偽物の仮面と真実のアイ 作:ななち
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掲示板挑戦してみると言ったな。アレは嘘だ。
夜の帷が下りた公園は、妙に静まり返っていた。明るいうちには賑やかだったろうその場所は、今では風に揺れる木々のざわめきだけが満ちている。遠くから聞こえる車の唸り声が、時折合いの手を奏でるように、静寂に小さな輪郭を与えていた。
公園には、真新しく塗装された遊具と、それと対照的に色を落としたベンチが備えられている。夏の空気を吸い込み、ぬるい熱を残したベンチを、白々しい街灯の光が不均一に照らしていた。
光に照らされた部分と、影に沈んだ部分。光と影のどちらかを選べと言わんばかりの境目に、一人の男が溶け込むように座っていた。
男は無気力に肩を落とし、視線を地面に固定したまま、身じろぎひとつしない。街灯の光に照らされた頬は、陰影のせいか、いっそうやつれて見えた。うっすらと伸びた無精ひげ、腫れぼったく黒ずんだ隈。数日分の疲労が、その顔に沈んでいた。
男の身に着けたスーツは、着古された様子もなく、形も崩れていない。質のよいものなのだろう。だが、雑に緩められたネクタイ、第一ボタンの外れたシャツの襟元に浮いた汗染み、乾いた泥にまみれた革靴が、その印象を台無しにしていた。
「……………………」
男は、何も語らない。呼吸すら忘れているのか、と思うほどに動かない。存在そのものが薄れてしまったかのように、ただそこにいるだけだ。
ザリ、と靴が砂を噛む音が、静寂に包まれていた公園にノイズを走らせた。男が立てた音ではなかった。男とは別の誰かが、公園を歩いている。その音は、ゆっくりと、しかし確実に男との距離を詰めている――それでも、男は動かなかった。
足音が、止まった。男の眼の前で。一瞬の逡巡を経て、足音の主は男の横を通り過ぎ――そのまま、ギィとベンチを軋ませる。隣に座ったのだ、と理解した男が視線だけを横へ向けた。
「やぁ、お兄さん。良い夜ですね」
年若い青年の声色だった。「良い夜」などと言っておきながら、その声には感情がなかった。軽薄さをまるで隠そうともしていない。
どこにでもいそうな、平凡な青年に見えた。男にしては長い黒髪は、季節外れにも見える黒のパーカーに紛れている。
同情か、それとも揶揄か。男は視線を地面に戻し、青年に返事をする気は起きなかった。突然話しかけられたにも関わらず、警戒していない――いや、もはやそれすらどうでもよく思えるほどに、男は無気力になっていた。
でも、だからこそ。
「融資、断られたんですよねぇ」
その青年が知っているはずもない言葉に、肩が揺れてしまった。再度、視線を横に向ける――平凡、などとは到底思えない、冷たく怜悧な碧の瞳。その視線が、己の瞳を射抜いた。
「……お前、なんだ」
「通りすがりの爽やかな青年です」
青年がくすり、と軽く笑う。その仕草は自然で、違和感がない。それでも、心のどこかに細い棘が残るような感覚が、男をわずかに惑わせた。
男から視線を外した青年が、星の見えない夜空を見上げる。何かを思い出すように、顎に細い指を添えた。
「……運用資金、三千万。うち二千が回収不能。残りで延命を試みて——失敗」
歌うように語られた言葉は、男の境遇そのものだった。事実をなぞるだけの、確認作業のための言葉。
「社員、十二人。先月末で全員解雇。未払い、まだありますよね」
ひゅ、と男の喉が小さく鳴る。どうして、ではなく。どうしてそこまで知っている、という種類の恐怖。そして、それと同じだけの——諦観。
「……もう終わりなんだよ」
臓腑の底に沈んでいた重苦しさを吐き出したくなった。この諦めを口に出して、楽になってしまいたかった。
そう思いながら出した声は、思いのほかあっけなく、喉を抜けた。張り合いのない、空の器の底を指で掻くような声だった。
「銀行も、取引先も、全部離れた。俺のせいで」
一度吐き出せば、もう止まらない。堰を切ったように流れる後悔の言葉は、まるで自分以外が喋っているようだった。
それでも、最後の一言だけは、喉につっかえたのだろう。疲れ切った男の顔に、苦虫を噛み潰したような苦悶が走る。
「……俺は、騙されたんだ」
ようやく絞り出したその言葉に、青年はほんの少しだけ首を傾けた。浮かべていた笑顔が、僅かに深まった。
「
――――何を、言っている?
男は、その言葉を理解できなかった――いや、理解したくなかった。
「あなた、気付いていたはずですよ」
被害者でありたい思考を、取り繕った外面を、言葉のナイフで削ぎ落とす。
責めることも、否定することもなく、ただ逃げ道をひとつずつ潰すような、整った声色。そこに感情は乗っていないのに、不気味なほどに聞き取りやすい。
「条件、良すぎたでしょう。担保も曖昧で、契約も急がされた。でもあなたは信じた――いいえ、信じたいと思った」
「話を持ち掛けてきたのが、十年来の親友だったから。"信用詐欺"という言葉が脳裏を過っても、社員の未来と天秤に掛けて――親友への情を取った」
否定したい。否定できない。言葉が出てこない。喉元に詰まった空気が、抜けない。青年の言葉が呼び起こした自責の念が、首を絞めつけてくる。
「…………分かってる。分かってんだよ……責任は、取る」
もはや声と呼べるかも怪しい、搾り出すような音だった。その言葉を引き出すのに、残っていた気力を、すべて使い果たしたように思えた。
「そうですか」
だがそれは、あまりにあっさりと、肯定された。突き放すでもなく、寄り添うでもなく、ただ事実として受け取っただけの言葉として。
「じゃあ、取りに行きましょう」
緩慢な動きで、男は顔を上げた。その表情は、何を言われたのか分からない、とでも言いたげな困惑が浮かんでいた。
青年は、笑みを崩さず、ただポケットからスマートフォンを取り出して、僅かに操作した後、その画面を男に向けた。
「――あなたの“責任”を」
スマートフォンの画面に、一人の男性の写真が映し出された。見覚えがある男だった。
いや、ないはずがなかった。なぜなら映し出された男は、絶対に成功すると、自信満々に投資話を持ち掛けてきた、かつての親友だったのだから。
「彼、見覚えあるでしょう?」
「……ああ」
「この男性……いえ、詐欺師と呼びましょうか。この詐欺師が所属するグループは、次の獲物を探している」
詐欺、という言葉が男の肩に重くのしかかった。ただ事実を告げられただけなのに、崩れ落ちそうになる体を、どうにか気力で支える。
ここで崩れてしまえば、きっと今以上の後悔に苛まれる、と男の勘が告げていた。その踏みとどまる様子に、青年が――悶えるように肩を震わせた。
「いいですね、実に良い」
「………………続きを、言え」
「ふふ、こちらからの提案は一つです――
これまで無感情だった青年の声に、喜色が乗り始める。不気味をさらなる不気味で上塗りするような、悍ましさを男は感じた。
この誘いの手は、危険だ。
ひとたびその手を取ってしまえば、瞬く間に抜け出せなくなる。そんな予感がしてなお――男には、魅力的な誘いに思えた。騙し返すという言葉が、折れかけていた男の矜持に、発火剤を投げ込んだのだ。
青年が、ベンチから立ち上がる。男の視線が、その動きを追う。まるでダンスに誘うような軽やかさで、青年は男の前に立ち――月光を背に、手を差し伸べる。その手は、拒絶を許さぬように差し出されていた。
「私は、
「……はっ、同業潰しってやつか?」
「そう解釈してもらって結構です。競合他社なんて、あっても邪魔なだけですから」
男が、笑った。いや、嗤った。躊躇いはなく、青年――光が差し伸べた手を握る。生きることすらどうでもよくなっていた男は、もはやどこにもいない。
「
「ええ、契約成立です」
真名の交換。悪魔の誓い。これから行われる痛快な復讐劇を、祝福するように月の光が照らしていた。
「カットォ!」
★
月9ドラマ、『嘘喰らいの悪魔』。詐欺師を詐欺にかけ、痛快な復讐劇を演出するダークヒーローもの。トレンディな作品の多い月曜九時枠に投じるには、いささか挑戦的なテーマとタイトルだった。
安っぽいパイプ椅子に座り、腕を硬く組み、瞬きひとつせずモニターを睨む男――
彼はこのドラマの演出を担う監督だ。撮影された映像を確認するのは当然の仕事であり、その目が厳しくなるのも不思議ではない。監督が納得しなければ、撮り直しもありえる状況――のはずだった。
だが周囲のスタッフは、すでに機材を片付け、撤収の準備を始めている。まるで、撮り直しなどありえないと分かっているかのように。
「難しい顔をしてますね、監督。お茶いりますか?」
人好きのする穏やかな声とともに、五反田の前に紙コップに注がれたお茶が差し出される。お茶を受け取りながらも、よりいっそう眉間のシワが深く刻まれる。この声の持ち主こそが、今まさに頭を悩ませている原因なのだ。
柔らかい金の髪。微笑みを浮かべた表情。惹き込まれるような碧の瞳。物語から飛び出してきた王子様、とファンの間で言われている青年。このドラマの主人公である"神崎光"を演じる人物。宵谷マナト――芸名、マナト。その人だった。
「主演がお茶汲みかよ」
「ええ、皆さんお疲れのようでしたので」
「コミュ強がよぉ……」
役者に必要なのは結局のところ、コミュニケーション能力だ。円滑に撮影や仕事を進めるための潤滑油となれる力があれば、多少演技に粗があったとて十分に成立する。もちろん演出監督としては、良い演技をしてくれるに越したことはない、が――その演技すら完璧であれば文句のつけようがない。
マナトの演技は、五反田が頭の中で思い描いていた正解の画、そのものだった。不気味さ、狂気、そして惹き込まれる危険な匂い。その全てが、理想通りだった。だから逆に、引っ掛かりを覚えてしまう。
――――
さとり、という妖怪がいる。心の声を読む、とされる妖怪。たいていの物語では、他人の「隠している自分」を暴く存在は気味が悪く、嫌われるものだ。
今回、五反田はマナトに対して演出意図を伝えていない。せいぜい台本にメモを書いた程度――にも関わらず、意図を完全に読み取られてしまえば、言葉にしがたいわだかまりが生まれる。
……有り体に言えば、撮影は楽だが監督としてのプライドが傷つく。
だからこそ、理由を明かすことは出来ない。「お前の演技完璧すぎ」と伝えたところで、褒め言葉にしかならないし、正直
そして、その感情も分かっていると言わんばかりに、マナトは苦笑する――それが余計にモヤっとするのだと言ってやりたい。
ため息をついた五反田の元に、新しい足音が近づいてきた。マナトが近づいてきた時はまるで気配を感じなかったが、この男性特有の大股な歩き方の足音は逆にわかりやすい。この撮影現場で2番目によく聞く音だった。
短く切り揃えられた灰色の髪。少し豪快さの滲み出る立ち姿。"神崎光"の共犯者となった男、"山伏影久"を演じる男性――上原清十郎。このドラマにおける副主演とも言える役にキャスティングされた男が、気安い口調で五反田に話しかけた。
「お疲れ、五反田!」
「おう、お疲れさん。なんだ?」
ある程度芸歴が長ければ、業界関係者との繋がりは自然とできる。上原はこの道で十年近いキャリアを持ち、最近ようやく売れ始めた男だ。五反田とも長い付き合いだった。
役者と監督で立場は違えど、作品に関わる同業者には違いない。プライベートでも顔を合わせる程度には、気安い関係だった。
「いや、スタッフさん皆撤収してるけど、お前ずっとここにいるから……あ、マナトくんもさっきはお茶ありがとね。またコイツが文句言ってた?」
「おい、俺がいつもケチつけてるみたいに言うんじゃねぇって」
「じゃあなんで毎回不機嫌なんだよ?」
パワハラって思われるぞ、という余計な一言まで添えられ、五反田は口ごもった。とうとう説明しなければならないのか、と。
数秒、迷ったように視線を彷徨わせた五反田は、整えきれていない長髪をガシガシと掻き、深いため息を吐く。
「……今回、キャスティングでお前が決まった時、過去出演作品を全部見た」
「……? はい、ありがとうございます」
演出監督として出演者の過去の芝居を見ること自体は何もおかしくない。なのに、なぜそんな苦虫を噛み潰したような顔で言うのか。マナトは初めて首をかしげた。
「そこには、悪と善に翻弄された
普通なら、それは最上級の賛辞だ。キャラクターがそこにいた、と言われるのだから。だが、五反田の中では、そうではなかったらしい。
「――
五反田が吐き出した言葉に、上原がポカンとした表情を浮かべる。それを見て、だから言いたくなかったんだと眉間を揉んだ。どこまでいっても、これは個人の――五反田泰志という演出家が感じる"こだわり"に近い。
キャラクターが最初からそこに存在してしまうのなら、演出家は必要ない。存在するように見える演出を考え、それを演者から引き出すのが仕事なのだから。そこに引き出すべき「我」が無いのは、どうにも張り合いがなかった。
「……見たいですか?」
「あ?」
五反田の言葉に、微笑を浮かべていたマナトが、突然にそう言った。これは秘密ですよ、と語るように指を自分の唇に添えたマナトの雰囲気が、スッと切り替わる。
――――"私"の演技。
ぞわり、とした。引き出したかった「ナニカ」が、そこにいる。五反田も、いまいち話を理解していなかった上原も、そう感じた。まるで、底の分からない深淵に、片足を突っ込んだような、根源的な恐怖。
ゴクリ、と生唾を飲んだ五反田が、短く「おう」と返事をした瞬間――またしてもマナトの雰囲気が、元の柔らかな雰囲気に切り替わる。
「では、"苺プロダクション"にお仕事の依頼をください。今絶賛、売出し中のアイドルがいますので」
「……あ? あぁ!?」
言質を取られた、と五反田が気付き――天を仰いだ。なんだ、今のは。サウナと水風呂を高速で行き来した時のような、身体の奥は熱いのに、肌は突き刺すような冷たさが這っている。身体の奥から冷や汗が吹き出す感覚。それに呑まれて、反射的に返事をしてしまった。
「くそ、
「売出し中のアイドルって……ああ、アイちゃんのことか。え、営業もやってんのマナトくん……?」
穏やかに笑うマナトからは、真意は読めない。自分より一回り以上若いであろうマナトに手玉に取られた恥ずかしさをごまかすように、五反田はパイプ椅子から立ち上がる。勢いついたためか、パイプ椅子は甲高い軋みをあげた。
「やめだやめ、撤収撤収! おいマナト、お前この間二十歳になったんだろ。呑みに行くぞ」
「おい五反田、それアルハラだぞ」
若干棒読みな演技をしながら、五反田はマナトを飲みの席に誘った。こうなれば、いっそ酒に酔わせて演技論を聞き出してやれ、とまぁちょっと大人げないことを考えつつ。
それに対して、マナトは少し困ったような――曖昧な笑みを返す。二十歳になったのは事実だし、法律的にも飲酒は問題ない。ないのだが。
「お誘いは嬉しいのですが、今回はお断りさせていただきます」
「あ? なんだぁ? 俺の酒が飲めねぇってかぁ?」
「もう酔ってんのか……?」
本当に嬉しいし、申し訳ないのだとでも言いたげに、マナトは首を横に振る。嫌がる相手を無理に誘うほど、ダサい大人になった覚えはない。だが、そんな顔をされれば逆に気になってしまう。
ある意味、マナトの演技に呑まれているのかもしれない。
「――……二十歳になって、初めて飲み交わす人は……先約がいますので」
大切な約束を、噛みしめるように。一字一句、大事に語る声色に、少しだけ呆気に取られて。まぁ、それなら仕方ないか、と。
「……じゃあしょうがねぇな。上原、呑みに――」
「あ、俺も無理。嫁さんがはよ帰ってこいってさっきLINEあって」
ついでのように向けた誘いを、にべもなく断られる。実家暮らしの独身貴族、五反田にとって、正直あまり縁のない理由。五反田の額に少しだけ青筋が浮かんだ。
「あ゛ぁん?」
「いや、こえーんだよ……うちの嫁さん。子供出来てから余計に……」
「……ああ、じゃあしゃあないか……」
プライベートでも付き合いがある、ということは。上原の家庭事情についても、ある程度は把握しているということである。確かに、上原の妻――元女優の美人妻――は、五反田の目線から見ても相当気の強い、恐妻家タイプだ。
脳裏に浮かんだ尻に敷かれた上原の画に、五反田も溜飲を下げる。となれば、もうソロ呑みしかないだろう、と肩を落とす。それにマナトは少しだけ申し訳なさそうにしながら――次の
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カラン、とベルの音とともに、青年が入店する。年若い彼が入るには、少し渋みを感じるBAR。客足はまばらで、それぞれが静かにグラスを傾けている。ジャズ調のBGMが、場の空気を整えていた。
青年は誰かを探すように視線を動かし――目的の人物を見つけたのか、ゆっくりと歩き出す。
「おまたせしました」
青年――マナトは、カウンターの前にある高脚の椅子に座り、隣の席でロックグラスを片手に、物思いに沈んでいた男――壱護に声を掛けた。
「おう……良いのか?」
壱護が問いたかったのは、俺で良いのか、ただそれだけだった。
「やってみたかったんですよ。親子で、酒を飲み交わすのを」
愚問だ、と言わんばかりに。当たり前に壱護を"親"と言ったマナトが微笑む。壱護のサングラスの中の瞳が、動揺で揺れた。
「ハズいこと言いやがって……何飲むんだ」
「そうですね……では」
「ウイスキーを」
夜は更けていく。血が繋がっていなくとも、そこには確かに――親子の情があった。
主人公、2年半ぶりの登場!
ドラマの中のマナトくんは、黒髪のウィッグつけてます。
掲示板形式やろうかなーと思ってたんですが、思いの外難しかった……