獪岳と善逸 作:山筋
獪岳・幼年期
どんなに小さくとも。
どんなに細やかでも。
足跡は必ず残る。
たとえ雨風に晒され消えようと。
誰かが覚えている限り。ずっと。
人生で一番投げつけられた言葉は、疎まれる言葉だった。そして、次に向けられたのは哀れみだった。
少年は孤児だった。物心ついたころから両親はいない。いや、そもそも親という存在がよく理解できなかった。大分年をとるまで、子供の近くにいる大人は全部親というものだと思っていた。親、祖父母、奉公先、人買い……いろいろいるらしい。
ともあれ、少年はそういった存在とは無縁だった。自力で進み、自力で戦った。そういったことへの自負なるものも芽生えていた。いや、違うか。そんなことに誇りの一つも持たなければやっていけなかったのだろう。
“薄汚れた盗人”、それが少年に与えられた世間の言葉だった。そう、言葉だ。烙印ですらない。彼らの言葉には悪意こそ混じれど、一片たりとも嘘はない。端的にわかりやすく表されたというだけ。
反感は持っていた。言葉に、相手を睨み返したこともあった。だが、言い返す言葉が出てくることだけは、ついぞなかった……
ゴミを漁り、盗みを働き、スリを行い、殺し以外はすべてやった自信がある。そんなことを長く繰り返しているうちに、少年は一人ではなくなった。
そこは治安の悪い場所なのだという(ほかの場所に行ったことのない彼には比べようがない)。孤児も浮浪者もいくらでもいた。中にはそういった人間たちで独自の共同体を作っていたり、実はヤクザの下働きだった、などということもあった。
少年はそういった奴らに与することも、従ったこともない。一度手を組めば搾取されると本能が告げていた。子供心にも、うっすら分かっていたのだ。いくら喧嘩自慢といえど、それが通じる範囲などごく小さなものでしかない。この世を支配するのは金と数だ。どちらも持たない人間が触れてしまえば、後は飲まれるしかない。
寄る辺のない子供を多い潰さんとする大きな波、それらを時には撥ね除け、時には逃げているうちに、似たような境遇の子供が集まるのは自然な事だった。
子供じみた反抗心だと言われれば、否定はできない。それでも少なくとも、当時の彼らにとっては生きていくために必要なことだった。
集まった仲間は、せいぜい十人といった程度だった。最年長ですら十歳に届かない。当然学もない子供に統制など期待できるはずもなく、はっきりと烏合だ。しかし、無力感をかみしめていた子供の気を大きくするには十分だった。
それから子供たちの活動は、少しだけ過激になった。留守の家に入ったり、夜半に出歩いている人間を物陰に連れ込んだりなど。
総じて見れば、活動は失敗した。最初の頃こそ順調だったが、やがて警官やヤクザに目をつけられ、皆で死ぬほど折檻された。ヤクザなどは無理矢理下っ端に組み込もうとしてきて、反発すると半殺しにされた。どれも全身から熱が出て、一〇数日も動けなくなることなどしょっちゅうだった。
多分、一人でいる時よりよほど屑であり、かつ酷い目に遭っていただろう。だがそれでも少年は笑っていた。皆が笑っていた。一人じゃない、それが何より心の支えになった。 いつしか少年は、子供たちの代表として扱われるようになった。
少年には生来の、強い自尊心と承認欲求があった。だから、周りが自分を持ち上げるという状況に、大いに喜んだ。
少年が横柄に振る舞った期間は、実のところ、あまり長く続かなかった。
彼は気がついたのだ。
それは大人になるというのとはまた違う芽生えだった。
最初に感じたのは責任だった。ある日指示の失敗から、仲間の一人が半殺しにあったのだ。今までも暴行にあったことはあるが、しかしその仲間は二週間もの間、生死の境をさまよった。この件で、少年は上でいることの恐怖と義務を知った。
次に感じたのは喜びだった。共に笑い、共に泣き、共に怒り、共に悲しむ。人と何かを『共有』するというのがこれほど嬉しいことなのだと、生まれて初めて知った。そして、自分を中心とした結託を始めた。ただの群れは、少しずつ集団として作り替えられていった。少年が、生まれて初めて“独り”ではなくなった瞬間だった。
方々から目をつけられたため、生活は一層苦しくなっていた。富んだ土地ではないため残飯にすらも限りがある。川縁で水を汲もうにも、制裁としてヤクザや他の浮浪者に邪魔されることも少なくない。すでに金を使わせてくれる所もなかったため、より暴力に頼ることが多くなった。
常に飢えていて、皆に共通する夢は『いつか腹一杯食べ物を食ってみたい』だ。
嫌われ、蔑まれ、哀れまれ。底辺の中でもさらに底辺の、社会の汚物。そんな風に扱われる。彼らを思いやるのは、仲間以外に存在しなかった。だがそれでよかった。仲間しかいないというのは、逆に言えば仲間はいつもいるという事だ。それだけが確たるものだった。彼らは常に、強い絆で結ばれていた。
少年は思った。いつか絶対に成り上がってやると。少年は思った。俺たちはずっと一緒だと。
――世の中は、そんなに甘くないのに。
絶頂期の終わりは、酷く簡単であっさりしたものだった。
仲間は少年を除き全滅した。
ヤクザや警官が本気で排除をした訳でも、その日暮らしがついに限界を迎えたわけでもない。流行病だった。少年だけが生き残ったのは、ただ運がよかっただけに過ぎない。年の割には体格がよく、体力があった。ただそれだけ。
彼らに限らず、町中で多くの人が死んだ。自分たちを害してきた奴も肥だめを見る目で見てきた奴も、それは無慈悲に降りかかっていた。
……どうでもよかった。
世間のことなど知らない。どうせはじき出された者だ。無関係な人がどれほど死のうと興味もない。自分に関わりなどないのだ。
彼にとって重要なのは、自分にとってのすべてが失われた、その一点だけだった。
少年は死んだ目で立ち尽くした。
町の外にある雑木林、その中に家はあった。折った枝を重ねて木にひっかけ雨除けにしただけのものを家と言えれば、だが。子供数人が集まれるためそこそこ広い。というか壁と言えるものはない。町人の視線から隠れるためある程度奥まった場所に作っていたが、かといって物資の収集に苦労するほど遠くもない。そんな位置。草木をかき分けて五分も進めば、見慣れた町並みが遠くに映る。いいことなど一つもなかった町が。
緩慢な動きで、視線を障害物に遮られた町から家へと移した。かつて共に笑い合った者たちの、なれの果てが転がっている。
全部で七体の遺体。全員が痩せ細り、手足が骨の形にごつごつとしている。肌はかさついてるのが病に冒された結果だったら、どれほど救われただろう。この死人そのものの血色は、残念ながら生きている頃からそのままだった。そしてなにより、顔だ。すべてが苦痛にゆがんでおり、同時に絶望していた。一人の例外もなく、ただ一片の救いすらなかった。その顔を見る度に、世界を――そして少年を――恨み続けているのではと思うと、悲しくて恐ろしくて仕方なかった。
少年は何も考えられなかった。いっそ自分も同じように死ねたらと思うことすら、最初の一瞬だけだった。
空が茜色になるまでぼんやりし、やがて体が勝手に動き始めた。捨てられていた折れた包丁を持って、穴を掘り始める。やつれた体は悲鳴を上げたが、頭は理解するのを拒否した。無心になって、穴を掘り続けた。
七人を埋葬できる穴ができたのは、三日後の事だった。
蠅がたかり始めていた遺体を丁寧に穴へ埋めて、土をかぶせる。墓石の類いは作らなかった。そんな余裕はなかったし、万が一町人にばれたら、墓を暴かれる。せめて死後くらいは、安らかであってほしい。できれば――あの世で――腹一杯――飯を食ってほしい。
かつての自分が済ませることをすべて終えて、再び家を見た。
唯一ある傾いた机の上、腐ってカビが生えた、病人では食えない堅い何か。一握りもないそれを、少年は一気に口へ放り込んだ。
(……生きる、のか)
悪臭と、据えた匂いと、何より舌を刺すような味。生ゴミを食べ慣れた彼ですら、気を抜くと吐きそうだった。
(俺は……まだ生きるのか)
せり上がる胃液を無理矢理押さえ込み、それを嚥下する。泥水でもいいから飲み物がほしくなった。今は流行病で町も混乱しており、水を汲むのくらい訳ないだろう。だが、町まで行く気にはどうしてもなれなかった。
すべてを流し込むと、涙が溢れた。やっと、泣くことができた。
歯を食いしばって、少年は口を開く。顔に表情が戻る。生気こそ取り戻していないが、それでも『かつて皆に頼られた男』にはなっていた。
「俺は……生きるよ。お前たちの分までなんて、んなことは言わねえ。でも――自分でもよく分からねえけど、生きるよ。多分、そういう事なんだ」
雫を仲間の眠る土の上に落として、ぽつぽつと呟く。
最後に、ちらりと町の方を見た。感傷などなかった、と言えば嘘になる。嫌で嫌で仕方のない場所だが、それでも仲間と出会った場所だ。
彼は背を向けて、林のより深くへと潜っていった。行く当てなどない。そもそもこの町以外の場所を知らない。町の外にも世界が続いているという事すら、どこか夢のように思っていた。それでも、いや、だからこそ進んだ。愚かな夢から脱却するのだから。
……こうして、誰一人として名もなかった少年少女たちは、誰に知られる事もなく消滅した。跡に記されるものは何もない。記憶にすら残らない。わずかに土の盛り上がった墓すらも、いずれ慣らされて痕跡を消すだろう。
未だ何者にもなれない少年が姿を消して。
以降、彼らが町に存在したことを思い出される事は、二度となかった。
小高い山の中を、背中に大荷物を持って歩く。斜頸はたいしたことがないものの、とにかく歩きづらかった。町から遠いわけではないがとにかく立地が悪く、舗装どころか木々すら切り開かれていない。足袋や草履というのは、控えめに言っても石ころの転がる獣道を歩くのに機能的とは言えなかった。
足の裏を鈍く刺す痛みは苛立ちを生むものの、長く続けていれば慣れもする。実際、無視できる程度には皮が厚くなった。最初は苦労した山道も、今では荷を背負ったところで息一つ乱さない。これは、人並みとは言わないまでも一日二食食べられるようになって、肉がついてきた影響が大きいだろうが。
このあたりは、冬以外は邪魔っ気な草花が生い茂る。踏みならしても、一週間後には歩くのに邪魔な程度には戻ってしまうので、とっくに諦めていた。これで、冬は冬で膝まで雪が積もるのだから嫌になる。
獣道を抜けると、いくらか人が歩くのにふさわしい道へと繋がる。砂利はそのまま、とりあえず草はまばらといった程度だが、立地を考えれば上等だろう。
歩きやすい場所に入って足を速めていくらか、前方に小さく寺が見えた。小さいしみすぼらしい。明治初期に建てられた由緒ある――と言えば聞こえはいいが、実際はうち捨てられてわざわざ壊すもの面倒がられた、というだけだ。本尊も欠いており、本当にただのボロ小屋である。
近づくと、中から悲鳴だか歓声だか絶叫だか、とにかく叫び声が聞こえた。まあ声の種類などなんでもいい。どうせいつも誰かしら何かを叫んでいるのだから。
裏手に回って、引き戸を開きながら声を上げた。
「オラ帰ったぞクソガキども」
「あー! にーちゃんだー!」
「おかえりー!」
わらわらと、五人ほどの子供がまとわりついてきた。
ひっつて邪魔なそれらを、怪我しないよう気をつけて床に転がす。遊んでもらっていると勘違いした子供たちは、さらにきゃっきゃと声を上げながら飛びついてきた。これもいつもの事だ。四、五回もすれば飽きるのも、経験で知っている。
ひとしきり相手をして、土間の炊事場へと向かった。背負っていた籠を下ろして、肩をもむ。籠は肩紐などとっくに切れた古いもので、代わりに細い縄を縛っている。おかげで食い込んで仕方ない。
「ねーねー、今日は何が取れたのー?」
子供の一人が訪ねてきた。と言っても言葉より早く籠を傾けて、中を覗いているが。
「山菜に魚だよ。特に魚はよく取れたから、今日は一人半分くらい食えるな」
「やった!」
「わーい!」
「あたしおにくたべたい」
「肉はしばらく待て。仕掛けは作ったから、あと何日かすりゃあ、一匹くらいかかるだろ」
言うと、子供たちが一斉に騒ぎ出した。それぞれ手をたたいたり飛び跳ねたりしている。
本当は、肉は食っていいものではない。町に持って行けば金になるし、干せば冬の供えにもなる。
洋食が広まった現在では、骨でも利用価値がある。二束三文とはいえ、買い取ってもらえるのはありがたい。そんなものが、子供一人、冬を越せる理由になる事もある。
とはいえ、子供たちの気持ちも理解できた。内臓は腹にたまるものの臭くてまずく、匂いを抜くのにも限度がある。臭み取りなど金持ちの特権だ。その点すじ肉はまだましだが、これも長く煮込むには薪なり炭なりがいる。新鮮な肉は数少ないごちそうだった。
首をほぐし終えて、彼は寺の中を見回しながら言った。
「他の連中は?」
「まだかえってきてない」
と答えたのは、一番下の沙代だった。空腹なのか、指をくわえて物欲しそうに籠を見ている。
ふぅん、とどうでも良さそうに返事をする。
寺に住んでいるのは、孤児八人に保護者一人の計九人だ。孤児のうち働けるのは上の三人だけであり、一人は家事担当で、残りの二人が外で狩りなどをしている。といってももう一人は彼ほど体格がいいとは言いがたく、獣を捕るのはもっぱら彼の役割だった。
子供たちも当然遊んでばかりいる訳ではない。寺の近くには小さな畑があるし、山の幸だってなくはない。もっとも、子供に遠出させられる訳もなく、初夏には取り尽くしてしまうのだが。
疲れている訳でもないが、とりあえず落ち着こうと板間に腰を下ろす。と、まあこれもいつものように、子供たちが体当たりをしてきた。至近距離で騒ぐものだから、耳に痛い。
「うるせえ。あんまりきゃんきゃん言ってんと晩飯俺が作んぞ」
「やぁーだぁー!」
「にーちゃんの飯まずいもん」
「きょーはくやめろばーかばーか」
脅すが、一層騒がしくなった。中には背中を蹴りつけてくる者もいる。
彼は、控えめに言って料理が下手だった。旨いまずいが判別できない訳ではないが、幼少期の経験からどうしても質より量を重視してしまう。後は単純に才能がないなどと言われたりもしたが、それはきっぱりと無視した。
座ったまま服についた草葉を落とす。同時に、子供を一人ずつ抱えて、転がった際についた土汚れもはたいた。
五人目にさしかかったところで、気配を感じた。とても大きく、まるで岩のように太い。しかし圧力は感じず、むしろ安心感がある。
巨躯に似合わぬ機敏さで、音もほとんどなく入ってくる人影。それこそ子供二人分はあるのではないかと思わせる長身だ。
「む、獪岳、帰っていたのか」
「おう、ただいまおっさん」
座ったまま、ひらひらと手を振る。
男には見えていないのだから、あまり意味のない動作だ。それでも彼はやめようと思わなかった。なんとなく、見えてないからやらないというのは違うのではないか、そんなことを思った。
獪岳というのは、ここに来てから、男にもらった名だ。初めて自分を――自分だけを指す、自分だけのものを舌の上で転がすと、懐かしい思い出が蘇る。
当時、故郷を離れた少年は、すぐに行き詰まった。当然だろう。奪い、戦う事しか知らなかった。小さな町で完結することしかしてこなかった。行く末が野垂れ死にしかないのは、当然の帰結だろう。
季節は冬で取れる食べ物もない。低温は容赦なく体力と生きる気力を奪っていく。ついに動けなくなって、後は静かに終わるだけ。
生きるなどと言っておいて、こんなものか――そう自嘲していた所に現れたのが、この男だった。
彼は問答無用で担がれると、この寺に招かれた。
食事を貰った。寝床を貰った。衣類を貰った。新しい仲間を貰った。助け合うという生き方を貰った。穏やかな生き方を教えて貰った。そして、獪岳というただ一つの名前を貰った。
獪岳という人間の今を構成する全ては、この男から与えられたものだ。感謝している。本当だ。嘘はない。死んでもいいほどに感謝している。
ただ、感謝しているからどうすればいいのか、それが獪岳には分からなかった。学がなく、周りの全てが敵であり、同時に餌だった。殴ればいい、奪えばいい。そうやって生きてきて、そうしてしか生きられなかった。だから、感謝というものをどう表現すればいいのか分からない。反撃ではない『返す』という行為が、どういったものか理解できない……
「獪岳?」
怪訝そうな様子に、獪岳ははっとした。いつの間にか、ずいぶん考え込んでいたらしい。慌ててかぶりを振る。
「なんでもねえよ。それより畑はどうだった?」
「大過ない。といっても、今の時期にできる事など虫を避ける程度だが」
(簡単に言いやがる。相変わらず化け物だな)
男――悲鳴嶼行冥は目が見えない。全くの暗闇の中、虫などという小さな気配を察知して、正確につまむ。一体どんな感覚器官を持っていれば可能なのか、想像すらできない。
これだけの体格なのだから、喧嘩でもすれば恐ろしく強いだろう。
最後の一人をはたき終えて、尻をたたいた。子供たちはきゃーきゃー言いながら、奥へと走り去っていく。
行冥と獪岳、二人だけになると、いきなり行冥の気配がしぼんだ。
「……いつもすまない」
「あ? なんだよいきなり」
しおれた巨体に、眉をひそめる。
「昨日今日思った事ではない。お前には苦労をかけている。すでにどこででも生きているだろうに、ここに残ってくれて……」
「うるせぇよ」
つまらない独白に、獪岳は無理矢理口を挟んで中断させる。
「俺は好きでここにいるんだ。何を言われる筋合いはねえ。それに、あいつらは
口早に言って、視線を反らす。
幾ばくか、戸惑いの気配。その後に、柔らかいものへと変わった。
「そうか……。では、ありがとうと言わなければな」
「感謝される理由なんざねえ」
つっけんどんに言うが、帰ってきたのは微笑だった。それがなんとなく気に入らなくて、獪岳は鼻を鳴らす。
これ以上何を言っても負けた気がするので、抗弁はしなかった。
籠から山菜を採りだし押しつけると、行冥は外へ洗いに行く。その間に、魚を血抜きしてわたを抜いた。内臓の食えない部分は細かくした後、生ゴミと一緒に発酵し、肥料になる。昔は内臓も食べていたが、一度食あたりをしてからは無理に食べなくなった。
獪岳は味付けが壊滅的なだけで、調理そのものは下手ではない。とりわけ包丁さばきは、寺の中でも一番だった。
魚は頭だけ落とすが、三枚にはおろさない。どう調理するかは任せるようにしている。
たかだか数匹の魚を下処理するだけにそう時間を使うわけもなく、あっという間に手持ち無沙汰になった。余暇の使い方など知らない。少なくとも冴えたものは。そういう時に獪岳は、決まって縁側から森を眺めた。
木々の囁き、風の鳴動、地の息吹。それら全てに、特に面白みは、ましてや代わり映えなどありはしない。ただ、常に揺れて同じ光景がないというのは、まあ暇つぶし程度にはなった。益体のないそれらをつぶさに観察していると、時間は驚くほどに圧縮される。
飽きるほどに穏やかな時間。最初の頃はうんざりしていたそれに、しかし最近は、こういうのも悪くないのだろう、と思えるようになった。それがいいのか悪いのかは分からない。ただ、嫌いではない。
たまに空想する。こんな時を、かつての仲間たちと過ごせたらどんなに……
「獪岳、ご飯だよ」
背後からの声に、夢想が急に薄れていった。重なりかけていた夕暮れが、二つに分かれる。
「今行く」
小さく告げて、過去から目を背けた。けして逃げられない、だからといって忘れられもしない傷から。
内陣に入ると、すでに全員そろっていた。手を合わせて食事を始める。
食事の時間はいつも騒がしい。仕方のない事だ。年長組すら十歳を少し過ぎた程度であり、多くは一桁、低いと五歳だか六歳だ。分別を求められる年でもない。自分の同じ時よりは落ち着きがあると思えば、腹も立たなかった。
特に意味がある訳でもなかったが。ふと行冥の方を見て、彼は口を開いた。
「おっさん、メシが少ねえよ」
「む、足りぬか? では私の分を……」
「違え。お前のメシが少ねえって言ってんだ」
巧みに誤魔化しているが、注視すれば椀の中身が少ないのは、すぐに分かった。
獪岳は眉をひそめた。年長組も気づいたが、口出しはしない。ただし、ひっそりと成り行きを見守っている。
「私はもう大人だ。そんなにはいらぬよ」
「ボケた事言ってんじゃねえ。でかい奴が食わねえでどうすんだ。だからあんたはやつれてんだよ」
行冥は異様なほどの長身で、見合った量の筋肉も備わっていた。だが、非常に絞られている――というか、緊縮しすぎている。栄養が足りていない証拠だった。
獪岳は子供たちの意識がこちらに向いていないのを確認した後、素早く山菜のおひたしを押しつけた。
「獪岳……」
「食え。んでこんなこと二度とすんな。次やったら俺は飯を食わねえぞ。あんたに倒れられんと、こっちが迷惑なんだ」
脅すようにぎろりと睨む。盲目の彼に見えているはずもないが、気配は伝わっただろう。
一瞬怯んで、次に曖昧な表情を作り、やがて諦めたように少し頭を落とした。
「すまん」
「分かりゃいいんだよ」
短く返して、獪岳は残りを口に詰め込んだ。年長組がほっと息を吐く。
食事を終え、食器を洗い終えれば、後は寝るだけだ。意味もなく油を使って明かりをつけるほど余裕はない。というか必要があってもつけられない。都会には電気なるもので明かりを灯す術があると聞いたが、どのみち近くの町にもないので関係がない。
子供を寝かしつけ、皆が寝静まった頃。どうしても眠気がやってこず、獪岳はひっそりと外に出た。
夜風に当てられながら、空を見上げる。これも代わり映えのない星空。とうに見飽きているが、他に見るものもない。
何もかも見知ったものしかないが、不思議と嫌気は差さなかった。これが平穏というものなのだろうか。
近くの岩に腰掛けて肘をつく。
この時は永遠になど続かない。
明治の半ば頃だったか、成人は二十歳と制定された。だが、未だ浸透しているとは言いがたい。概ね十五歳程度で大人として扱われるし、働く事を求められる。それを証明するように、寺から十代後半の者は去って行った。
獪岳がここにいられるもの、長く見積もって、あと五年という所だろう。その後は、道が分かれる。
「……俺は一体、どうしてえんだか」
岩の上に転がれば、嫌みなほどに変わらない星空が広がっている。雲一つない。隔てるものはなにもない。
いつか旅立つ時は来る。そして、いつかは自分が思っているより遙かに早い。
何になりたいかすら分からないが。時が来るまでは、このままでいい。ぬるま湯に浸かって、ただ流されて。行き当たりばったりにもほどがあるが、どのみち考えて人生を歩んだことなどない。
そんな事を考えながら、彼はそよ風が撫でるに任せた。
獪岳は忘れていた。いや、意識しないようにしていたという方が正しいだろうか。
無視してはいけない経験。しかし、備えたところでどうしようもない理不尽。
運命とは常に苛烈であり、決して逃れ得ぬ。いかなる存在とて、荒波に抗する術などない。人が真に自由でいられる事などないのだ。覚悟を決められる時間があれば幸運であり、多くは意識する暇もない。
遠からず、思い出す事になる。
自分で終わりや始まりを決められた事など、ただの一度としてないのだという事を。