『これで20連勝か。非公式とはいえ毎日のように仕合をしているけど、清隆は疲労溜まっていないのかな?』
『それを狙って挑戦者がウジャウジャと湧いているんだろう、今井。
綾小路くんの疲労のピークのときに誰が戦えるかのチキンゲームみたくなってるな』
『フーム、15歳でアレ程とは。
どうだい? 若槻くん、君なら勝てるかね?』
『100回やったら99回は勝てますよ、古海社長』
『……珍しいね? いつもだったら「ギリいけると思いますよ」とか謙虚なこと言うのに』
『いえ、この場合は100回やったらマジで1回は負けるかもしれないってことです。綾小路くんは警戒に値しますよ』
『骨子術って言うらしいけど、清隆の握力でやられるアレが厄介だよねー』
『(日が経つにつれて見学者がこんなに多く……)』
――― 櫛田桔梗 ―――
「……ちょっと今は、堀北さんと話す余裕ないかなー」
「そうか。堀北の態度は酷かったらしいからな」
堀北じゃないよ。余裕ないのはアンタのせいだよ。
ヤバい。頭が上手く回らない。呼吸が早くなる。
私が悪態をつく場面を見ていたのに、胸ポケットに携帯をしまう綾小路くんは普段と変わらない態度に見える。
口封じ。口封じしないと。
大丈夫。さっきの携帯を見る限り、聞いた入学式の日みたいに通話中で誰かに連絡を取っている真っ最中だったり、録音モードにしているようではなかった。だから今の時点で綾小路くんの口を塞げば大丈夫。
「飴ちゃん食べるか? ストレスには甘いものが効くぞ」
「あ、ありがと……」
個別包装された飴を1個渡された……って、塩飴かよ。女の子に渡すんだから、もうちょっとシャレたモノ寄こしなよ。いや、思わず受け取ったからには貰うけどさ。
綾小路くんは本当に実用主義というか、私服もシャツとスラックスがほとんどでオシャレとか気にしてないんだよなぁ。顔と身体がいいから、そういうシンプルなのが似合ってることは似合ってるんだけどね。
飴を包みから取り出して口に含むと、甘みが脳に染み渡る。うう……、お昼以降、何も食べていなかったからなぁ。
そしてしばらく飴を味わっていたら、綾小路くんから手を差し出された。
「? 何?」
「ゴミ」
綾小路くんはゴミとなった飴の包みを私の手から取って、そのまま平然とゴミを自分のジャケットのポケットに入れる。
くそぅ、どうしてポンコツの癖にこういうところは紳士的なのよ。普段からこういう風にするのが当たり前みたいな感じで、ドアを開けてくれたりエレベーターのボタンを押してくれたり喫茶店で椅子を引いたりしてるから、女子から坂柳さんが羨ましいって声が上がるのよ。坂柳さんにしているのを何度も見たことあるし、私もこういう扱いされたことがたまにあるからわかるけど、こんな感じで普段から扱ってくれたら女の子はコロッといっちゃうんだろうなぁ。
ああ、さっきまでの山内たちとの対比が余計に際立つ。山内たちは綾小路くんの爪の垢を煎じて飲め。
駄目だ。感傷に浸っている場合じゃない。
何としても綾小路くんの口を塞がなきゃ。でも駄目だ。焦りすぎて頭が働かない。
「……綾小路くん、今聞いたことなんだけど……」
「どうした?」
「その……わかるでしょ。秘密にしておいて欲しいんだ」
「確かに殴る云々はマズいだろうな。わかった」
「いや、マズいのはそれだけじゃなくて……さっきの全部を秘密にして欲しいんだけど」
「全部? 殴る云々以外にマズいところあったか? オレは櫛田の言う通りだと思ったんだが……?」
はて? と首を傾げる綾小路くん。マジで言ってんの、このポンコツ?
だけど相変わらずの無表情なのに本気で不思議がっているという、何だか自分で言っててもよくわからない顔をしている綾小路くんは噓をついている様子はない。
これは綾小路くんに共感されてるから助かったの? それとも綾小路くんが私が危惧していることに思い当たっていないから助かっていないの? 両方の感じがするわ。
「な、内容について綾小路くんが共感してくれるのはありがたいんだけど、私のイメージと合わないというか……」
「ん? ……あー、成程。イメージか。
政治家と同じだな。いつも支持者相手には泰然として怖いものは何もないって姿を見せてるから、家の中で必死こいて社会情勢の勉強をしている姿みたいなのを外で見せられないのと同じか」
「それ、綾小路くんのお父さんのことじゃないよね?」
また聞いちゃいけないことを聞いちゃった気がするんだけど、よく考えてみたら政治の世界では私みたいに周りに見せる顔と本当の顔が違う人なんてたくさんいるのだろう。
私の素の姿を見ても綾小路くんが驚いていないのも、彼の経歴を考えたら当然なのかもしれない。
でも、それでも駄目だ。
綾小路くんが私利私欲のために私のことを言い触らすなんてことは思わない。そのぐらいは綾小路くんのことを信用してやってもいい。
でも問題なのは、さっきの私の罵倒の言葉を綾小路くんが問題だと思っていないこと。問題と思っていないからこそ、誰かとの会話の中で悪気なしで漏らす可能性が高い。
ポンコツのせいでひとまずは助かったけど、ポンコツのせいで後顧の憂いができてしまっている。
「ポンコツって言われてたのは気にしていないぞ。さっき長谷部にも面と向かって言われたからな」
「そ、そうなんだ……」
「勉強会が終わった後、佐倉に気弱な性格をどうにかしたいって相談されたから、生きたアジとか50匹ぐらい釣ってくるから捌いてみるかって提案しただけなのに『やめろポンコツ』って長谷部が……酷くない?」
「酷くないよ当たり前だよ。そんなことを佐倉さんに提案するだなんて、長谷部さんだって面と向かってポンコツって言うよ。むしろ私だって言うよ」
「度胸はつくと思うんだが?」
駄目だ。やっぱりコイツ信用できねぇ。
実力とか性格とか性根の問題じゃない。今までの人生で築いてきた常識がお互いで違い過ぎる。
「いきなりハードル高すぎだよ。
いや、魚捌くことである意味では度胸がつくかもしれないけど、何で生きたアジ50匹なのかな? せめて死んだアジ1匹から始めた方がいいと思うよ」
「1匹だとなぁ。佐倉の場合、慎重になりすぎて余計に上手くいかない気がするんだ。ある程度の余裕というか、失敗しても次があるって見てわかるように材料は多めに用意した方がいいだろうし、手本を見せるためのオレが捌く用にも数は必要だろう。
だけどスーパーでそんなに魚を仕入れたら、プライベートポイントが結構かかって佐倉の負担になる。オレが購入して準備してもいいが、佐倉はそこら辺を気にするだろう。それでAクラスの橋本と釣りを一緒にすることがあるんだが、橋本は釣りはしても料理はしないみたいで、釣った魚は全部俺に渡してくるんだよ。だからそれを使えばいいと思ってな」
「ああ、成程ね。そう言われたら確かにそうかも」
「捌くのが上手くいかなくて魚の身がグチャグチャになっても、つみれとかハンバーグにすればいいし。
それに生きてるのを締めるところから始めた方が度胸はつく」
「最初は締めた魚からにしてあげなさい、このポンコツ」
うーん、相変わらずの間違ってないけど正しくもない意見だわ。
でも、確かに佐倉さんぐらいの気弱な性格なら、魚を捌くぐらいでもある程度の度胸はつくかもしれない。というより、あのタイプは最初の一歩を踏み出させるのに苦労するタイプだ。でも、度胸づけのために普段と全く違うことをさせるのは難しいと思う。
だから料理という日常生活の範囲内でありながら、魚を捌くという慣れていない人がするには勇気がいる作業をさせるのは、佐倉さんの最初の度胸づけにはちょうどいい難易度かもしれないけどね。
「そもそも佐倉さんって包丁使えるの?」
「……刺身のサクを切るところから始めさせるべきか?」
「それがいいと思うよ」
「成程な。いや、流石は櫛田だ。良いアドバイスを貰えた。ありがとう。
飴ちゃんもう1個食べるか?」
「ありがと。こんな簡単なことで綾小路くんの参考になったのならよかったよ」
もう1個貰った飴を口に含み、思うところがあって私からゴミを綾小路くんに渡してみる。その際に綾小路くんの表情をずっと見ていたけど、ゴミを渡されたのに表情を変えたりしない。平然とさっきと同じようにポケットにゴミを入れた。
うーん、これが当たり前のことだと思っているんだろうな。ポンコツさで減点されるところはあるけど、やっぱり男の子としてのレベルは高いんだよねぇ。
「さて、櫛田も落ち着いたみたいだし、そろそろ戻ろうか。それと山内たちのことで相談があるんだがいいか?」
落ち着いてないよ。綾小路くんのポンコツさに呆れたところはあるけど、まだ心臓がバクバクいってるよ。
でも駄目。このまま綾小路くんを他の誰かがいるかもしれない寮に帰らせるわけにはいかない。それに私に山内くんたちのことを相談しようとしているなら、多少は踏み込んだことをしても大丈夫なはずだ。賭けになるかもしれないけど、他の手を考えている時間はない。今はとにかく行動しないと……。
「うん、いいよ。
でもその前に綾小路くんの携帯を見せて、堀北さんの電話番号教えてくれないかな? 今夜にでも電話で話してみたいから」
「ああ……まぁ、堀北の許可は貰ってないけど、櫛田ならいいだろう」
ホレ、と綾小路くんの携帯が再び差し出される。ディスプレイには堀北鈴音の文字と携帯番号が表示されている。見やすいように固定する振りをして綾小路くんの携帯を掴む。もう離さない。
ヨシ、通話中じゃないし、録音中でもないのを再確認OK。
堀北さんの電話番号もついでに登録しておこう。迷惑を被った今回のことについては、今後に何かの形で返してもらうことにする。
電話番号の登録も終わって自分の携帯はポケットにしまい、それを見た綾小路くんが携帯をしまおうと引っ張るけど、私は綾小路くんの携帯をそれでも離さない。
「?」
不思議そうな顔をして私を見てくる綾小路くん。
それを無視してグイグイと綾小路くんの携帯を無言で引っ張り続けていると、綾小路くんは力を緩めて私に携帯を渡してきた。そうすると信じてたよ、綾小路くん。
「櫛田?」
取り上げた綾小路くんの携帯も私の制服のポケットにしまい、今度は差し出されたままだった綾小路くんの手を掴む。
大きくて硬い手。思わず綾小路くんの手をニギニギとして感触を確かめてみたけど、男の子だから手自体が大きいし、ボルダリングや格闘技をしているからか手や指の皮膚が分厚い。表面が硬くて筋肉がついているから芯から固い。女の子の私とはまったく違う手。それに結構あったかい。
少し力を入れて引っ張ると、綾小路くんは手を私の思うように動かしてくれる。私に手のひらを向けて指先を上に向けた状態で、またニギニギして感触を確かめる。あ、指も長いな。
……う、こんなマジマジと男の子の手を触るのは初めてだ。いや、男の子というより男の人の手だ。
自分のやってることを落ち着いて考えてみたら、何だか気恥ずかしい。
「手相か?」
黙ってろポンコツ。平然と手のひらを見せつけようとするな。
女の子に手を握られてるんだから、せめて照れろ。
「ねぇ、綾小路くん」
「さっきからどうした、櫛田?」
「改めてお願いするけど、さっき聞いたことは秘密に……いや、屋上に来た私は一人で黄昏ていたってことにしてくれないかな?」
「ああ、構わんぞ」
「軽い」
「は?」
「綾小路くんにとっては大したことのない軽いことなのかもしれないけど、私にとっては重要なことなんだ。それを『ああ、構わんぞ』なんて軽い言葉で終わらせて欲しくないんだよ」
「いや、そう言われてもな……」
「うん。いきなり言われても困るよね。でも、私が本気で言ってるってことはわかってほしいんだ。
わかってもらうためになら、こんなこともできるよ、私は」
そう言うと同時に、綾小路くんの手を私の胸に向けて思いっきり引っ張る。綾小路くんの手のひらを押し付けることで、私の制服のジャケットの胸の部分に指紋をつけさせてもらおう。
綾小路くんを敵に回すわけにはいかないので、実際に脅したりはしない。いや、やってることはまるで美人局なんだろうけど、あくまで私の本気具合を綾小路くんに知ってもらうためだ。
綾小路くんのことは入学式の日からずっと見ていた。
そのおかげでわかったことがある。綾小路くんはポンコツだが直感力には優れている。
彼がポンコツと言われる所以は他人(特に年頃の女の子)の考えがわからないからだけど、彼は他人が本当のことを言っているのかそれとも噓を言っているのか、そして本気で言っているのかそれとも冗談で言っているのか、これらの判断は間違ったりはしない。
さっきの長谷部さんにポンコツ呼ばわりされて割と凹んでるように見えたのは、きっと長谷部さんが本当に本気でポンコツ呼ばわりしたのを理解したのだからだと思う。
だから冗談のつもりという逃げ道を残したままで迫ったら本当に冗談と捉えられてしまうので、綾小路くんは本気で取り合ってくれないだろう。だから彼を本気だと思わさせるためには、実際には脅したりしなくても脅すつもりで本気で迫らなきゃダメだ。
そうじゃなきゃ、さっきの私の醜態も軽く見られたままになる。
だから引っ張った綾小路くんの手をこうして胸に押し付け……押し…………綾小路くんの手が動かせないんだけど???
私の腕の筋肉だけじゃなくて、背中の筋肉をフル稼働しても綾小路くんの手をピクリとも動かせない。
ならばと思って、逆に綾小路くんの手へ私の胸を押し付けようと、前に一歩踏み出そうと体重移動をした瞬間に手の向きを変えられてしまった。手のひらを地面に向けて指先を私に突きつけるように、確か空手の貫手といっただろうか? これでは私が前に踏み出せば指先が胸に突き刺さってしまう。
うん……まぁ、こうなるよね。知ってた。
「色仕掛けじゃなくて美人局……いや、美人局は男女共謀だから、ハニトラの方でいいのか?
スマン、とりあえず櫛田の本気度はわかった」
冷静に指摘するのはやめてよ。
だけど綾小路くんの雰囲気が変わった。さっきまでの適当に流す態度じゃない、騒いでいたクラスメイトを注意するときのような存在感を発揮して、私の話を真面目に聞く態度へと変わった。
「前から言ってるよね? 綾小路くんは女の子の心情を理解できていないって。あと山内くんたちみたいな劣っている人たちの心情も理解できていないって」
「長谷部にも言われたな、それ」
「じゃあ、気をつけようね」
「アッハイ」
「……ハァ、コレだから綾小路くんは」
「酷い言い草だな。それより、いきなり自分の胸を触らせようとするのはどうかと思うんだが?」
「それは―――流石に、慌てたっていうか……その、怒ってる?」
「うーん、あまり面白くはないが、櫛田の言う通りに『ああ、構わんぞ』って返答は、確かに櫛田の覚悟を軽く流していたのかもしれないからな。それで不愉快にさせたことはむしろスマン。
まぁ、実際に脅されることはないだろうし、そもそも本気で脅せるとは思っていなかったみたいだからな。今回はいいだろう。それにこれから山内たちの面倒を見てもらうことになると思うから、それで貸し借りなしってことにしよう。
ああ、もちろん櫛田の心情は配慮する。いや、さっきのアレが櫛田の本心なら、むしろやりやすい方法だと思うから安心してくれ」
ヨシッ、セーフ!! 賭けに勝った!!
私のしようとしたことには思うところがあるのだろうけど、実害はなかったことと、山内くんたちのことで私に力を借りたかったことがあるから、今まで通り綾小路くんに協力さえすれば私と敵対しようとは思わなかったみたいだ。
敵対しようと思われたら全面降伏するしかなかったけど、綾小路くんの性格ならこうなるだろうと思っていた。賭けに勝った!!
「今後はこういうことはしないでくれよ。
それで櫛田、夕飯は食べていないんだよな?」
「うん、まだだけど。一緒に食べる?」
放課後の勉強会があんなことになったんだから、夕飯食べる暇なかったよ。
「オレは勉強会の後に長谷部たちと一緒に食べた。
それじゃあ櫛田の夕飯後に相談したいんだがいいか?」
「うーん、夕飯はもちろん食べてからにしたいけど、ちょっとお風呂でも入って心が落ち着ける時間も欲しいかな」
「ん。まぁ、女子が男子の部屋には入るのは制限がないからいいか。都合がよくなったらオレの部屋に来てくれ」
「わかったよ」
――――――――――――
綾小路くんとは寮まで一緒に戻り、自室で夕飯を食べてからお風呂に入ってゆっくりした。おかげで堀北さんや山内くんたちのせいで溜まったストレスが少しは解消できた。
一時はどうなるかと不安になったけど、最悪の事態を避けることはできたのは幸運だった。
綾小路くんに本当の私を知られてしまったのは痛いけど、危険度としては学校が私の過去を把握しているのと同じくらいだろう。あまり気にしてもしょうがない。これから綾小路くんの部屋に行って話をするのだから、そのときの綾小路くんの様子を見て最終的に判断するとしよう。
もう8時を過ぎてしまっている。あんまり遅くなり過ぎても駄目だから、そろそろ綾小路くんの部屋に行かなくちゃ。
しかし、こうなったからには綾小路くんを何としても味方にしなければならない。
弱みを握るのは無理だろう。綾小路くんを実際に脅すのは危険だし、例え弱みがあっても“だって綾小路くんだから”という理由で弱みにならない可能性が高い。
となると、やはり考えていた通り、綾小路くんと恋仲になるのが一番だろうか?
そうすれば綾小路くんに守ってもらえるだろうし、一緒にいて綾小路くんの足りないところを私がフォローするところを周りに見せることができたら、私は皆から尊敬と注目を集めることができるだろう。
別に綾小路くんが嫌いというわけじゃないし、綾小路くんは山内くんたちみたいにおサルさんじゃないだろうから、私の身体目当てに不純なことはしてこないだろうという安心感はある。結婚するまでそういうことはしたくないの、とか言っておけば、私に手をだそうとはしてこないだろう。それで大学は遠くのところ行けば自然消滅できそうだし。
……本気で狙うか?
それこそ、この後に綾小路くんの部屋に行くんだし…………って、お風呂上がりで綾小路くんの部屋に行くのマズくない?
……。
…………。
……………いやいや、いやいやいやいやいや。まだ早いよね? 確かに綾小路くんを狙おうかとも考えたけど、さっきの今でこう……迫ったりするのは違うよね?
でも私から迫らないと、綾小路くんの場合はライバルが多すぎるだろうし…………う、マズい。綾小路くんの手を触った感触を思い出してしまった。あんな風にゴツゴツした男の子の手じゃない大人びた手を弄ったのは初めてだから、どうしても意識してしまう。
よくよく考えたら、咄嗟のことだったとはいえ私はなんてことを……。
今更ながら思い返すと顔が熱くなるのがわかってしまう。綾小路くんにあんなことをするのは、チョロい男子をあしらうときとはまったく違う気恥ずかしさがある。
マズい。一度意識したら顔の火照りが止まらなくなっている。
エレベーターが綾小路くんの部屋がある階で止まった。
綾小路くんの部屋は401号室。私は綾小路くんの部屋に入ったことはない。というより、女子で入ったことのある子はいないんじゃないだろうか。綾小路くんと仲が良い軽井沢さんも、大抵はケヤキモールのトレーニングジムで会うだけと言っていた。
つまり私が綾小路くんの部屋に初めて入る女子ということになるんだけど、そんなことまでもが私の心臓の鼓動を速める原因となってしまう。
そういえば綾小路くんは夕飯は食べたとは言っていたけど、シャワーを浴びた様子とかはなかった。だから帰ってきてから私と同じようにお風呂に入った可能性がある。
……風呂上がりで薄着の綾小路くんがいたらどうしよう?
それ以前に風呂上がりの男女が2人きりで部屋にいるのってマズくない?
綾小路くんの部屋のチャイムを鳴らすと、ドアの向こうからパタパタと足音が聞こえてきた。そういえばチャットで今から行くことを伝えておけばよかったかな。
大丈夫。今日は山内くんたちへの相談のために来ただけなんだから、特に変なことをする必要はない。綾小路くんを狙うかどうかは……中間テストが終わってからでも考えよう。うん、今はクラスのことを考えなきゃね。
「あ、櫛田さんじゃん。こんばんは。
綾小路くん、櫛田さん来たよ」
そしてカチャリ、と鍵が開けられる音がしてからドアが開けられたところ、何故か長谷部さんが綾小路くんの部屋から姿を現していた。
え? 長谷部さん?
「よく来てくれたな、櫛田。
佐倉、スマンが堀北にこの濡れタオルを渡してくれ」
部屋の中から綾小路くんの声が聞こえたけど、佐倉さんと堀北さんもいるわけ?
……。
…………。
……………は? 私を部屋に呼んでおいて、他の女も呼んだわけ?
自分でもよくわからない苛立ちを感じた状態で玄関に入ると、そこには靴が5つあるのが目に入った。
5つ?
となると平田くんかな?
山内くんたちについて相談ってことで綾小路くんの部屋に来たんだから、平田くんも呼んで相談するってのはあり得るし、佐倉さんは山内くんの変な噓に巻き込まれてしまった被害者なので関係者ともいえる。長谷部さんは佐倉さんの付き添いか。一緒に勉強会をすることになったことで仲良くなったみたいだし。
なーんだ、何故か一瞬イラっと来ちゃったけど、山内くんたちについての相談ってことなら、別におかしいことじゃないよね。うん。
……あれ? でも平田くんの靴はこんなんじゃなかったような気が?
違和感を感じながら長谷部さんの後について綾小路くんの部屋の中に入っていくと、キッチンでお湯を沸かしている綾小路くんが目に入った。私を見ると手に持っていたティーポットを掲げて挨拶してきたので、私も軽く手を振って応える。
彼の近くにルイボスティーの袋があるのが見える。スーパーの袋もあるってことは、夜中に集まる私たちのためにノンカフェインのルイボスティーをあれからわざわざ買ってきたのかな? やっぱりこういう方面では気が利くね、綾小路くんって。
そのままベッドが置いてある部屋に入っていくと、そこにはまるで生活感のない部屋があった。まるで4月初めに入った直後の部屋と言われても納得するぐらいの、清潔にはしてあるけど家具などは特に増えた様子はない。
増えたとするなら部屋の中央に座布団が2つと、それとは別に長谷部さんと佐倉さんが座っている座布団を入れての、計4つの座布団ぐらいだろうか。しかもその座布団もよく見るとタグが付きっぱなしだ。これもさっき買ってきたのかもしれない。
だけど、そんなことよりも私の眼は別のものに向けられていた。
「な、何でここに生徒会長が……?」
ベッドには生徒会長の堀北先輩が寝かせられていて、堀北さんがベッド脇で心配そうにお兄さんを見詰めている。
え? こんな事態は予想してなかったんだけど、どういうことなの???
――――――――――――
『清隆の基本はボクシング。それにキックボクシングやムエタイとか色々混ざってるかな』
『技の繋ぎ目がまだ粗いですが、それぞれの技術も十分に一流です。超一流には及ばなくとも年齢を考えれば凄いですね。
それで特に厄介なのが骨子術。経穴を押す……まぁ、ツボ押しって思ってくれたらいいです』
『ああ、以前の仕合で手首掴まれた対戦相手が悲鳴を上げて崩れ落ちたよね。そこに膝でアゴへの一撃』
『アレは関節や筋肉の薄いところをやられるから俺にも有効です。そしてボクシングの速いジャブが瞬時に掴みへと変化するのがマズい。
どんな相手でも、隙をついての首裏から頸椎圧迫でワンチャンありますよ』
『ツボ押しかぁ。そんなに痛いのかねぇ?』
『あ、師匠から少し習ったんでできますよ。えーと、ここだったかな?』
『えっ、今井くんちょっと待っピギイイイィィィーーー!?!?!?』
『(……うるさいなぁ)』
特殊タグって使い方が難しいですね。
でも古海社長には悲鳴が似合うので、古海社長の悲鳴は特別にしたいこの気持ち。わかっていただけますよね?