——絶対に、絶対に……あなたに必要なもの、なの。
どれだけ散らばっても、褪せなかった記憶。
他が弾けて雫を散らす中でも、未だ残った響き。
もう、他に思い出すことがほとんど残っていなかったせいだろうか。
人形が傾けた頭を上げた時、確かに「それ」は、もう一度瞬いた。
* * *
目元が、熱かった。
湿ったシーツに、顔が浸っていた。顔を上げると同時に、熱いものが頬を伝った。
「……そっか」
漏らした声は、僅かにしゃがれていたもの。ベッドの中で一人、わたしは身を起こした。
特に夢を見た覚えはない。
それでも、確かに瞳はじっとりと濡れていて。
なぜだろう——と、考えていた時だった。
コンコン、と。二度、テンポ正しいノック音が響いた。
「——どうぞ」
そうは口にしてみたものの、一向にドアが開く気配はなかった。よっぽど声がしゃがれているせいで、届かなかったのだろうか。
ギシリ、と身を動かすたびにベッドは軋む。いっそ一思いに、弾みをつけて降りてみた。
今度は触れた床板が軽く軋んだ。
舞った埃が窓から差し込む光を浴びて、僅かに照り返しを見せる。妙にそれが綺麗に思えた。
なぜだろう。感じるものの一つ一つ、どこかが普段と違う。ドアノブを掴んで、こちらに引っ張るだけの簡単なお動作。まるで、そこからわたしを遠ざけるように。異様に感覚が鮮明だった。
それでも——呼ばれているなら、行かなくちゃ。
踏みしめるたびに床板が軋む、埃は舞う、僅かに引っかかりを覚える。
ふと視線を落とすと、木目が少しだけ浮き上がっていた。それでも躓くほどじゃない。考えすぎだ。
冷んやりとした感触が指先に触れる。視界の先で、それは微かに震えていた。
本当に、今日はどこか変だ。
錆びついたように、ドアノブは動かなかった。
一息に力を込める。回すな、とでも言うかのような強い抵抗。ガチャ、ガチャ、と軋みながらも、ドアノブはようやく回る。
思わず息を吐くと共に、ドアを開け放った瞬間だった。
「——っ」
その瞳に、触れた。
わたしをじっと見つめる、虚ろな瞳孔。
その硝子玉を収めた、馴染みのあるつくりをした顔。
「——本日の準備は」
全部、思い出した。
昨日、人形と——彼女と部屋の前で鉢合わせして、小さなトラブルに見舞われたこと。
そして——彼女の、手に、触れ——。
「どのようなことを」
「——鉢、並べておいて。適当でいいから」
返事がかえってくる前にドアを閉める。
何度も軋む床板、足取りの荒さは自分でもわかっていた。
それでも、一刻も早くそこから離れたくて。
ベッドに身を投げ出した。ギシリ、と一際大きな音を立てて軋んだ。
埃が舞う。窓から差す日は憎たらしいぐらいに眩しかった。瞼を閉じてもなお、それは容赦なくわたしを突き刺して。
また、目元が滲んだ。
シーツに深く、顔を埋める。
じんわりと、広がっていく。段々と、浸っていく。
* * *
* *
*
「——お姉ちゃん。今日は、手伝うことある?」
お下げを揺らしながら、とてとて、と。ちょっと危なっかしい足取り。
くりくりとした瞳がわたしを見つめる。
「ううん、どれも重いから、あなたにはまだ早いわよ」
「でもでもっ、わたしだって——」
「……大丈夫。重いものばっかり持ってると背、伸びなくなるわよ? わたしのことは良いから、遊びに行ってきなさいな」
不服そうに膨らんだ頬。
それでも、一人でやった方が仕事は早かったものだから。いつも通りそう返すと、弁当を持たせて妹を送り出す。
ガランガラン、と。少し強めに閉じられたドアはベルを強く揺らした。店中に響いた鈍い音に、思わず耳を塞ぎたくなる。
今日もたくさん揺れることになるのに大変ね——なんて。少しだけベルに同情しながら、わたしは手近な鉢を引き寄せた。
「——ふぅっ、こんなもの——かしら?」
鉢を置き直して、一息吐く。
最後のお客さんを見送って。
下がったプレートを〝CLOSE〟に裏返して。気づけば、もう夕方だった。
窓から汲み取られた陽が、目の前にある花全部を橙色に染め上げていた。
まだ開けたばかりのお店で。花のことなんかほとんど知らなくて。
折角来てくれたお客さんにも、迷惑をかけてばかりだ。
造花というものがよく売れる——それに気がついたのは、つい去年のことだったから。
そもそも、この辺りの地域で咲く花は少ない。その上、土もあまりいいものじゃない。花を育てるのは一苦労——この街で育った分、よく知っていた。
白い壁と青い海。ほとんど限られた色で、この街の景色はできている。
だけれど、そこに彩りが増えたらどうだろうか。
遠くから種が飛んできたのか、一輪だけ咲いていた花。
一面緑色だった草むらの中で、よく目立った薄紫。
お墓に背を向けて、ふと見つけたそれに、すっかりと心を奪われてしまったことを、今でもよく覚えている。
そして、彩りを求めていた人——というのは、かなり多かったのだろう。
最近、家主が引っ越したというそこそこ年季の入った家屋。そこで始めた店は随分と流行った。二人分の生活費を十分に賄えるほどに。
日がな、人が出入りする。
時にはこの種類が欲しい、とわたしに聞いてくる。
その度に手元の図録を開くのは楽じゃなかった。
鉢も重かった。なるべく本物の花に寄せられるようにって、そこには拘っていたから。
はっきりと言ってしまえば、毎日終わる頃には疲れ切っていた。
近頃は、ことあるごとに息を吐いたり、腰が痛んだり、わたしもまだそこまで歳をとっているわけでもないのに、随分と体にはガタが来るものだ。
とはいえ、その痛みや疲れが自分だけのものなら、まだ良いんだけど——と。
少しだけ、伸びをしていた時、ふと、わたしは朝方出て行った妹のことを思い出した。
夕方とは言っても、もうすぐ日が暮れる。
夜に一人で外だなんて、危ないに決まっていた。
チリリ、と一抹の嫌な予感が脳裏をよぎる。
鉢を奥にやり、落ちないのだけは確認して、すぐにドアを開ける。大きく揺れたベルの音が耳元で反響した。
それに押し出されるようにして、わたしは走り出した。
石段を駆け降りる、いない。
時折人を見つけても、彼女とは似ても似つかない背格好ばかり、子供はもうほとんど家に帰ってしまっているのだろう。
オレンジ色だった石段が、次第に見えなくなっていく。
押し潰すような暗闇が周囲に広がっていく。
頼れるのはもう、灯台の灯りと月明かりぐらいだ。
増していく焦燥感の中、走り続ける。不意に足元に何かが引っかかった。それにつんのめって、顔を上げた時——ずっと遠く、浜辺の方で、灯台の灯りの中、小さな影を見つけた。
今の時期に、この時間帯はまずい。もうすぐで潮が満ちる。もう、勢いに身を任せたままだった。
半ば、転げ落ちるようにして、石段を駆け降りる。
「——っ」
最後の一歩は呆気なかった。
ぽすん、と。乾いた音がして、わたしの体は砂浜に投げ出された。
体中に砂が纏わりつく。ずっと、ずっと、波の音は近い。
それだけもう、潮が満ちてきているということなのだろう。
「なんで」
——こんなところにいるの?
砂浜に手をついて立ち上がりながら、半ば叱りつける念も込めて、そう声を張り上げようとした時だった。
わたしは、潮風に混ざった泣き声を拾った。それが誰のものか——なんて、考えるまでもなかった。
顔は見えなかったけれど、彼女の肩は震えていたから。
「——泣いているの?」
ぽつりと漏らした声は、どうやら波の音に紛れなかったみたいだった。
くりくりとした瞳が、こちらを向く。
月明かりに照らされて、確かな輝きを湛えていて。
それでも、その瞳は濡れていた。
「——おねえ、ちゃ」
それは、わたしを認めると何度か瞬く。
その度に、きらりと光を溢して頬を雫が伝う。
ずっと一人だったことを忘れていた。
わたしは仕事に忙殺されていて、それでも確かに、そこには充実感があった。
日々、知識が増えていく。
生活は少しずつ良くなっていく。
街が彩られていく。
「こんな、泣いてちゃ、わたし、帰れな——っ」
紡がれていた言葉が、嗚咽に変わる。
けれど、あなたはずっと一人で。
お母さんもお父さんもいなくなって、わたしもほとんど外へ追いやるばかりで。
こんな時間になるまで、放っておくなんて——こんなことになるまで放っておくなんて——わたしは、馬鹿だ。
波は、寄せては返す。
暗くなるまで遊んで、潮が満ちる前に、お父さんとお母さんがやって来て。わたしたちの手を引いて家路を辿って、昔はそうだった。
それでも、もうあの時みたいに止めてくれる相手はいない。
何より、その立場に立っているはずだったわたしが、そうしてあげられていない。
「——〝レニ〟」
名前を呼んだ。帰ろうと、手を伸ばす。
指先に、柔らかい感触が触れた。
少し、冷たくなっていたけど、まだ温もりは残っていて。それを掴んで、こちらへ引き寄せようとした時だった。
一際大きい波が、わたしたちに打ち付けた。
強引に、手と手が引き剥がされる。
抗いようのないぐらい強い力で、引っ張られる。
さっきは膝までしかなかったはずの水深は、今はもう、ずっと深くなっていて。
暗い海の中、遠ざかる手。
もう一度掴もうとしても、捉えられなくなっていた。
ごぽり、と呼び止めようとして漏らした声は、水の中で泡に変わった。
何も見えなくて、途方もなく冷たくて。
もがけばもがくほど、だんだん思考が薄らいでいく。
解けたまま、沈んでいく。
こんな状況になって、ようやく自分がやったことの意味に気づいた。
それでも、気づいたからといって——何ができただろう。
* * *
* *
*
コンコン、と。
二度、テンポの揃ったノックの音が響いた。
痺れた頭で立ち上がる。
ベッドは、普段よりも大きく軋んだ。
「——全て、整理し終わりました」
ドアを開けた先に立っていたのは、先ほどまで目の前にあったものと全く同じ顔立ちをしていて——それでも違う、人形だった。
思わず、朝みたいにドアノブへ手が伸びる。
すぐに閉めようとした、けれど。
その直前で、わたしの手を硬い感触が包んだ。
「一人でできたので。見て、いただきたいのです」
窓から取り込まれた橙色の陽が、店中を染め上げていた。
夕方になるまで、どうやらかなり長い時間寝ていたらしい。彼女についたまま、棚と棚の間を歩く。
ふと、二つ。並んだ花が同じ種類であることにわたしは気がついた。
辺りを見回すと、それは決して、そこだけじゃなかった。
一番下から、てっぺんまで。
どの棚も、一つとして漏らさず、きっちりと。
同じ種類で、近い色で、花々は並べられていた。
「……本当に、貴女一人でやったの……?」
「ええ、この時間までかかってしまいましたが」
普段とほとんど変わらない、涼しげな表情だった。
それでも、その作業がどれだけ大変なものか、わたしは知っている。
ふと視線を下ろすと、彼女の関節部は、少しだけ擦れて、軋んでいた。
あの子には、やらせたことのない作業だった。
だからきっと、最後までこういうこともできないままだったのだろう。
感慨深かったのか、それとも、もっと哀しいものだったのか。胸を何かが埋め尽くしていた。
ふと、彼女の瞳を見た。
その時、わたしは気がついた。
「——っ」
硝子でできた彼女の瞳は、夕陽に照らされて、くっきりと橙色に染まっていた。
それは、わたしの記憶にある瞳の色とは全く違うもので。こちらを覗く瞳孔は、確かに輝きを湛えていた。
「……そっか」
いっつも、いっつも遅い。なんで、気づくのが手遅れになる直前なんだろう。
「あなたは、レニじゃない」
彼女は、「あの子」とは——レニとは、確かに違うかもしれない。
作り物、かもしれない。
それでも、レニとは違うものでも、彼女は彼女で。確かに、意思を持っていて。
「……おねえ、さま」
抱きしめた感触は、硬い。
それでも、陽に照らされたその体は、ほんの少し、温もっていて。
「——ごめん……ごめんね……っ」
虫が良すぎるかもしれない。
それでも、まだ間に合うのなら、一緒に、時を刻めるなら、わたしは、手を伸ばしたい。
「今日から——一緒、だよ」
頬を伝った雫が、彼女の体に落ちて、小さなシミを作る。
随分と久々に感じる感触だったから、もしかしたら力加減も強すぎるものだったかもしれない。
けれど、彼女はそこから離れず。
ずっと、わたしの胸の中にいてくれた。
* * *
「お姉様、今日はどうしましょうか」
「ん、お任せするよ。好きなようにやってくれていいから」
彼女と一緒に暮らすようになってから、もうすぐ一年が経とうとしていた。
随分と、あっという間に時は過ぎた。
一緒に仕事をして、食卓を囲んで、たまにどこかへ出かけて。
次第に口数も増えていっていた。
陳列は、もう半分任せきりだ。ずっと、同じように法則性を持って——というわけではなくて。時には、気分で変える日もあったみたいだったけれど、それもきっと、彼女の個性だ。
そう思えば、鮮やかすぎる彩りの日も、くすんだ彩りの日も、微笑ましく思えた。
「そういえば、そろそろ呼び方、お姉様——とかじゃなくって、お姉ちゃんにしてみない? わたしたち、一緒に暮らしているんだし。姉妹みたいなものだし」
ふと思い当たって、そんなことを提案してみた。
ずっと、お姉様、お姉様って、他人行儀に思えたから。
軽い気持ちで言ったはずだったけれど、意外なことに、鉢を持ったまま、彼女の動きは止まった。
「……お姉様は、お姉様です」
しばらくして、答えが返ってきた。
近頃は珍しくなっていた素気ない返答。ぷいっとそっぽを向くと、彼女はまた仕事に戻る。
何か、気に障ったのかもしれない。
慌てて、話題を変えようとして——不意に、もう一つ思い当たったことがあった。
「——そういえば、誕生日、もうすぐだったよね」
彼女が初めて口を開いた日——生まれた日は、レニとは全然違う。
それでも、彼女の誕生日であることは確かだ。
「……そう、でしょうか」
「そうだよ。何かお祝いしなくちゃ」
誕生日——といえば、誕生日プレゼントを贈るのが普通だろう。
そして、食べ物じゃなくて、物の方がいいはず。
「……何か、欲しいものとかってあったりする?」
「……いえ、特には……」
ばっさりと切られてしまった……と思っていたけれど、彼女はまだ、少し考え込んでいるようで。
ふと、手元の鉢に視線をやると、再び、こちらを向いた。
「……たくさんの花を、見てみたいです。本物の」
「……花、かぁ」
この辺りじゃ、取れるものには限りがある。
その上、見た目も全部同じようなものだったら、あまり特別なものにはならないだろう。だったら、少し遠出をしなきゃ。
「今度、隣町で買ってくるよ」
「……本当、ですか」
「うん、本当。知ってる? 花束っていうのがあってね」
お互い、完全に手が止まっていた。
気づいたら、彼女もまたカウンターの前まで来ていた。
でも、お互いにとって大切で、楽しい話だったから、それぐらいは全然良かった。
「——そうだ。それと、もう一つ」
「もう一つ——ですか?」
彼女の目が丸くなる。
最近は、少しの感情の機微が読み取れるようになってきた。
「——名前を、そろそろ決めなきゃって」
彼女はレニじゃない。
それがわかった日からしばらく経って、ようやく心の整理がつきだした頃から、ずっと考え込んでいた。
「あなたを、あなたにするために」
お父さんも、お母さんも、レニの名前を決める時に半年ぐらいはかけていた。
その点、わたし一人だったから、二倍時間がかかってしまったけど、もう、候補も絞り込めてきていて。多分、彼女の誕生日には間に合いそうだった。
それに、彼女と初めて話した時、わたしは泣いてしまったから。
今度こそ、祝福が必要だ。
それこそ、レニと同じように。
今度は、あなたのために。
「絶対に、絶対に……あなたに必要なもの、なの」
* * *
* *
*
もう、終わってしまったことだった。
僅か一瞬の瞬きがずっと長く感じられたのは、それだけの悔恨を意味していた。
「——おね、え——ちゃ」
人形の唇が微かに震える。
途切れ途切れに、だけれど。確かにその名を呼ぼうとして。
その瞳を見開いた。
本物の花束、というものを目にすることはできなかった。
もう二度と、声を聞くことはできなくなってしまった。
その唇が、自身の名前を紡ぐことはなかった。
人形は自分の身を抱いて、ただ肩を震わせていた。