偽物の仮面と真実のアイ 作:ななち
浴室の中は、音が良く響く。僅かな音でも、普段の何倍にも音が大きく聞こえる。
シャワーノズルの先端から垂れた雫が、床に落ちた音。お湯が流れ落ちていく排水口の音。水音が、響き渡る。
それに混じって、息遣い。アイとマナトの二人が、湯舟に身体を沈めて、その熱気を吐き出すだけの音も、よく響く。
何人かが入れるように設計されたであろう浴槽。その中に、二人は生まれたままの姿で肌を重ねていた。マナトの胸に寄り掛かるように、アイは背を預け。マナトはいまだ震えるアイの肩を包むように、軽く抱きしめている。
濡れたからか、いつもよりも艶やかさを感じさせるアイの黒髪は、マナトの手によって結い上げられ。それによって顕わになった、その白磁のような首筋に、朱が差しているのがわかる。
身体は温まっている。だけど、心は冷たく寒いまま。
「…………お母さんに、会ったの」
湯舟に浸かってから何分経っただろうか。ぽつり、と。アイがマナトの腕に手を重ねながら、そう呟く。
「……そうですか」
マナトは、一言、そう返しただけだった。
……アイにとってのトラウマ。彼女が"自分を偽る事による防衛"を身に付ける原因となり、『愛』の真偽を曖昧にしてしまった幼少期を作り出した人物。
思う事がないわけではない。憤る事がないわけがない。だけど、その感情は今は不要だ、とマナトは切り捨てる。
アイは、聞いて欲しがっている。自分の心を、弱音を。だから、マナトはアイがただ吐き出せるように、と抱き締める手に力を込める。
「……子供がいてさ。ダイチくん、だったかな。とっても幸せそうだった」
「……そうですか」
アイの記憶にいる母親は、ずっと不機嫌で。暴力的で、不安定で。幸せそうにしているところなんて、一度も見たことがなかった。
それなのに、今日出会った母親は、とても幸せそうで。とても『愛』に溢れていて。
────……なんでそこにいるのが私じゃないんだろう。
そう、ダイチに思ってしまった。嫉妬のような感情が湧き上がるのを、アイは自覚していた。
なんで私が。なんでアイツが。そんなともすれば醜いと表現できる感情が湧き上がった事に──アイは、恐怖したのだ。
「……なんで」
自覚してしまえば、認識してしまえば。もう、止まれない。
アイの心を占めていく、噴き出すような黒い感情と、雨ざらしになったような哀しい感情。ポタリ、とアイの両目から涙がこぼれ落ちる。
「……ッ、なんで私じゃ……なかったんだろう……!」
しゃくりあげる。嗚咽が、漏れ出てくる。
心のどこかでずっと持っていた、希望。「お母さんは迎えに
それが崩れ去った事を自覚して、心にポッカリと穴が開いたような感覚。孤独感が、アイの心中に飛来する。
「……アイさん」
抱き締める。砂の器のように脆くなった心が、砕けて
……必要なのは、『愛』だ。求められているのは、『愛』だ。心を満たす『愛』だ。
「……私は、アイさんを『愛』しています」
「…………」
「私だけじゃない。斉藤社長も、ミヤコさんも、"B小町"の皆さんも……アナタのファンも。皆、アナタを『愛』しています」
「~~っ! 分かんないよっ!」
抱き締めていた腕が、振り解かれた。激しく動いた事で発生した水音が、浴室に響き渡る。
立ち上がったアイが、身体を反転させて、マナトと視線を合わせる。輝く星のような瞳から、流星のように涙が零れ落ちていく。
「分かんない……分かんないよっ! 私は、愛が分からない! 皆が愛してくれてるって……マナトが愛してくれてるって分かっても、それが嘘かホントか分からない!」
それは慟哭だった。ひび割れた少女の叫びだった。心に秘めようとしていた、嘆きだった。
「だから私は、私の愛が嘘かホントなのかも分からない! もし嘘だったら……! 私はっ!」
「────アイさんっ!」
「っ!」
普段感情を前面に押し出す事のないマナトが、珍しく声を荒げる。その声にビクリ、と肩を揺らしたアイを、引き寄せて抱きしめた。
アイは驚きで目を見開く。マナトがこんなに乱暴に、強引にアイを抱きしめる事なんて、今までなかったから。
「
ただただ、自分の思いを吐露したような言葉。思考の整理もできてない、感情だけの言葉。純度100%の本音。それは、アイの心に深く突き刺さった。けど。
「……じゃあ、証明して」
それでも、アイという少女は臆病で。卑屈で、怯えていて。母親に捨てられた自分が、ずっと心の中で泣いていて。だから──証が、欲しい。その全てを上書きするほどの、証が。
「私、16歳になったんだよ」
「……はい」
「勉強苦手だけどさ。これだけは覚えてるんだ……男の子は18歳になったら結婚出来て、女の子は16歳になったら結婚できる」
因数分解とか、二次方程式とか。果たして将来なんの役に立つのだろう、と常日頃から疑問に思っていたアイが覚えていた、法律。
結婚、というワードに引っかかったのかもしれない。少しは、自分の中で憧れがあったのかもしれない。とかく、彼女はそれを覚えていた。
「それって……そういう事、していいって事だよね?」
……屁理屈だ、と言ってしまえばそれまでだろう。マナトにだって、アイの言っている事が道理に沿ってない事はわかってる。
だから、これは言い訳なのだ。アイが、マナトに──証を刻んでほしいから、思考を回して考えた、言い訳。
「……証明してよ、マナト。じゃないと……私、不安なんだ。不安で……消えちゃいそうなんだ」
消え入りそうなほどにか細い声に、マナトが小さく「……分かりました」と返した。それは、浴室に良く響いて──二人の中で、同意が生まれた事を証明したのだ。
★
どうせ脱ぐんだからこのままでいい、と言ったアイに、風邪を引きますよ、と服を着る事を促したマナト。
そうして最終的にアイが選んだのは、マナトが着る予定だったワイシャツ。サイズの合ってないぶかぶかのそれに袖を通して──アイは、マナトのベッドに横たわっていた。
薄暗い部屋。マナトが本を読むために使っていた、スタンドライトの僅かな光。陰影の濃くなったマナトが、アイに覆いかぶさるように手をついている。
マナトの視界に映るアイは、一言でいえば煽情的だった。
風呂あがりで身体が温まっているためか、ほのかに朱の差した肌。僅かな興奮と不安を隠すように浅くなった呼吸に合わせて、なだらかに上下する双丘。滲んだ星が見える、潤んだアメジストの瞳。そのどれもが、マナトの前に差し出されている。
「…………きて」
「…………はい」
マナトの指先が、ゆっくりとアイの頬に触れた。軽い口付け。ただ表面を触れるだけの接触。
指先が、顎をなぞっていく。顎下、喉、喉仏、首筋、耳、耳裏、耳たぶ、肩、鎖骨、喉下、二の腕、前腕、手首、掌、指先。壊れ物を扱うように、触れるか触れないか程度の優しい接触。
「……んっ……」
柔らかい指先の腹で、硬い指の関節の先で。感触を変えながら、マナトはアイの輪郭をなぞるように、指を滑らせていく。その度に、アイの背筋にゾクリとした感覚が走り、熱を帯びた息と、声が漏れ出る。
腋下、肋骨、脇腹、双丘、鳩尾、臍。だんだんと下へ下へと降りていく感触に、アイは自分の中に蕩けるような喜びが生まれてくる事が分かった。
────……私、今……マナトに、刻まれてるんだ。
「……ふ、ぁ……っ!」
情欲の隠せなくなってきた声が、暗い部屋に響き渡る。だが、この家にいるのはアイとマナト、二人だけで──止める者は誰もいない。
────……?
……ふと、アイは自分の胸の上に、ポタリと何が落ちた感触があった事に、気付いた。身体の底から湧き上がってきている、背筋を震わせているような感覚ではなく、直接的なそれ。
それが水滴である、と気付いて。マナトを見上げたアイは、呆然とした表情を浮かべた。
「……マナト? なんで、泣いてるの?」
「…………え?」
アイの指摘に、マナトが自分の頬へ指を這わせる。指先に感じた湿り気に、驚いたような表情を浮かべる……マナト本人も、気付いていなかった。
「……そうか。僕は……」
マナトは、愕然とした表情を浮かべて、俯いた。その表情は、アイの方からは影になって窺い知れない。
もしかして、嫌だったんだろうか。無理強いさせてしまったんだろうか──そんな思いと共に、捨てられた自分が大きく泣き声をあげる。もし、そうだったのであれば──不安が、胸中を占めていく。喉が、乾いた音で鳴った。
そんなアイの様子を肌で感じ取ったのか、マナトは、顔を上げ微笑んだ。いつもの、笑みだ。
「……申し訳ありません、アイさん。今の私には出来ません」
「………………え」
熱が、引いていく。満たされつつあった心の底に、穴が開いた感覚。冷たく、寒く、凍えるような。心が、崩れていく。
フラッシュバックする、あの日の公園。あの日、アイに傘を差しだしてくれた人は、もうどこにも──
「──"今"の私には、出来ないんです、アイさん」
「……え?」
マナトが、困ったように笑った。自嘲しているような、そんな様子だった。
「だから……少しだけ、待っていてもらえますか。私が……アナタを『愛』する準備ができるまで」
アイのせいではなく、自分の問題なのだ、と。マナトはそう告げるように、言葉を紡いだ。
孤独への恐怖で早鐘を打っていたアイの心臓が、落ち着いていく。それと同時に、マナトへの感じる、暖かい感情も。
────……仕方ないなぁ。オアズケなの、ちょっと寂しいんだけどな。
アイが、微笑んだ。仕方ない、と言いたげに──ちょっと寂しそうに。どうせ証を刻むのであれば、満足できる状態でありたい、と。少しだけ、自分を誤魔化して。
「……早くしてね。じゃないと、私……寂しくて、死んじゃうかも」
「……それは、困りますね」
「でしょ? だから……」
アイが、何かを乞うように両手を広げる。マナトが、何も言わずに、アイの背に手を回し、抱き締める。
「……『愛』しています。アイさん」
「…………うん」
儀式のように繰り返された言葉。でも、それは確かな熱を持っていて。
アイは、僅かにでも──心が満たされるのを、感じた。
婚姻可能年齢は去年あたりに男女ともに18歳に引き上げられました(記憶が正しければ)が、本作の時代背景的に、もうちょっと前の時代かなーと思うので、こういう感じにしています。
一応、直接的な表現は控えてるからCEROが上がる事はない……はず……?
……あの、黎明卿。そのカートリッジは仕舞ってほしいです……