生きているんだ、って。
しわくちゃな顔に滲んだ、僅かばかりの涙。
初めて胸に空気を取り込んだせいで、きっと痛かったんだ。
頬に零れたそれを拭うことすら知らず、まだ瞳すら開けず、ずっとずっと、泣いていた。
「あの子」と出会った時のことは、今でも鮮明に覚えている。
抱きかかえた時、伝わってきた確かな体温。
その小さな体へ十分に行き届くぐらい、強く、拍動は刻まれていた。
その手に触れた。
余裕なんてなさそうに少し巡らせてから、ではあったけれど。最後には温もりが私の指先を包んだ。
まだ弱々しかったものの、確かな拍動は指を通して伝わった。
間を置いて、温もりは強まった。
力いっぱい握ってるんだって。気づくには少し、弱々しかったし、柔らか過ぎた。
それでも、わかった。
確かに、生きていた。
——だというのに。
「お姉様、ですか」
乾いてて、妙に光沢のある硝子玉。
開きっぱなしの瞳は、目覚めたとしても一滴たりとも雫を溢さない。
握った手は体温も力も持たず、されるがままに軋むのみ。
見た目も声も、限りなく「あの子」に近い。それは違いなかった。
——それでも。
「……わたしは」
——違う。
「……あな、たの」
拒絶するための言葉は、口にできなかった。
つかえたまま、ただ、呼気が喉を抜ける。
わたしは、その瞳を前に黙り込んでしまった。
「あの子」と同じ色、同じ形。
大きくて、くりくりとしていて。それが、堪らなく愛しかったはずだ。
「……ごめんね? やっぱり、何でもない」
だから、もうその瞳に光が湛えられていなかったとしても——拒絶することは、できなくて。
「……かえ、ろう?」
彼女は一言も発さずに、一度頷いただけだった。
差し出したつもりだったはずの手が取られることはなかった。
それは、わたしが選んだわけではなかったけれど。
拒絶されたような感触を、確かに覚えた。
* * *
* *
*
「どちらに?」
「……ん、あー、適当なところでいいよ」
鉢を持ってこちらを向く「あの子」——の姿を模した人形。二つに束ねられたおさげ髪が、軽く揺れた。
そんな彼女をあしらいながらも、わたしはカウンターに戻る。
陽が昇って間もない時間帯、開店はもうすぐ。
お客さんが押し寄せて来てからだと不味いから、いつもだったら造花たちの陳列に追われていたはずだ。
だけれど、最近は人手が増えたおかげか、わたし一人の時よりも随分と早く作業が終わるようになっていた。
というよりも、その人手が大体の作業をこなしてしまっている状況だった。
むしろ、近頃は作業が早く終わり過ぎて手持ち無沙汰になってしまっているほどだ。
特にすることもなく少し早めに入ったカウンター。
一人で入る分には広いな、なんて。
少し余裕があったから、頬杖をつきつつ店内を見渡してみる。
一昨日、昨日、今日。
日毎に、目の前にある花の種類も色も——店内の景色は変わってしまう。
すぐに、彼女が順番を変えてしまうから。
できるだけ種類は種類でまとめたり、だとか。この色の組み合わせが目を引く、とか。案外、配置には拘っていたのだけど。
その点、今はどうだろう。
同じ赤に紛れて目立たなくなった花や、全然違う種類のものと並べられた花たち。
はっきりと言ってしまえば、以前よりも並びは悪化していて。
彼女のやっていることは無駄だった。
きっと、止めた方が良かったのだろうけど。
——お姉ちゃんっ! このお花、どこに置けばいいっ?
「あの子」がわたしの前から姿を消した時よりもずっと前、もっと幼かった頃。
よくお手伝いと称してこういうことをしていたのは、まだ鮮明に覚えている。
「ねえ、レ——」
本当にさりげなく。それこそ、いつもと変わらない調子で“その名前“を口にしようとした。
きっと、いつも通り。まだこれぐらいじゃ反応を示さないと思っていたから。
けれど、確かに彼女は一度だけ肩を震わせて。その瞳を、こちらに向けた。
虚ろな瞳孔が、わたしを覗いた。
それを前にして、思わず押し黙ってしまった。
* * *
人形に記憶が完全に定着して、自我が形成されるのには少しばかり時間がいるらしい。
彼女を作った人形師から注意されたことだ。
確かに彼女は、うちに来てからしばらくの間は特に目立った反応を見せなかった。
それこそ、頷いたりだとか。簡単なジェスチャーぐらいだ。
彼女を迎えてから一ヶ月、やっと少しだけ話すようになって、お手伝いをしてくれるようになった。
少しずつ、仕草が「あの子」に似てきた。
困ったらおさげをつまむところとか、少し歩調が早いところとか、何か物音がするたびに、そのくりくりとした目を動かすところとか。
それでも、やっぱり決定的に違った。
今朝、安易に口にしてしまった名前、こちらを向いた瞳。
その無機質さが再度、頭をよぎる。
背筋が凍りつきそうになった感覚は、しばらく忘れられそうにない。
閉店準備も終え、未だ手に持った鉢をその場に置かせて、彼女を夕食の席へ連れ出す。
二人して、向かい合わせ。ようやくまた、この光景にも慣れてきた。
「——あなた、シチュー、好きだったでしょ? 食べない?」
「結構です。私には、食事を摂ることができませんので」
目の前にあるのは一人分の食器だけ。
もちろん彼女が食事を摂れないのは知っていた。
当たり前だ。瞬きすらできないのだから、食事なんてできるわけもない。定期的なメンテナンスだけで十分だと人形師にも言われた。
それでも、彼女の細い体を見ていると、そう口にしたくもなってしまう。
「……そう、だったね」
育ち盛りだった。
小さい頃から好き嫌いが激しくて、元々小柄な方だったから。少しずつでも確実に、背丈が伸びているのを見るのが嬉しかった。
それでも——もう、それを見ることは決して叶わない。
柱に刻まれた跡、そのてっぺん。ずっとそこに触れたまま、決して超えることはない。
「……気、悪くさせちゃってたらごめん」
「いえ」
ちょうど影になっているせいで、顔はよく見えなかった。
目を合わせることすらできず、結局俯いたまま、それ以上は口すら開けなくて。
一粒、雫が落ちた。
入り組んだ木目の中に、小さなシミができた。
* * *
「これは、どちらに?」
「ん、その辺りでいいよ」
一言、二言。切れ切れとしていた言葉は、ある程度しっかりと意味を為すようになってきていた。
それなら、仕草もきっと同じ。ちょっと鉢を抱え直すような動作、ちょっとすり足気味になってしまっている歩き方。
慎重だけれど、無機質さは少しずつ消えていた。はっきり言って、少しは人間らしくなってきていた。
そんな彼女を傍目に、わたしも書類を前に奮闘する。
人手が増えてくれたから最近は仕事が楽だ。そして、そのおかげかはわからないけれど、確かに造花の売れ行きは良くなってきていた。
閉店した後は、概ね今日届いた造花の確認。わたしは書類、彼女は陳列。完全な分担制。
きっと、一人じゃこんな量の仕事はこなせなかったはずだ。
忙しさのおかげか、時間が経つのも妙に早く感じる。彼女と暮らしてからの三ヶ月は、案外あっという間だった。
コトリ、と。ペンをその場に置く。思索を巡らせている間に、概ね目の前に積まれていた仕事は片付け終わった。
軽く伸びをしながらも、再び顔を上げた時、まだ彼女は仕事を続けていた。
もう、だいぶいい時間帯だ。
外は真っ暗。店の中を照らすのは、いくつか吊り下げたランプと、窓から差し込む月明かりぐらい。
今日は休もうって、声をかけようとして。
その時、わたしはどこか彼女の様子がおかしいことに気がついた。
未だに鉢を持ったまま、ずっと棒立ちをしていた。
カウンターから出て、彼女の元へ向かう。ギシギシ、と木板が音を立てる。こういう時、真っ先に彼女はこちらを向いていたのに。
瞳は、花に注がれたまま。それは、揺れなかった。
だけれど、代わりに一度、唇が震えた。
「——お姉様、今日は変わったお花、ですね」
人のものとは違う、潤ってもいなければ、艶もない唇。
確かに、それは言葉を紡いでいた。
「……え?」
一つ、聞き返そうとして。けれど、その時にはもう、視界が滲んでいた。
くしくし、と。何度も手の甲で拭う。それでも、幾度拭っても、拭っても。それが止まることはなくて。
視界に残ったのはもう、輪郭だけだった。
その、少し丸い顔の形。辛うじて映った、おさげ髪。
わたしの嗚咽以外、耳は何も拾わない。
彼女はただそこにいるだけで、それ以上は何もものを言わなかった。
それでも、それで良かった。
「あの子」だったんだって。
それがわかったのなら、わたしにとっては十分だった。
* * *
「……ごめんなさい。お姉様」
薄い灯りの中、彼女を見つけた。
寝室の前で、うずくまっていた。
そんなところで何をしているのか、と聞くまでもなく、彼女は小さく膝を軋ませながら立ち上がり、そんな言葉を残して。
一度頭を下げると、その場を去っていこうとする。
その仕草はかなり慌てたもので。やたらと大きな足音に木板は強く軋む。
それでも、今あるのは灯り一つだけ。
ガタン、と。不意に、木板が大きな音を立てて軋んだ。
できた溝に、彼女は気づいていないみたいだった。
不意に、体勢が大きく崩れた。
「……だい、じょうぶ……?」
転ぶ寸前だった。本当に——辛うじて、間に合った。
固い、固い、糸で継がれた腕、掴んだのはそんなもの。
指先が行き場を探すように、少しだけ宙を彷徨った。
「早く——っ、転んじゃう、よ……?」
細身なのに彼女は案外重い。これでは、わたしの腕の方が先に悲鳴を上げてしまいそうだ。思わず呻き声が漏れる。
「……申し訳、ありませんでした」
一瞬だけ、わたしの腕に体重をかけて。それから彼女はすぐに立ち直った。
謝罪を兼ねてか、ぺこりと一礼。呆けたまま、黙り込んでしまったわたしの前で、彼女は慎重に足を運びながらも、その場を去っていく。
対して距離も離れていない隣の部屋、元々は「あの子」に充てがわれていた場所。
ギィ、と軋みながらドアが閉まる。廊下で一人、ランプを手にしたまま、わたしは取り残された。
「……何、してたんだろ」
彼女が座り込んでいた場所に、何かがあったのかなって。
わたしも、腰を下ろす。硬いドアの感触が背中に触れた。
低い視点だった。床は目の前。吊り下がったランプは遠く、ドアノブもずっと高い。
そういえば——ずっと前にも一度、こんなことがあった。
お母さんが「あの子」を抱き抱えていた。
——わたしが開けるよ、“お姉ちゃん“だもの。
だから、代わりにわたしがドアを開けてあげようとして——でも、ドアノブに、わたしの手は届かなかった。
お母さん、お父さん、それから——「あの子」。
あの時は確か、お父さんが代わりに開けてくれたんだっけ。
それでも——四人が、二人になって。二人が、一人になって。
「——っ」
一瞬、胸が引き攣った。
唇が空気を求めて震えた。
心臓が、一際強く鼓動を刻んだ。
——違う。
それでも、今のわたしは一人じゃない。
「あの子」と一緒だ。
仕草も一緒、それこそ足音が大きいところも、いっつも慌てたように大きな足音を立てて走り回っていたところだって。
一番長く一緒にいたから。間違いようがない。
昔からそのせいで、よく転びそうになってた。
涙が滲んだ目尻を、よく拭ってあげた。
そうだ。きっと、そうだ。間違いない。人形が——作り物が、こんな行動をとるわけがない。
「あの子」と二人で一緒に暮らせるようになるまで成長してから、ずっと造花に触れてきた。作り物がこんなじゃないことを、わたしは知っている。
全部均一で、完全で。本物の花と違って、花弁が欠けていることも、虫食い穴が空いていることもない。
人の手で作られたんだもの。当たり前だ。
だから、転びそうになるぐらい慌てん坊で。
——お姉ちゃん、今日のお花、変わってるねっ!
「あの子」と全く同じことを口にして。
——お姉、ちゃん?
わたしのことを心配してくれて。
そんな作り物なんか知らない。
絶対に、間違いなんて——。
「——あ」
一瞬、壁に背中が触れた。
彼女がさっきまで背中を預けていた場所、確かに座り込んでいた場所。
そこは、たまらなく冷たかった。
「——っ、ああっ」
人の持つ温もりは、そこになかった。
目尻が熱い。
頬を伝う液体も、熱い。
それは止めどなく溢れ続ける。
抑えようと、目尻に手を当てて。
それでも、止まらなくて。どんどんと、指の隙間からもこぼれ落ちていって。
熱かった。
目尻も、流れる涙も、それを覆った手のひらも、全部熱かった。
「……お姉、さま……?」
不意に、手のひらを何かが包んだ。鼓膜を揺らしたのは、聞き覚えのある声だった。
滲んだまま、はっきりと映せない視界に顔が映り込む。
「あの子」の輪郭だ。
「あの子」の瞳だ。
それでも——。
「あな、たは——っ」
不器用な力加減だった。
手が痛かった。強すぎたし、硬すぎた。
決して、温もりはなかった。拍動を刻むことはなかった。
「——なんか、じゃ……っ」
全部、わたしの思い込みだった。
顔のつくりも同じで、声も同じで、仕草も、持っている記憶も同じはずで。
けれど、模造品だ。「あの子」を模しただけの、全く違う何かだ。
手を、振り払いたかった。
その冷たさが、熱くなった私の手には痛すぎたから。
それでも、手が離れることがなかった。
知っているものよりもずっと強い力加減で、わたしの手を包んでいた。
拒絶は、叶わなかった。
ぽつり、と。
重なった手のひらに、雫が落ちたのを覚えた。