模造品に、手向けの花を。   作:流星の民(恒南茜)

8 / 9
『せめて“甘い夢”を』

——自分がされたら嬉しいこと。それを、してあげられたらいいんじゃない?

 

その言葉の意味が、ずっとわからなかった。

取っておいたおやつを食べられた。

お母さんも、お父さんも、あまりあたしに構ってくれなくなった。

あの子があたしにしていることは、あたしにとって、嬉しくないこと。

 

——なんで、あたしだけがしてあげなくちゃいけないの?

 

だから、そう聞いてみた。

 

——あなたが、お姉ちゃんだからよ。

 

お母さんは、少し苦笑いしながら答えた。

じゃあ、なんでお姉ちゃんだったらそうしなきゃいけないのって。もう一つ、聞いてみた。

 

——それがわかるまでには、時間がたっぷりいるわよ。

 

頭を撫でられた。

きっと、あたしがまだその意味をよく知らなかったから。だから、まだ少しだけ子ども扱いが残っていた。

くしゃくしゃになった髪を自分で整えながら、忙しなく部屋を出ていくお母さんを見送った。

 

時間がたっぷりいるんだったら、しょうがないのかもって。今日も聞こえてくる泣き声に耳を塞ぎながら、そんなことを考えた。

 

それでも、お母さんが言う通りにはならなかった。

 

たっぷりいると言われた時間は、本当は、少ししかないものだった。

流行り病のせいで、呆気なくあの子は死んだ。

お母さんも、お父さんも、周りにいる人はみんな、泣いていて。

それでも、あたしは一歩引いた場所で立っていることしかできなかった。

 

涙は流れなかった。

 

哀しさよりも、ずっとずっと、胸をキリキリと痛めるもの。そして、あたしを縛り付けるもの、きっと後悔の方が勝っていたから。

 

あたしは——お姉ちゃんに、なれなかったんだって。

 

それに気づいた時、初めて目尻が熱くなった。

頬を、熱いものが流れた。

 

滲んだ視界の中、みんなが啜り泣く声だけが聞こえた。

 

それでももう、ベッドに横たわったあの子が動くことは、もう二度となかった。

 

* * *

 

* *

 

 

「……お疲れさまでした」

 

今しがた取り外したばかりのプレートを手に、人形は一つ呟いた。

 

『artificial flower and doll』

 

花のあしらわれたそれは、彼女がつくられる前からずっと、店先に掛かっていた物で。

それを持つ指に引けを取らないくらい錆びついていた。

 

「本当に、信じられないものです」

 

そして、それは店の外装も変わらない。

外壁にはいくつもの修繕跡があり、継ぎ目が目立つ点も人形にそっくりなもの。

彩っていた花を全部片付けた今となっては、くすみの方がずっと目立っていた。

 

「……けれど、どちらにせよ終わりです。先に私がさようなら、しますから」

 

決してここで生まれた訳ではなかったけれど、自分が刻んだ記憶の中では、一番長く過ごした場所で。そして、あの人が遺してくれた場所で。

寂しげに少しばかり目を伏せたのち、店主は一度だけ、お辞儀をした。

 

「お疲れ様、でした」

 

それに答える者はいない。労う者もその場にはいない。

けれど、こうすることでどこか救いを得られたような気もした。

 

次に顔を上げた時、人形の表情は、幾分か穏やかなものになっていた。

あとにするべきことはもう、残された時間を身辺整理に使うのみで。

長い責務だった。ずっとカウンターに立って、花を並べて、何人ものお客様を見送ってきて、人形を作ってきて。

 

けれど、終わったのだ。それを噛み締めるようにして人形がドアを開けようとした時だった。

 

「あのっ! お姉ちゃんっ!」

 

突然背後から声をかけられたせいか、彼女の肩は一度跳ねた。

振り向きざまに硝子玉が映し出したのは、自分よりも幾分か幼い容姿をした少女だった。

 

「……私、ですか?」

「だって、他に誰もいないよ」

「それでは、一体どのような用事で……?」

 

しかし、そう問うてみても少女は反応を見せない。

ただ目を丸くして、口を開く素振りすらない。

 

「……迷子でしょうか? でしたら、送って差し上げます。この辺りは、確かに道が入り組んでいますから」

 

痺れを切らして、人形師は少女の手を取った。

けれど、少女がそこから動く様子はない。

 

「おやめください」

 

それどころか、少女はまるでその場から逃すまいとするように強く手を握って。人形の古びた間接が軋み出すまでは時間の問題だった。

 

「……壊れてしまいますからっ」

 

久々に張り上げた声。

それによって、ようやく力は弱まった。手を放し、開いて、閉じて。随分と古びて、錆びていて。その度にギィと音を立てて軋んだけれど、特に異常をきたしていないことを確認できて安心したのか、人形は一息つく。

 

「ごめんなさい、急に声を荒げてしまって。この手は壊れやすいものなのです。その点のみお気をつけください。それでは行きましょうか」

 

少しばかりの注意と共に、もう一度。店主が少女の手を取ろうとした時だった。

 

「ほんとだ……ほんとに……本物の、お人形さんだ……」

 

呆気に取られたような表情で、少女は何やら口にし始めた。

しかし、それもあまり長くは続かずに。

少女の方から店主の手を取ると、輝いた瞳と満面の笑みを向ける。

その様子に困惑は滲んだまま。ガクン、と力の抜けた腕が垂れ下がる。

けれど、少女は全く調子を変えずに、頭を下げた。

 

「お願いっ! お姉ちゃんが、本物のお人形さんなら……あたしの妹を生き返らせてっ!」

 

* * *

 

「……なるほど。あなたの町に人形師はいないというわけですか」

「うん。だから頑張って、ここまで来たの」

 

出したお茶を啜り、クッキーをつまみながら少女は答える。少女が出した名前は、ここからかなり遠い町のもの。

馬車を用いても恐らく三日ほどはかかるだろう場所だった。

 

「それでお人形さん、どうなの? あたしの妹を生き返らせることって、できるの?」

 

しかし、お茶の苦さに顔を顰めて、逆にクッキーはすぐに食べきってしまって。

もう、話す内容も無くなってしまったのか勢いはそのままに、少女は強く食いついてくる。

 

「……生き返らせる、というのはあなたの妹さんの記憶を用いて人形を作る行為を指す、ということでよろしいですか?」

「うん、多分それであってる……のかな? お友達が言ってたの。遠い町にいる人形師さんは、死んだ人の魂を人形の体に移して生き返らせてくれるんだって」

 

その純粋な笑みを前にして、店主は答えることができなかった。

確かに、この少女の友達が言っていることも、表面的には間違ったことではない。

人格は、大抵記憶に依存するもの。人形に記憶を植え付けて容姿まで似せてしまえば、表面上はモデルとほぼ同じ 人形が出来上がるのは事実だ。

けれど、それはあくまでも表面上で、結局は、記憶によって作られた擬似的な人格に過ぎなくて。

 

必ず、綻びは生まれる。

 

——だからこそ、辛いのです。

 

いつまで経っても、モデルの代わりにはなれなかった。

自分の体にシミを作った何粒もの涙、抱き締めた感触、拒絶のためか、自身の手の中で震えていたてのひら。

果たして、寄り添えていたのか。モデルの代わりになれていたのか。

 

もう、問うたところで答えてくれる相手はいない。

けれど、辛かったことには違いなかったはずで。

未だ残った感触は、それを示していた。

 

——けれど、彼女にそれが理解できるのでしょうか。

 

目を輝かせて、自分の妹が生き返る、と。

そう信じる少女に対して無理やり現実を突きつけることもできなくはなかった。

別に彼女はお客様などではなく、唐突に迷い込んできた面倒な子供にすぎないものだったから。

けれど、その選択肢だけは選べなかった。

 

——いえ、理解してもらわなければなりません。

 

目指していたのは人の心に寄り添える人形。それを作るために自身がここにいたことだけは、片時も忘れたことがなかった。

それなら、これはきっと最後に与えられた人形師としての責務なのだ。

一人納得したように頷くと、店主は少女に向き直り、口を開いた。

 

「……今日、あなたの両親に手紙を送ったとして……迎えまでは七日ほどかかるでしょう。それまで、しばらく私があなたの面倒を見ます」

 

おおよそ七日。

それが、少女を帰すまでにかかる時間であり、人形に残された時間だった。

 

「本当……? それじゃあ人形、作ってくれるのっ!?」

「……それはできません」

 

いつ口にしても辛いからこそ、あまり感情は込めたくなかった。

だからこそ、なるべく淡々と、人形は事実を口にする。

 

「どうしてなの!? お人形さんのケチ——っ!」

 

それに対する少女の反応もまた、わかりやすいものだった。悔しさが勝ったのだろうか、少女の顔は赤くなり、両手を振って罵声を浴びせてくる。

無理もなかった。一人で長旅をして、ようやく辿り着いて、その挙句に断られたのだから。

むしろもっと腹を立てても、悔しがってもいいはずなのに。少女はここに来るまでの苦労を見せるまいとしているのか、歯を噛み締めたのち、それ以上の反応を見せることはなかった。

 

——確か、こんな表情……どこかで……。

 

強い既視感を覚えつつも、人形はどのように彼女を説得するべきか、思索を巡らせる。

けれど、答えは見つからない。

 

整理がつかなかったとでも言うべきだったろうか。

まるで記憶に霧がかかってしまったようで、散らばったものを捉えることすら、困難になっていて。

 

しかし、本当にそれだけだったろうか。

胸を押さえて考えることしばし、そもそも自分すらもその答えに行き着いていなかったことを思い出す。

震えた手のひらを握った時、確かに感じた痛み。きっと、それはまだジクジクと胸を蝕んでいて。

 

「……あなたについて。お話を聞かせてもらってもよろしいですか?」

「作ってくれないのに?」

 

最初は、ただ少女を説得したかっただけかもしれない。

それでも、ここで説明したところできっと、今の彼女に受け入れることはできないだろう。

 

——辿り着きたいのです。

 

それは、少女の境遇がどこか〝お姉様〟に近いものだったから、だろうか。

 

知りたかった。

 

ある意味、こんなものは自分のエゴでしかなかった。けれど、それを貫き通した先に何か答えが見えてくるのかもしれない。

未だ胸で燻るものは、確かにそう告げた。

 

「……はい。私は、知りたいのです。強く、誰かに焦がれるあなたのことを」

「……うーん。でも——そうだなぁ……」

 

しばし、考え込むような仕草。

唇に指先を当てて、首を傾げて。

それでも、しばしの間を置いて彼女は、人形の方を再び見つめ返した。

 

「お人形さんとも、仲良くなりたいかも。うん、教えてあげるっ!」

 

表情が少しばかり綻んだかと思えば、今はすまし顔で胸を張っている。

そんな風にコロコロと表情が変わる姿にどこか愛らしさを感じたせいか、人形はいつの間にやら自分も表情が緩んできていることに気がついた。

 

「あっ! 今、お人形さん笑った!」

「……そんなに珍しいですか……?」

 

人形を指差し、さも珍しいことが起きたかのように少女は手を叩いて喜ぶ。

確かに最近は劣化のせいか、表情が移り変わることも少なくなっていたような気もする。

そう言った意味では彼女にとって、それが新鮮な表情だったのだろう。

 

「うんっ! 誰かが笑うのを見るのなんて久しぶりだったから!」

「……ところで、名前をお聞きしてもよろしいですか? これから七日間、暮らすわけですから」

「ん。えーっとね。〝リザ〟っていうの」

「リザさん、ですか。よろしくお願いします」

 

腰を曲げ、人形は深々とお辞儀をする。

そんな彼女の姿を前に、リザは不思議そうな表情で尋ねた。

 

「……名前、お人形さんは教えてくれないの?」

「生憎、私にはないものですから」

「そうなんだ。結構、珍しいね?」

 

遠い日に、貰えなかったもの。

不意にそれがよぎった。

思わず、瞳を伏せて。それから、何事もなかったかのように、人形は顔を上げた。

 

「先約がありますので。……それでは、そろそろ夕食にいたしましょう。とはいえ、基本的に私は物を口にしない身、この家に食材はありません。よって、買い出しに行こうと思うのですが、ついてきてくれますか?」

「お買い物……? うんっ! ついてくっ!」

 

そう声を上げると同時に、リザは腕に抱きつく。

戯れてくるような仕草に加えて、くりくりとした丸っこい目が人形を捉えた。

まるで無邪気そのもの。何かを抱えている様子など、おくびにも出さなかった。

 

「それでは、行きましょうか」

 

人形を気遣ってか、手を握る感触は先ほどよりも少しだけ優しいものになっていた。

少しだけ指先を軋ませながらも、そっとその手を握り返して。二人連れ立ち、外へ出た。

 

* * *

 

「……シチュー、美味しかったぁ……」

 

一人を照らすには十分でも、二人照らすとなると、ランプの灯りは少し心もとなかったから。二人、となり合って座った。

カチャカチャと、一つしか机に置かれていない食器が度々擦れる。

どうやら、皿にまだ残った分を掬おうとしているようだった。

そうして、スプーンを口にくわえては笑顔を見せるリザに相槌を打ちながら、人形は手元のネグリジェを手直ししていた。

 

「……だから、ね」

 

その時、たった一瞬だけ。リザの表情に陰りが見えた。

服の裾を強く握って、目を伏せて。

 

「あの子にも……食べさせてあげたかったなって」

 

ぽつり、と彼女はそう溢した。

俯く姿は、先ほどまでの無邪気な表情とは対称的で。だからこそ、それは尚更際立つものだった。

そして、その表情は確かに見覚えがあるもので。

 

「……また、作って差し上げますよ」

「ほんとに!?」

 

なんとかせねば、と。急いたまま口にした言葉。

再び丸まった瞳が人形を捉えた。

 

「ええ、本当です。何度も教わった自慢のレシピですから。そうそう忘れることはありません」

 

その言葉に頷くリザの表情は、再び先ほどと同じように綻んだものに戻っていて。

先ほどの陰りが一度はなりを潜めたことに人形は安堵した。

安堵感から息を吐く、と言うことはできなかったけれど。手に込めていた力は、幾分か緩まった。

カランと音を立てて、半ば落ちるように縫い針は人形の手を離れた。

 

「できましたよ。少しばかりほつれてはいますが、ネグリジェです」

「これ……すてきっ! こんなにフリルがついてるの、初めて! ねぇ、これって、お人形さんの……?」

「……いえ、私のモデルになった方のものです。私は基本的にお姉様から頂いた一着しか使っておりませんので」

 

そう口にして店主は、自分のネグリジェを引っ張って見せる。ほつれて、ツギハギだらけのそれは、元の色だった紫も相当薄くなってはいたけれど、まだ使える程度の状態を保ったものだった。

 

「お姉様……? お人形さんにも姉妹がいたの!?」

しかし、リザの興味はそれとは別の方向へと向いた。

お姉様というフレーズに食いついたのか、口調は少しばかり弾んだもの。

 

「……いえ。私のお姉様ではなく、あくまでも、私のモデルになった人物のお姉様です。ただ、記憶のせいでそう呼んでいるだけで……」

「うーん、難しくてよくわからないけど……お姉ちゃん、とは何が違うの?」

 

お姉ちゃん、と。自身のモデルになった人が口にしていたこと。

それは、植え付けられた記憶の中で確かに覚えていた。

それでも、それは彼女だけの権利に思えて。決して、同じ呼び名を口にすることはできなかった。

結局、自身は模造品に過ぎないのだから。そんなのはきっと、おこがましいことだった。

 

「気分の、問題です」

 

漏らした言葉は、少し萎みかかっていた。

けれど、さほどリザはそれを気に留めていなかったようで。首を傾げたまま、何かを考えているようだった。

 

「あたし、お人形さんと〝お姉ちゃん〟——二人のことが気になるの。教えてもらっても、いい……?」

「……いえ。記憶の破損によって段々と思い出せないことも増えているのです。話すとなるとまた……」

「だったら覚えてることだけでいいから。……ね?」

 

ほんの少し、先ほどまでと比べると落ち着いた口調、改まった態度だった。

だからこそ、それだけに首を横に振れるものではなくて。「……わかりました。それではお互い様、ですね」

 

「うん! お互い様っ!」

 

陰りのない笑顔、弾んだ声。

それを見られたから、きっと良かったのだろう。人形もまた、それを前にしてほんの少し、表情を綻ばせた。

 

——なぜか、不思議な気分です。

 

自身の腕を枕にして、すぅすぅと、隣でリザは寝息を立てる。

寄り添った体、触れる温もり。誰かと一緒に寝る——というのは、人形にとって初めての出来事だった。

もしかすると、刻み込まれた記憶の中では、お姉様が隣で寝てくれたことだってあったのかもしれない。

 

——けれど、それは私のものではないのです。

 

一度だけ、覚えていた温もりを求めたことがあった。

それでも、なかなか自分から呼び止める勇気は起きなくて、結局は寝室の前で座り込んでしまって。

直後に聞いた慟哭。

拒絶するように、力のこもった手。

あの夜を思えばこそ、二度と、そんな提案をしようとは思えなかった。

 

「……っ」

 

不意に、寝息が僅かに途絶えて。閉じたリザの瞳から一滴、雫が頬を伝って溢れ落ちた。

人形は、それをそっと拭って、一つ、声をかけた。

 

「……おやすみなさい」

 

幾度か撫ぜた額は、自分のものとはずっと違う、柔らかい感触に包まれていた。

どれくらい、そうしていただろう。気づけば彼女はまた穏やかな寝息を立て始めていて。人形は思わず胸を撫で下ろした。

 

夜が明ける頃には、きっとまた自身の記憶は消えているのだろう。

それでも、隣で立つ寝息に、段々と思考が解けていくのを感じていて。

 

そっと、温もりを抱き締めるようにして、深く、人形は体をシーツに埋めた。

 

* * *

 

* *

 

 

「これ全部お花なのっ!?」

「ええ、あくまでも造花、ではありますが」

 

店を閉じてから数日が過ぎた。

昼下がり、小さな窓から取り込まれたうららかな日差し。

部屋の一角を照らす温もりの中で置かれているのは照った花々。それを前にして、人形とリザは店の片付けをしていた。

 

「それでも……こんなにいっぱい!?」

「この辺りで咲く花は限られていますから。造花くらいでしか様々な種類の花には触れられないのです」

 

本来ならばこのままにしておきたい気持ちもあったけれど、長時間日に晒すとその分劣化は早まる。

買い取り手も見つからなかった花々を管理するものもない。だったらせめて、こうするほかなかった。

人形は一輪ずつ丁寧に箱へと詰めていく。

それに対して、リザの行動は非常にゆったりとしたものだった。

一輪一輪手にとっては、しげしげと眺め、人形に花の名前を尋ねる。

 

「ねえねえ、お人形さん。このお花は何ていうの?」

「それは〝カーネーション〟です。花言葉、私も気に入っていますよ」

「花言葉って……なに?」

「花が持つ意味です。白いカーネーションは確か……」

 

不意に、そこで人形の声は途切れた。

確かに気に入っていた花言葉。

だけれど、気に入っていたことだけは覚えていても、その意味は空白になっていて。

 

「……ごめんなさい。少しばかり思い出せません」

 

記憶は抜け落ちていた。

 

一輪、手にとって名前を、花言葉を思い出そうとしても、まるでぽっかりと穴が空いてしまったかのように。そこには何も記されていなかった。

 

——せっかく、お姉様から教えて頂いたものだというのに……。

 

思わず、力を込めてしまった手。

ずっと、ずっと下手な力加減だった。手を開いた時、花はくしゃくしゃになってしまっていた。

それを前にするのは、あまりにも苦痛でしかなくて。

人形は視線を逸らしながら、それを箱へと詰めた。

 

* * *

 

「……終わっちゃったね」

 

一切の造花が片付けられて、がらんとした店内。一周視線を巡らせて、リザがポツリと呟いた。

 

「店じまい、です」

 

作られて、ここに来た時からずっと。花はそこにあった。

だからこそ、見慣れないその景色を前にしていると、何か、不思議な感情が湧いてくるようで。

 

「……お茶にでも、しましょうか」

 

その場に、自分は相応しくないように思えた。

 

もう、知っている場所ではなくなっていたから。

さればこそ、一刻も早くその場から離れたくて。

 

半ば追い立てられるようにして、人形は客間へと歩き出す。リザも慌ててその後を追った。

 

「……ねえ、一つだけ聞いてみたいことがあるんだけどさ」

 

所々皮が剥げたソファーは、深く腰掛けると強く軋んだ。

初めて来た時も通された客間は、やっぱりどこか古びていた。すすけた窓に、表面が削れた机。だけれど、一つだけ綺麗に手入れをされていた写真立て。そこに収められた写真の中で、女性と少女が笑っていた。

 

一人は、少女よりも随分と背が高くて、それでも雰囲気だけは似ている人。

そして、もう一人の少女は——。

 

リザは視線を人形の方へ向けた。瓜二つだった。きっと、この人が彼女のモデルだったのだろう。

写真立ての前に挿された薄紫色の一輪は、唯一残された造花だった。 

次に、そちらへと視線を移して、興味深げに眺めながら。一つ、リザが尋ねようとした時だった。

 

「ええ、どのよ……っ……」

 

途切れた言葉、陶器が割れる音、唐突に人形はその場で崩れ落ちた。

 

「お人形さんっ!?」

 

リザがすぐさま駆け寄って、店主の様子を確かめようとした時、一瞬だけ瞳と瞳が触れた。

 

「……っ」

 

湛えていた光が、すっかり失せた瞳。背筋が凍りつくような感覚を覚えて、リザは立ち止まった。

けれど、唇だけはまだ震えていた。

僅かな躊躇いののち、リザは耳を近づける。

 

「……ど、なた、さま、で……?」

 

無機質な声が、鼓膜を揺らした。

それはまるで、自分のことなど忘れてしまったかのようなもので。

ずっと、虚ろなものだった。

 

「……いやだ」

 

随分と前の出来事だったというのに、ずっと瞳に焼きついたまま、離れなかった光景。

再びよぎったそれに、噛み締めた唇から声が漏れる。

 

「あた、しは——っ」

 

寝室へと逃げ込み、ドアを閉めてしゃがみ込む。

目から滴り落ちる雫を止めるために、リザは深く目を瞑る。

 

もう二度と何も映さなかった虚ろな黒が、瞼の裏に焼き付いていた。

たとえ涙を止められたとしても、その先に逃げ場はないのだと。

それは、いつまでもリザに語りかけていた。

 

『おねえちゃん、あそぼ!』

『いや。あたしのおやつ、食べちゃったんでしょ?』

 

——もっと、遊んであげればよかった。

 

『……おねえちゃん、さびしい』

『お母さんも、お父さんも遅いんだからしょうがないじゃん。早く寝るよ』

 

——もっと、抱きしめてあげればよかった。

 

『おね、え、ちゃ……』

 

——せめて、あの時だけでよかった。

 

「……聞いてあげられたらよかったのに……っ」

 

目を逸らした、たったその一瞬。

次に触れ合った時には、もう瞳は虚ろになっていて。もう二度と、その唇から音が漏れることはなかった。

 

——全部、全部、あたしのせいだ。

 

自分がされたら嬉しいこと、何一つ、してあげられなかった。命が失われるその瞬間を見たくなかったからって、そんな一つのワガママで、最期の言葉すら、聞くことができなかった。

 

——こんな〝お姉ちゃん〟いるのかな……?

 

今も、泣いてばかりで。

ずっと、ずっと、弱くて。逃げてばかりで。

だから、もう一度あの子に会って謝りたかった。

 

一つ、そんな気持ちが芽生えた。それでも、そのワガママのせいで、またいっぱい迷惑をかけて——。

 

「……ごめ、んな……い……」

 

お人形さんは、ああなってしまった。

ひどく虚ろで、冷たくて。

どんなに許してと願っても、遠ざかることがなくて。

 

必死に喉の奥から迫り上がってくるものを、歯を食いしばって噛み殺す。

強く閉じた瞼で、涙をせき止めようとする。

 

もう、弱くてワガママな〝お姉ちゃん〟にはなりたくなかったから。

それでも、限界は徐々に近づいてくる。

 

瞼の裏が熱い。涙が落ちないように、顔を上げて。

それでも、溜まった涙は頬を伝う。やがては一滴、零れ落ちようとした。

 

その時、何かがリザを包んだ。

それは、硬くて、冷たくて。

けれど、自身を抱き締める力は、優しくて、ずっと、やわらかで。

 

温もりはなかったけれど、今、リザが何よりも欲していたものだった。

 

「お……に……え、うぇっ……」

 

相手を呼ぼうと口を開いても、先ほどまで堪えていたはずの嗚咽が漏れるのみ。

瞼を開けても、溢れ出た雫のせいで滲んだ視界では、相手の姿を捉えることなどできない。

 

その代わり、だろうか。

 

せめて縋るように、とリザはその腕を強く握る。

やがて軋み始めたとしても、涙でシミができたとして

 

も、相手は何かを望むでもなく。決してその腕を払うことはなかった。

 

いつまでも、側で寄り添っていた。

 

* * *

 

「ごめ、ん……な、さい。お人形、さん……」

 

ようやく嗚咽は収まり、声はしっかりと言葉になる。

けれど、未だに目尻に滲んでいた涙を店主はそっと拭った。

 

「いえ、劣化の影響で記憶が不調だったのが原因ですから。……悪いのは私です」

「……でも、腕が、壊れちゃって……」

 

結局耐えられなかったせいか、ヒビが生えた関節を気負うように、リザの表情に陰りが差す。

そんな彼女の額を、店主はもう片方の腕でゆっくりと撫ぜた。

 

「問題ありません。どうせ、もう使わなくなるのですから」

 

それをリザは受け止め、自分から頭を押し付ける。

いつまでも、その手の感触は自身を撫ぜていた。

 

「むしろ、あと数日というところで……ようやく、寄り添えた。それが今は、たまらなく嬉しいのです」

 

肌も、髪も、色が抜けきっている彼女の表情は、これ以上ないほどに穏やかなもので。

だからこそ、今にも消えてしまいそうなぐらい儚かった。

危うげなほどに白い頬へと手を当てて、リザは小さく口にする。

 

「……あと、数日……?」

「ええ。私に残された時間です」

「お人形さん、死んじゃうの?」

「与えられた擬似的な人格が消えてしまうだけですので、人の死、とは違うものかもしれませんが。意味としては、ほとんど正しいかもしれません」

 

その口調は、もう全てを受け入れてしまったかのように満足気で。

 

「……ねえ、お人形さんは本当に……それで大丈夫なの?」

「大丈夫か、と問われましても回避できるものではありませんから」

「ううん、そういうことじゃなくって……。もう満足してるの?」

「ええ。おそらくは」

 

漏れた問いに対しても、彼女ははぐらかすばかり。

だからこそ、リザはすり寄ると、ぎゅっと頬をできるだけやさしくつまんで、首を振った。

 

「……ううん、お願い。〝お姉ちゃん〟として、あの子に何もしてあげられなかったから……だから、あたしがお姉ちゃん代わりとして、お人形さんの最後のお願いを叶えたいの」

 

真っ直ぐとこちらを捉える眼差しは、この上なく真剣なもの。

そのせいか、一瞬唇が震えたのを、店主は慌ててつぐんだ。もうじき消え去ってしまう人格だ。

何かお願いしたとしても、迷惑に決まっている。

 

けれど、瞳と瞳が触れ合って。そこに、光を見た。

 

湛えられたそれは、少しも揺らがなかった。

微かに唇が震える。

それは、今度こそ確かに言葉を紡ぎ出した。

 

「……欲しい、です」

 

一瞬、回想したものは遠い日の記憶。もはや、思い出すのすら困難で。顔もまた、朧げなもの。

それでも、深くに焼きついたその言葉だけは消えることがなかった。

 

『名前を、そろそろ決めなくっちゃって』

 

——〝あなたを、あなたにするために〟

 

その声と一緒に、答えを聞くことは、決して叶わなかった。

今でも鮮明に胸の奥で反響するその言葉に、表情は歪み、人形は俯く。

 

——結局は模造品でしかなかった私に、名前など与えられる価値はない、と。そう考えていました。

 

けれど、今は違う。胸が張り裂けそうなほどに強く、それを欲していて。

 

「私は……名前が、欲しいです」

 

ずっと、ずっと、先延ばしになっていたもの。

お姉様がいなくなって、止まった時間の中で、置き去りにされていたもの。

目の前の少女が、本当の意味で、自身の姉でないことは、確かに理解していた。

 

それでも——人形は。

 

「わかったよ、お人形さん。だったら、一緒に考えてあげるから……。だからもう、苦しそうな顔、しないで」

 

瞳が揺れる。

何度も逸れて、捉えるまでに長い時間を要して。

それでも、くりくりとした丸っこい瞳。未だに涙が滲んだまま、作られた笑顔。

真っ直ぐにそれを捉えた。

 

人形は、深く頷いた。

 

* * *

 

* *

 

 

「……お姉様、お久しぶりです」

 

死後、魂は天へ昇るという。

そんなことを思い出し、人形は少しばかり目を伏せる。

 

——では、魂のない人形はどうでしょう?

 

そんなことを考えたところで、辿り着いた結論は、簡単なものだった。精々、霧散して消えてしまうだけだろう。

 

「ここがお人形さんのお姉ちゃんのお墓なの?」

「……ええ。それと、私のモデルになった方も、ここに」

 

——とすれば……会える機会もこれが最後、でしょうか?

 

寂しげな表情と共に、彼女はその場に薄紫色の花を置く。

 

「ねえ、お人形さんはその人の代わりになりたかったの?」

 

目を閉じる代わりに、俯きかけた僅かな間だった。不意に、リザはそんなことを問うてきた。

 

「……なれません、でしたが」

「そう、なんだ。でもね、あたし、お人形さんはお人形さんのままで、良かったんだって思う」

 

いつもと変わらず俯いて、その場にしゃがみ込んで。幾度となく口にした赦しを乞う言葉を、それは制した。

 

「あたしは、今のお人形さんが好き。寄り添ってくれて、抱きしめてくれて。そんな人、いなかったから」

 

彼女は、幾度となく赦しを乞うていた相手とは違う。

それでも、確かに今しがた聞いたのは、赦しの言葉だった。

初めて、誰かに寄り添えた。本当にそうするべきだった相手は違うけれど——それでも。

 

「……お姉、さま」

 

——本当に、お姉様が求めていたのは、私がモデルの代わりになること、だったのでしょうか。

 

褪せかかった記憶だった。まだ、整理が上手くできていなくて、ない混ぜになった感情の中で聞いた言葉だったから、ずっとその意味を間違えたまま、捉えていた。

 

『あなたは、レニじゃない』

 

それは、拒絶ではなかった。

 

「先約って、お姉様のことでしょ? 思うの。きっと〝お姉様〟も、今のお人形さんが好きだったから、だから——名前を付けようって、言ってくれたんだって」

 

一緒に、食卓を囲んだ。上手く話せなかった時も、ずっと話しかけてくれた。

 

重い鉢を何度も、何度も運んで。でも、いつも最後にはその仕事を褒めてくれた。

 

聞くたびに、図録をわざわざ開いて、花の名前を教えてくれた。

 

そして、幾度となく抱きしめてくれた。

 

「……なぜ、今になって」

 

ずっと、ずっと、気づくのが遅かったけれど。

確かな温もりが、そこにはあった。

ほんの僅かなすれ違いが終わったこと。それが、ようやくわかって。

人形は、リザの瞳を前にした。

 

「……そう、だったでしょ?」

 

涙を流すことも、嗚咽を漏らすこともできない。

その代わりに、いつも顔を上げた時、その表情は歪んでいた。

それでも、今は違う。

 

「ええ」

 

もう、それが必要ないことがわかったから。

口にするべきだったのは、赦しを求めるための言葉ではなくて、決して、他の感情に塗りつぶされていいものではなくて。

 

「ありがとう、ございます」

 

ただ、その言葉だった。

人形の表情は、ずっと綻んでいた。

磁器の顔に湛えられた確かな微笑み。

リザは、それを前にしてもう一度笑って見せた。

 

* * *

 

「そういえば、さっき供えていたお花って、何?」

 

帰り道、芝生の感触が足を包み込む。辺り一面の緑。

そんな中で、ふとリザはそんなことを問うた。

 

「……お姉様が好んでいたものです。生前、造花専門店を営んでいた時から、ずっとこれを側に置いていました。あくまでも造花ではありますが」

「……そうなんだ」

 

一度瞑った目、少し考え込むような仕草。

僅かな間を経てリザは高らかに宣言した。

 

「……私が、いつか本物を持ってきてあげる! そしたらきっと、お人形さんも、お人形さんのお姉ちゃんも嬉しいでしょ?」

「けれど、これは東洋の花ですよ? 本物は、貴重なもので……」

「でもでもっ! いつか必ず持ってくるから!」

 

根拠はどこにもない。

それでも、とん、と自信ありげに胸を叩く少女の気持ちを無碍にするのも良くないことのように思われて。人形は軽く頷いた。

 

「だから、待ってて。絶対だから。指切りしてもいいもん」

「指切り……ですか?」

「うん、こうやって、小指同士を……」

 

未だ困惑したまま、首を傾げる人形の片手を取ると、リザは小指を絡めてしまう。

 

「こうやって、指切りするの。約束を守りますって」

 

絡めた指先を目線の先に持ってきて。

リザは何度かそれを振ると、満足気にそれを解いた。

 

「そう、ですか」

 

最後の最後になって、初めて結んだ約束。開いて、閉じて。人形は、今しがた絡めた小指の感触を確かめた。

 

「楽しみにしています。その、いつかを」

 

夕日が、二人を照らしていた。

歩調が揃う。人形はいつもの忙しない歩調を止めていた

 

指切りのあと、繋がれた手と手。

二つの手は、互いに温もりを伝え合っていた。

 

ふと、人形がリザを見つめた。

 

彼女はそれに笑顔を返して。二つ、笑顔が向かい合わせになった。

 

そうして、二人はまた歩き出した。

 

 

 

 

『——————』

 

 

 

 

——溢れていきます。

 

どんなに塞いだとしても、指の隙間からさらさらと。

触れようとしたら、弾けて、消えてしまいます。

 

それでも、苦しくはありません。むしろ安らいでいるようにも思えます。

きっと、お姉様の最期とは訳が違うのでしょう。言葉を遺すことすら、できなかったのですから。

 

瞬いて、消えて。

 

それでも——お姉様。

あなたのことだけは、忘れようがありませんでした。

 

『ねえねえ、着いてきてっ! お姉ちゃんが遊んであげるから』

『いいよ、私のおやつ、食べても。だってこれ、あなたも好きでしょ?』

 

記憶の中だけの、私が触れていないあなたも。

 

『今日から——一緒、だよ』

 

私が触れたあなたも。等しく、残っています。

きっと、最後まで記憶が残っていたことを、レニさんも喜ばしく思っていることでしょう。

当然、私もです。あなたのことを、いつまでも焼き付けていたかったのですから。

ずっと、消えないように守ってきたはずなのに、消えてしまうこと。

 

本当に、嫌で嫌で仕方がありません。

 

——全てが、思い出なのですから。

 

辛かったものも、楽しかったものも、最期までなんと呼べばわからなかったものですらも。

寄り集まった記憶は、元々与えられていた記憶と一緒に結わえられて、『私』を形作っていきました。

 

——けれど、それも全て消えていきます。

 

『あたしがお姉ちゃん代わりとして、お人形さんの最後のお願いを叶えたいの』

 

刻まれたばかりの大切な記憶も、貰ったばかりの名前も。

全てが溢れ落ちて、形作られていた『私』は少しずつ崩れ始めます。

 

もうきっと、自身が何者かすらも、わからなくなってしまうのでしょう。

だからこそ、強く焦がれていた貴女へ。けっして忘れたくないあなたへ。

 

「……おね、え……」

 

さいごに、とどけたくて。

 

「——————」

 

なでてくれています。

わから、ない、けど。とても、あんしん、です。

きっと、しあわせ、です。だから。

ひとつ、きかせて、ください。

 

 

——わたしは……ほんもの、でしたか?

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。