「ねぇ、あなたの幸せって、なに?」
寝相が悪い故に、シワがついたベッド。その脇でシーツを交換するメイド服に身を包んだ人形。
いつもと変わらぬ朝の風景。
椅子に腰掛けて、寝癖を直してもらうのを待ちながら、ふと、少女はそんなことを呟いた。
「……幸せ、ですか」
いつもは間なんて一切作らず、聞かれたことにはすぐ答えられると自負していたはずなのに。
その時だけ、僅かに人形は言い淀んだ。
「普通は何かあるじゃない? 何でもいいからっ!」
椅子から立ち上がり、駆け寄ってきた少女が抱きついてきたことで、僅かに腕は軋む。
「……そう、ですね。——健やかに、一切の悲しみすら落とさず。お嬢様が育ってゆくこと、でしょうか」
「別に——お世辞じゃなくてもいいのよ? ただ、わたしはあなたの本音が知りたいの」
正直に、口にしたはずだったのに。
何度も聞かれて、その度に同じことを答えても少女は納得していないようだった。
「……わざわざ、ありがと」
髪を結わえ終わった途端、素っ気なく返された言葉。
忙しない足取りで少女が部屋を出る前に見せたのは、今にも泣き出しそうな膨れっ面。
いくつも、いくつも無造作に転がされた、記憶の珠。
けれど、最後に少女の顔を見たのはその朝が最後だったと。
他の記憶が褪せて、ぼやけていく中でも——人形は、確かに記憶していた。
* * *
じりじりと、日差しが照りつけていた。
この町にある建物のほとんどが、白い石灰で塗りたくられているのはそんな日差しを避けるため——幼い頃から聞かされていた話の意味がよくわかる。
夏。猛暑だった。
だと言うのに、仄かに香る潮風はあまりにも弱々しい。
陽炎が、視界を霞ませる。
一歩、一歩、階段を登るごとに額に滲む汗は、玉のよう。
「……流石に、暑すぎよ」
こんなことなら日傘の一つ、持ってくればよかった——なんて。今となっては叶わぬ後悔を一つしながらも、自身の家を見下ろして。
それから、ため息を吐くとそれ以上は物言わず。少女は再び歩き始める。
初めていく場所だっただけに場所がわからず、何度も道行く人に尋ねた。
用意周到に行く、なんて癖はあまりついていなかった。
持ってきた水も空っぽになって、もうどれだけ階段を上らされたのか、わからなくなってきた頃合い。
他と比べて、少しだけ白い外壁、店先を彩る花々。
その建物を見つけて、ようやく少女は立ち止まった。
『artificial flower and doll』
ガラス窓の向こうにかけられたプレート。明らかに〝人形〟の部分だけ、他と比べて濃く映った。
そして、こんな暑さの中でも萎れることのない花々は、造花ゆえらしい。
一つわかって、思わず口元が緩むのを感じながらも少女は、隣に顔を向けて。
綻びかけた表情は、一瞬にして元に戻った。代わりに浮かべたのは、膨れっ面。
——そうよ、文句を言うために来たんだったわ。
今一度目的を反芻して、ドアノブを回すと、少女は一息にドアを開けた。
ガランガラン、と。本来は澄んだ音を奏でるはずだったベルは、鈍い音をあげた。
それに反応するかのように、店内をも彩る花々の奥で、顔を上げたのは人形。
未だ白い磁器、軋むことのない関節、色の一切抜けていない髪。
澄んだ硝子の瞳が、少女を捉えた瞬間だった。
「——あなたなのっ!? わたしと〝キョウ〟を、会えないようにしたのは——っ!」
真正面から放たれた文句が、人形を射抜いた。
けれど、真新しい人形は一切、表情を変えることなく。少女の足先から頭のてっぺんまで、一通り、視線を巡らせて。
何か納得したかのように、一度頷いた。
* * *
「キョウ様が仕えていた、お嬢様——シンネ様、ですか」
「……名前は聞いてたのね。そ、前の人形師が引退して、最近のキョウのメンテナンスはあなたが請け負ってるって聞いたから、ここまで来たのよ。この暑い中、わざわざ」
「ええ。この日差しの強さを見る限りでは、そうなのでしょう」
汗一つかいていない口元から、素っ気ない返事が漏れた。
知っているものとは違う無機質な声に、思わずシンネは顔を顰める。
「——お茶の一つとか、用意できないわけ?」
「私が摂取しない以上は必要ありませんので。そのようなものはございません」
「……まあ、お茶はいいけど。とにかく——」
「私には、仕事がありますので。シンネ様のお話をゆっくりと聞いている時間はありません」
本題を遮り、一定のテンポを保ちながらもそう言い切ると、人形は立ち上がった。
「……店の方、誰もいないじゃない」
「カウンターに佇むだけでも、私にとっては仕事です」
「だから、まずは話を聞きなさいってば——っ」
店の方へ人形が戻っていく直前、その真新しい腕にしがみついて。
ようやく起きた僅かな関節の軋みののち、それに反応するように人形は立ち止まった。
「……であれば、カウンターでお聞きします。椅子も、何もありませんが」
* * *
「……狭いじゃない、ここ」
「元々、二人を収めるために作られていませんから。先ほど、そう説明したはずですが」
二人して詰められたカウンター。
その狭さに思わずシンネが呻いてもなお、人形は無機質に返答するのみ。
会話の切れ目、思わず黙りこくってしまって。どこか手持ち無沙汰。
間を埋めるようにシンネは、店内を見回す。
外から見た時は、他の建物と大して変わらない大きさをしていたようだったけれど、いざ中に入ってみると、一回りほど小さく見えた。
僅かな通路を確保しているほかは、所狭しと並べられた陳列棚。
赤、青、黄。
狭い間隔で並べられたそれらは、目が痛くなるぐらい多彩だった。
そんな光景をぼぅっと眺めていた時、不意に隣で音を鳴らして。人形は、カウンターの外へ出ていった。
「……どこに行くのよ」
「陳列と整理です」
答えは、端的に返ってきた。
所々、棚に体をぶつけながらも花の入った鉢を手に取ると、他の場所へと移したり、入れ替えたり。
ほんの少しずつ、並びは変わっていく。
「……その作業、なんの意味があるの?」
青、黄、赤。
並びが変わっても、相変わらず目が痛くなるぐらいに、色が散らばっていた。
「気分の問題です」
「……人形にも、気分ってあるわけ?」
「きっと、あるはずです」
最低限、断定するようなことしか口にしなかった彼女にしては珍しい歯切れの悪い回答に、シンネは顔を顰める。
頬杖をつきながら、視界に映るのは無意味に見える光景。
そして、無意味な会話を繰り返す自分もまた、未だ本題には触れられていない。
むしろ、自ら触れていない。
——なんで、ここに来たんだっけ。
そんな疑問が、シンネの脳裏をよぎった時だった。
狭い部屋いっぱいに、破砕音が響き渡った。
そちらに視界を向けた時、いくつもの茶色い破片の中、人形がしゃがみ込んでいた。
彼女の足元には、破片の一つに押し潰された花。何が起きたのかは、一目瞭然だった。
「どうしたのよ——って、あなた、怪我してるじゃないっ!」
カウンターから出て狭い棚を抜け、破片を引っ掛けないように裾の長いスカートを軽く上げながら、恐る恐る駆け寄った先で彼女の目に映ったのは、真っ白な人形の頬を掠めた一つの裂傷。
「人ほど鮮明な痛覚は、人形にはありません。何も、問題ありません」
人でない以上、血が出ることはないようだけれど、人に近い顔に引かれた、黒々とした荒い線は痛々しいものだった。
「問題があるって顔、してるわよ。それに、痛いことには痛いんでしょ?」
僅かに、瞳を巡らせて。だけれど、案外あっさりと人形は頷いた。
「……しょうがないわね。陳列は諦めて。整理の方は代わりにわたしがやってあげるから、あなたは休んでなさいよ」
しゃがみこんだままでいる人形を尻目に、シンネは目の前にあった鉢を一つ抱える。
少しだけ棚からはみ出したもの——確かに、危険そうに映る。
案外、そういった鉢は多かった。それに加えて、後ろを向いたものもいくつか。
外よりは幾分か涼しい店内ではあったけれど、目についたものを片付けているうちに、シンネの額には再び汗が浮き上がっていた。
「それにしても、あなたにも案外不器用なところ、あるのね」
「……不器用ではありません。慣れ、不慣れの問題です」
少々からかうように口にした言葉。
珍しいことに、返答までにはしばしの間があった。
「……そ、不慣れ——なんだ」
もしかしたら、からかいすぎたのかもしれない。
先ほどまでのあっさりとしたものとは違う、殊勝な態度。
それを引き出してしまったことに、妙な罪悪感を覚えて、シンネは僅かに俯いた。
——重いでしょ? それ。わたしも手伝うっ!
——私は慣れていますので、すぐに終わります。お嬢様は座ったままでいてください。
手を跳ね除けられた時の感触。
もう、ずっとずっと昔の記憶。褪せていたそれは、やたらと今だけは鮮明に思い返された。
毎度、慣れていますから、と口にして。幼い時から一緒にいたメイド人形——キョウは、なんでも一人でこなしてしまった。
きゅっと、シンネは鉢を抱える手に、力を込めた。
これぐらいじゃ、ちっとも軋まないぐらい頑丈な磁気。
それなら、きっと座り込んでいる真新しい人形も、頑丈さという部分では変わらない。
重い鉢を持ったとしても、それは決して軋まなかった。
——でも、キョウはどうだったっけ。
不意に思い出した、硬い感触。
最後に抱きついた時、古びた関節は軋んだ。
軋むぐらい、強く抱きしめたから。
「ねえ……なんで、キョウをわたしと引き離したの?」
唯一、キョウの部屋を出入りしていた人形。
彼女の姿を見たのは、今日が初めてじゃなかった。
——まだ、背丈が今の半分と少ししかなかった頃。夕食の時、たった一人で話し相手になってくれていたキョウが別れを口にした日——その直前に、こ
の人形は——。
「キョウに、どういう話をしたの?」
——来週で……私は、お嬢様のメイドを辞めさせていただきます。
引き止めるようにして、きゅっと掴んだ手は跳ね除けられて。
もう二度と、それが触れることはなかった。
何度も引き止めた。何度も聞いた。それは、キョウ自身の意思なのか、と。
「当人の問題ですので、私からお伝えすることはできません。ただ一つ——人形にも、意思がある、ということです。少なくとも、私が引き離したわけではありません」
嘘をついているようには思えなかった。
それ以上、追求する気も起きなかった。
先ほどと同じ、淡々とした口調で。
だけれど、閉じないはずの瞳を伏せる彼女の表情は、確かに陰っていたから。
「……やっぱり、キョウの意思だったんだ」
「ええ。ですから——私には、それに従う義務があります」
小さい時から、不器用だった。
小さい時から、強情だった。
何度、キョウに当たったのかもわからない。何度、キョウに助けられたのかもわからない。
雨が降った日は、自分が濡れるのも構わずに傘を差し出してくれた。
両親が二週間ほど帰ってこなかった時は、癇癪を起こして彼女に当たった自分を、ただ抱きしめてくれた。
彼女の関節の軋みや、身体の傷。そのほとんどを作ってしまったのは、きっと——。
いつの間にか、目に見える範囲の鉢は、一通り片付け終わっていた。
陽はいつもより早く沈み、シンネの瞳にも、影を落としていた。
「……もういいわ。ごめんなさい、変に当たったりして。今日は、帰るから」
強く踏んだ木板。忙しない歩調。
それが癇癪の前触れだってわかっていたから——キョウは、いつも慰めてくれていた。
——けれど、もうわたしに——付き合いきれなくなっていたとしたら?
シンネは、乱暴にドアノブを掴み、回す。
その時、ちょうどそのタイミングで、店の方から、何か声が聞こえたような気がした。
しかし、それは、来た時と同じく鈍い音を立てて鳴ったベルに遮られてしまって。
無視して、シンネは外へと踏み出した。
陽は沈んだ。頬を撫ぜる潮風は、冷たい。
もう、日傘は必要なかった。
隣を向いても、そこには誰もいなかった。
* * *
* *
*
——健やかに、一切の悲しみすら落とさず。お嬢様が育ってゆくこと、でしょうか。
別れが決まっていた日に、問うた真意。返ってきた答え。
今思えば、やはりお世辞だったのだろう。
控えめなノック音が、ドア越しに聞こえてくる。
新しいメイドは、朝、シンネが起きれなかったとしても、決して部屋に入ってまで起こしてはくれなかった。ただ、業務をこなすように淡々と。踏み込まないように、と開いた距離感。
——ぜんぶ、キョウじゃない。
人形は、人の模造品。そう聞いたことがある。
けれど、人形であるはずの、キョウの代わりはいない。
身を捩り、大袈裟に寝返りを打つ。シーツがよれて、シワができる。
今晩、またベッドに帰ってくる頃には、これももう元通りになっているのだろう。シンネの見ていぬ間に、直されているはずだ。
逆を向いたせいで、サイドテーブルに置かれた櫛とリボンが映った。
これもまた、自分で結ばなきゃいけない。
数日前に感じた憂鬱な気持ちはずっとそのままで。シンネがそれを見つめていた時だった。
「お客様です。至急、会いたいと」
珍しくドアが開いて、今日ばかりは少し慌てた調子で、メイドが部屋に上がり込んできた。
「……そう。誰なの?」
「それが……〝人形師〟だけで伝わると——」
* * *
「……何の用よ」
ここまで端的な伝言の仕方で自分を訪ねてくる人形師。
心当たりがある相手は、一人しかいなかった。
きっと今日も暑いだろうに、白い肌には一切汗を浮かべず。涼しげな顔で、人形師は背中を伸ばして椅子に座っている。
「この間、失礼なことをしたの——悪かったわよ。謝るから」
「その件では、ありません」
シンネを遮って、人形師はそう口にする。それも、この間会った時以上に、急いた口調で。
「——じゃあ、何の件で」
「キョウ様の件、です」
その瞬間、シンネは目を見開いた。
「キョウが——どうしたの……?」
「シンネ様に会いたい、と。それも——なるべく早く、とのことです。今から、外出は可能ですか?」
「もちろん……もちろん、だけど」
まだ、シンネの中で燻るものは収まりがつかなかった。
——わたしに会いたいって……なんで……。
今更、どのような用件なのかなんて見当もつかないまま、玄関にたどり着く。
「——日傘を、お忘れですよ」
恐らく、返事の代わりに数度頷いて。
上の空なまま、受け取った日傘。相変わらず、今日も日差しは強かった。
けれど、開いた日傘は幾分かシンネの身を守ってくれた。
「それでは、行きましょう」
半ば、人形師に付き従うように。
その早い歩調に合わせて、シンネは駆け足気味に歩き出した。
* * *
「こちら、です」
人形師が立ち止まったのは、シンネの家からだいぶ離れた高台の、周りのものよりも一回り小さい、木漏れ日を浴びて建つ家の前だった。
思わず、ノックをしようと手を伸ばして。
しかし、それを制したのは人形師だった。
「一つだけ、お話があります」
かしこまった表情で、彼女は告げる。
「彼女が今、どのような状態にあるか、ということです」
「状態……? どういう……?」
困惑を滲ませた口調で問うシンネに、まるでそれは読めていたとでもいうように、人形師はいたって冷静な態度だった。
「——キョウ様は、死期が近いのです」
少しも言葉を濁さずに、真正面から放られた言葉。
その意味がわからなくて。シンネは凍りついてしまった。
「よろしいですか? 人形の記憶は、永遠に保持できるものではありません。次第に、それは褪せて——やがては、消え去ってしまいます」
「消えたら……どうなるの……?」
「もう、そこに意思は宿りません」
それ以上の意味は、問わなくても理解できた。
意思が消えた、空っぽの人形。
それは、彼女の言う通り、キョウではないから。
「……そう、だったんだ」
——でも、何で。それをキョウは、わたしに黙っていたの?
胸中で、もう一つの疑問が燻る。
それでも、既にない混ぜになっていた感情に混ざっているものが、一つ増えただけだった。
もう、感覚は麻痺していた。
「それは、ご理解ください。私は、ここで待っておりますので」
軽く頷いて、シンネはもう一度ドアに手を伸ばす。
震える手で、幾度かノックをした。
中々、それは開かなかった。けれど、何度目だったろう。
長い間を経て、それは開いた。
「お嬢様——シンネ様、ですか……?」
まるで、自分を自分だと認識していないかのような、少し困惑したかのような口調。
彼女と別れた時から、随分と成長してしまったせいだろうか。
対して、キョウの容姿は、少しも変わっていなかった。
未だ造りだけは若々しい顔。
以前よりも少しだけ頬がくすんでいて。シンネを映す硝子の瞳にはヒビが入っていたけれど。目立った変化は、それぐらいのものだった。
何も口にできないまま頷くと、彼女は僅かに表情を綻ばせた。
「……お変わりないようで、何よりです」
ただ、それだけを口にして。シンネを部屋に招き入れた。
狭い家屋は、今のキョウと同じぐらいに古ぼけたものだった。
壁紙はところどころ剥げ、掃除もほとんど行き届いていないらしい。煙たさのせいで、シンネは思わず口に手を当てた。
そして、ベッドはシワだらけだった。
「……申し訳ありません。汚い部屋で」
そこに自分は腰掛けると、シンネには側にある椅子に座るよう促す。
昔はあんなに高く思えていた背丈だったというのに、今、目線は同じぐらいだった。
「それは気にしてないわよ。ただ——キョウのことが心配で……体調は、どう?」
「……私も、変わりありません。人形ですから」
口ぶりこそ、無理矢理元気さを取り繕っているようだったけれど。身体は、先ほどから僅かな動作をするごとに軋んでいた。
それに、彼女は掃除が上手だったはず。きっと、以前よりも関節が動かなくなっていたのだろう。
「……そう。だったら、よかった。せっかくお招きを受けたのに、このまま帰るんじゃ、何も意味がないわよね。掃除でも、させて」
「いえ、お嬢様……そんな——」
「……いいのよ。わたしももう、昔ほど不器用じゃないんだから」
積もる話も、聞きたいことも、いくらでもあったはずなのに。
不思議と何も口にはできないまま。部屋に響いていたのは、箒が床と擦れる音のみ。時は静かに流れていった。
「……申し訳ありませんでした。お嬢様」
そんな最中、ぽつり、と。
キョウが零した。
「……別に。掃除はわたしの意思よ? 何も、そんなかしこまらなくたって……」
「お嬢様のメイドを、辞めたことです」
ない混ぜになっていた感情は、一瞬にして剥き出しになった。
先ほどとは比にならない。容赦なくそれは、胸を打ち付ける。
「……ああ、そのこと、ね」
けれど、平静さを装いながらも、シンネは呟いた。
箒を動かす手を、止めることはなかった。
「——もう、お忘れかもしれませんが——健やかに、一切の悲しみすら落とさず。お嬢様が育ってゆくこと——それが、私にとっての幸福でした」
——忘れるわけ、ないじゃない。
すぐにでもそう口にしたかったのを、シンネは押し止めた。
無理矢理に飲み下したそれは、喉元でつかえた。
「だからこそ、私がお嬢様の前から完全に姿を消すこと。その直前まで、一緒にいること。それは、私の望んでいたことに反していました」
あくまでも、淡々と彼女は続ける。
その言葉に、シンネは相槌を打ち続けた。
「……けれど、それは杞憂だったようです」
もう、集めるべき埃はほとんど視界には残っていなかった。
動かす必要がなくなった手を止めて。シンネは、表情だけは気取られぬようにしながらも、頷いた。
「——お嬢様は、私の想像よりも。ずっと気丈な方に、育ってくださいました」
——そんなわけ、ないじゃない。
手が、震える。古びた箒は、軋みを上げる。
掃除はまだ下手だ。朝だって一人で起きられない日はある。リボンだって、上手に結べない。癇癪も、まだ残ってる。
——わたしは、キョウの言うような人間じゃ、ない。
「——っ」
押し殺したつもりだった声は、僅かに漏れた。
——だって、今も——。
ぽつり、と。落ちた雫は床板にシミを作った。
——あなたの言うような人だったら、決して——。
僅かに箒を動かして、その跡を隠す。
目元を擦ることができないから、気取られぬように。頷くふりをして、下を向いた。
その時だった。
「——本当に、立派になられて」
きゅっと。僅かに軋みを上げながらも、弱々しいけれど、確かな感触がシンネを包んだ。
それは、薄れていた記憶の中でも、鮮明に覚えているものだった。
頬を、雫が伝った。
しかし、昔のようにそれを彼女の体にこぼして、シミを作るわけにもいかず、全て、袖に吸わせる。
「……ええ。あなたが——育てて、くれたんだもの。当、然——でしょ……?」
殺しきれない嗚咽を誤魔化すために発した声は、切れ切れとしていた。
「……喜ばしい、ことです」
キョウは何度も頷く。
昔してくれたように、ただ、彼女の背中をさすった。
布越しでもわかるぐらい、それはひび割れていた。関節は、その度に軋みを上げた。
少しだけ、力を弱めた。
——最初の頃は、キョウも力加減で悩んでたんだっけ。
手を繋いだ時、少しだけ痛んだ手のひら。次に繋いだ時は、包み込むようなものになっていた。
背中は、何度もさすってもらった。嫌なことがあるたびに、その胸に飛びついていたから。
何も、褪せてなんかいなかった。
記憶は、再び色づいていく。
何度も触れた硬い感触。
それは、温度を持たなかった。
「……また、何回でも掃除しに来るから——大変なことがあったら、手伝いに来るから……様子、見にくるから」
それでも、今しがた蘇ったものは、確かな熱を持っていた。
「だから」
あなたが、してくれたように。
「元気で、ね」
「……ええ。もちろん、です」
向かい合わせに映った顔は、ずっと、ずっと、綻んでいた。
だから、目元を伝ったものを、拭い去って。嗚咽を、堪えて。僅かに表情はこわばったけれど。
精一杯の笑顔を——シンネは、浮かべた。
* * *
* *
*
長い時間のようにも、一瞬で過ぎ去ったようにも思えた。
けれど、散らばった記憶の中では、それもまた、煩雑としていて、判別ができない。
ぷつん、と。
音を立てて、一つ、褪せた珠が、弾けた。
初めて、少女を抱き上げた時の感触も。
初めて、少女と手を繋ぎ、外に出た時に嗅いだ、雨の匂いも。
初めて、少女にお礼を言われた時の音も。
どんな記憶であろうとも、消え去っていく。
——いつまでも、隣にいるから。
けれど、自分を抱きしめた、その感触を。
聞いた、その声を。
触れた、その感触を。
今にも泣き出しそうな笑顔を。
他の記憶が消えゆく中でも——人形は、確かに記憶していた。
『“あなたが、眠れますよう“』
——ねぇ、わたしに会うようにって。キョウに持ちかけたの、あなたでしょ。何で、わざわざそこまでしてくれたの?
——聞こえたからです。意思が、そう告げ
記憶が、一つ弾けた。
一瞬だけ鮮明になったそれを掴むように、人形が体を起こしたときにはもう、遅かった。
人間らしい、たった一つの休息、睡眠。
幾度行ってもなお、記憶は珠のように散らばったまま。褪せていき、消えることはすれども、元あった場所に戻ることは決してない。
——さればこそ、それを継ぐ糸は——。
「——一体、どのようなもの、なのでしょう。……お姉様」