古来より鰻は精がつく食べ物として珍重されてきた。
古代ローマでは焼いた鰻にソースをかけて食した記録が遺っているし、日本最古の和歌集である万葉集に鰻を題材にした歌があるぐらいその効果は広く知れ渡ってる。
鰻に含まれるビタミン、カルシウム、タンパク質、脂質。
食べ過ぎに注意すればアスリートにとっては理想的な食べ物の一つと言って良い。
尤もアスリートではなくトレーナーの俺にとっちゃ高価な嗜好品の一つに過ぎねぇが。
そして鰻の蒲焼ってのはとにかく手間と時間がかかる料理法だ。
だからこそ鰻屋では酒を呑みつつ料理が出されるのを静かに待つのが粋とされる。
メインディッシュの蒲焼が来るまで酒だけってのは些かキツい。
なので幾つかの料理を頼んでおいた。
俺の前にはう巻きとうざく。奈瀬の前には肝焼きと骨煎餅。
とりあえずう巻きから箸を付ける。
切れ目から湯気が立ち昇り何とも言えない香ばしく甘い香りが周囲に漂う。
先ず一口、二口と頬張っていくと口の中が何とも言えない甘さで満ちる。
噛まずとも蕩けて消えそうな柔らかさと口内を満たす温かさ。
触感と温度って物が料理に於いて重要なのが実感できる。
次は丸々一切れを口へ放り込む。
半熟な卵焼きとその芯に当たる蒲焼は噛みしめる程にジュッワと甘みが沁み出していく。
そこへ素早くぬるくなった燗酒を啜る。
卵の甘味、鰻の甘味、タレの甘味、そして酒の甘味。
甘味の四重奏で口の中で至福を満喫する。
次いでうざくに箸を進める。
酢に漬かった胡瓜と香味の茗荷で口中をサッパリさせればまた新鮮な感覚でう巻きを食える寸法となる。
同時にうざくに混じった蒲焼を抓む。
これは蒲焼の甘味と酢の酸味が混じり合いまた違って乙な味だ。
黙々と食っていたが、ふと気になって奈瀬の方を見る。
肝焼きを一口食う、次いでグラスになみなみと注がれたビールを飲み干す。
瓶からビールをグラスへ注ぎなおす。
骨煎餅を一口食う、次いでグラスになみなみと注がれたビールを飲み干す。
眉一つ動かさず決まった動作で食い、そして飲む。
味わって食ってんのかコイツ?食い物全てを酒のツマミとしか思ってんじゃねぇのか。
「おい」
「もう少し味わって食え」
「味わってるよ、美味い料理だから酒が進むんだ」
「飲み過ぎると体に毒だぞ」
「酒は命の水と古来より言い伝えられてる、酒を飲めない人生なんか願い下げだね」
限度ってもんがあるんだよ。
何らかの催しを除けばコイツと同席した事は少ないがそれでもここまで飲むのは稀だった筈だ。
「パーティーとかはあれでも控えてたのか」
「文乃ちゃんの前だったからね、文乃ちゃんに大酒飲みと嫌われたくなかった」
そういや奈瀬が酒量を控え始めたのは40歳を越えた頃、娘が産まれた時期と一致する。
「もう文乃ちゃんが家に居ないから羽目を外しても罰は当たらない筈さ」
奈瀬は空になったビール瓶を退かし次の瓶を座卓に乗せた。
「奈瀬」
「ん?」
「もっと喋れ」
気が付くと俺の方から奈瀬に話しかけていた。
「爺二人が黙って飲み食いしてるのは味気ねぇんだよ。せっかく美味い料理が不味くなる」
「我儘だな君は」
「そもそも何で誘うのが俺なんだ。他に誘えそうな奴なら幾らでもいるだろう」
友人云々はさておき、コイツの交友関係は広い。
文字通り日本のトレーナーに於いてトップであり知己は海外にも存在する。
わざわざ仲が悪い俺を誘う理由が無いのだ。
「俺じゃなくて梅永の奴が居るだろ」
梅永とは奈瀬の部下としてコイツが海外にいる時の指導を任せられているサブトレーナーだ。
若いが奈瀬の不在を任されるだけあって双頭に優秀で性格も温和な野郎だ。
奈瀬が誘うなら断る理由が無いはず。
「もちろん最初に誘ったさ。でも『バンブーさんが断ったのに私が行く訳にはいきませんよ』と断られてね」
そう答えた奈瀬はグラスに残るビールを飲み干す。
「彼にも自由になる時間は必要だ、そろそろ僕の手から離れさせようと思っている」
「本人はそれを望んでいるのか?」
「他のトレーナーと比べても彼の実力は遜色ない。むしろ留める方が彼自身の成長を阻害してしまうよ」
そう答える声に幾分淋しさが混じっているように感じた。
「僕は暫くの間は日本に留まるつもりだ。その間に彼が独り立ち出来れば御の字さ」
「さっさと海外に行っちまえ、お前が居るとやりにくくて仕方ねえ」
「つれないなぁ」
付き合いが長い分コイツの手の内はある程度分かるが、それ以上に俺の手の内はコイツにバレている。
勝負したくないのが本当の所だ。
「じゃあ小内は?アイツなら喜んで来るだろ」
「彼は来ないよ」
小内忠はディクタストライカの担当トレーナーである。
そして新人の頃は奈瀬の付き人か弟子のような立場にいた。
奈瀬を師のように慕い目標としていた筈だ。
「なんだ、使い走りさせた事を怒って喧嘩別れでもしたか」
「彼は優秀だよ。いずれ僕を凌ぐトレーナーになる。来ないのは別の理由さ」
奈瀬がもう食うべき肝が無くなった串を手持ち無沙汰に弄る。
「僕の傍から離れる少し前に『貴方と同じ事をしても貴方を超えられません』と言われたよ」
「…そうか」
「僕は長所を伸ばして短所は直す必要が無いのなら敢えて放置する育成法だからね。細かい部分まで拘る彼の育成論との齟齬も出始めてたんだ」
奈瀬の育成はウマ娘の長所を存分に引き出す事で知られている。
それ故に『あらゆるウマ娘に最適な指導を行える』とまで称された。
一方の小内はデータを重視して無駄を削ぎ落す育成を得意とする。
気性が荒いディクタストライカの邁進は小内だからこそ可能だったと言えるだろう。
ある意味で真逆の主義主張だ。
「彼は去る時に『いずれ私が育て上げたウマ娘で貴方の育てたウマ娘を超えてみせます。その時は酒でも奢ってください』と言ったんだ。ディクタストライカの成長を見て意外と早くその時が来たと思ったんだけど…」
「今年のマイルチャンピオンシップか」
去年のマイルチャンピオンシップを制覇したのは小内が育て上げたディクタストライカだった。
だが、去年の有マ記念以降ディクタストライカはレースに出場していない。
もし体調が万全なら、もし出場したのならバンブーメモリーとディクタストライカは競い合った筈だ。
しかし今年のマイルチャンピオンシップを制覇したのはオグリだった。
小内は奈瀬と競い合う機会を、ディクタストライカはバンブーメモリーと競い合う機会を失った。
『…それにオグリキャップには「先」を視て欲しいんです』
俺がオグリのマイルチャンピオンシップ出場を決めかねていたあの時。
確かに小内はこう言った。
お節介な大バカ野郎め、20代の若造らしく素直に悔しがれ。
誰よりもマイルチャンピオンシップを走りたかったのは、勝ちたかったのはお前の筈だろうが。
ウマ娘の現役期間は短い。
一度機会を逃したら一生と競え合えない事もある。
無念だっただろうに。
だからお前はオグリのマイルチャンピオンシップ出場を後押ししたのか。
自分の、ディクタストライカの夢を叶えるのはディクタストライカに勝ったオグリだと。
「どうした六平?」
奈瀬の声で現実に引き戻された。
小内の事を考えていたら暫し意識が遠のいていたようだ。
「何でもねぇよ」
いずれ何らかの形で小内に報いてやらねえと。
そう結論づけて猪口に注がれた酒を含む。
とても酔えるような気分じゃなかった。
「他のトレーナーはどうした訳か僕が誘うと恐縮してしまうからね」
それはそうだ。
目の前のコイツは現役日本人のトレーナーの頂点と言っても過言ではない。
年齢的、実力的に釣り合うトレーナーはほぼ存在しえない。
余程のバカでない限り借りてきた猫のように委縮するだろう。
思えば俺や奈瀬と同年代のトレーナーはほぼ存在しない。
熱く夢を語り合ったトレーナー仲間も、丹念に鍛え上げたウマ娘も引退していった。
こうして語り合える相手など稀だ。
「なら娘はどうなんだよ?」
奈瀬の動きが唐突に止まる。
どうやら、この訳の分からない酒盛りを行う奈瀬の本当の狙いが分かりそうだ。
梅永サブトレーナーは騎手・調教師の松永昌博さんがモデル。
バンブーメモリーに幾度も騎乗し、90年にナイスネイチャの主力騎手となったので独立を話題にしました。
小内忠トレーナーは騎手の内山正博さん&河内洋さん・調教師の小野幸司さん・厩務員の内田忠さんがモデルですが、武田作十郎厩舎で武邦彦さんの弟分+武豊さんの兄弟子の河内洋さん要素を多めにしました。
アニメ『ウマ娘 プリティーダービー ROAD TO THE TOP』の最終話が放映される日に主人公ナリタトップロードの父であるサッカーボーイ(ディクタストライカ)のネタを書きたかったんです。