斎藤ありま生誕から半年。
その日は星野家の人間にとって、そして斎藤社長にとっては待ちわびた日であった。
――ミヤコとありまの帰還。
ありまがある程度育ったこと。
社長の業務がひと段落したので、ミヤコがワンオペから解放されること。
自宅育児の体制が整ったことで、ミヤコとありまは斎藤家に帰ることが可能となった。
「(ようやく、ようやく帰ってきてくれるのか……。本、当に長かったな……)」
すでにアリマニウム欠乏症のアイと、それを何とも言えない顔で見続けてきた双子。
とりあえずこの状態の母を立ち直らせてくれるのなら、何でも良い。
とっくに匙を投げ出しているので、はやく薬を注入して欲しい。
それがアクアの偽らざる本音であった。
この半年で変わったことと言えば、星野家を含む斎藤家は一軒家に移り住んだこと。
戸籍を同じくする家族なのだ。そこには不自然さはなかった。
その為、星野家もありまと同居できることとなる。
「(ベビーベッド、バギー、電動バウンサー……自分たちの時にはなかったものまであるな)」
数年とは言え、双子が赤ん坊だった時からは期間が開いているのだ。
そうなれば当然、育児系の商品もアップデートするというもの。
産婦人科医として数限りない赤ん坊を世に送り出してきたが、家に帰ってきてからのことまでは不勉強だったようだ。
アクアは前世とは言え、元産婦人科医としての見識が偏っていたことを感じていた。
「ありま、はやく帰ってこないかなー!」
先程から、リビング内をせわしなく歩き回るスーパーアイドル様。
双子の母ではあるが、同時にまだ18歳の少女でもあるのだ。
楽しみを前にそれを自制出来ないのも無理からぬことであった。
「……お姉ちゃんらしく、ってどうすれば良いのかな……?」
落ち着きのない母に対して、娘はリビングの床に座りながら、自問自答を繰り返していた。
半年前に母に言われた一言が、まだ尾を引いているらしい。
真面目なのだろう。そして経験がないからこその悩みであろう。
自分にもそういった経験はある。
しかし大抵の場合は、"案ずるよりも生むが易し"なのである。
事前にどれだけ入念に準備・シミュレーションしようが、1つの本番に勝るものはない。
そんなことを思いながら、アクアは妹を温かい目で見守っていた。
――ピンポーン!
来訪者を報せる、祝福の音が響き渡る。
インターフォンの画像を確認すると、そこには抱っこ紐を装備した半年ぶりに見るミヤコの姿があった。
「はいはーい!」
その姿と声を確認したアイは、脱兎の如く玄関に駆けていった。
ドアに付いたチェーンを外す時間がもどかしい。
「よ、っと……お待たせー!」
玄関扉を開け放ち、ミヤコとありまを向かい入れるアイ。
「ありがとう、アイ。ただいま」
「うん!おかえりなさいミヤコさん。それに――ありま!」
そこにはミヤコに抱かれた、両目に白い星を宿した赤ん坊の存在が。
アイにとって一日千秋の思いで待ち焦がれた、"斎藤ありま"の帰還であった。
*
「そういえばミヤコさん、けっこう大変だったみたいだね?」
「そうなのよ。実家のバックアップが急で整い切れてなかったからね……おかげで最初は大変だったわ」
斎藤社長から軽くミヤコの実家の状況を聞いていたので、アイは労いを兼ねて話を振った。
それに対してミヤコは、当初の大変さを思い出して懐かしむようにそれを語った。
「最初だけ?」
「えぇ。お隣さんが結構助けてくれて助かったわ」
「ふ~ん……?」
ミヤコにとって幸運だったのは、お隣さんが早期に助け舟を出してくれたこと。
そのおかげで育児ノイローゼまで行かずに済んだのであった。
「そこの家のお子さんがすごい偶然でね?アイと共演したこともあった子だったの。本当にビックリしたわ」
「え、私と共演?誰だろう?」
アイは人の名前を覚えるのが苦手である。
だから言われても分からない可能性が高い。
でも知っておかなければならない。ありまの"姉ポジション候補"の名前を。
そして刻み込まなければならない。その名前を忘れないように自らの記憶領域へと。
「あぁ、それは「きゃなー!」……ちょうどテレビに出てるわね」
「え……?」
ミヤコの言葉を遮ったのは、ようやく一語文を発せるようになった我が子であった。
リビングの床にハイハイの姿勢で陣取り、テレビを見てそう言葉を発するありま。
当然まだ舌っ足らずなので、正確には発音出来ていない。
その為アイがその正確な発音を確認する為には。その者の名前を確認する為には、テレビの画面を確認する必要があった。
「なにあの"ピーマン"?」
そこにはピーマンの仮装に身を包んだ幼女の姿があった。
ピーマン体操なる体操と、それに合わせて曲を歌うその様は、とても双子に突っかかってきた存在には見えない。
その証拠に、アクアとルビーの瞳からは光が失われていた。
「って、この子――"かなちゃん"!?」
因縁浅からぬ相手。
アイにとって"有馬かな"とは、そうカテゴライズされるべき存在であった。
互いに"天童寺ありま"を挟んだ好敵手とも言うべき間柄である。
「そうなのよ。あの子、かなちゃんに懐いていてね?機嫌が悪い時でも、かなちゃんの動画流しておけば、すぐに機嫌良くなるのよねー?」
勘でありまの"姉ポジション候補"が出現したことを察してはいた。
しかしその相手が、よりにもよって因縁深き相手であったとは。
予想以上の浸食具合に、アイは驚きを隠せなかった。
「(……これって結構、ピンチなのでは?)」
半年という期間は長い。
生まれたばかりの目が開かない時期からの換算だから、まだありま本人の認識・記憶的には大差ないレベルだろう。
しかし、潜在意識への刷り込みや、"慣れ"というのは意外にも馬鹿に出来ないもの。
この後どれ程の頻度で会うのかは不明。
だが、間違いなく斎藤ありまの潜在意識には"有馬かな"が刻まれていることは想像に難くない。
これからの生活で、どこまでその差を
「この曲はまだしばらく続くハズだから……今のうちにお手洗い行ってくるわ」
「あー、そだね。大丈夫だと思うよ?」
ピーマン体操が流れている間は大丈夫。
その信頼感から、今のうちのミヤコは席を外す。
赤ん坊がいると、トイレすらもままならなくなるのだ。
その為。こういったタイミングは大変有難い。
「ピーマン体操かー。これからウチで私のライブとか流したら、同じようになってくれるのかな?」
こればかりは何とも言えない。
この時期の子どもとはまだ意思疎通が難しい状態だ。
故に好みなどリサーチ出来ない。というか、本人すら良く分かっていないかもしれない。
――
「あ、終わっちゃった」
ピーマン体操が終わった。
終わってしまった。
どうやらフルVer.ではなく、ショートVer.だったらしい。
その為ミヤコの目論見は外れ、曲の終了までに彼女は帰還出来ていなかった。
――キョロキョロ
曲が終わり、そんな擬音が出そうな周辺サーチを行うありま。
しかしそこには目当ての存在――母親の存在はなかった。
「(これはもしかしなくても……)」
アクアには予感があった。
そしてそれは想定通りの未来であった。
――ぎゃぁぁぁぁぁ!!
泣いた。
大地を裂かんばかりに。
そして空を切り裂くかのように。
「えー!?こんなにすぐ、分かるもんだったっけ!?アクアとルビーの時はこんなんじゃなかったのにー!?」
――済みません母上、我々はドーピングというかチーターなので。
双子は母の心の中で謝罪した。
アイの中での赤ん坊の基準を上げてしまっているのは、間違いなく自分たちのせいである。
本来の赤ん坊は、もっと手が掛かるものなのだ。謹んで謝罪致します。
「えっと……とりあえず、だっこしてみようか!」
――アイがありまに近づく。
――ありまがアイから逃げる。
――アイがありまに近づく。
――ありまがアイから逃げる。
「何でー!?」
近づく度に距離を取られる。
これにはアイの方が泣きたい状況であった。
「人見知りもあるだろうし、まだ"慣れ"が必要だからなぁ……すぐには無理じゃないかな?」
「でもありまは、"今"泣いてるんだよ!?」
「……ごもっとも」
元産婦人科医として見識。
それを披露するが、現実は覆らない。
半ばドラマの台詞のような返しを母から受けたアクアは、だた同意することしか出来なかった。
「(保育園でも慣らし保育がある位だしなー。いきなりは厳しすぎる)」
何とか建設的な考えをひねり出そうとするが、出てくるのは"不可能"という答えを肯定するものばかり。
こういう時、自分の無力加減が嫌になる。
「(何かないか?気を引けるものでも良い。何か、何か――)」
部屋の中を見渡し、少しでもありまの気を引けるものがないかと探す。
探す。
探す。
探す。
「(……ないな。あとは――)」
物がないのなら、人だ。
とはいえ、実質的に選択肢は一択だけ。
そうなれば、あとは強制一択問題であった。
「ルビー、行ってこい」
「えっ?何、なに……?」
まだ"姉とは?"という自問自答をしていたルビー。
それを半ば無理やり現実世界へと回帰させ、強制出場させるアクア。
「ありまが泣いてる。何とかしてこい。さぁ行け!」
「え、何その無理ゲー!?出来ないって!?」
「もうお前しかいないんだ。出来ないじゃなくて、とにかく行け!」
「横暴!?」
今生の兄に(物理的に)背中を押され、渋々出撃するルビー。
小さい子ども、それも赤ん坊と接した記憶は斎藤ありまが生まれた時のみである。
故に怖い。
対応を間違えると壊してしまいそうな脆さが。
そもそも自分に出来るのかという、自信のなさ故に。
「ありま……怖くないよー、怖くないよー?」
動きが硬い。
声も表情も硬い。
緊張している、という見本のような状態であった。
通常、緊張していればそれは相手にも伝わるというもの。
そこに例外はない。
赤ん坊であってもそれは同様であった。
よって失敗する。
その未来は確実だったはずだ。
「……?」
ありまがルビーを視認する。
そして判断が始まる。
「……うー」
とりあえず泣き止んだ。
例えそれが嵐の前の静けさであっても、一回止まったことには変わりない。
「あう」
短くそう呟いた。
そしてありまは、ハイハイの状態から進撃していくのであった。
「え……え?」
予想外の行動。
それを見ていた星野家の面々の胸中は一つになった。
――ズン、ズン!
実際はそんな重低音を背負って這っている訳ではない。
しかしそんな擬音が聞こえそうな位、ありまのハイハイは迷いなくルビーをロックオンしていた。
「あう」
「え、あ、ちょっ……?」
リビングの床に正座をしていたルビーの膝によじ登り、その腹にダイレクトアタック。
「「(痛そう……)」」
それを見ていたアクアとアイは、思わず自分の腹に手を当てながらその胸中が一致していた。
「痛い、痛いって!?」
「あう」
たまらず後ろに倒れるルビー。
結果的に仰向けになったルビーの腹の上に引っ付く形になったありま。
「何か、泣き止んでない……?」
「……みたいだな」
プレスされた妹の言葉を肯定する兄。
これは間違いないかもしれない。
この赤ん坊の魂は本当に、"天童寺ありま"と同一のものかもしれない。
「(ただ、記憶がなさそうなんだよな?自分たちみたいに赤ん坊の演技をしているとも思えないし……)」
積みあがった状況証拠等から、客観的に論理を組み立てるアクア。
過去の自分たちはこの時点で過去の記憶があり、流暢に会話をすることが出来ていた。
しかし目の前の赤ん坊にはそんな様子が見られない。
仮に演技で全てを覆い隠せているのであれば、
「しっかし……ある意味想定通りの展開だな」
生まれたばかりの状態の焼き直しである。
あの日も"最推し"は誰か、という問い掛けに対してルビーを肯定した。
最初の偶然。
二度目の奇跡。
もし三度目があるのなら、それは何と呼ぶべきだろうか?
「(その時は――"必然"とでも呼ぶべきか)」
本来アクアは
希望的観測で医者は患者を救うことが出来ないからだ。
しかし天童寺と接し、そして自身も奇跡の体現というべき体験を得た。
その為今は、「そんな奇跡もあるか」位には考えが改まっているのであった。
「(むむむむむ……)」
黙して語らず。
しかしその瞳と膨れた頬が、雄弁に語っていた。
スーパーアイドル様はご立腹である。
生まれた時の邂逅と、同待遇であった。
――ルビーのみ。
ある程度予想はしていたが、これにはショックを隠せない。
本来であれば、大声を上げて嘆きたいところ。
しかしそのせいで折角泣き止んだ赤ん坊を再度泣かせるのは、流石に避けるべきだ。
その自制心が、スーパーアイドル様を少しだけ大人にさせているのである。
「(……少しは大人になってきてるんだな。良い変化だ)」
息子というよりは兄。
兄というよりは医者目線。
そんな複雑怪奇な立場から、アクアはアイの成長を喜んでいた。
「ごめんなさいねー。ちょっとありまの泣き声が聞こえたけど、大丈夫だった?」
「「「あ、ミヤコさん」」」
無事ご帰還したありまの母上様。
しかし戻ってきた状況は非常にカオスである。
膨れっ面の稼ぎ頭アイドル。
冷静というか冷めた目で観察するアクア。
床に仰向けになっているルビー。
そしてそのルビーの腹の上にライドオンしている我が子。
「これ、どういう状況……?」
流石にこの状況は想定外である。
よってミヤコは説明を求めた。
一番冷静そうなアクアに対して。
「ピーマン体操が予想より短くて、終わった瞬間にギャン泣き。アイがあやそうと近づいたけど人見知り発動。ルビーを認識したらまっしぐらに突進、って感じ?」
「すっごく分かりやすい説明ね、ありがとう」
アクアの説明を受けた後、その情景がありありと浮かんで苦笑するミヤコ。
基本的にありまは初対面の人間には人見知りを発動する。
例外としては、ありまの目が開く前から交流があった有馬家の面々。
だからアイへの対応は想定範囲内。
だけどルビーへの対応は良い意味で予想外だった。
「それにしても、意外だったわね?ルビーには懐くなんて」
「……そうだね」
実は半ば想定範囲内です。
そう言えたら楽なのだが、流石にそれを言うのは憚られた。
アクアは弁えている少年なのだ。
流石は前世の年齢と合わせて三十路越えなだけはある。
「そうだ。ちょっと面白いことしましょうか?」
悪戯を思い浮かんだ子どものように。
ミヤコにしては珍しくそんなノリであることを始めようとした。
「面白いこと?」
「ありまを部屋の真ん中に置いて、みんな円状に離れていくの。それで誰を後追いするのかって遊び」
ちなみにミヤコの実家でミヤコ・ミヤコ母・有馬母・かなで実施した時は、ミヤコに軍配が上がった。
そこで証明されているのだ。
いかに懐いている人物が他にいても、必ず自らの母親の下に行くということが。
だからミヤコはこんなお遊びを提案してきたのだ。
答えの分かるテスト。
または当たり馬券の分かっている競馬か。
どちらにしても、母とその他の家族の差を見せ付ける良い機会である。
母の偉大さを見せて進ぜよう。
――という思想が透けている提案であった。
「……分かった。やってみよう」
結論は分かっている気がする。
だけど万が一という希望はある。
だからアクアはミヤコの提案に逆らわずに、それを受け入れた。
「はい。ありまを中心に置いて、っと」
本当にやるらしい。
答えが分かり切っている八百長試合を。
胴元はえらく乗り気であるが、果たして――。
「じゃあみんな、ありまから離れていってねー?」
一歩、二歩。
皆が徐々にありまから遠ざかる。
そして一定の距離を離した時、その変化は訪れた。
一歩、二歩。
ありまがハイハイで動き出す。
そしてその動きは徐々に速くなっていき――。
「どうして!?さっきもだけど、何で私のところに来るのぉ!?」
全力でルビーの足めがけて突進していった。
ルビーの悲痛な叫び。
足にタックルされたのだ。あれは痛い。
「……どういうこと?」
その様子を見ていたミヤコの様子がおかしい。
それはそうだろう。
答えが分かっていたテストなのに、テストそのものをすり替えられたようなものなのだから。
「ありまのママはあっち!あっちでしょう!?」
「あう」
必死にありまを振りほどこうとするルビー。
しかし掴んだ足から手を離さないありま。
知らない人が見たら、よく似た容姿の姉妹?がじゃれているようにしか見えない。
しかしそんな第三者は存在しない。
よってこの後に訪れるのは当人にとっては悲劇という他にない現象であった。
「ルビーに、母親ポジションを奪われたぁ――!?」
「「「ミヤコさん!?」」」
オチは読めていたが、ミヤコの反応は想定外だった。
というかその芸風はアイのものだろう。
育児による不安定さが、彼女のキャラを壊してしまったのだろうか。
精神的なケアの必要性が問われる一幕であった。
*月日は巡る*
「ふ~ん?有馬かなの演技が良くなっている、か……」
五反田スタジオ。
それは都内に存在する、五反田監督の自宅兼仕事場。
もっと言うと、実家兼仕事場である。
つまり平たく言うと、監督は
実家住まいの恩恵を最大限に活かし、仕事以外は親の世話になりっ放し。
だからアクアにも"こどおじ"と言われて仕方ないポジションであった。
「あぁ、それは僕も驚いた。あんなに威張り散らしてたヤツが……ってビックリした」
五反田スタジオ――五反田泰志の部屋の一角で、アクアが映像の編集をしながら、泰志に話を振る。
そう。アクアは前回監督が撮影した映画以降、彼の弟子となったのであった。
自分に演技の才能があるとは思っていない。
しかし
その対価に、映像の編集等を請け負っている。
もっとも、ようやく年齢が
「このDVDか?その番組が入ってるのは」
「そうだよ」
アクアが持ち込んだDVD。
それには有馬かなが最近出演したドラマが録画されていた。
星野家、というか斎藤家は有馬家と縁が出来たようで、時々有馬かなが母に伴われてやって来る。
そしてそこでは斎藤ありまを巡った争い(最姉戦争等)が頻繁に勃発している。
その関係から、アクアも良くかなに突っ掛かられていたりした。
一方的に演技のライバルとして見られている節があり、アクアにとっては迷惑この上ない。
「しっかし、どういう風の吹き回しだ?そんなに付きまとわれているのなら、そんなヤツの演技なんて見たくないだろうに」
「仕事に私情は挟まないからね。一緒に検討して欲しいんだ」
「かー、やなガキだな!流石は早熟」
遊びではない。
仕事なのだ。
今のアクアにとっては、演技とは仕事なのである。
よってそこに手抜きは存在しないし、手抜かりがあってもいけない。
「お!ここからか……」
真剣に再生されたドラマに見入る監督。
頷き。口の中で言葉にならない呟きをし。
そして総評を纏めていく。
「どうだった?」
「……お前さんの言う通りだ。確かに以前よりも良くなってるな」
思案顔でそう答える泰志。
脳裏にある"有馬かな"のデータをアップデートして、現在の正しい値に修正していく。
これなら――もしかしたら、自分の思い描くキャスティングに入れられるかもしれない。
「この調子で跳ねてくれるのなら、約束したドラマのオーディションに着手出来るかもな……」
「監督……?」
そのドラマとは、国民的人気漫画作品の実写映像化のこと。
既にアニメ化は完了し、人気の内に幕を閉じた偉大な作品。
しかしその実写化は困難を極めた。
何せ原作が、小学校高学年の少年少女たちを軸に据えた物語なのだ。
大人よりもキャスティングが難しく、スタートまでの道が非常に険しいもの。
特に難しいのが、主人公の少年役だった。
その少年は生き別れの母が居る芸能界に入る為に、その母親の娘役のオーディションを受けに行く。
それが物語の導入部である。
従ってこの主人公は女の子に変装出来る男の子、またはそんな演技が出来る女の子、という奇跡の体現のような存在が必要とされたのだ。
「(
泰志は、アクアについては難しいかもしれないと一旦の結論を出した。
自分から見たら十分可能性があるのだが、本人が拒否する可能性が高い。
嫌々やらせても良い
非常に良い素材なだけに、悔やまれるが。
「いちごプロと……あと権利保有者の先生にも話をしないとな」
「権利保有者?」
「あぁ、この作品の原作者はその……既に亡くなっていてな?この作品を託した弟子がいるんだ」
この漫画の作者はその漫画の権利を、遺産として譲渡していた。
殆どの作品は彼と一緒に暮らしてた女性に譲渡したが、あるシリーズだけは自らの弟子に託していた。
「へー。そのお弟子さんの名前は?」
「あん?あー、お前もきっと知ってる人だよ」
モニター画面と正対していた状態から、作業机で作業しているアクアに向き直る。
そして五反田はこう言い放った。
「吉祥寺頼子。"今日は甘口で"でヒットした、売れっ子漫画家先生だよ」
その名前を最初に聞いたのは、アクアになる前の話。
雨宮吾郎であった時によく聞いた、その名前。
友人である天童寺ありまの弟子、その人の名前であった。
*オカン様は見ていない*
「吉祥寺頼子。"今日は甘口で"でヒットした、売れっ子漫画家先生だよ」
威厳たっぷりに。そして大仰なアクションを付けて。
流石は自身も役者をしていたことがある、そう思わせる演出。
そんな名演技をした五反田監督であったが、それに待ったを掛ける存在がいた。
――バンッ!
力強い音と共に開閉される五反田スタジオの扉。
開閉した人物は、部屋の中にいる二人には予想通りの人物であったが、泰志にとっては有り難くない闖入者だった。
「泰志!ごはん出来たわよ!!アクア君も食べていくわよねー!?」
紫色の髪をマリモのようにパーマを当てて。
そしてエプロンを身にまとった上に、右手にはしゃもじが装備されている。
まごうことなき"オカン"の姿がそこにはあった。
「かーちゃん!今俺、めっちゃ良いこと言ってるんだよ!すぐ行くから出ていってくれよ!?」
最後の最後で締まらない。
それが五反田監督がノミネートされても賞をゲット出来ない要因なのかもしれない。
アクアは心中でそう思った。
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補足:
*月日は巡る*以降は、ありま誕生から8年後のお話でございます。