偽物の仮面と真実のアイ 作:ななち
脳内の黎明卿が
(|)<「慈しみあう心が、人を家族たらしめるのです」
と囁いてくるので書きました。よろしくお願いします。
割れる音がきらいだ。お母さんに投げつけられたコップが割れて、破片が耳を掠めたから。血がいっぱい出て、服を汚しちゃって怒られた。
靴音がきらいだ。お母さんが帰ってくる時は、決まって叩かれたり蹴られたりするから。お風呂に入るときは、いつもアザが体中に浮かんでた。
白いご飯がきらいだ。割れたコップの破片が入っていて、口の中を切ったから。痛くて泣いたら、もっと怒られた。だから泣かなくなった。
夜がきらいだ。物音を立てたら、お母さんが怒るから。いつからか、息を殺す事ばかり考えて、寝ようとしても寝れなくなってた。
でも、それでも。私は平気だった。だって。
「ああ、ごめんねアイ……お母さん、こんな事するつもりじゃなかったの……貴方の事、ちゃんと『愛』しているのよ……」
怒鳴った後も、叩いた後も、蹴った後も。お母さんは『愛』していると言ってくれるから。
痛いし苦しいけど、それも『愛』なんだって思えるから。
「どうしてよ……私だけを『愛』しているんじゃなかったの……?」
私を怒った後、お母さんは決まってお酒を飲む。飲みながら、お父さんの事を話してくれる。
お父さんは結婚していた人がいたけど、お母さんの事を『愛』していたんだ、って。
だから、お母さんはいつもお父さんが来てくれるのを待っているんだって。
私は、お父さんの事を覚えていない。物心つく頃には、お父さんは家には来なくなっていた。
でも、いつかきっと来てくれる。お母さんが私を『愛』しているように、お父さんがお母さんを『愛』しているなら。迎えに来ないはずが、ないから。
☆
お母さんが帰ってこなくなった。一日、二日と帰ってこなくて、冷蔵庫の中には何もなくて。お腹と背中がくっつきそうなぐらいにお腹が減って、喉がからからで。もう何もする気力が起きなくて。
このまま死んじゃうのかな、なんて思いながら天井をボーっと眺めていたら、たくさんの大人が家に入ってきた。
青い服に、青い帽子。それが警察だったんだって分かる頃には、私は病院にいた。
白い天井。綺麗なベッド。お薬の匂い。どれも今まで感じた事の無かった匂いで、鼻がひん曲がりそうだった。
腕に刺さってた管が気持ち悪くて、勝手に抜いちゃった時は「自分から死のうとするな」ってすごい怒られた。そのあと、土下座する勢いで謝られた時は「何をしてるんだろうこの人」って思っちゃったよ。
その後、警察の人がやってきて、お母さんが捕まった事を教えてくれた。窃盗って言われて、よく分からなくて。人の物を盗んだんだって言われても、何でそれが悪いのか分からなくて。えらい人がそういうルールにしているんだ、と言われてようやくわかった。
そうだよね、えらい人が悪いって言ったら悪いよね。私もお母さんに叩かれたり、蹴られたりしてる時に「お前が悪い」って言われてるもん。
お母さんが帰ってこれないから、じどーよーごしせつって所に預けられるんだって、警察の人は言った。後から分かったけど、児童養護施設の事だったんだね。
久しぶりにご飯が食べられた。おもゆ? っていうのは、白いご飯を思い出しちゃって食べられなかったけど。
久しぶりに静かに、息を殺さないで夜を過ごせた。眠れなかったけど。今思えば、個室だったから遠慮する必要なかったなぁ。
そうやって何日間か病院で過ごして。退院するときに、警察の人に児童養護施設へ連れていかれた。
お母さんが迎えに来るまでの間だからって言われて、どれぐらいになるんだろうって考えてたら。
「アナタが、新しい子ですか?」
私は、出会ったんだ。
「初めまして。私は"宵谷マナト"と言います。よろしくお願いしますね、星野さん」
気持ち悪いぐらい、笑顔の仮面が貼り付けられた人に。
☆
"宵谷マナト"という名前は、私にしては珍しく簡単に覚えられた。
怒られたり、叩かれたりしたくなくて、いつも周りの人の表情や動き、顔色を見てたから、人の名前とか顔を覚えている余裕が無くて。私の記憶は首から上はモヤモヤしてる映像ばかりだったのに。
施設に入ったばかりの私を、マナトが気に掛けていたのは「年が近くて面倒見が良いから、スタッフさんに頼まれた」のが理由らしい。聞いたら2つぐらい年上だった。
確かに、面倒見は良かったと思う。ちょっと良すぎるぐらい。本当に年が近いのか、って思うぐらい大人びてるし。
私と同じぐらいの小さい子の面倒を見てあげてたり、スタッフさんのお手伝いを積極的にやってたり。まるで皆がやってほしい事が分かってるみたいに、気付いたらやってる。
でも。
「白いご飯が苦手なんですか?」
お茶碗に盛られたご飯に対して、箸が少し止まってただけで見抜かれたのは、流石に怖かった。全然気付かない内に隣に座ってて、思わず悲鳴を上げそうになったのを覚えてる。
……ご飯を食べている時に声を出しちゃうと、お母さんに怒られるから、そこは必死に我慢したけど。
「じゃあ、私のパンと交換しましょう。大丈夫、
苦手な理由まで見抜かれた時は、背中がぞわぞわした。一体どういう目してるんだろう。
☆
警察の人がまたやってきた。お母さんが迎えに来るには、一年ぐらい掛かるかもって教えてくれた。
長いな、と思ったけど、待つのはしんどくない。だってお母さんは私を『愛』してるから。『愛』してるから、絶対に迎えに来てくれる。そう思えば、何時までも待てる気がした。
施設に入って一カ月が経った。
私は全然、施設の人達と馴染めてなかったけど、マナトがいつも隣にいた。監視されてるみたいで、ちょっと気持ち悪かった。
二カ月が経った。
夜眠れてない事を見抜かれて、マナトから耳栓とアイマスクをプレゼントされた。全然効かないって言ったら、ちょっと落ち込んでた。
三カ月が経った。
全然叩かれたり蹴られたりしないから、体のアザがどんどん消えていった。お母さんが『愛』してくれた証が消えていくみたいで、悲しかった。
四カ月が経った。
五カ月が経った。
季節が半分巡った。
その頃には、私も多少なり施設の人達と馴染めていたように思う。どれもこれも、マナトが間に入っていたけど。
正直、不気味だった。なんで『愛』してもない人に、そこまで出来るんだろう。疑問がふつふつと湧いてきて、気付いたら本人に聞いていた。
「私は皆を『愛』していますよ」
返ってきたのはそんな答えだった。言葉自体は後から知ったけど、博愛主義者。
……嘘だと思った。『愛』はそんな、皆に与えられるモノじゃないんだって思った。『愛』は痛くて、苦しくて、それでも求めてしまうモノで──マナトがくれる『愛』は、偽物としか思えなかった。
距離を置こうとして、置けなかった。いつの間にか隣にいた。私は耳も鼻も、目だって良いはずなのに全然気付けなかった。
……だんだんと、隣にいるのが当たり前に感じてた。呼べば来てくれるし、何か頼めば絶対にやってくれるから。
そんな時だった。施設の人が、裏庭で話しているのを、少しだけ開いていた窓ガラス越しに聞いたのは。
「星野さんのお母さん、出所したんだって?」
心臓が跳ね上がった感じがした。何も悪い事をしていないはずなのに、思わず隠れるようにしゃがむ。
物音を少し立ててしまったけど、施設の人は気付かなかったみたいで、噂話を続けていた。
「ええ、でも……全然連絡がつかなくて。携帯電話にも出られないし……もう、出所してから一週間も経ってるんですよ?」
聞きたくない。でも、無駄にいろんな音が聞こえる耳は、私が嫌がっても音を拾い上げる。
耳を塞ごうとした。でも、お母さんの話をしているのだと思うと、それも出来なかった。
「んー……こう言うのは、あんまり言いたくないが……」
やめて。言わないで。お母さんは絶対に迎えに来るんだ。だって私を『愛』してるって言ってくれたんだから。『愛』してるなら――絶対迎えに来るはずだから。
「捨てられたのかもな、あの子」
──気付いた時には、私は施設を飛び出していた。