偽物の仮面と真実のアイ 作:ななち
脳内の黎明卿が最近
(|)<「可愛いですねぇ」
しか言ってくれなくなりました。
そうですね、アイは可愛いです。間違いない。よろしくお願いします。
──東日本を中心に熱帯的な空気が広がっており、本日は県内各所で真夏日となる事が予想されており──
その日は真夏日だった。年々上昇していく平均温度に、いよいよもって地球温暖化の影響が深刻になってきたな、と。
苺プロダクション代表取締役社長"斉藤壱護"は、冷房の効いたスターボックスコーヒーの一席で、自然環境破壊についての考えを巡らせていた。
……もちろん、現実逃避である。出身大学の偏差値的にも学部的にも、まず環境問題について取り組んだ事は一度もない。
「…………」
気を取り直して、サングラス越しにテーブル席の対面に座る少年少女に視線を向ける。片方は分かる。つい四日前に「アイドルにならないか」とスカウトしたばかりの少女──”星野アイ"だからだ。
だが、もう一人。アイよりも頭一つ分ぐらい身長の高い、人畜無害なゴールデンレトリバーのような雰囲気を漂わせた少年は誰なのだ、と壱護は言いたかった。
アイドルのスカウトを受けるにあたって、一つ条件がある──というのが、アイが壱護に伝えた事だった。条件を話すために、スカウトした時と同じスターボックスコーヒーに来てくれ、と言われて来てみれば。おそらくアイの知り合いであろう誰かと相席になる、という状況となって数分が経過しようとしている。当の本人であるアイは、ニコニコと笑んでいるだけだ。
知り合いの知り合いは知り合いじゃない。壱護は、この空間に言いようのない気まずさを感じていた。
「……アイさん、そろそろ呼ばれた理由を教えてほしいのですが」
困ったように笑う少年──マナトを見て「お前も知らないのかよ」という言葉はどうにか喉元で留めた。アイはアイで「しょうがないなー」という表情を浮かべている。「この状況で音頭取れるとしたらお前しかいないんだけど」という言葉も、どうにか喉元で留めた。
「えーっとねー。この人が、私をアイドルにスカウトした"佐藤社長"」
「ああ、アイさんがどうもお世話になっています。"宵谷マナト"と申します」
「ああいえいえ、これはどうもご丁寧に……」
おかしい。こんな社会人的やり取りをするような予定は、壱護の中には無かった。というか、なんでアイと同年代ぐらいであろうマナトに頭を下げているのか。壱護の心の中で、首をぐわんぐわんと傾ける自分が出現する。
いや、そもそも。
「あと……"佐藤"じゃなくて、"斉藤"だ」
「…………アイさん?」
名前がそもそも違う。"佐藤壱護"ではなく、"斉藤壱護"である。指摘され、怪訝そうな視線をマナトから向けられたアイは「あれー?」と首を傾げた後に、胸ポケットから名刺を取り出して、二度三度と目で追う。渡した名刺にはちゃんと斉藤と記載されているはずなのだが、と壱護もアイを見つめる。
数秒の間があって。またそっと名刺を胸ポケットに戻したアイが「やっちゃった☆」と言わんばかりにポーズを付けて。
「えへへ、間違えちゃった」
「なるほど。アイさんは可愛いですね」
「いやそうじゃねぇだろ」
頭痛がした。なんだこの空間は、ボケとボケしかいないのか。
いつまでもこんな茶番劇を続けているわけにいかない。抹茶ラテを啜るアイに、壱護は視線を向けた。早く話を進めてくれ、という懇願が視線に込められている。
「で、スカウト受けてくれる条件ってのは結局なんなんだ」
「んーとねー」
ブルーマウンテンコーヒーを飲みながら、壱護はアイの言葉を待った。透明感のある味わいと甘い余韻、立体感のあるおいしさが口内に広がる──が、良し悪しは分からない。コーヒーのバリスタにはなれそうになかった。
「この人もアイドルにして欲しいんだ」
「ぶっ」
「おっと」
「わっ」
マナトの方を指さしながら、何のこともなしに言い放った一言は、壱護の驚愕中枢をしっかりと刺激した。一言でいうならむせた。吹き返しで零れたコーヒーは、見事に壱護のサングラスをべとべとにしている。
「ああ、大丈夫ですか?」
「げほっ、げほっ……むぐ」
いつの間にか隣にまで来ていたマナトが、紙ナプキンでテーブルに飛散したコーヒーを素早く拭き取ると、その流れで壱護の口元もぬぐった。ついでにサングラスも押収し、綺麗に拭き上げる所までセットである。「はい、お返しします」と返されたサングラスを掛ければ、なんならさっきよりも視界がクリアになった気がした。
「おお、すまねぇな……」
「いえいえ」
────……いや、待て待て待て。おかしいだろ。
壱護は完全にスルーしそうになった今の一連の流れを、どうにか疑問符を付けて脳内に留めた。
コーヒーを溢したから、机を拭くのは分かる。壱護だってそうする。だが、初対面の成人男性の口元を拭って、更にはサングラスまで取って拭くとはどういう事なのか。
いや、それよりも──その一連の流れを、
人間には大なり小なりのパーソナルスペースがある。壱護はスカウトをしたりする職業柄、一般的な人よりはパーソナルスペースは狭いという自覚はあるが、それにしたってあそこまで接近されて、何も感じなかったのは異常だ。
まるで精神の隙間を縫うような、心の死角に入り込むような──
いや、たまたまだ、と自分に言い聞かせるように、壱護は頭を軽く振った。そして気を取り直すように咳払いをする。
「んんっ……なんで星野さんはソイツ──失礼、宵谷君をアイドルに推薦するんだ?」
「ああ、それは私も聞きたいですね」
二人の視線が抹茶ラテを最後まで吸い込んだアイに集中する。艶めかしい唇をストローから外したアイが、首を傾げて。
「え? 一緒にやりたいから」
「……そうですか。アイさんは可愛いですね」
「えへへー」
「いや、そうじゃねぇって」
もう嫌だ、と頭を抱える壱護。大人の対応として何が正しいのか分からなくなってきた。というか、条件として別のアイドルも一緒に推薦ってどういうことだ、と脳内で唸った。
────……いや、行けるか?
壱護は、マナトへ視線を向けて、その挙動を観察する。芸能界に関わる者として鍛えた観察眼が、その一挙一動を詳らかに採点していく。
容姿、問題なし。むしろ甘いルックスと、地毛なのか分からないが柔らかい金髪、綺麗な浅葱色の瞳、と要素は全て揃っている。
動作、問題なし。さっきのコーヒーの時の動きで運動音痴のような挙動は見せていないし、むしろ高いと推測できる。
性格、不明。だが、礼節を弁えている事は間違いない。少なくとも変に地下上がりのアイドルをプロデュースするよりやりやすいかもしれない。
壱護の灰色の脳細胞が、マナトをアイドルとして成長させた末の損益分岐点を割り出す。結論、問題なし。
……いや、一点だけ。本当に一点だけ、問題点があった。マナトだけじゃなく、アイにも関する事だが。
「アイさん、頬っぺたにクリームついてますよ」
「え、ホント? 取ってー」
「はい、こっち向いてください」
────……こいつらの関係って、なんだ?
ただの知り合い、という距離感では決してない。容姿は似通ってないから、兄妹でもない(と思う)。恋人とか、そういう名称が当てはまりそうな、そんな距離感だ。
アイドルにおいて、異性関連のスキャンダルはご法度だ。始める前からこぶつきなんて、もはや見えている地雷以外の何物でもない。
壱護には夢がある。"自分で育てたアイドルをドームに連れていく"という、果てしない夢。その夢を叶えるにおいて"星野アイ"という少女に、原石──いや、一番星の生まれ変わりといっても過言ではないほどの魅力を、壱護は感じていた。
捨てるには惜しい。かといってリスクは抑えたい。考えた末に、壱護が取った行動は──直接聞く事だった。
「なぁ、おふたりさん」
「はい?」
「なにー?」
「もしかしてお前ら……"これ"なのか?」
壱護がすっと"小指を立てるサイン"*1をする。二人は分からなかったのか、首を傾げられた。ジェネレーションギャップ。通用しないのか、と世代の違いを壱護は思い知らされた。
と、なれば。後は直接言葉にするしかないわけで。
「あー……その、なんだ。カレシカノジョの関係かって事だよ」
「わ、すごい。初めて恋愛に触れた初心な子供っぽい」
「流石芸能プロダクションの社長さんです。役者ですね」
「大人をからかってんじゃねぇぞクソガキ共」
壱護、キレた。まぁ本気で怒ってるわけではないので、マナトもアイも笑っているのだが。
マナトとアイの関係は──家族だろうか。年齢を考えれば兄と妹だろう。だが、それをそのまま伝えるのでは面白くない──と、考えたアイは、そっとマナトの腕を胸に抱えると。
「どう見える?」
悪戯好きの小悪魔、という言葉が全て当てはまりそうな、計算されつくした角度、そして笑み。壱護は「え、マジで?」と硬直し。マナトは「おや」と少しだけ驚いたような表情を浮かべた。壱護の脳内で計画されていた、ドームへ至る道がガラガラと崩れ落ちそうになり──
「……からかうのはそこまでにしましょう、アイさん。
斉藤さん、安心してください。私達は同じ施設の出で──そうですね、家族みたいなものです」
──寸でのところで補強工事が完了した。アイにからかわれた、と感じると同時に、やはりその才覚は──
……リスク、そしてリターン。全ての計算が、壱護の中で完結した。
「……分かった。その条件を飲む」
「ホント!? やっ「ただし!」たー?」
喜びの声を遮られたアイが、首を傾げる。この場において、最も確認しなければいけない事を、彼女は忘れているのだ。それは──
「宵谷くん。君は──そもそもアイドルになる意志があるのか?」
──意志の確認。アイに連れられて、何の事情の説明もなく同席させられて、挙句の果てにはアイドルにさせられそうになっている。大人として、その段階を踏み飛ばすわけにはいかなかった。
演技が上手いかどうか、とか。容姿が良いかどうか、とか。そんなのは関係ない。自分の意志でなろうとしているか──その一点が、壱護の中では重要だった。
マナトが、少しだけ考え込む素振りを見せる。だが、それもほんの数秒ほどで。にこやかな笑みを浮かべたマナトは、その浅葱色の視線を壱護へ向けると。
「はい、なりますよ、アイドルに──安心してください」
違和感を覚えた。まるで、今まで目の前にいた"マナト"という人物から、決定的な何かが抜け落ちたように感じた。
「私は──
そう告げたマナトの笑みに──壱護はどこか、薄ら寒い感触を、覚えた。