なんてついているわけもなかった。
「っ……ぁぁ……」
漏れ出た嗚咽に近い声は、“あの人”が泣いている時に出していたものとよく似ていて。
だというのに、ちっとも気が晴れるという感覚はしない。
——やっぱり、違うんだ。
ただ、それがわかってもできることなんてなかった。
今とれる行動は、ずっと空っぽのまま、うずくまるだけ。
「……空っぽは、いや」
とはいえども、堪えることができたかというと、そんなこともなくて。
せめてもの救いを求め、少女が声を上げた時だった。
「——なるほど」
不意に聞こえた声と共に、少女の手を何者かが掴んだ。自分と同じで硬い感触をしていて。けれど、込められた力はずっと柔らかで。
驚いたように顔を上げる少女の瞳に映ったのは、見知った相手だった。
「……人形師……さん……?」
「ええ。ですから、安心してついて来てください」
人形師の落ち着いた声音は、一時的にではあったが、確かに少女の気を紛らわせた。
そもそもとして、自分を作った彼女ならばきっと、この異常を治してくれるはず。
止まない痛みの中でも、そんな思考はまだ生きていた。
カタカタと膝を鳴らしながらも、手を引かれるままに。少女は立ち上がった。
* * *
「それで、今日はお一人ですか? ライラさん」
来客用のソファーに座らされ、開口一番に人形師が問うてきたのはそんな具合の内容だった。
「……はい。〝あの人〟はいなくなっちゃったので」
そんなことを口にするのも、誰も隣におらず、一人でこのソファーに座っているのも、何だか不思議なことだ。
一通り辺りを見回した後に、少女——ライラはそう結論づけて。それでも一人であることには違いない。質問に対して、頷こうとした。
「——っ」
けれど、何故か首は動かなかった。
その代わりに小さく音を立てて、身体が小刻みに震えるだけ。
「グリスを差していなかった期間が長かったからでしょうか? ……頷けません」
「……いえ。貴女の様子を見る限り、理由は別のところにあるかと思われます。他に異常はありませんか?」
「他……ですか?」
考えるまでもなく、異常なんて一つしかなかった。
「胸の辺り、ぽっかり穴が空いたみたいで——ひどく、痛むんです」
少なくとも一時は収まっていたはずなのに、先ほど頷こうとした時からぶり返してきていた痛み。
——もう、理由も何もわからないことばかりだ。
思考はただただぐちゃぐちゃに、それでも隅の方で痛みを止めたいという気持ちだけは残っていたせいか、手だけは勝手に伸びて、いつの間にか胸を押さえている。
けれど、その際に力を込めすぎたのだろうか。ギィ、と硬いものを引っ掻くかのような音が部屋中に響いた。
「ごめんなさい。それでも、これは物理的に直すことはできないものなのです。ですから、最後に一つだけ聞かせてください。それはいつから続いていますか?」
「確か……〝あの人〟が事故でし、し……シ……」
それが続くことはなかった。
いつから続いているかなど、人形の記憶力を持ってすればすぐに思い出せることのはずなのに、何故だが言葉はそこで途切れる。
解決法がこれしかないのなら、先を言わねば。説明しなければならない。でないと一生このままだ。
ライラを襲った観念は、きっとそんなもの。口を開いて動かして、声を絞り出そうとして——何度も試そうとする。
けれど、決して声が出ることはない。
震わせた唇、作り物の歯が擦れて、耳障りな音が立っただけだった。
「——よく……わかりました。あなたの、気持ちが」
不意に、人形師が口にした一言。
回答になっていないそれに、滑り良く瞳だけが回って人形師の方を向く。
「〝気持ち〟って……。わたしが知りたいのは、この異常のことです」
そんな愚痴にも近い言葉を、思わずライラは漏らしてしまった。
——そんなの、回答になってない。
知りたかったのは、この痛みの——異常の正体だ。
「ですから、異常ではありません。貴女の胸にあるのは、異常ではなく〝感情〟です」
〝感情〟って。言葉の意味としては理解していたはずだったけれど。
ただ、今この胸にあるのがそれなんだって。
自分をつくった相手になお、そう言われたところで納得はできず、ライラは首を傾げるばかり。
「今、空っぽですか? 痛い、ですか?」
それでも、次に投げかけられた言葉の意味は理解できた。
まだ空っぽだ、塞いでほしい。胸に空いた穴は木枯らしが吹き抜けたかのように冷たくて、痛い。
意識すれば意識するほど、また胸の痛みは強まる。
俯くようにして、小さく頷いて。
また胸へ手を伸ばそうとした、その時だった。
きゅっ、と小さな音と共に。重なるようにして胸に触れたのは、硬い感触だった。
何事かと、ライラが顔を上げた時。
すぐそこにあったのは、人形師の顔で——彼女はライラの身体を抱きしめていた。
「温かいですか?」
「いえ、硬くて、冷たいです」
ここまでは、正直に口にしたつもりだった。
彼女も自分と同じ人形。触れ合う身体の感触は硬く、そこに体温などない。
そのはず——だったのに。
「——でも……少しだけ、温かいです」
じわりと、その温もりは広がっていく。
血液など流れているわけもなくて、この体にとっては、
本来ならばその感覚も異常なものだったのだろう。
それを確かめるように、少女は再び胸に手を当てる。
——冷たい。
確かに体温はない。当然だ、無機物なのだから。
だというのに、その中に流れているものは——。
——何故だか、温かい。
「……私たちに与えられた知性が疑似的なものであることに、違いはありません」
人形——自分たちに与えられているのは疑似的な知性なのだと、造られた時、人形師は、そう口にした。二度目だ、それを聞かされるのは。十分に知っている。
この身体には温もりなんてない。
この身体は涙を流せない。
「けれど——そこに感情は生まれます。貴女のその痛みは……その温もりは……間違いなくその証であるはず」
それなのに、胸は痛んだ。
ぽっかりと穴が空いた。ひどく——冷たかった。
「思い出してみてください。貴女が最初に生まれた意味を。貴女を友人として望んだ〝人〟を」
自分は〝あの人〟の友達になるために生まれてきたんだって。自我が芽生えてすぐに、そう聞かされた。
『私はあなたとお友達になりたいの。だから……これからよろしくね』
『ごめんなさい。……友達……とは……?』
『あっちゃー、まずはそこからかぁ……。でも大丈夫! 全部、教えてあげるから!』
だというのに、その意味すら知らなくて。
気の利いた言葉一つ、言えなかった。
『あたし、海が好きなんだ』
真冬だというのに、海水へと足を浸して。一緒にやろうよ、と。手招きする〝あの人〟は変だった。
疑似的な感覚ぐらいはある身だ、そんなことをしたら寒いって。それぐらいは知っている。
だから、ただ遠巻きに見つめていただけだった。
『見て! この天気——なんだか、気持ちも弾んでこない?』
人通りが多い道の真ん中。稼働範囲が狭い足を無理やり持ち上げられて、〝弾む足取り〟というのを教えられた。
周りの視線が、痛かった。だから、せめて——と。付き合ってあげることにした。
〝あの人〟は嬉しそうに、さらに弾んだ足取りで、人混みの中手を引いてくれた。
『今日みたいに天気のいい日はね、星がよく見えるの!』
風が冷たかった夜、そそのかされるままに、誰もいない階段に、二人して寝そべった。
〝あの人〟が言う通り、確かに空気は澄んでいて——星は、よく見えた。
けれど、それ以上に寒くて。結局は、互いに身を寄せ、体温を一方的に受け取って、その場を凌いだ。
思い返してみれば、変なことにばかり付き合わされていた。
しかし、それが自分と同じ、気の利いた言葉一つ言えないぐらいに〝あの人〟が不器用だったからで——行動は、それの裏返しだったとしたら?
引かれた手の感触。
身と身を寄せた時の温もり。
人形の記憶は、人間と違って褪せるまでの時間がずっと長い。だからこそ——鮮明に覚えている。
「きっと、貴女は幸せだったのです。これ——温もりに触れたのもきっと、今日が初めてではなかったでしょう?」
そんな人形師の問いに対して、ライラはゆっくりと。だけれど、確かに。今度こそ首を縦に振った。
「——であればもう、貴女の胸は空っぽではありません。埋めてくれる“思い出”と、それを支える感情があるのですから」
ふと、ライラはもう一度胸を押さえてみた。
簡単に空いた穴は塞がりきらない——けれど。少なくとも、もう冷たくはない。
「……そう、なんですね」
顔を上げた時、薄く人形師は微笑んでいた。
そのくすんだ硝子玉は、多少ぼやけた様ではあったけれど、確かにライラの表情を映した。
涙の一滴も、頬には流れておらず。
だけれど、今にも泣きそうなぐらいに歪められた顔。
今しがたその存在に気づいたばかりのものは、確かにそこにあった。
* * *
「一つ、提案があります」
目元を、何度か擦って。
ようやく、表情を元に戻したライラへ、人形師は名前が記された紙片を差し出した。
「それは、私の知り合いである人形師のものです。貴女が今後、意味を望んだのなら、そこを訪ねてみてください。きっと、貴女を立派な人形師にしてくれますよ」
「私が……人形師に……? 一体どういう……?」
少し震えた、困惑を隠しきれないような声音。
問うたライラに、人形師は、少し間をおいて丁寧に。次の一節を口にした。
「あくまでも受け売りですが、人形の人形師が作り出すのは、自分と同じ存在。だからこそ——私たちは共感ができる。生まれるのは、人の気持ちに寄り添える人形なのだと。私にこの道を説いた人形師は申しておりました」
「共感、なんて——わたしには、まだ——そんな……っ」
「今はまだ、未熟なものでも構いません。感情は、人と触れ合い、記憶を掬うことで、さらに成長していきます」
——感情は、成長していく。
未だ、ライラが知らないことだった。
まだ空っぽだった胸は、埋まりきっていない。
隙間には、確かな痛みが残っている。
——それでも。
「私の感情がもっと育ったら、“あの人”の気持ちが、分かるようになりますか?」
「ええ、きっと。不確定ではありますが、それでもそうなると。私は信じています」
——もっと〝感情〟を知りたい。それで〝あの人〟に近づけたら。
痛みは、そのままでもいい。
けれど、それを〝思い出〟に変える術があるのだとしたら——きっと、それは素敵なことだから。
「……わかりました。考えさせていただきます」
「そうですか。人形師がまた一人増えるとしたら、本当に喜ばしいことです」
人形師へと軽くお辞儀をして。席を立つと、ライラはドアノブへと手をかける。
「そうそう、最後にこれを」
そして一息に、ドアを開けようとした時のことだった。
そんな言葉と一緒に、少し慌ただしくしながらも店の方から人形師が持ち帰ってきたのはハート型の花弁を持つ、一輪の造花だった。
「〝ライラック〟です。これからたくさんの〝思い出〟を紡げるように、と。お客様——貴女のお友達に贈らせていただいたのと、同じものです。そして——餞別として、これを差し上げます」
あまりこの町では見ないその花を軽く撫ぜると、ライラはそれを胸に抱く。
「ところで、この後はどこへ?」
「久しぶりに——帰ってみようと思います。〝あの人〟と過ごしたお家に」
「……そうですか。それは良いことですね。気持ちの整理は、必要です」
人形師は、そう問うた後に微笑みを湛えたまま、花とライラを見比べて。
それから、真っ直ぐにライラの瞳を見据えた。
「貴女は、記憶を植え付けられただけの模造品ではなく、元より、そして今も——〝貴女〟なのですから」
* * *
——じゃあ、名前、このお花から取ります。だって、素敵な意味じゃないですか。〝思い出〟なんて。
不意に思い出した、そんな言葉。散らばったままでいる記憶のうちの一つ。
思わず、人形師はペンを記す手を止めて、視線を机の上に置いてある写真へと向けた。
映っていたのは、微笑む女性。
そして、自分であって——結局、自分ではない少女。
「——彼女は良い人形師になるのでしょうね。〝模造品〟などではなく、確かな意思を持つ〝オリジナル〟の人形なのですから」
少女が立ち去った後に、ポツリと吐かれた独り言。
「……私よりも、ずっと——ずっと——そうすれば、泣きじゃくる人も、いなくなるのでしょうね」
その横顔は、先ほどよりもずっと、寂しげなものだった。