獪岳と善逸   作:山筋

14 / 63
那田蜘蛛山 柱たち

 自分の鼻がいつから利くようになったのか、竈門炭治郎に記憶はない。先天的なのか、後天的なのか、すれすら。少なくともある日突然ではない事は確かだが。そもそも、周囲の人間だって自分と同じくらい鼻がいいと思っていたのだから、判別のしようがない。

 だが、いつからそれを自覚したのかと問われれば、答えは簡単。つい最近、鬼殺隊に入ってからだ。

 かつてはただ漠然と遠くまで匂いが分かるという程度だったのを、精緻に嗅ぎ分けられるよう鍛えた。その結果、いろいろな事が分かるようになった。一番わかりやすいのが隙の糸だろう。相手の意識を視覚情報化し、頚に刃を届かせるまでの手順を逆算する。最近はあまり使っていないが、初期はこれにかなり助けられた。

 匂いを情報源にするというのは、炭治郎が思っていたより遙かに有用だった。

 相手を探る手段は、一に視覚二に聴覚、残りはほとんど考慮されない。これは鬼もほぼ同じ。目と耳を可能な限り誤魔化す術を持っていれば、相手に対して大きな利点を持つことになる。だからこそ鬼に相対する人間は技術を磨いた。

 だが、ここで目や耳に匹敵する第三の器官を持ってくればどうなるか。そもそも相手はそれに対する警戒が無であるため、ほぼ無制限に情報を窃取できる。炭治郎にとって鬼が隠れているというのは、目の前にでかい旗を持って仁王立ちされるのと大差なかった。

 無論、欠点が無いわけではない。匂いは風向きに強く左右される。なのでその分の誤差を考慮しないと、位置や強弱をかなり計り間違えた。最悪の場合、何も感じ取れない事もあるので過信は禁物だ。より強い匂いがあるとかなり注意して嗅がなければ気づけない、というのは目や耳と同じか。

 ともあれ、この超常的な感覚は、炭治郎を大いに助けた。

 山の中というのは、風向きと勢いを読み切るのがかなり難しい。反面、外的要因で唐突な空気の変動も少なく、障害物の多さもあって流れは穏やかだ。そのため一度大雑把に分かれば、かなり正確に鬼の位置を知ることができた。

 ここだ、と近くにまで来たところで、急制動をかけた。

 

(っ、危なかった)

 

 位置の分かっている相手に、不用意に姿を見せるな。先制できる鼻を持っているのだから余計に。獪岳に口を酸っぱくして言われたことの一つ。

 木陰から、そっと様子をうかがう。見えたのは二人の鬼だった。

 片方は見覚えがある。先に姿を現した、少年の鬼。もう一人は少年よりやや背が高い少女の鬼だ。両者から仲睦まじさは全く感じない。とりわけ少女の方からは、恐れや嫌悪の匂いしかしなかった。

 少年の言葉を信じるならば、この二人――というかこの山にいる鬼全員――は、家族であるはずだ。だが。炭治郎には断言できた。彼らには、一欠片の絆もない。獪岳の語る恐怖により支配がどういうものか、朧気ながら理解できた。

 少女が少年に何かを言いつのっている――縋っているのだろうか。距離があるため会話の内容までは分からないし、そもそも姿だってはっきり見えている訳ではない。だが、少なくとも色よい返事を貰えていないのは、少女が焦っている様子から察することができた。

 

「累! お願いよ!」

 

 少女の絶叫が響く。今叫んだのは、少年鬼の名前だろうか。

 このまま隠れて奇襲を、という考えは、すぐに否定する羽目になった。

 鬼二人のうち、少年、もとい累の方はこちらに気付いている。その上で無視していた。理由は恐らく、至極単純なものだろう。彼にとってこちらなど、それほどまで取るに足らない存在である。

 何があったのか、少女の体が一瞬跳ねた。遅れて漂うこの匂いは、血臭だ。血の匂いがしたのは僅かな間であるため、鬼にとってはかすり傷にも満たないだろう。もう少し近づければ何があったのか分かったのだろうが、ないものをねだっても仕方ない。

 血の匂いが途絶えて、少女鬼はすぐ走り去った。一瞬追いそうになったが、すぐに体を制する。

 少女鬼の方は、こう言うのは悪いが、大して強くない。遭遇するのが善逸でも伊之助でも、問題なく倒せる確信があった。無論、自分だけでも余裕を持って討てる。はっきり言って、最悪逃がしさえしなければどうでもいい鬼だった。

 それ以上に。

 累。この鬼を放置してはいけないと、首の後ろがひりつくのを自覚しながら思う。

 山に満ちる強烈な刺激臭のせいで、鼻は半ば馬鹿になっていた。なんとか嗅覚を取り戻し、必死に細かい匂いを嗅ぎ分けて、そして察知した。強烈な強さの匂い。累という鬼の、底知れない血鬼術の匂い。すぐに理解する。自分に彼は倒せない。強さの底を測れないほど強い。今那田蜘蛛山にいる者の中で、累に勝てる可能性を持っているのは獪岳だけ。そして、累を自由にさせたら、獪岳以外の全員が死ぬ。命を賭してでも、ここで足止めしなければならない。

 そう、彼は今まで炭治郎が戦った誰より強かった。手鬼よりも、鼓鬼よりも、闇鬼よりも、誰よりずっと。

 負けるつもりで戦ったことはない。だが、勝てないと思ったのは初めてだ。

 

「……で、そこのお前は一体いつまで隠れてるの?」

 

 至極つまらなそうに、こちらを見ることもなく、累。

 炭治郎は刀を抜きながら、物陰から出る。たったそれだけの事に、酷く精神を摩耗させられた。全身から冷や汗が吹き出るし、手が震える。力量差が過ぎれば、前に立つだけでこれほど疲弊するのだと思い知らされた。

 構える頃には、勝利を捨てていた。考えるのは、どうすればこの場に縫い付けられるか。その一点のみ。

 

「僕たち家族の安寧を邪魔したお前たちは、全員苦しめて殺すつもりだったけど。一度だけ機会をあげるよ。ここに侵入してきた鬼狩りどもの総数を言え。正直に答えたら、特別に苦しまず殺してあげる」

「誰が仲間を売るものか!」

「仲間ごときをかばい立てするの? 家族でもないのに?」

 

 理解できないという風に、累は頭を振った。

 

「全く理解できない、愚かな選択だね。他人にそこまで義理立てして何になるんだか」

「……何を言っているんだ? 家族でも仲間でも、大事な人である事には変わりない」

「そっちこそ何を言っているんだよ。家族は尊い。この世で一番ね。家族に優先されるものなんてありはしないんだよ」

 

 今度は炭治郎が、理解できないと困惑する番だった。

 累の言う家族は、当然血縁はなかった。縁者特有の近い匂いが感じられない。かといって、家族と言うに相応しい絆がある様子もなかった。あえて言えば、可能な限り関わりたくないが無視もできない隣人、と言ったところか。

 だが、累が嘘をついている様子もない。かといって、他者に対する信頼や親愛の匂いもしない。ただ家族とかかくあるべき、とでも言っているようだった。

 家族という“枠”に対する妄執。そう表現するのが一番近いだろうか。

 一瞬、家族について触れようかと思ったがやめた。それは累にとって一番柔らかい部分だ。急所であると同時に、逆鱗でもある。

 もっとも、突こうが突くまいが、それで運命が変わるとも思えなかったが。

 

「まあ言わないなら言わないでも別に構わないよ。どうせ皆殺しにするのに変わりはないんだから」

「そんな事は俺がさせない!」

 

 これ以上、言葉での時間稼ぎは不可能。そう判断して、覚悟を決めた。

 水の呼吸――

 息を深く吸いながら踏み込む。同時に頭も下げた。直上を、累が放つ糸が通過した。

 糸の匂いは、既に嗅ぎ分けを終えている。無造作に放った一撃くらいならば、避けるのは造作もなかった。とはいえ、二度は通じない。可能であれば、この奇襲じみた初手で首を切りたい。

 攻めるべき時と、相手の手札を見極めるべき時。この見極めが、獪岳はすこぶる上手かった。殺せる時は絶対見逃さないし、逆に決して無理攻めせず、血鬼術に引っかかることもない。

 炭治郎には、それほど高度な判断はできなかった。単純に経験が足りない。だから、最初の一手で全て済ませる選択をした。

 刃を滑らせ……全身が発した警告に、刀を翻す。

 いつの間にか累を守るように張られていた糸に、勢いを失った刀が触れ、そして半ばまで食い込んだ。焦りながら刀を引くと、驚くほどあっさりと抵抗なく抜く事ができた。尖った三角形に、鋼の破片を落としながら。冗談のような強度と切れ味。

 計り知れない強さの匂いから、力の予測を最大値に設定していたのだが。それでもなお足りなかった。

 

「へえ、勘がいいな。普通ならこれで武器を失うんだけど」

 

 どうという事もないように、累が呟く。実際、彼にとってこの程度は些事なのだろう。

 まだ刃を届かせてすらいないのに、体が酷く重かった。

 ちらりと剣に視線を向ける。傷跡は深く、芯にまで達しているのは簡単に見て取れた。今すぐ折れるという風でもないが、この戦いが終わったら破棄せざるを得ないだろう。いや、その前に糸に負けて折れるのが先か。

 

(危なかった……)

 

 焦れる意識を押さえ込みながら、距離を開ける。

 

(もし鼻に頼りすぎるなって言われてなかったら……、常中を会得してなかったら……、相手がこっちをなぶり殺すつもりじゃなかったら……、今ので死んでた可能性すらある。首の皮一枚で繋がった)

 

 今自分が生きているのに、実力の要素は何一つとしてない。ただの幸運だ。そんなものに縋らなければ、生きることすら許されない。久しく忘れていた、命を掌の上で転がされる感触。

 炭治郎が積み重ねてきた力は全く通用しない。無に等しい。生きるだけでも、幸運を引き続けなければならなかった。

 

(でも、絶対に諦めない!)

 

 脆くなった刀では、今までのような使い方はできない。振るのは諦め、突く事を主軸に考えた。

 

「まだ抵抗する気なんだ。まあ、どちらでもいいさ。せいぜい、良い見せしめになってよ」

 

 気だるげな口調で、闘気すら感じない。しかし死の予感だけは、嫌と言うほど叩き付けられる。

 とにもかくにも防御の一手。こういう時、防御と返し技に高い適性を持つ水の呼吸が頼もしい。

 水の呼吸 玖ノ型・水流飛沫

 どう糸が放たれるかも分からない状況で、無闇に動く事の危険は分かっていた。その上で、緩急を利用した不規則な幻惑移動を行う水流飛沫を選択する。動き続ければ、危険はあれど詰む事はない。その場に止まっていれば、斬る事ができない糸に囲まれてそれこそ終わりだ。とはいえ、糸の把握もままならないまま動き続ける危なさは、囲まれるのと比べてどれほどマシかは分からない。

 炭治郎が持っている手札で唯一有効なのは、死の間合いに躊躇なく踏み込む勇気。これだけが、相手の感覚を僅かに狂わせている。

 

「くっ……!」

 

 炭治郎程度の剣技では、糸は切れない。毎度都合良く人が抜けられるだけの隙間がある筈もなく、糸を刀で引っ張って無理矢理こじ開けた。接触面が火花を上げて、そのたびに刀が弱っていった。かといって、折れかけた刀を庇う余裕もない。

 びっしりと汗を掻きながら、自分はあとどれくらい持つかを考える。計算する余裕はない。刀か、あるいは手足のどれかか。いずれでもなくしたらその時点で死は確定する。

 凌いでいる間に、がさりと物音がした。

 隣と言っていいほど近くで鳴ったそれに、思わずぎょっとする。敵に集中しすぎて気付かなかった。もしかして、先ほど取り逃がした鬼が戻ってきたのだろうか。

 視線だけを向けると、そこにいたのは男の隊士だった。

 

「ガキの鬼に、ガキの隊士……新人か? まあ何でもいい、そっちの鬼は俺が貰うぜ」

 

 ふっと鼻で笑いながら、男隊士は言った。

 まずい。彼はこの鬼を侮っており、にやつきながら剣を抜いている。

 獪岳ほど経験の多い隊士であれば、鬼の見た目で油断をすることはない。物陰に隠れて頚を刈る機会をうかがいすらしただろう。新人ではないにしても、経験が多いとは言いがたい隊士。そして、恐らくは自分よりも弱い。

 

「すぐ逃げてくれ!」

「はあ? 何言ってやがんだ。点数稼ぎに丁度いい相手を前にして誰が引くんだよ。びびってんならすっこんでろ。一点取りゃ言い訳も立つ。帰る時はお前を連れて行ってやってもいいぜ」

 

 男隊士は、全く相手にする気が無かった。こちらを見もしない。

 対して累は、相変わらずの様子だ。炭治郎も、新手も、誰も相手にしていない。ただ面倒くさそうに一瞥しただけだ。

 

「出世のために死んでくれよ!」

 

 男隊士が踏み込むのと同時に、炭治郎は気がついた。糸で作られた網が、男を微塵にすべく襲いかかっている事に。

 考えるより早く体が動いた。男隊士と糸の間に、体を割り込ませる。

 水の呼吸 捌ノ型・滝壷・鯉

 本来は唐竹割りである滝壺の逆転し、逆風の形で放つ。入り組んだ糸を巻き上げ、頭上へと受け流した。

 糸はひたすらに重く、当てる場所を考慮する余裕もない。腕にのしかかる重圧は、そのまま武器の寿命が上げる悲鳴だった。

 人には再現不可能な暴力が過ぎ去り。一泊遅れて、輪切りになった十数本の木が連続して倒れ始めた。けたたましい音が静寂を破り裂く。今は枝が折れる音まで聞こえそうなのに、糸が木を切断する音は僅かもなかったのが、そのまま人と鬼の差を見せつけているようにすら思った。

 

「ひ」

 

 いきなり押しのけられた男隊士は、尻餅をついたまま小さな呟きを漏らした。

 振り返りもせず、炭治郎は再び叫ぶ。

 

「逃げろ! 早く!」

「わ、あああああぁぁぁぁ!」

 

 男隊士は、刀すら投げ捨てて背を向けた。糸に巻き込まれたのか、半ば辺りで切断された刀が悲しげに転がる。

 鬼は消えゆく影に対して、何もしない。本当に興味を持っていない。興味とは違うのだろうが、炭治郎に対しては呆れかえったと言った様子で嘆息していた。

 

「お前は本当に馬鹿なんだね。あんな役立たずまで庇ってさ。そのせいで、君の命は半分になったよ」

「そうだとして、助けない理由にはならない」

 

 断じるものの、言葉がだたの強がりでしかない事は、本人が一番理解していた。

 ほんの少し前と比べ、僅かではあるが、しかし刀は確実に軽くなっている。無茶な型の行使と糸の破壊力に負けて、刃が半分ほど削り取られてしまった。もはや先端と根元以外は、鈍器と変わらない。

 

「どうでもいい。お前の相手も疲れたし、絶望させるのも面倒くさそうだし、もういいや。とっとと死んでよ」

 

 軽い言葉とは裏腹に、糸の数は数倍に増えていた。今までは手足を削る程度に抑えていたのを、どこを斬ろうがお構いなしになる。

 ぞっとしながらも、呼吸と型の精度を跳ね上げた。制御できる限界で扱っていたそれを、さらに引き上げる。威力が上がり、今まで斬れなかった糸も切れるようになった。代わりに、技を失敗する可能性が出てくる。

 明確に命を狙う糸と、際涯を踏み越えた技の行使。双方に極度の集中を要求され、炭治郎の精神は音を立てて削られていく。

 こんな状態ですら、殺意の匂いが全くないのが逆にやりづらかった。もっと殺す気でいてくれれば、その匂いから攻撃を察知する事ができるのに。実力差は、こんな所でも祟っていた。

 刀の中間部分がただの鉄の棒になっているのも難しい。先端か根元を確実に当てなければ、武器を巻き取られるか寸断されるかのどちらかだ。当然、どちらであっても数瞬後には死が待っている。

 糸の数はほぼ固定で動きも単調だったが、代わりに累が焦れる事もない。時間の問題だとよく理解している。

 どれほどもせず、体に致命的な傷はないものの、無数の創傷が作られていた。

 

「お前も、まあよく頑張ったんじゃないかな。もう終わりだけどね」

 

 一方的な宣告はしかし、傲慢さを僅かも含んでいない。まごう事なきただの事実だ。

 速度と読み切れない動き、そしてほんの僅かに糸を切って凌いでいたが。ついに捕まった。もういくらか緩まった程度で抜け出せる包囲ではない。

 死を自覚した。その上で、けっして諦めない。最後まで足掻き続ける。空しい抵抗と分かりながらも、実行しようとして。

 いきなり背中が軽くなった。

 

「んムグぁ……っ!」

 

 筺から飛び出した禰豆子が、体を大きくし、両手を網の中に突っ込み捻っていた。鋼鉄すら容易く切断する鋼糸が、少女の細腕にめり込む。皮膚と肉はあっという間に削剥され、複雑に骨へと抉りこむ。糸の絡まった腕から妙に鮮やかな白と桃色が混ざった筋肉が飛び散る様に、喉を熱く不快なものがこみ上げてくる。

 

「禰豆子ぉ!」

 

 気付けば、炭治郎はがむしゃらに刀を振っていた。

 皮肉にも、糸は絡め取られた事で纏まり、刃を当てる場所に気を遣わず済んだ。禰豆子に絡まった糸を全て斬った後、作った穴から妹ごと抱えて飛び出す。

 滑り倒れた後、慌てて体を起こし、少女の腕を確認した。

 糸に振動を与えた影響か、腕はもう原型をとどめていなかった。もはや骨に肉片が付いている、と言った方が正しい。赤黒く、所々蠢く桜色が、白に付着している光景は地獄を思わせる。断面の根元は、少しずつおぞましい色が膨れていた。再生が始まっているのだが、これが鬼として早いのか遅いのか分からない。

 禰豆子の顔は苦痛に歪み、青白く変色していた。苦痛と失血に喘いでいる。鬼は痛みに鈍感だが、痛みを感じないわけではない。人間なら嘔吐しながら気絶するような痛みであれば、鬼でも相応に苦しいはずだ。

 傷口に触れないよう、少女をそっと抱きしめた。

 

「ごめんよ禰豆子、兄ちゃんが不甲斐ないばかりに……」

 

 自分の方がよっぽど辛いだろうに。禰豆子は、こちらを安心させるように微笑んで見せた。それがより一層けなげで、また情けなさを強める。

 禰豆子を横たえさせ、妹の血に濡れながら、炭治郎は鬼に向きかえった。

 累は、なぜだか驚嘆の表情でこちらを見ている。

 おかしい、と感じたのは彼の顔を見たときだ。いくら炭治郎が急いだと言っても、殺すには十分な時間を与えてしまった。にもかかわらず、追撃されなかった。

 累は小さく震えながら、禰豆子を指す。

 

「お前、そっちの女は妹なのか?」

「…………? そうだけど」

「鬼なんだぞ? 分かっているのか?」

 

 何が言いたいのか分からない。が、感情の高ぶりだけは感じた。

 

「関係ない。禰豆子は鬼でも、人を食べないし殺さないんだ。俺は必ず、禰豆子を人に戻す。その方法を探すために、鬼殺隊に入ったんだ」

「は……ははは! あははははは!」

 

 累は、炭治郎を殺すのも、今が戦いの最中だというのも、全て忘れて哄笑した。両手を広げ、とても、とてもとても楽しそうに。その姿は、先ほどの話が通じないのとは別種の狂気を伝えてくる。

 

「いい! いいよお前たち! 妹がどうなろうとも人生をかけて尽くす兄、鬼になりながらも身を挺して人間の兄を庇う妹。そうだよ、これが家族なんだ。正しい家族の姿なんだ! 素晴らしい、本当に。ああ、なんていう事だ」

 

 鬼が、広げていた手を畳み、自分の体を抱きしめた。穏やかな表情で天を仰いでいる。

 顔からは、彼がどんな感情を持っているか推し量る事はできない。だが、匂いが強く心を伝えてきていた。感動と歓喜。

 視線を戻した累の瞳は、無を見るものではなくなっていた。代わりに、とても強い執着が溢れている。

 

「お前……いや、君。名前はなんて言うのかな」

「竈門炭治郎、だけど」

「なら炭治郎、一つ話があるんだ。君にとっても悪い話じゃない」

 

 今までとは打って変わった鬼の様子。穏やかな笑みをたたえて、手を伸ばしてくる。

 

「君の妹を僕に捧げるんだ。そうすれば炭治郎は生きて返してあげるから。大丈夫、ちゃんと僕の妹として教育してあげるよ……いや、いっそのこと君にも兄になって貰おう。素晴らしい絆が二つもできる。今日はいい日だ。本当に、とてもいい日だ」

「何を……言っているんだ……?」

「心配しなくていいよ、僕はあのお方に気に入っていただけてるんだ。ちゃんと君たちを管理する。二人くらい許してくれるさ」

 

 そんな話ではない。思うが、口から出なかった。

 共感はできないが、言わんとすることは理解できる鬼は多くいた。だが、この鬼は何一つとして理解が及ばなかった。何を言っているのか分からない、全くの未知であり異常。強さとは別種の恐怖すら感じる。

 こいつは狂っている――それが生来のものか、それとも鬼になってしまった反動かは分からない。ただ、理解しても許してもいけない。それだけは分かった。

 禰豆子を庇いながら構え直す。その様子を見て、累は意外そうに目を見開いた。

 

「抵抗するの? 僕が家族にしてあげるって言っているのに、なんでそんな態度を取るんだか」

 

 まるで予想外だ、というように小さく頭を振る。嘆息すらし、細めた目で、炭治郎を真っ直ぐ見た。

 

「仕方がないか。家族を教育するっていうのも、重要な事だよね。痛めて苦しめて心を砕き作り直して――ちゃんと、家族の役割っていうものをすり込んであげるよ」

「そうやって……今までの家族もそうしてきたって言うのか?」

「当り前だろう。だから何なんだ」

 

 言葉が冗談でも脅しでもないのは、彼の目を見れば分かった。全くの本気の目。同時に、狂ったまま正気の目。

 本当に、相手を苦しめる事で家族にできると思っている。相手の意志など関係ない。自分の意を強制するのが正道だと、本気で思っている。それがとてつもなく哀れで、同時に、絶対に許せなかった。

 

「そんなやり方は……そんなものは“絆”じゃない! 絆っていうのは愛で繋がれているものだ!」

「違うね。“絆”とは恐怖で繋ぐものだよ。より大きな恐怖こそが、人と人の縁そのものだ」

 

 累が両手を広げる。指先からは、今までとは比べものにならないくらい大量の糸が放出された。

 

「何はともあれまずは教育だ。炭治郎は人間だから、あまり派手な事はできないな。まあ、手足の一本くらいはもいでも大丈夫だろう。禰豆子は……見た限り知能が低い、父さんのような類いかな。なら、何度か腸をえぐり出してやれば素直になるだろう。ああ、最高の家族ができるぞ……! とても、とてもとても楽しみだ」

 

 悍ましい事を平気で言う鬼に、炭治郎は強く歯を噛んだ。

 禰豆子はしばらく動けない。動けたとして、さすがにこの鬼から逃げ切る力はないだろう。

 最悪は、禰豆子が自分の身を犠牲にして炭治郎を逃がそうとすることだ。それを避けるために、拮抗させ続けなければいけない。この、その気になれば一瞬でこちらを殺せる鬼相手に。

 覚悟を決める、などと考える前に、鬼の猛攻――当人にとっては十分な手心を加えた攻勢――が始まった。

 

「くぅっ」

 

 状況としては、最初のなぶり殺すつもりだった状態へ戻っただけの筈だ。にも関わらず、糸は繊細に、執拗に、何より膨大になった。恐らくはこちらに対する執着があるか否かの差だ。極端な話、今までは炭治郎が加減を誤って死のうが逃げようがどうでもよかった。しかし、今は絶対に生かして捉えるという意気がある。せっかく強度になれた糸が、再び刃を削らなければ切れなくなってしまった。その気になれば、もっと硬くできるのかもしれない。

 

(まずい、これじゃあとどれほども持たない)

 

 息継ぎすらも難しい勢いで、剣を振り続ける。一太刀放つごとに火の花が舞った。こちらの命綱は刻一刻と千切れそうなのに、相手はいくらでも再生可能、痛くも痒くもない。改めて鬼が理不尽の権化だという事を思い知らされる。

 こうして強敵に追い詰められると、嫌でも自分の粗が分かった。一つ一つの型はそれなりに様になっているが、はっきり言って繋ぎが拙い。ましてや急な切り替えや連続使用は、この次元になると全く通用しなかった。気を抜けば、全集中の呼吸すら途切れそうになる。

 

「わざわざ生きて捕まえるのって、案外面倒くさいんだな。人間が脆すぎる」

 

 累がこちらを目だけで追いかけながらぼやく。

 糸による斬撃は、工夫やひねりの余地がない反面、殺傷力が飛び抜けている。一目見ただけで攻撃が理解できるが、対処は難しいといったもの。

 この高すぎる火力は、最後の幸運だ。累が自ら課した枷のおかげで、強力な血鬼術は、その力の半分も発揮できていない。

 

「でもまあ、まずは一人目」

 

 言葉に、思わず疑問符を浮かべるが、次の瞬間には気がついた。対処に集中するあまり、禰豆子との距離を開けすぎた。

 累が右手の人差し指だけを軽く引く。それだけで、やっと腕の再生を終えた禰豆子を糸が囲い、そのまま近くの木へと縛り付けた。激しい激突音、鋭い鋼糸が双方を輪切りにしない程度の力で絡め取る。少女の体に幾重も食い込み、身動き一つ取れない状態で、今度は全身から血を噴き出していた。

 

「禰豆子ぉ!」

 

 強く叫びながら、助けに入ろうとする。

 けっして忘れていた訳ではない。禰豆子がいる場所も、鬼の強さも。ただ、あらゆる物事を加味しても、彼にはほんの一欠片も余裕がなかった。落ち度があるとすれば、分かっていてもなお対応できないほど追い詰められていた事、そして根本的に己が弱い事だ。

 気がつけば、炭治郎までも糸で囲まれていた。

 

「大丈夫、ちゃんと止血するよ。絶対に死なせない。だから安心して喰らえばいい」

 

 強敵はいくらでもいた。絶対及ばない相手に、奇跡のような形で生き残った事もある。だが、これほど強く『終わり』を思い知らされたのは初めてだった。

 ここで死ぬのだろうか。いや、死にはしないのか。累は二人を欲しがっている。鬼にさせられるのは死も同然かもしれない。運命を自分で決められないという意味においては、無為に過ぎる思索ではある。

 やけにゆっくりと流れる時の中、あらゆる感覚が妙に過敏になった。

 今まで把握仕切れていなかった糸の一筋一筋が、やけにはっきりと見える。背後から迫るそれまで分かる気すらした。累は相変わらずほとんど動かない。指先を一分動かしたかどうかという程度だ。そして禰豆子は……

 気がつけば、禰豆子の様子が変だった。真っ先に気がついたのは、目だ。今まで淡く広がっていた瞳孔が、今は虹彩とその他ではっきりと分かれている。何より違うのは匂いだ。どういった理由か、彼女から鬼の匂いが薄れていた。いや、鬼の匂いすら塗りつぶす強い匂いが発生しているというべきだろうか。これを何と表現すべきだろう。炎の匂い、煤の匂い、光の匂い。あるいは、太陽の匂い。

 禰豆子が、唯一自由になる手首から先で、手を強く握りこんだ。

 変化は急激だった。少女の体が、まるごと炎に包まれる。張り巡らされた糸の、至る所で爆炎が飛び散った。当り前に炭治郎も、炎の中に包まれる。が、全く熱を感じない。羽織の端にすら火は移らなかった。

 

「な、何だ?」

 

 全く訳が分からず、咄嗟に口元を守ったが。普通の火ではないため意味のない行為だが、咄嗟にしてしまう。

 炭治郎と同じように、累も呆然としていた。ただし、逆襲を受けないよう距離を取り、仮に襲いかかられても十分対処できる間を開けながら。

 

「炎の血鬼術……? 多分血もしくは自分の体そのものを触媒にしてるんだろうけど。僕の糸はただの火で焼き切れるほど甘くはない。対血鬼術、もしくは対鬼に特化した血鬼術なのかな。ふぅん、面白いね。鬼が人に交ざっていると、こんな力を発現する事もあるのか」

 

 そこまで言って、彼は残念そうに首を振る。

 

「兄を助けるために目覚めたのかな。素晴らしい“絆”だ。でも使いどころを間違えたね。それを直接僕に当てていれば、倒せた可能性もあったろうに」

 

 後は、と累は続ける。

 

「異能を起こしたばかりでの連続使用は難しい。訓練と、何より大量の人食いによる力の強化が必要なんだよ。つまり、奇跡はここで打ち止めだ」

 

 それは、なんとなく分かっていた。禰豆子の疲弊は、度重なる怪我を差し引いても酷いものだ。体はふらついており、立っているのも辛いのだろう。放っておけば体を小さくして、休眠状態に入りそうになっている。

 炭治郎は最高速度でもって禰豆子に近づこうとした。が、それすら鬼にとっては遅かったのだろう。素早く禰豆子を縛り上げ、今度は宙づりにする。

 思わず歯噛みする。糸は木々を中継しており、どれを斬れば禰豆子を解放できるか分からないようになっていた。

 

「むっ、むヴぅー!」

 

 少女は力を振り絞り、自分を拘束する糸を焼こうとする。が、無駄だった。糸は焦げ付いて黒く変色こそするものの、その強度に些かの陰りも見えない。

 

「無駄だよ。僕の糸はもっと強靱にしたし、君の力は既に底を突いている。地力に差があったんだから、こちらが少しその気になればこんなものさ。君に言っているんだよ、炭治郎。もう僕の不意は突けない。さあ、大人しく鬼にしていただいて、僕と家族になるんだ」

「断る!」

 

 即座に出てきた答えを聞き、累は嘆息した。まるで諦めの悪い子供を諭すかのような目を向けてくる。

 

「なんでそんな意固地になるんだか。永遠に、家族として円満に生きようと言ってるだけなのに」

「何度でも言う! お前の言う家族は“友好”じゃない、“支配”だ! わかり合うつもりがないなら、そこに家族なんてありはしない!」

「そこにこだわるのもよく分からないんだよね。より強い絆があればそれを選ぶのが当然だろうに。まあいいか。鬼になれば、それこそ時間はいくらでもある。何十年、何百年かけてもいい。君たちに必ず家族を理解させるよ」

 

 底だと思っていた鬼の強さは、まだ上があった。水底だと思っていた場所の、さらに深淵。

 なんとか刀の届く距離に近づければ……そんな弱い考えは、捨てざるをえなかった。この鬼は、攻撃力特化ではあっても、遠距離特化かどうかはまだ謎だ。近づければ勝てるかなど分からないし、首を糸と同じく切れるというのも、正直希望的観測以上の何物でもない。

 血鬼術や身体能力の強い鬼は体の強度も比例して高い。これは不文律だ。糸を切るのにも苦労していた身では、はっきり言って、累の首を切るのは不可能に近い。

 

(それでも……絶対に諦めない!)

 

 もしかしたら、相打ちにすらならないかもしれない。だが、既にこの手しか残っていなかった。

 今までになく深い呼吸をして、体を思い切り捻った。人生最後になるかもしれない型に、己の命全てを乗せる。

 雰囲気の変化を感じ取ったのか、累の顔つきも僅かながら変わった。掲げた手が、指先から黒く変色する。糸がさらに強まったのが分かった。それでも、もう止められない。引ける位置は、とっくに過ぎ去った。

 空気を勢いよく吐き出し、撓んだ体を思い切り解放する。

 水の呼吸 拾ノ型・生生流転

 水の呼吸において唯一の、決まった形のある連続攻撃。希有な特性を持ち、その斬撃は回転の数に応じて威力を増す。水の呼吸における最大威力の型。

 一撃目が、迫り来る糸を寸断した。体を捻り勢いを高め、二度目を放つ。一撃の鋭さは増している筈なのに、次の糸はやたらと重かった。恐らく、累から遠くなるほど糸は弱まるのだろう。

 不安が炭治郎に突き刺さった。威力の底上げは、累の頚に到達するまでに間に合うのだろうか。

 弱気は敵だと分かっている。考えていることが詮無いのはもっと。そもそも相手にとっては、わざわざこちらが迎撃できる位置に糸を張る必要すらない。彼にとって、これは炭治郎の心を折るためだけの行為だ。失敗し、抵抗の手口を失って、そこに自分の理想を押しつける。

 自分も妹も、そんなものにさせられるつもりはない。何より――この哀れな鬼に、これ以上、真の愛を得られない悲しみに浸からせたくない。

 親。兄弟。あるいは友。人であった頃には必ずあった筈だ。どこかに、寄る辺となる本当の“絆”を持っていたはずだ。それを穢されたままでいさせたくない。

 

「とど……けえええぇぇ!」

 

 裂帛の気合いと共に、威力の上昇率を無理に上げる。

 だが。

 それも。

 圧倒的実力差の前には、無力に過ぎなかった。

 ついに糸が切れなくなり、刀に巻き付く。粘り強さまで併せ持つそれによって、剣は押す事も引く事もできなくなった。

 手を離す合間もない。すぐに八方から糸が襲いかかり、炭治郎をその姿勢のまま固定した。死を覚悟で無理に体を捻らせる。だが、切れ味がなく粘性の強いそれは、多少体が揺れる程度にしかならなかった。

 

「捕まえた。どうせこうなる事は分かっていたんだから、無駄な事はしなければよかったのに」

「く……ごめん、善逸、伊之助、獪岳」

 

 鬼になどされたくない。だが、もはや自刃すらできなかった。せめて、少しでも早く誰かが自分を殺してくれる事を願う。

 だが。

 

「諦めるにゃ早えよ。ま、ここまで粘った事は褒めてやる」

 

 急に、全身が解放された。

 自分に繋がっていた糸が、一つ残らず切られた。それに気がついたのは、座り込んでしまった後だった。

 いつの間にか人影が増えている。刀を肩に担いだ偉丈夫。炭治郎が知る限り、最強の剣士。獪岳が、炭治郎を庇うように、音もなく立っていた。ただの背中が、この世でもっとも頼りがいのあるものに見える。

 唐突な闖入者に、累は底冷えがするような冷たい視線を向けた。

 

「お前、誰? いきなり僕たち家族の間に割って入ってきて、覚悟はできてるんだろうね」

「…………? 家族? 何言ってんだテメェ、イカれてんのか」

 

 話の筋など全く知らない獪岳は、眉をひそめる。もっとも、知っていたいところで反応は同じだったかもしれないが。

 無造作に振る舞っているようで、獪岳には一部の油断もない。不用意に周囲を見回しているように見えて、その実、意識の大半は累に向けていた。

 

「禰豆……いや、誰?」

 

 が、それすら一瞬忘れて、獪岳は一点に注目した。未だ吊り下げられている禰豆子だ。

 

「禰豆子だよ。鬼に捕まってしまったんだ」

「嘘こけ。禰豆子っつったら十に届かないくらいだったろ。ありゃどう見ても十代半ばだ」

 

 そういえば、獪岳は大きくなった妹を見たことがなかったかもしれない。

 

「禰豆子は体の大きさを変えられるんだ」

「……なんだかなー。こんな所でやっぱりこいつも鬼なんだなって思いたくなかった」

 

 かなり脱線した話をしていると。大きな舌打ちが響いた。

 

「ごちゃごちゃとうるさいんだよ。これから家族の“儀式”があるんだ。お前はとっとと死ね」

「おーおー、そりゃ悪かったな。お詫びに、すぐ殺してやるよ」

「殺す? お前ごときが? 僕を?」

 

 あからさまな嘲笑を作って、獪岳を嘲る。

 ひ、と思わず声が漏れそうになった。体の自由を奪われているわけでもないのに、指一本動かせない。鬼の鬼たる所以、上位存在としての格の発露。ただそれだけで、金縛りにあってしまう。改めて、これほどの存在と戦っていた自分の無謀を思い知った。

 累が顔半分を隠していた左髪を掻き上げる。そこにあったのは、ただの目ではなかった。いや、目には違いない。ただ一つ、下伍という文字が刻まれている。前に会った、眼球を十文字に刻まれた鼓鬼でなければ、十二鬼月の騙りをしていた二人組でもない。そもそも存在の圧が違う。

 本物の、下弦の鬼。数いる鬼たちの最高幹部にして、鬼舞辻無惨の忠実な従僕。最強の駒が一柱。

 討伐隊の全滅は、全てが必然だったのだ。鬼が群れていたからとか、搦め手に卓越した血鬼術の使い手がいたからなど関係ない。鬼狩りが何人攻め込もうと、彼一人で事足りた。理不尽な力を持つ鬼をして、理不尽の塊と言わしめる存在。

 

「お前は肉片も残さない」

 

 鋭い目つきの累が、手首まで黒く染めて糸を放つ。恐らく、色は糸の性能に比例している。であるならば、今まで放ったものとは比べものにならない殺傷力を有しているだろう。

 まるで視界全てを覆い隠すような量の、膨大な糸の波濤が獪岳に押し寄せた。

 危ない、と警告する暇も無い。だがそれは、獪岳もまた同じだった。

 彼が刀を抜いた様子は見えなかった。それどころか、体を微動だにさせた様子すら分からない。ただ結果だけが残った。糸の結界が、まるで存在しなかったかのようにばらばらと散り落ちていく。

 抜き打ちすら見えない、神速の抜刀。加えて、鋼以上の強度を誇る糸が、まるで紙でも切るように容易く寸断される。これには下弦の伍ほどの者も、驚嘆に目を見開いていた。

 

「お前、まさか柱か?」

「ただの甲だ」

「チッ、まあなんでもいいよ。お前は刻まず、すり潰す」

 

 累が両手を構えると、指先から無数に出ていた糸が、束ね編み上げられた。太く、注意せずとも視認できる。切れ味を失った代わりに、どれほど強度が上がったかは想像すらできない。

 腕が大きく振られ、しなる一〇本の縄が男を叩き潰さんと襲いかかる。

 だが。獪岳は、それすらも容易く斬って見せた。

 纏まりを失った縄が糸に戻り、そこら中に散らばる。そんな中、彼は悠然と構えたままだった。あまりの力に、累が愕然とする。

 相手の事情などどうでもいいとばかりに、獪岳は呟いた。

 

「成る程、純粋に糸を操る血鬼術か。強度やら何やらの調整はできるみたいだが、それ以外の特殊性はなし。強えは強えが、それだけ。これならまだ人を操る血鬼術を持ってた方が厄介だったな。何にしろ、ここがお前の底か。言っちゃなんだが、格下狩り専門だな、お前」

「馬鹿な……柱ですらない奴が、僕の血鬼術をいとも容易く斬るだって?」

 

 驚愕しながら後ずさりする累に、今度は獪岳が嘲る番だった。

 

「アホなお前に冥土の土産をくれてやる。甲ってのは、単騎で十二鬼月に対抗できる奴だけが任命されるんだよ。ちなみに甲でも十二鬼月を単独討伐したやつが“柱”になれる。勉強になったろ。もっとも、これからお前が教訓を生かす機会はねえがな」

 

 言葉を終えた瞬間、獪岳の姿が消えた。

 気付いた時には。累の背後に回っている彼の姿と、そしてゆっくりと頚が落ちていく累の姿だった。

 全ての糸が力を失って、禰豆子が落ちてくる。炭治郎は慌てて彼女を受け止めた。

 未だぐったりしているものの、顔色は幾分良くなっている。糸がほどけた部分から、少しずつ治癒が始まっていた。ひとまず力尽きていない事にほっとする。

 累は、何が起こったか分からないという様子のまま、呆然と、倒れ伏す自分の体を見ていた。うわごとが自然と漏れ始める。

 

「なん……で。僕は……ただ……家族が……欲しかった……だけなのに」

 

 姿に、今までのような鬼の姿はない。そこにいるのは、迷子の子供だった。長く、本当に長く、道を見失って泣いている子供。

 少年の瞳は何も映していない。ここではないどこか、虚空を夢見ている。もしかしたら、ただの人間だった頃の。鬼舞辻無惨に人生を狂わされる前の。

 

「あれ……? なんで僕……父さん……母さん……どこ……ごめん……」

 

 炭治郎は瞳を閉じ、崩れゆく少年の体をそっと撫でた。こんなものが、彼が思いを馳せる相手の代わりになるなどという傲慢は抱いていない。ただ、ほんの少し、慰めになればいいと思った。鬼になってしまった哀れな子に、せめてこれくらいは許されるべきだと。

 累ではなくなった少年の瞳から、一筋の涙がこぼれた。言葉はない。既に口元まで崩れている。

 鬼だった誰かの体が塵になって消えるまで、炭治郎はずっとそうしていた。

 全てが終わったとき、傍らに獪岳が立っていた。無表情の顔は、努めて色を消しているようだった。

 

「鬼を哀れむな、とまでは言わねえよ。でも、あまり共感すんじゃねえ。その後には、苦みしか残らねえぞ」

「それは……経験談なのか?」

「さあな。好きに解釈しろ」

 

 獪岳は、一度刀を軽く振って納刀した。

 鬼は死ねば塵となる。当然血糊やら何やらも残らないので、拭き取る必要も無いのだが。感覚的にそういう事をする人は案外多い。かく言う炭治郎も、たまに異物を取り除くような気持ちで使った後の刀を拭う。脂は付かずとも、粉塵などは纏わり付くのであながち無意味ではないが。

 

「それはそれとして」

 

 すっと、獪岳の匂いが入れ替わった。戦いに集中したものから、全く別のそれへ。

 あ、これはまずい、と感じた。獪岳が怒っている。それも、今までにないくらい。彼がこちらを見下ろす顔からは、青筋が立っていた。

 

「てめ……」

 

 言葉を発しかけて。獪岳はその場を飛び退いた。大した距離ではなく、とりあえず刀を振っても炭治郎らを巻き込まないといった程度。その視線は、森の奥一点に集中している。刀こそ収めたままだが、指は柄にかかっていた。

 現れたのは、髪質が硬そうな隊士の男だった。無表情というよりは、単に表情筋の使い方を知らないような印象を受ける。背丈はかなりの長身で、獪岳より頭半分ほど大きかった。そして、とんでもなく強い。獪岳や累と同じく、強さの限界を測る事ができない。援軍にしては早すぎる、と思ったが、考えてみれば隊士達が同士討ちを始めた時点で鎹鴉が報告に向かっていない訳がない。

 だが、それら全てよりも。男から感じる強烈な既視感が、炭治郎の心をざわめかせていた。いつか、どこかで見たことがあるような……

 とりあえず仲間だと知って、獪岳は臨戦態勢を解いた。といっても、全くの無防備になったわけでもない。

 男はちらりと惨状を確認した後、ぽつりと呟いた。

 

「既に討伐した後だったか」

「ああ、まあな。特に強くもない上、工夫のない能力だったからどってこたなかった」

 

 男は獪岳に向けていた視線を、炭治郎に向けた。なんだか微妙に居心地悪く、肩をふるわせる。

 

「お前、なぜ鬼を庇っている?」

「違う」

 

 即答したのは獪岳だった。

 男は僅かに目を細めて、獪岳を睨んだ。敵意、とまでは言わないまでも、不快の匂いが滲み出ている。

 

「隊士が鬼を守っておいて、何が違う」

「鬼じゃねえ」

 

 は? と、これは男だけでなく、炭治郎もだったが。

 

「こいつは鬼っぽく見えるだけのただの人間だ」

「いや、鬼だろう」

 

 何を言っているのだこいつは、という目を男がする。視線のやり場に困りながら、男はなんとなく炭治郎を見た。他に向ける先がなかったとも言う。

 炭治郎は、それはもう頑張った。歯を食いしばって半ば白目を剥きながら、人生でほとんど付いたことのない嘘をつく。

 

「禰豆子は……人間です! ちょっと鬼に見えるだけです!」

 

 もうちょっとマシな嘘の付き方できんのか、という獪岳の鋭い視線が突き刺さるが、できないものは仕方ない。

 

「どう見ても鬼……いや、実際に人を襲う様子がない……?」

「人だ」

「人です!」

「……人、か?」

「こいつちょっろ」

 

 獪岳がつけた余計な一言は、男には聞こえていなかったようだ。

 と、男は何か思うところがあるのか、炭治郎をまじまじと見た。何かを思い出すようにこめかみに触れ、やがて気がつく。

 

「お前は……竈門炭治郎か? 雲取山の」

「なんで俺を名前を」

 

 いきなり名前を当てられ、驚く。

 会った事などない筈だ。いや、朧気だった記憶が次第に鮮明になる。昔に一瞬だけ、袖すり合った事が。鬼殺隊にありながら、禰豆子を信じてくれた。兄弟の絆に可能性を感じ、鱗滝左近次を紹介してくれた。

 

「冨岡、さん?」

「覚えていたか」

「すみません、風貌が少し変わっていたので、気付くのが遅れて」

 

 冨岡義勇の姿は、記憶より背が高くなっており、髪も伸びている。なにより雰囲気が大分精悍になっていた。もし隊服を来ていなければ、兄弟か何かだと思っていただろう。

 

「構わない」

 

 言って、今度は獪岳へ顔を向ける。敵意があるというよりは、拗ねたような様子で。

 表情こそ変わらないが、案外内心はわかりやすい人だった。

 

「やはり鬼じゃないか」

 

 非難がましい義勇の言葉に、獪岳は当然とばかりに答えた。

 

「正直誤魔化しきれると思ってなかった。むしろなんで誤魔化されてんだ」

 

 こいつぶん殴ってやろうか、という意志がひしひしと伝わってくる。

 殺伐としつつある空気に、炭治郎は慌てて言った。

 

「で、でも獪岳は禰豆子の事を助けてくれたんです!」

「む……そうか。そこに関しては感謝する」

「勝手にやった事だからいらねえよ」

 

 ひらひらと手を振って返す獪岳。この時点で、既に刀からは手を引いていた。

 

「改めて、獪岳だ。階級は甲」

「冨岡義勇」

「柱で合ってるよな?」

「違う」

「いや、その強さはどう見たって柱だろ」

 

 自分が強くなって、改めて理解した事だが。自分程度では獪岳の強さに限界を見切れないように、義勇のそれもまた、ただ立っているだけで底知れなさがある。

 

「逆に聞く。なぜその強さで柱ではない?」

「あー……まあ、色々あんだ。柱になれねえ理由がな」

 

 頭をがしがしと掻きながらの言いにくそうな語りに、炭治郎は疑問符を浮かべた。柱にならない、ならまだ分かる。だが、柱になれない、とはどういう事だろうか。彼が出会ったことのある柱は(獪岳の言葉を信じればだが)冨岡義勇だけだ。そして、彼と比べて獪岳の実力が劣るようには見えない。まさか義勇の力が柱最底辺などという魔窟ではないと思いたいが。

 

「まあやるこた終わったし、とっとと下山……」

 

 獪岳の言葉は、最後まで発することができなかった。

 その前に、恐ろしい速度で何かが飛び出してくる。炭治郎がそれに気がついたのは、金属同士が強烈に弾ける音を聞いてからだった。

 勢いのまま通り過ぎた小柄な影は、速度とは裏腹に、非常に軽い挙動で着地する。そして、奇妙な形状の剣を掲げながら、酷く優しい口調で言った。

 

「おや、冨岡さん。なんで鬼を庇うんですか? すぐに殺してあげなきゃ駄目じゃないですか」

 

 ふふ、とどこか妖艶に笑う女性。しかし、炭治郎にだけは分かった。その内側に、怒りと怨念が渦巻いている事が。

 

「胡蝶しのぶ……柱を二人も投入したのかよ」

 

 獪岳が顔を歪めながら呟く。

 考えてみれば、あり得ない事ではない。鬼殺隊の大部隊を投入しながら全滅。となれば、十二鬼月がいる可能性はけっして低くない。万全を期すならば、柱など何人でも投入したいだろう。

 しのぶは獪岳に気付いて、やはり穏やかな笑みのまま、しかし少々困り顔で語りかけた。

 

「おや、獪岳も一緒でしたか。こうして顔を合わせるのは何年ぶりですかねえ。あなたまでいて、なんで鬼を始末していないんですか? お仕事はちゃんとしないと」

 

 続いて炭治郎に向き、

 

「坊や、その子は鬼ですよ。危ないから離れてください」

 

 言いながら見せた刀の切っ先は、寒気がするほどに冷たかった。

 

「違う。人間だ」

「は?」

 

 いきなりの義勇に、一瞬呆けるしのぶ。そこで畳みかけるように、彼は続けた。

 

「人だ。鬼ではない。鬼っぽいただの人だ」

「……冨岡さん、頭大丈夫ですか? ちょっと入院した方がいいのでは」

 

 しのぶは、眉間を揉みほぐしながらあきれ果てていた。もしかしたら本気で脳の病気を心配しているのかも知れない。もうどんな言葉をかけていいかも分からない、といった様子である。

 あまりの反応に、義勇は首をかしげる。

 

「なぜ騙されない」

「いや、それで騙されんのはお前だけだろ」

 

 獪岳の突っ込みに、なんだか傷ついていたが。

 気を抜いたように見せかけて、獪岳の判断は速かった。小袋を取り出して、それをしのぶに投げつける。当然、そんなものをまともに食らう程度の者が柱である訳がない。容易く切り裂かれるが、飛び散った中身に、彼女は思わず口元を覆った。

 動きの牽制に止まらない。舞った何かを警戒して、一瞬呼吸が止まった――つまり、呼吸の剣士にとって要である全集中の呼吸が途切れ、素早い動きを不可能とする。

 獪岳の動き出しに、しのぶは一歩も二歩も遅れた。元の走力に差がある以上、これは致命的だった。

 獪岳は半ば引ったくるように、右腕に炭治郎を、左腕に禰豆子を抱え、そのまま加速した。去り際に声を張り上げる。

 

「冨岡、すまん任せる!」

 

 返事を待つ暇もない。が、意図は通じていた。小さくなる二人、義勇が無手のまましのぶに掴みかかっている。それを見届け終える前に、姿は障害物へと隠れた。

 

「ガキ、お前小さくなれ! 重たくて仕方ねえ!」

 

 言われ、禰豆子が幼児ほどまで縮む。

 軽くなったのを確認すると、獪岳が二人を抱え直した。しっかりと、半端な事では落とさないように。

 

「しっかり捕まってろよ!」

 

 言葉と同時に、呼吸が変わる。深く、そして重く響き。それはまるで、雷が集中して渦巻くようだった。

 足下が弾けると同時に、炭治郎の目から景色が消え去る。全くもって目で追いつかない速度。彼にできるのは振り落とされないよう、しっかりと抱きつくことだけだった。

 

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。