偽物の仮面と真実のアイ 作:ななち
(|)<「これ以上、情緒を壊されては困ります……
待ってください、黎明卿。私の脳内で暴れないで。お願いだから。
よろしくお願いします。
施設を飛び出した後の事は、よく覚えていない。元々学校と施設の間を行き来するだけだった私に、土地勘なんてあるわけがなくて。いつの間にか見知らぬ風景の街中を、ただただ走っていた。
胸が苦しい。脇腹が痛い。心臓の鼓動が耳に響いてうるさい。汗がぼたぼたと零れて、前髪が顔に張り付いている。でも、止まれなかった。
「はぁっ……はぁっ……」
どれぐらい走ったんだろう。道を歩いていた人たちが、私を変な目で見てくる。ああ、そういえば部屋着のまま飛び出してきたんだった。そんな事にも気付かないぐらい、私は焦っていたんだ。
────捨てられたのかもな。
違う。嘘をつくな。お母さんは絶対に迎えに来てくれる。だって私を『愛』してるって言ってくれたんだから。お母さんはおっちょこちょいだから、道に迷ってるだけなんだ。
────捨てられたんだよ。
違う。違う。嘘だ。私の声で、私を否定しないで。だって、ほら。
見つけた。私と同じ黒い髪で、お母さんと同じコートを着ていて。後ろ姿しか見えないけど、背格好も体格も髪の長さも、お母さんだ。
「いた……お母さんっ!」
「きゃっ!?」
お母さんに思いっきり後ろから抱き着いた。でも、聞こえた声はお母さんじゃなかった。
「いたた、一体何……ってキミ、どうしたの!? ボロボロじゃない!」
「…………え?」
抱き着いた人は、お母さんじゃなかった。声が違う。顔も……違う。こんな表情、お母さんはしない。『愛』しているって言ってくれたお母さんとは、全く似てない。
間違えた。間違えちゃった。また、お母さんに怒られちゃう。
「っ!」
「あ、ちょっと、キミ!」
逃げ出した。恥ずかしい。知らない人を、お母さんと間違えるなんて。お母さんはもっと──もっと?
「………………あれ?」
…………お母さんって、どんな顔してたんだっけ。
☆
いつの間にか、雨が降っていた。鼓動は高鳴っているのに、息は熱いのに、打ち付けてくる雨が冷たくて、寒い。
お母さんはいなかった。どれだけ探しても、どれだけ走っても、どれだけ呼びかけても。返ってくる声は無かったし、迎えにも来てくれなかった。
私、今どこにいるんだろう。あてもなく走って、履いていたスリッパは脱げちゃって、途中から裸足でアスファルトの上を走ってた。きっと、足の裏は真っ赤になってるんだろう。
……痛い。痛い。何度も転んだから、手の平も、膝も、腕も擦り傷だらけだ。一歩一歩、歩くたびに頭にまで響くような痛みが、足裏から伝わってくる。
「あ…………」
……気付いたら、公園にいた。雨水が砂場に溜まって、茶色い水の海になってる。錆びついたブランコ、あまり手入れされていないシーソー。
どこか、懐かしい気がした。そうだ、ここは──。
「……お母さんと、遊んだ場所」
お母さんだって、はじめから私を叩いたり蹴ったりしていたわけじゃない。遊んでくれる事もあった。頭を撫でてくれる事もあった。確かに、私は『愛』されていたんだ。
でも、私は──もう、お母さんの顔すら、思い出せなくなってる。
膝をついた。足元にあった水たまりが跳ねて、泥水が顔に散った。もう、何もする気力も起きなかった。空を見上げた。曇り空から、シャワーみたいに雨が降り注いでいる……これなら、泣いたって分からないかな。
「私……捨てられたんだ」
言葉に乗せると、実感が湧いてくる。走った苦しさじゃない。足をくじいた痛みでもない。きゅっと、胸が締め付けられる感じがした。苦しい。目の奥から、じんわりと熱い何かがこみ上げてくる。
お母さんは、私を迎えにこない。私を『愛』してなんかいなかった。全部嘘だった。私は────独りなんだ。
「ああ、やっと見つけました。大丈夫ですか、星野さん」
「……………………え?」
☆
顔に降り注いでた雨水が無くなった。代わりに、ぼやけた布のような何かが、パタパタと雨水を弾いてるのが分かった。
ビニール傘を差し出されている。柄を掴んでいるのは、私と変わらないぐらい細い腕で。
「……マナト?」
「はい、マナトです……ずぶ濡れじゃないですか。風邪、引いてしまいますよ」
「……なんで?」
その問いは、無意識だったと思う。少しだけ息を切らしながら、心配そうな表情でこちらを見てくる彼に、胸の底から湧いた疑問をぶつけた。
「なんで、とは?」
「……なんで、ここに?」
「ああ……施設のスタッフさん達が慌てていたので、何かあったんだと思いまして。聞き出したら、アナタが施設を飛び出していった、と……だから、探しに来ました」
「……なんで?」
私が繰り返した言葉に、マナトは首を傾げた。私だって、何を言ってるか分からない。何が聞きたいのかすら分からない。でも、繰り返さずにいられなかった。
私はもう、捨てられた子だ。『愛』されてもない。そんな子を、探しに来る理由なんて、どこにもない。
マナトの目が、細められた気がした。どこまでも見透かしてくるような、浅葱色の瞳。私は、それがずっと苦手だった。
「…………私はアナタにこう言いました。"私は皆を『愛』している"と」
「……うん」
「当然、アナタも『愛』しています」
「……え?」
理解できなかった。何を言っているのか、理解する事を、心が拒否した気がした。
「『愛』している人を、探しにくるのはおかしいですか?」
「……おかしいよ。だって、私と君は、他人で──」
「それを言うのであれば、アナタのお父さんやお母さんも、元は他人。私の両親もそうです」
マナトが、泥で服が汚れる事も気にせず、膝をついた。彼の浅葱色の瞳に、私が映っている。
──ああ、もう。全部見透かされている。その瞳は、私の中身を暴こうとしているんだ。
「血の繋がりだけが、『愛』する条件ではありません。互いに『愛』する心さえあれば──
「…………家族」
喉の奥が震える。きっと、口に出すのが怖い言葉だった。私にとっての家族は、『愛』してくれるお母さんしかいなかった。でも、それも嘘だった。
私には家族なんていなかった。そう思わないと、そう自分に嘘をつかないと、壊れてしまうんだって、分かっていた。
でも。
「はい、家族です。だから──私と家族になりましょう、
限界だった。差し伸べられた手が、輝いて見えた。独りじゃないんだって思ったら、もう、止まらなかった。
「……ふぇ」
「……おっと」
今までに泣いたことないぐらいに、泣いた。目の奥が熱くて、熱くて。気付いたら、彼に縋っていた。
「お母さんに叩かれて痛かった! 怖かった!!」
「はい」
「寂しかった! なんで!? なんで迎えに来ないの!?」
「……はい」
「いやだよ! 置いていかないでよ! 独りにしないでよ!!」
「……大丈夫ですよ。私は、ずっと傍にいます」
溜まっていた泥水が、心から抜けていった。何を言っていたか、自分でも分からなかった。
でも、一つだけ。一つだけ、分かる事がある。
「……ねぇ」
「はい」
「愛してるって、言って」
「……はい。『愛』していますよ、アイさん」
この人は、私を愛してくれる。
☆
「雨、あがりましたね」
「…………うん」
揺りかごの中にいるみたいだった。足が痛くて歩けなかったから、私はマナトにおぶられて、帰路についている。
マナトの言葉に、うつろうつろとした意識で、頭上を見上げる。
雨上がりの雲の切れ間から、光が伸びているのが見えた。幾重にも重なるそれは、まるでスポットライトのようで。
そのすべてを覆うように、七色の虹が、伸びていた。
「…………綺麗だね」
「……はい。そうですね」
それを言うのが、限界だった。光の明滅みたいに、私の意識は途切れ途切れになって。
……何時ぶりなんだろう。眠る時に、息を殺さなくていいのは。
……何時ぶりなんだろう。眠る時に、こんなに暖かいのは。
……きっと、良い夢、見れる。そんな、気がした。
「おやすみなさい、アイさん。良い夢を」