喜多郁代は悩んでいた。

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その指はたくさん頑張ったからだって君は言うけれど

「もう嫌ぁあああああ!! ギター辞めます!!」

「あっここはちょっと難しいですよね……何度もやっていけば指が覚えますので……」

 

 ひとりちゃんの中で私の「ギター辞めます芸」が雑に受け止められるようになってから、どれくらいたっただろう。

 いや別に芸でもなんでもないし、頭がこんがらがっちゃったときはほんとに「もう無理!」なんだけど、でもこのくらい雑に流してもらえると私としても楽だったりする。

 

 一度は本当に逃げ出しちゃった私としては、もう簡単に辞めるとか逃げるとかは言えない言葉だけど、それはそれとしてギターって難しくて弱音も出ちゃう。

 大体六本も弦があるのに五本の指で演奏するっていうのが無理があると思うの。

 

「あっ両手で十本ありますので……」

 

 歯でギター弾けるひとりちゃんは言うことが違う。

 でも違うの、そうじゃないの。指はね、十本あってもそんな器用には動かないのよひとりちゃん。

 

「あっでも、喜多ちゃんはすごいです、よ? 楽譜もすぐ読めるようになりましたし、リズム感もありますし……」

 

 それほどでは、あるかも。

 なんて調子に乗っちゃいけないけど、でも褒めてもらえると心も元気になってくる。

 私はギターから手を放して、お膝に手を置いて、耳を傾けた。

 ひとりちゃんも私の態度で察してくれたのか、諦めてギターを置いてくれた。

 ごめんね。でもひとりちゃんのペースだと心がメトロノームになっちゃうから……。

 

「間違えてベースやってたのはあれですけど、逆に変だなって思ってても続けられたのはすごいですし……」

 

 本当に恥ずかしい間違いだったし、音が変だなって思ったらもっとしっかり確認すればよかったんだけどね。

 ただでさえ嘘ついちゃってたから、弾けるようにならないとって、焦ってたのよね。

 結局それでダメだったから、無責任に逃げ出しちゃったんだけど……。

 

「あっ歌声も張りがあって、伸びもいいですし……歌詞もすぐ覚えてくれますよね……私には無理です……」

 

 うんうん。

 歌はちょっぴり自信があるわね。

 カラオケで、結構上手に歌えるわってくらいには。

 もちろん、全然まだまだだなっていうのは痛いくらい思い知らされちゃったけど、でもこれも私の武器なんだって、いまではそう思える。

 ひとりちゃんの歌詞を、私がみんなに届けるんだって、そう思うと結構すてきじゃない?

 

「それに笑顔が素敵ですし……誰とでもすぐ打ち解けられますし……いつも元気ですし……まじめですし……勉強も教えてくれて……」

 

 ほめられパワーがたまってきたわね!

 でも私の背筋がぴょんと伸びるころには、ひとりちゃんの背中はぐにゃぐにゃに曲がり始めてた。

 

「私は全然無理です……ダメダメのダメ次郎……友達もいないし笑顔も気持ち悪いし歌う以前にふへへって変な声しか出ないしジャージだしギターしかできないのに人前だとギターもぐずぐずだし……」

「もー、ひとりちゃんはセルフで落ち込んでくんだから」

 

 自分で言って自分で落ち込んで、重力に負けて崩れてもろもろしたものになっていくひとりちゃん。その背中を指先でトントン叩いて振動で均して整形していってあげる。

 あれ、ちょっとずれたかしら?

 でもこんな感じだったわよね。うん、これでいつものかわいいひとりちゃんね!

 あっ叩きすぎたかも……まあこれはこれで!

 

「私からするとひとりちゃんはもっと自信があってもよさそうだけど……」

「え、えへへ、ギターだけは弾けるので……」

 

 だけ。

 ひとりちゃんはいつもギターだけは自信がある。

 自信っていうには、ちょっとつつくと動揺してがたがたになっちゃうけど、でも、少なくともギターはひとりちゃんの武器なんだと思う。それも、他には何にも持っていないって思ってるひとりちゃんにとって、たったひとつだけの武器。

 

 最初は、ギターがうまいんだなって、単純にそれだけだった。

 一緒に弾いてみて、あれ、そんなにうまくないのかなって誤解して。

 でも、人の前でも、みんなの前でも、きちんと実力を発揮できるようになれば、ひとりちゃんの技術はすごかった。すごすぎた。ずば抜けてて……追いつけなかった。

 ひとりちゃんはかっこよくて、すこし、遠くなった。

 

 みんなにかっこいいひとりちゃんを見てもらいたかった。

 なんて言ったら、私がいい子みたい。

 ちがう。本当は、ちがう。

 かっこいいひとりちゃんの隣に立つ私を、見てもらいたかったのかもしれない。

 かっこいいひとりちゃんの隣でギターを弾く私を、認めてもらいたかったのかもしれない。

 

 でもなあ。

 

 私は指を見る。

 分厚くなった指の皮を見る。

 厚くなって、硬くなって、すこしかさついて、すこしささくれてる。

 クリームを塗って、マッサージもして、気にかけてても、私の指の皮は厚くなった。

 

 最初のうちは練習してるからって思えた。

 はじまりは嘘だったとしても、まじめにやってるからって誤魔化せた。

 でもダメだった。すぐに怖くなった。それはいつだっただろう。かさついた指の腹が裂けて血が出た時かな。ペンを握った時に感触が全然ちがってることに気づいた時かな。左右で指の形が、ちがってきてることを知った時かな。

 

 ううん。

 多分、爪が。

 爪が割れた時、かな。

 

 ギターと思ってベースを練習してて。

 全然思う通りの音が出なくて、焦ってて。

 指の皮ばかり厚くなって、なのに全然うまくならないって怖くなってて。

 それで、ある日、爪が割れた。私の爪が、割れちゃった。

 

 そんなことでって、思うかもしれない。

 くだらないって、そういわれるかもしれない。

 

 でも、私は、爪の割れた私は、それで折れちゃった。ダメになっちゃった。無理ってなっちゃった。なんて言ったらいいかわかんなくなって、いまさらどんな顔してって思って、それで、連絡もせずにそのまま逃げだしちゃった。

 無責任な話だよね。

 

 でもひとりちゃんは、私の指をほめてくれた。

 指の皮が厚くなってるのは、たくさん練習した証だって。

 逃げ出した私の指を、ちゃんと向き合った指なんだって、そう言ってくれた。

 頑張り屋さんの指だって、この指が好きだって、そう言ってくれた。

 (そこまでは言ってくれてなかった気もしてきたけど、私の中ではそういうことになってる)

 

 私は指を見る。

 分厚くなった指の皮を見る。

 厚くなって、硬くなって、すこしかさついて、すこしささくれてる。

 クリームを塗って、マッサージもして、気にかけてても、私の指の皮は厚くなった。

 

 今ではほんの少しだけ、私は私の指に自信が持てる。

 これは頑張った指なんだって、たくさん練習した指なんだって。

 だって、ひとりちゃんがそう言ってくれたんだから。

 

 でもね、ひとりちゃん。ひとりちゃんの指は、もっと分厚いわよね。

 触ってわかったわ。男のひとみたいだって思ったもの。

 指も、爪も厚くて、まるで生まれた時から、ギターを弾くためにそういう形だったんじゃないかって、そう思うくらいだった。

 

 そんな指になるまで、あとどれくらいかかるのかしらって。

 そんな指にならないとギターがうまくならないのかしらって。

 思うの。思っちゃうの。

 自分の指を認められるようになって、ひとりちゃんの指をすてきだなって思えるようになって、それでも、私の指はみんなみたいなきれいな指じゃなくなっちゃったって、そう思っちゃう瞬間がある。

 

 半端だなあ、って、そんなのわかってるわ。

 半端だなあ、って、自分でも思ってるもの。

 

 いまだってそう。

 練習から逃げ出して、勝手に休憩して、それで一人で考えこんじゃって。

 ずぶずぶ沈み込んじゃいそうな気持を、私は無理矢理に引っ張り上げる。

 背筋をグイっと伸ばして、頑張るのよって自分を励ます。

 さあ、メトロノームの気持ちになるわ!

 

「あっ喜多ちゃんが戻ってきましたね……」

 

 ひとりちゃんは私のうじうじを待っていてくれたみたいだった。

 でもそこは励まして引き戻してくれてもよかったのよ?

 なんて勝手なことを思ってたら、ひとりちゃんはもうギターを片付けてた。

 お昼休みはまだあるのに。いつもならまだあと三分ありますねとか言ってぎりぎりまで弾かせようとするのに。

 

 キョトンとして見下ろした先で、ひとりちゃんが広げていたのは飾り気のない化粧ポーチだった。というか多分化粧ポーチですらない百均で買ったなんかのポーチだった。

 そしてそこから取り出したのはマニキュアだった。

 

「ひとりちゃんがお化粧……?!」

「あっ違います、けどそんな驚くことですかね……」

 

 驚くことですよね……ってひとりで納得してるひとりちゃん(ひとりだけに)。

 意外っていえば、そりゃあ、意外だったわ。

 だってひとりちゃんって、全然化粧っけないし(なのに肌もきれいだしかわいいのはずるいし)、コスメとかってなんか陽キャ拒絶反応起こして崩れちゃいそうな気もしたし、なんのかんのまじめな子だから学校に持ってきてるっていうのも意外だったわ。

 

「あっこれベースコート……? っていうんですかね。色はないんです。あの、爪を守ってくれるやつで……」

「へえ……ギタリスト用なんてあるのね」

 

 シンプルなラベルに大きく書かれたGuitaristの文字につぶやけば、あっこれギタリストって読むんですねってひとりちゃん……英語の補修頑張りましょうね……ぐいたーとは読まないのよギターは。

 

「喜多ちゃんの爪、まだきれいなので……いまのうちからお手入れしておいたほうがいいと思って」

 

 ピック弾き、爪弾き、指弾き、いろんな弾き方があるけど、爪のお手入れは大事らしいわ。

 グラスネイルとか、いっそギター用のごっつい付け爪みたいなのもあるらしいけど、ひとりちゃんは簡単だからってこれらしい。

 

「あっ簡単って言っても、きれいに塗るまで大変だったんですけど……でもなれるのでこれも……」

 

 いいですかって聞かれて、反射的にうなずいちゃうと、ひとりちゃんは私の手を取って、お手入れを始めちゃった。

 拭って、磨いて、書道家のような手つきですうっとベースコートを引いてくれる。

 その手つきは、その目つきは、まるでギターをあつかうそれだった。

 それは道具を扱う手で、道具を見る目だった。

 その手は、その目は、ものすごく恥ずかしくなってしまうほどに、まっすぐに私を見てた。

 

 それで、塗り終わると、ふう、と当たり前のように優しく息を吹きかけてきて、私はなんだかよくわからないものが背筋を駆け上っていくのを感じちゃったのだった。

 

「あっこれで終わりです……あっでも乾くまでちょっとかかるので……あっ喜多ちゃんはこんなこと言わないでもわかってますよね……」

「ううん、ありがとう、ひとりちゃん……ねえ、なにかに触っちゃうといけないから、そのまま持っててくれるかしら」

「あっはい……えっ」

「ありがとうひとりちゃん!」

 

 さっきまでの真剣な、格好いい顔と打って変わって、おろおろとうろたえながらも、ひとりちゃんは私の両手を支えたままじっとしていてくれた。ひとりちゃんのすこし冷たい体温が、指先から伝わってきて、なんだか少し気恥しくて、すこし嬉しい。

 

 その体勢のまま、私はいろんなことを聞いた。

 

 ギタリスト用、って言っても、普通のベースコートと変わりはないみたい。

 上からマニキュアを塗ってもいいし、除光液で落とせるらしい。

 一応爪を守ってくれるけど、あんまり激しいとすぐ割れたり剝げちゃうから、これで足りないならグラスネイルとかもあるんだって。

 そのほかにも、ちょうどいい爪の長さとか、爪の切り方とか、ひとりちゃんは尋ねるたびにつっかえつっかえ、近すぎる距離にうろたえながらも答えてくれた。

 

 別にひとりちゃんは、私の考えてることなんて何一つわかってないと思う。

 私が悩んでたこととか、全然知りもしないし気づきもしなかったと思う。

 でも、それでうれしい。それがうれしい。

 爪がきれいだからって、ただそれだけで、私はこんなにもうれしい。

 なんて、ちょっとちょろすぎるかな。

 

「あれ……待ってひとりちゃん」

「あっはい……?」

「まだきれいって言わなかったかしら? まだって言わなかった?」

「あっはい……」

 

 ひとりちゃんはふへへって笑った。

 

「一日六時間弾いてると爪が治る暇とかないので……」

「ああー……そういう……」

「あっそろそろ乾きましたので、練習しましょうか」

 

 無慈悲にもメトロノームを再始動させるひとりちゃんの笑顔が、眩しい。

 私はつやつやの指をまもるように抱きしめた。

 

「もう嫌ぁあああああ!! ギター辞めます!!」

「あっいつもの発作ですね……えへへ……メトロノームの気持ちになるですよ……」

 


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