分析不能   作:プロッター

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前編

 海の青と、夕暮れの空の紅がコントラストを生み、芸術的な風景を作り出していた。太陽は水平線に触れようとしており、ほどなくして太陽が水平線と重なり、やがて沈むだろう。

 人の手が加わっていない、遥か昔から繰り返され続けてきた自然の摂理。人工的ではないからこそ、独特の力強さや壮大さ、そして言葉にできない感慨深さがある。

 

「…現在時刻17時13分。現在地からトレセン学園まで、直線距離にしておよそ120キロ」

 

 そんな景色を前にしても、隣に立つミホノブルボンは機械的な状況報告をする。目の前の景色など気にしている場合ではない、という風に。

 その理由は、彼女が元々機械的な言動で、ストイックな思考をしているから、だけではない。それをトレーナーは分かっていた。

 

「今からトレセン学園へ帰るとして、公共交通機関を使用して4時間近く掛かると計算できます」

「…そうだね」

「そうなれば寮の門限には間に合いません」

 

 ミホノブルボンは、トレーナーの顔を見て淡々と告げる。トレーナー自身それは理解しているので、否定しない。今置かれている状況がどういうものかも、ミホノブルボンと同じかそれ以上に理解している。

 

「…バッドステータス『しょんぼり』です」

 

 普段から感情が読みにくいミホノブルボンも、今ばかりは落ち込んでいるのがトレーナーにも分かった。

 

 

◆ ◇ ◇ ◇

 

 

 事の発端は3日前。午後のトレーニング中のことだ。

 

「重バ場状態の坂路5往復のミッション、終了。マスター、次の指示を」

「よし。それなら次は…」

 

 多少の汗を浮かべながらも、すぐに息を整えたミホノブルボンが落ち着いて報告をしてくる。

 どれだけ負荷が強いトレーニングでも、このウマ娘は一切の弱音を吐かない。淡々と、着々と鍛え続けるその姿勢こそが、言葉遣いと相まって「サイボーグ」と称される理由だ。しかし、彼女もれっきとしたウマ娘の1人だからちゃんと感情があるし、きちんと感情を面に出しているのだ。注意深く見なければ分からないほどのものだが。

 

「10分のクールダウンと休憩。その後、長距離トラック3周だ」

「オーダーを受理、クールダウンモードに入ります」

 

 差し出したタオルとスポーツドリンクを、ミホノブルボンは受け取る。

 相手は感情のあるウマ娘だ。それを理解しているからこそ、トレーナーはこうして指導できる。本当のサイボーグ相手だったら、きっと今みたいに適切な指導など逆にできないだろう。

 それに、血の通ったウマ娘だと理解しているからこそ、不安や心配などの気持ちを向けることができる。

 

「…マスター? どうかされましたか?」

「いや、最近ブルボンはよくやってると思ってな」

 

 元々はスプリンターとしての適性が高かったミホノブルボンだが、彼女が目指すものもあってトレーナーは彼女にはステイヤー向けのメニューを課している。そのために、ベテランのトレーナーとの確執も生まれてしまったわけだが、結果としてミホノブルボンはクラシック二冠を獲り、それ以降も重賞のレースを何度か制している。

 その成果は、ミホノブルボンの中にある強い思いと、彼女自身の努力の結晶に他ならない。今もまた、ステイヤーとして申し分ない体質となれるようにスタミナをより鍛えるトレーニングに熱心に取り組んでいる最中だ。機械的だなんだと言われても、彼女は情熱家なのだとトレーナーは知っている。

 

「ありがとうございます。ですが、これまでの成果はマスターの指導によるものです。マスターがいなければ叶いませんでした」

「それは流石に買いかぶりすぎだよ。結果を出したのはブルボン自身だ」

 

 指導云々はともかく、結果は他ならないミホノブルボンが出したものだ。トレーナーはウマ娘が持っている力を遺憾なく発揮できるよう手を貸したに過ぎない。トレーナーがつかなければトゥインクル・シリーズに出られないという規則こそあれど、ミホノブルボンが今まで勝ってきたのはトレーナーのおかげ、とは言いすぎだ。

 

「そして、頑張っているのも事実だ。けど、頑張りすぎて身体を壊すのもよくない。次の休みは、ゆっくりするといいよ」

「了解しました。追加オーダーを受理、次の休日にオペレーション『ゆっくり休む』を実行します」

「…うーん」

 

 トレーナーとしては、別に命令したつもりはない。むしろその逆で、休日は伸び伸びと過ごしてほしいところだ。だが、こういうちょっとした提案であってもミホノブルボンはそれを「指示」あるいは「命令」と受け取って、こうして大真面目に取り組んでしまう。今に始まったことではないが、ミホノブルボンとコミュニケーションを取る上でこれが中々ネックだった。

 

「マスターの表情から、『苦悩』を確認。私は何か間違ったことを言ったのでしょうか?」

「いや、そうじゃないよ。ただ、そうだなぁ…次の休みは、何かやってみたいことをするといいよ。のんびり過ごすだけじゃなくて、自分のやりたいことをするのも気分転換になるから」

 

 言っている途中で、「しまった」と自分で後悔する。

 ミホノブルボンは、「クラシック三冠を獲りたい」という自らの希望を除けば、「あれがしたい」「これもやりたい」としきりに自己主張するような性格ではない。そんなミホノブルボンに、先のようなアドバイスは意味を成さないことに気づいた。

 

「…了解しました。マスターからのアドバイスを基に、休日の予定を再構築…」

 

 だが、既に口にした言葉を戻す術もなく、ミホノブルボンは虚空を見上げて思考に取り掛かってしまった。知恵熱を出したりしなければいいんだけど、とトレーナーは不安になる。

 

「…再構築の結果を算出しました」

「?」

「4日前の19時過ぎ、寮の食堂で視聴した旅番組にて『長い海岸線の砂浜を歩いていると、リラックスできる』旨の発言を確認。現地へ向かい、リラックスを試みます」

 

 それを聞いて、トレーナーも思い出した。確かにミホノブルボンの言った4日前、偶然つけたテレビの旅番組でそんな感じのことを言っていたような。

 

「…なるほどね。うん、いいと思う」

「しかしながら、不穏なファクターがあります」

「え?」

「現地まで向かうには、公共交通機関を使わなければなりません。その過程で、機械的なトラブルに巻き込まれる可能性が十分に考えられます」

「あー…」

 

 どういう理屈か知らないが、ミホノブルボンは触れた電子機器類を高確率で壊してしまう。トレーナーが担当についてからも、彼女のスマートフォンは2~3回ほど壊れているし、寮の冷蔵庫を壊した結果食材がほぼ全滅したなんて話も聞いている。

 そんな彼女が公共交通機関を使うとなれば、当然その道中にある切符の販売機、改札、精算機、スマートフォン等々の電子機器を使わずにはいられない。もしもその特殊体質が発動してしまえば、周りにも迷惑がかかるし、何よりもそれをミホノブルボン自身が気にする。加えて遠方で連絡が取れなくなれば、ちょっとした遭難だ。リフレッシュどころではなくなるだろう。

 だとすれば。

 

「それなら、俺が連れてくよ」

「休日にマスターの力を借りることは不適当であると、私は考えています」

「俺もそこに行ってみたいっていうのもあるし、何よりブルボンのリフレッシュの方が大事だよ。何せ俺の担当なんだから」

 

 行ってみたいのは本当だ。トレーナー業に勤しんで、学園と社宅を往復している中でどこか窮屈な感覚がしていたので、だだっ広い場所へ行って気持ちを切り替えたかった。

 それに、担当のウマ娘が…あのミホノブルボンが自分から「行ってみたい」と言い出したのだ。その背中はきちんと押したい。

 

「俺の車で連れて行くよ。ただし、ナビには触れないでくれよ」

「了解しました。心遣い、感謝いたします」

 

 トレーナーの自家用車は、車検に出したばかりなのでちょっとやそっとで壊れはしないだろう。ただ、搭載されているカーナビにミホノブルボンが触ると故障しかねないので、そこに関してはくぎを刺しておく。

 ミホノブルボンは頷く。

 

「…心臓の鼓動の若干の速まりを確認。ステータス『期待』」

 

 ほんの少し、声量を下げたミホノブルボンの言葉に反応を示す前に、クールダウン終了のタイマーが鳴った。

 

 

◇ ◆ ◇ ◇

 

 

 迎えた休日。ミホノブルボンは、トレーナーが運転する車で目的の浜辺へと向かった。

 幸いにも、道中でミホノブルボンの特殊体質が発動する兆候はなかった。車のカギはトレーナーが開けてくれたし、カーナビや窓の操作もトレーナーが代わりにやってくれたので、触れることはほとんどなかったからだ。

 そうして車で移動することおよそ2時間。

 

「よし、到着」

 

 浜辺にほど近い駐車場に、トレーナーが車を停める。

 テレビで紹介されてはいたものの、千客万来の観光地というわけではないようで、周囲に店舗の類はさほど見られない。また、それほど民家があるわけでもなく、波の音と風の音を除けばとても静かな場所だった。

 

「……」

 

 車を降りたミホノブルボンの目に、どこまでも続く青い海が飛び込んできた。紹介されていた通り、広がる砂浜は緩やかな弧を描き、水平線まで続く海は太陽の光が反射して煌めいている。優しく吹く潮風が髪や肌を撫でていき、感じる涼しさはとても心地よい。

 

「…微弱ながら、セロトニンの分泌を確認。ステータス『リラックス』へと推移しています」

「それはよかった」

 

 裏表のないミホノブルボンの言葉に、トレーナーは頷く。

 確かに、こうして広い自然の景色を眺め、感じるものに身を委ねることで気持ちの切り替えはできる。今も、リラックスさせる脳内物質の分泌を自覚し、リラックス状態にあることは分かっていた。

 けれど、ミホノブルボンの表情も語調も普段とはほとんど変わらない。まだ車を降りて海岸を見ただけだし、そもそも自分は感情の振れ幅が他人と比べて小さいので、感情がそのまま表情と言葉に現れることもない。トレーナーもそれは十分分かっているようなので、リアクションも控えめだった。

 

「さて、まずはどうする? 時間はあるけど…」

「でしたら…」

 

 テレビで言っていた通り、砂浜を歩いてみたい。

 そう言おうとする直前で、ミホノブルボンの胃袋が空腹を訴える音を奏でた。

 

「…長いこと運転してお腹空いてるところだし、ちょっと何か食べようか」

「…追加オーダーを受理」

 

 その腹の虫には直接触れず、ミホノブルボンが望んでいるであろうことをトレーナーが代わって申し出る。ミホノブルボンとしても、先ほどの音について言及されるのはやや気恥ずかしかったので、トレーナーの気遣いに感謝した。

 辺りを見回してみるが、やはり店の数は少ない。だが、その中に定食屋の看板を掲げる店があったので、トレーナーと一緒にそこへと向かう。観光客向けではないらしく、規模は小さめだったが他に選択肢もなさそうだったので、迷いなく足を踏み入れた。

 

「いらっしゃいませ~」

 

 迎えたのは、トレーナーよりも少し年上ほどの女性だ。厨房にはその女性と同い年ぐらいの男性がいるが、恐らくは夫婦だろう。時間的なこともあってか、ほかに客はいない。

 空いていたおかげか、ミホノブルボンたちは海が見える窓際の席に通された。メニューの種類はあまり多くなく、ラミネート加工がされたA4用紙1枚に余裕で収まる程度の量だった。

 

「あれ…? もしかして、ミホノブルボン…?」

 

 何を注文しようか、と考え始めたところで、信じられないような声が聞こえてきた。それは、厨房に立っていた主人の口から発せられたものだ。ミホノブルボンはその声の主に、視線を合わせる。

 

「はい、私がミホノブルボンです」

「なんとまぁ…! こんなトコで会えるなんて思わなかった!」

「お父さん『こんなトコ』って」

 

 感激しているらしい主人に対して、女将がミホノブルボンとトレーナーに水とおしぼりを出しながら苦言を呈する。店を構えている場所を「こんなトコ」呼ばわりされるのは、やや不服のようだ。

 

「ブルボンをご存じなんですか?」

「ご存じも何も、私ファンなんですよ! いやぁ嬉しいなぁ!」

 

 トレーナーが聞くと、主人は興奮冷めやらぬという感じで厨房から出てきながら答える。

 これまでファンの一人一人を顧みたことも、ファンと顔を合わせて話をしたこともミホノブルボンは全くと言っていいほどない。だから、こうして純粋に一人のファンが目の前にいるという機会はとても貴重に思えた。

 

「僕、ミホノブルボンさんの走りが好きなんです。どんな荒れたバ場でも、どんな強い相手が一緒に走っていても、全然ブレないで冷静に走るところとか」

「そうでしたか…」

 

 主人の言葉にトレーナーが頷く。

 全然ブレない、というのはミホノブルボン自身の感情の起伏が乏しいからだ。トレーナーでさえ、ミホノブルボンが何を考えているのかをある程度理解するのに長い年月がかかった。レースの時しか見ることがほとんどないファンや観客たちは、冷静というイメージが強いのだろう。

 

「皐月賞と日本ダービーを獲った時はすっごく嬉しかったですよ。菊花賞は残念でしたけど、これからも応援していますので」

 

 その表情と言葉に、ミホノブルボンの中で、ぽとんと雫が落ちたかのような感覚がした。

 

「…激励の言葉、インプット完了。これからも精進します」

「はい、頑張ってくださいね!」

 

 ミホノブルボンの言葉に、嬉しそうにする主人。女将も同意見だとばかりに、ミホノブルボンに向けて笑みを浮かべて頷いていた。

 

 

◇ ◇ ◆ ◇

 

 

 食堂でオムライスを堪能し、トレーナーはこれからの予定をのんびりと考えようとする。

 そこで、ミホノブルボンはトレーナーの肩を叩いてきた。

 

「マスターへリクエストがございます。軽めのトレーニングとしてランニングを行ってもよろしいでしょうか」

 

 休日に、唐突なトレーニングの提案。トレーナーはキョトンとする。

 

「急にどうした?」

「先ほど、お店の方から『応援している』旨のメッセージをいただいてから、私の内側で抑制困難な『走りたい』欲求が増加。エネルギー補給が完了した今、コンディションも良好なため、軽めのトレーニングを提案します」

 

 先ほどは無表情でナポリタンを食べていたミホノブルボンだったが、どうやら店の主人たちの応援の言葉が「嬉しかった」ようだ。そんな風にミホノブルボンが触発されて嬉しかったのだと思うと、自分までもが同じ気持ちになる。

 

「応援されて嬉しかったのは分かる。だけどもう少し…15分ぐらい食休みをしてからだ」

「了解しました。15分の休憩の後、軽めのランニングトレーニングに移行します」

 

 頷くミホノブルボン。

 とはいえ、15分もの間手持ち無沙汰にじっとしているのももったいない気がしたので、まずは最初に目的としていた、波打ち際の散歩をすることにした。

 

「晴れててよかった。おかげで景色もいいし、風も気持ちいい」

「…現在の当地の快適度、極めて『良好』と判断いたします」

 

 晴れ渡る空と穏やかな海を眺めながら、返事を求めるわけでもなくトレーナーが言う。だが、ミホノブルボンは意外にも反応を示してくれた。よくよく観察してみれば、唇はほんの少しだけ緩んでおり、このロケーションを少しだけでも気に入ってくれていると見える。そのためにここへ来たのだから、車を出した甲斐があった。

 知り合ったばかりのころと比べれば、ミホノブルボンは大分変わった。今みたいに感情が表情に出てくることが増えたし、冗談まで言うようになっている。レースでの走りだけでない、こうした成長を目の当たりにできるのは素直に喜ばしかった。

 

「それにしても、さっきみたいにファンの方と話ができるっていうのは驚きだ」

「類似する事例として、ファンレターを提示。しかしながら、先ほどのように肉声で激励を受けるのは前例がありません」

「ああ、結構貴重なことだよ?」

 

 ファンレターとして色々な意見――大半は応援メッセージだが――を貰うことは、トゥインクル・シリーズの第一線で戦っている立場であればざらにある。しかし、こうしてプライベートで出掛けた先で自分のファンに偶然会う、となればあまりない。

 

「ああして応援してくれているファンを見ると、もっと頑張らなきゃって思うよ。俺も」

「……」

 

 視線を感じて振り返る。ミホノブルボンは、無機質ながらも透き通る瞳をトレーナーへと向けていた。

 

「レースで走るのは私です。頑張る必要があるのは私だけと考えますが」

「それはまぁ、俺は走れないけどね。でも、やっぱりブルボンがちゃんとしたパフォーマンスができるようにするには、俺もただ突っ立ってるだけじゃいられないし」

 

 先日、ミホノブルボンが結果を出せているのはトレーナーのおかげ、と言ってくれた言葉をトレーナーはそれを否定した。ただし、何の力にもなれていないとまでは思っていない。ミホノブルボンが本領を発揮できるよう、身体を壊さないよう、長く走り続けられるよう、トレーナーはトレーニングの配分を考えてスケジュールを組んでいる。自惚れ抜きにして、そういう意味でトレーナーは力になっているのだ。

 だから、今日あのように応援のメッセージを受け取ると、ミホノブルボンがより力を発揮できるようになるためにはどうすればいいのか、そう考えさせられる。

 

「それに、ブルボンがああして応援されてるのを見ると、俺も嬉しいからさ」

 

 担当ウマ娘が…ミホノブルボンがレースに勝利した際は、勿論嬉しいし喜ばしい。だが、今日のようにファンの応援する生の声をを聞けた嬉しさはそれと同じぐらいだ。自分たちの練習の成果は形として残り、また観ている人たちの心にも響いているのだと、そう実感できるから。

 

「…マスターにとっての私は、支えでもあるのでしょうか」

「?」

 

 ぽそっと、ミホノブルボンが何か呟くが、それは押し寄せる波の音で聞き取れなかった。するとそこへ、少し強めの波が寄せてきたのにトレーナーは気づく。

 

「ブルボン」

 

 反射的に、ミホノブルボンの肩に手を回して、足に波が当たらない位置まで下がる。ミホノブルボンも、声をかけるまで波に気づいていなかった風だったので、多少いきなりではあるがこうした方が良いと思った。トレーナーはともかく、仮にミホノブルボンの靴に防水加工がされていても、海水に浸かるのはあまり気持ちよくはないだろう。

 

「ごめん、急にこんなことして」

「…いいえ、問題ありません。むしろ波から守ってくださり感謝しております」

 

 波を避けてから、トレーナーは肩から手を離す。サイボーグと比喩されようが中身は年頃の少女なミホノブルボンを、いきなりあんな風に自分へと寄せたのだ。不快に思われても仕方ないので謝るが、ミホノブルボンにはその様子はなかった。

 だが、ミホノブルボンは自らの胸に手を当てている。もしや、読み取れないだけで嫌だったのか、それとも動揺しているのだろうか。

 

「…さて、そろそろ走ってみる?」

「はい」

 

 気を紛らわせるために、ミホノブルボンが希望していたランニングを提案する。ミホノブルボンは、そんなトレーナーの動揺にも気づいていないようで、上着を脱いでトレーナーに渡すと柔軟を始めた。それを見てトレーナーは安心感を抱く。

 さて、レースはもとより、普段のトレーニングで走る際はジャージだし、夏合宿でも同じくジャージか水着だ。それはもちろん、走りやすい恰好だからに他ならない。しかし今のミホノブルボンは、スキニージーンズにパーカーと、「私服」というジャンルで見れば動きやすい服と言えど、運動向きとは言い難い。それに靴だって、トレーニング向けではないはずだ。

 だが、そんなことは百も承知なミホノブルボンは柔軟を終えると再度トレーナーを見る。

 

「では、少々走ってきます」

「あぁ。気を付けて」

 

 トレーナーが声をかけると、ミホノブルボンは来た道を逆に戻る形で走り出す。最初は単なるジョギング程度の速さだったが、次第に速度を上げているのが分かる。どうやら、軽いランニングどころかいつも通りの感覚でトレーニングをするつもりらしい。

 本当なら、今日のようにオフの日はトレーニングを控えてもらいたかった。だが、自己主張をほとんどしないミホノブルボンがこうして提案すること自体貴重だったので、それをここにきて止めてしまうのも少々罪悪感がある。なので、トレーナーはミホノブルボンの様子が見えるように、一旦波打ち際から陸側にある土手へと場所を移すことにした。

 

 

◇ ◇ ◇ ◆

 

 

 途中で休憩を何度か挟み、やがて遠くの山がオレンジ色に染まり始めた頃合いにトレーナーに「そろそろ引き上げよう」と声をかけられた。

 

「大丈夫?」

「エネルギーの消費率、48パーセント。心拍数・脈拍共に微増、体温微熱。ですが、問題ありません」

「それならいいけど…」

 

 汗が浮かんだままのミホノブルボンに、トレーナーがハンカチを差し出してくる。タオルは持っていなかったようだが、ハンカチもトレーナーに預けた上着の中に仕舞ったままだったのでありがたい。

 

「走ってみてどうだった?」

「『走りたい』欲の、ある程度の収束は確認。しかしながら解消には至っておりません」

「まぁ、私服で走ってたんじゃ全力のパフォーマンスもできないしね」

 

 トレーナーの言う通りで、ジャージや勝負服などとは違って、私服では自分の理想とする走りはどうしてもできなかった。それは承知の上で走ったのだから文句はないし悔いもない。また、先ほどから自分の中に燻っている「走りたい」という欲求は、未だ完全に解消できてはいなかった。

 

「トレセン学園での追加トレーニングを希望します」

「今日はオフだし、焦ることはないよ。それに、今からトレセン学園に戻っても、トレーニングを始めるには少し遅い時間になるし」

 

 言いながら、トレーナーはミホノブルボンの頭に手を置く。逸る気持ちを落ち着かせるように。

 そうして頭に手を置かれていると、思い出すのは父のことだ。幼いながらクラシック三冠を獲ろうと決意し、夢を目指してひたむきだった頃。父は、今と同じ風に、気持ちばかりが先走っていたミホノブルボンを落ち着かせようと、父は頭に手を置いて撫でてくれたものだ。

 

「……」

「っと、ごめんごめん」

 

 過去の記憶をほんの少し見直していると、焦ったようにトレーナーが手を離した。黙りこくったミホノブルボンが不快に思っていると考えたからだろうが、そんなことはない。むしろ、なぜか安心していたのだ。

 

「ちょっと飲み物買ってくるから。先に車に乗ってていいよ」

 

 言って、トレーナーはスマートキーを渡してくると、小走りに駐車場脇にある自動販売機へと向かった。ミホノブルボンから逃げるように。その背中を見送りつつ、ミホノブルボンも車へと向かう。

 気を遣わせてしまったのはミホノブルボンでも理解できるし、彼の人となりを考えればそうなるのも仕方ないだろう。何せ、相手は大人で、自分はそんな大人のトレーナーから見ればまだ子供のウマ娘だ。迂闊にスキンシップなどすれば、沽券に関わるだろうから。それに、相手にもよるが心を傷つけてしまう恐こともある。

 他人と触れ合うこと、言葉を交わすこと、心を通じ合わせることは容易くない。人同士の間には、様々な見えない壁があるから。今回はミホノブルボンがトレーナーの行動を理解できたが、逆にトレーナーはミホノブルボンの真意が掴めなくて、不快になったと思ってしまって先の行動に出た。

 だが、少なくともミホノブルボンは、トレーナーに頭を撫でられて気を悪くしてなどいない。安心感を得られたのだから、気持ちが落ち着くのだから、そうされることに抵抗もない。

 それに、浜辺で自分の足が波に浸からないよう庇ってくれた時。あの時も、急に肩を抱かれたことには驚きはしたが、自分のことを守ろうとしての行動なのはすぐに理解できたし、抱いたのはやはり安心感だ。不思議と、トレーナーのそばにいると安心感と言うものが実感できる。

 だからこそ、トレーナーが気に病んで距離を取ろうとすることが、逆にミホノブルボンにとって少し寂しい。

 

「…どうしたものでしょうか」

 

 ぽつりと呟きながら、ミホノブルボンは車のドアノブに手を掛ける。スマートキーを持っていれば、触れるだけでカギは開くはずだ。

 しかし、返ってきたのは「バツン」と何かが弾けるような音。

 鍵が開いた音には聞こえなかった。

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