獪岳と善逸 作:山筋
なんでこんな事になっているのだろう。手を縛られ目隠しされ、さらに背負われた状態で炭治郎は考えていた。
那田蜘蛛山での一件後、炭治郎は拘束を求められた。訳が分からず最初は反発していた。禰豆子の処遇がどうしても怪しいからだ。だが、隠のあまりな必死さに炭治郎が折れ、偉い人に直接直訴するいい機会だと割り切った。
こんな状態ではあるが、概ね自分がどのあたりの土地にいるかは分かっている。走った距離は時間で、方向は匂いで判断できるからだ。本部を隠すための処置なのに、行程が分かってしまったら意味が無いのではないか、と隠に離そうとしたが、そのたびに烈火の如く怒られたので諦めた。
もし禰豆子と離されでもしたら抵抗しただろうが、今のところそういった様子はない。扱いも丁重であり、暴れる理由はなかった。
(そろそろ半日なんだけど、ここ多分町の片隅だよな)
ぼんやりと遠くから、無数の人間匂がする。
まあ、町のど真ん中に連れてこられる筈もないか。黒装束に頭巾まで被った人が、拘束された人間を背負って走っている。傍目には、どう控えめに見ても人攫いだ。
隠しの足は速かった。小耳に挟んだ会話で、隠は隊士候補の中でも、剣才に恵まれなかった者がなるという。つまり、全員とは言わないまでも、呼吸そのものは会得していた。人を抱えて半日走るくらいは炭治郎でもできる。ということは、概ね全ての隠が同じ事をできると思っておいた方がいい。鬼は倒せないだけで、精強な集団だ。
もっとも、この隠は本部の直属だろうから、彼らだけが特別に数段上の実力を持っている可能性もある。鬼殺隊の本部は隊士にも知らされていない。自分たちだけならばともかく、獪岳も知らないというのだからかなり徹底していた。鬼の襲撃を回避するための措置なのは考えるまでもない。
(目的地……ここかな?)
森の匂いが遠ざかる。と共に、古く大きな屋敷の匂いへ真っ直ぐ進んでいた。
隠が塀を跳び越えて、誰にも見られぬよう中に入り込む。表門は通り向きにあり、裏口の匂いもしなかったためこういう形になったのか。
砂利の匂い香る庭らしき場所をいくらか進んだ先、八人ほどの匂いがする場所で炭治郎は落とされた。
「おら、着いたぞ」
「いてっ」
目隠しを取られる、と同時に頭も叩かれた。なんでだか、炭治郎はこの隠に嫌われていた。
いや、視線が厳しいのは彼に限った話ではない。鬼にされてしまった禰豆子を連れていると知られた瞬間から、鬼殺隊全員から異様な目で見られている。態度を変えなかった善逸や伊之助、獪岳が特殊なのだろう。今度会ったら、改めて感謝しなければいけない。
「あの……ここは?」
「貴様が知っていい事ではない」
きょろきょろと周囲を見回しながら呟くと、木の上に転がっている、自分より幾分か小柄な男にすげなく答えられる。というか否定される。ついでに蛇のように睨まれさえした。あまりと言えばあまりな対応に、思わず気後れする。
この中で知っている人は二人だけだった。胡蝶しのぶと、冨岡義勇。後は知らないが、共通するものはあった。とんでもない強者の気配。恐らくは全員が全員、獪岳と同等かそれ以上の使い手だ。
(『柱』……)
ふと思い浮かんだのは、かつて獪岳が語った単語だった。
鬼殺隊の要にして最高戦力。総数は九人だと聞いていたが、ここには八人しかいなかった。とはいえ、欠員が出ない筈もなく、常時九人いるものでもないだろう。今代は八人というだけかも知れない。
「炭治郎君、炭治郎君」
呟かれ、はっと顔を向ける。しのぶが、相変わらずの優しげな、しかしどこか怒りの匂いを漂わせて、こちらに語りかけてきた。
「君はこれから裁判を受けるんですよ。不本意ではあるかもしれませんが、鬼に与することは、ましてやそれが鬼殺隊隊士ともなればそれだけ重要な事なんです」
言葉は穏やかだったが。しかし、端から見ても彼女の目には険が刺していた。こちらに対しての怒りではない。その向こう、鬼に向いている。
彼女を皮切りに、柱と思わしき者達が口々に言った。
「裁判など必要あるまい! 鬼は即処罰、少年には切腹か斬首かを選ばせる! これで解決ではないか!」
「誑かされたか……ああ哀れな。確か鬼は妹だという話だったか。なんとか彼を生かせぬものだろうか」
「そりゃ派手に無理ってもんだぜ悲鳴嶼さん。さすがに隊律違反は庇えねえ」
「あの……でも、人を惑わせる血鬼術を使う恐れあり、なんですよね? そのせいでという事はないんでしょうか。確か那田蜘蛛山にいる鬼も似たような力を持っていた、ですよね、しのぶちゃん」
「根本的には違うようですけどね。あちらは体だけを操り、精神面に変化はありませんでしたし」
「…………」
「ごちゃごちゃ話すような事か? どのみち鬼の手に落ちる程度の間抜けなのだ、斬ってしまえばいい。そこら辺どうなんだ、なあ阿呆の冨岡」
「……俺は阿呆ではない」
わいわいと話す七人に、何故か一人だけ遠くでぽつんとしている義勇。これが平常運転なのか、そのことについて指摘する者はいない。
と、炭治郎が戸惑っている事に気がついたしのぶが、こちらに言ってきた。
「急にこんな事言われてもよく分かりませんよね。私たちは柱で、順に煉獄杏寿郎さん、悲鳴嶼行冥さん、宇随天元さん、甘露寺蜜璃さん、時透無一郎さん、伊黒小芭内さんです。私と冨岡さんの紹介は要りませんね。あと、少しばかり到着が遅れていますが、不死川実弥さんがいます」
「は、はあ」
勢いに圧されて、冴えない言葉しか出てこない。
幾ばくかぼんやりその光景を見ていたが。やがてはっと気がついた。この場で議論されているのは、炭治郎と禰豆子の処遇だ。
自分はまだいい。戦う覚悟も、死ぬ覚悟もできている。
だが、禰豆子は違う。訳も分からぬまま鬼にされ、人を食う本能を植え付けられてもなお必死に抵抗しているのだ。妹を人間に戻す。その僅かな希望に縋って、炭治郎は鬼殺隊に入った。妹だけは、絶対に死なせない。
「その、俺たちは血鬼術でなんて操られていません! 禰豆子の血鬼術は炎を出すものです! それに、禰豆子は人を食べません! 今までも鬼を倒す手助けをしてくれたし、ずっと人間のために戦ってきました!」
「ここまで来るとすがすがしい頭の悪さだな。その鬼が人を食っていないように見せかけているだけだったら? 貴様の見ていない所で喰っていたら? 自分でもしもの責任も取れないことをぐだぐだと抜かすな」
真っ先に反発していた男、小芭内が告げる。彼の様子に、なんでだか蜜璃が胸元を押さえてときめいていたが、これはよく分からないので放置する。
指摘に、炭治郎は絶望的な気分になった。
禰豆子は確かに人を食っていないし、それどころか傷つけもしない。炭治郎だけに止まらず、幾度となく人を助けた。絶対的な人類の味方だ。しかし、確信はあっても、それを証明する手立てがない。
「おい胡蝶、血鬼術についてはなんか知ってるか?」
この中で二番目に背丈の高い男、宇随天元が問いかけた。二番目と言っても、一番が規格外なだけで、彼も十分に日本人離れしている。
「血鬼術の詳細については、私は見てないので分かりません。でも接触ある人間を見た限り、冨岡さんも含め、かい……甲一名、癸二名全員、特に違和感ある様子はありませんでした。鬼を運んだ隠についても特に変な様子はなく、血鬼術で操られていたという線は薄いのでは、と思っています」
途中、獪岳と言おうとしたのだろうが。名前では伝わらないと思い直し、階級呼びに変えたようだ。
「では自発的に四人もの人間が鬼に与したというのか? 俄には信じがたいな!」
「これは私見なんですが……どうもこれまでは炭治郎君に接触する人は、鬼に恨みがない、もしくは恨みが薄い人で固められていた節があります。でなければ癸二人はともかく、甲の人選はさすがに不自然かと」
「甲の者は、鬼に恨みがないと言うのか?」
言葉に、行冥が疑問符を浮かべる。顔こそしのぶに向いているが、目の焦点は合っていなかった。いや、これは極端に視力が低いのか、もしくは見えていない。
「同期なので、その点に関してはいくらか話したことがあります。本人は鬼に襲われた事こそあるものの、特に思うところはないと。鬼殺隊に入ったのも、自分を拾ったのが育手だっただけで、後は流れでこうなったと公言しています」
「いやまあ、確かにそういう奴もいるだろうけどよ。地味なんだか派手なんだかよく分からねえな」
「ふん。どのみち鬼に絆された時点で処刑だ。それで、なぜその愚かな甲はここにいない?」
「任務で京都に飛ばされました。罰と言えばまあ、それが罰になるのかなと」
「甘い、甘いぞ胡蝶。柱であるお前がそんな事でどうする。落とし前はきっちりつけるべきだ」
「さすがに本部の命令を覆してまで連れてはこれませんよ」
ねちねちした小芭内の物言いに、しのぶは苦笑して一つ一つ丁寧に答える。
と、そこではっとしたように蜜璃が声を上げた。
「そう、本部、というかお館様の指示なんですよね。その場で倒せというのではなく、鬼――禰豆子ちゃんごと連れてくるようにって。意図は分かりませんけど、さすがに私たちだけで処遇を決めてしまうのは問題かと……」
その場にいたほぼ全ての人間が反応を示す。お館様というのは分からないが、彼らの様子から、その存在の大きさはなんとなく測れた。
「下手に手を出す訳にはいかぬか! これは中々に難題だな!」
「結局は、直接お言葉を授かるしかねえって事か」
何も解決したわけではない。この後の展開によっては、禰豆子の処分が決定する可能性すらある。だが、ひとまず命は繋がった。そのことに、炭治郎はほっと吐息を漏らす。
安堵も束の間、炭治郎が連れてこられたのとは反対側、つまり正門の方から騒ぎが聞こえてくる。人数は三人らしい。が、僅かに使い込まれた古い檜と漆の匂いが漂ってくる。この匂いは、間違いなく禰豆子が入っている筺のものだ。
「おい、雁首そろえてどういう事だァ?」
「やめて下さい風柱様!」
「と、とりあえず筺を置いてください!」
やってきたのは、隠二人と、全身傷だらけでひたすら目つきが悪い男だった。今までの情報に当てはめるならば、彼が不死川実弥だ。
妙な人、それが炭治郎が真っ先に感じたものだった。
柱という人達は、総じて血の匂いが濃い。これは、それだけ鬼を倒してきたという事なのだろう。だが、実弥のそれは他の人と比べても一際だった。しかも、その大部分は鬼の血ではなく、本人の血。傷口から漂う、血液に含まれるそれとはまた別な鉄の匂い。恐らくは自傷した結果だ。加えて、彼自身の血の匂いもどこか妙だ。こう、と明確に指摘できないのだが、とにかく普通の血とは別の香り。
そして、心から漂っていた。深い怒りと悲しみと、深い絶望の匂い。鬼殺隊なら誰しもが大なり小なり持っている(善逸や獪岳のような例外もいる)が、実弥のそれは一等強かった。
男は、炭治郎が知る限り最も目つきが悪い獪岳と比べてもなお鋭い目で、睨み付けてきた。
「てめえかァ? 件の馬鹿助はァ」
「件の、というのは分かりませんけど、禰豆子を連れていたのは俺です」
真っ直ぐ答えると、実弥の目つきはさらにきついものになる。
「そうかァ。まあ、てめえは後だァ。まずはこの鬼を処分しなきゃなァ」
「! 止めなさい不死川さん!」
しのぶが叫ぶより先に、炭治郎には彼が何をしようとしているのかが分かった。筺ごと、禰豆子の頚を斬ろうとしている。
考えるより早く、炭治郎は駆けだしていた。腕は縛られたままなので、上手く加速できない。それでも無理に足へと力を送り込む。そしてとにかく全力で、銀の軌跡と筺の間に割って入る。
「なぁッ!」
驚きに、実弥の剣が緩んだのが幸いした。素早く頭を滑り込ませ、刃に思い切り噛みつく。
歯を伝ってくる重たい衝撃と、いくらか遅れてやってくる鋭い痛み。唇まで切られたのだろう。だが、どうでもいい。妹を死なせない為ならば、どんな代償だって厭うはずもなかった。
「テメッ……! 頭イカれてんのかアホがァ!」
焦って刀を引かせながら、実弥が怒鳴りつけてくる。
口の中に広がる、不快な血臭。それを吐き出すようにしながら、炭治郎は絶叫した。
「至って正気だ!」
「どこがだボケェ! 命をかけてまで鬼を助ける馬鹿がいるかァ!」
「鬼を助けたんじゃない! 妹を助けたんだ!」
言葉に。なぜだか、彼はたじろいでいた。
理由は分からない。分かって貰えないかも知れない。分かり合う時など永遠に来ないかも知れない。それでも、炭治郎は喉が張り裂けそうな程に叫ぶ。
「俺は! 弱くて間抜けだった! だから自分がいない間に家族を全員殺されて、禰豆子は鬼にされてしまった! でも、鬼にされてまで禰豆子は耐えてくれた! 鬼の心をねじ伏せて、人を食わずに人を助けてくれた! だったら兄の俺が命くらい張らないでどうするんだ!? 兄は、後から生まれてくる弟妹を助けるために先に生まれるんだ! 一度失敗してしまった! だからもう、俺は二度と失敗しない! 後悔しない!」
半ば涙を流しながら、炭治郎は吠え続けた。
実弥は、明らかにたじろいでいた。柱ほどの力の持ち主が、炭治郎程度に気圧された訳はない。だからと言って、彼のどこに何が触れたのかも分からないが。
「竈門少年!」
後ろで声が聞こえた。
振り返ると、煉獄杏寿郎が腕を組んで立っていた。
「俺は鬼を認めないし、許すつもりもない! 当然君の行いもだ! しかし、俺にも弟がいるから気持ちは分かる! 君の思いだけは認めよう! 後は口先だけではないことを証明してみせるんだ!」
言い終えて、視線を実弥の方へと変える。
「不死川、それでどうだ? 君だって、少年の気持ちが全く分からない訳ではあるまい!」
それはどういう意味か、と聞く前に。
「ふんッ!」
「ぶへっ! っだぁ!」
いつの間にか刀を収めていた実弥に顔面を殴られ、ついでに尻を蹴飛ばされた。かなり手加減がなく、鼻血が思い切り吹き出る。ついでに尻餅をついた時、丁度殴打された場所から着地し、そちらもかなり痛かった。
大雑把に彼の実力が獪岳と同等と考えると、今まで理不尽すら感じていた獪岳が、どれほど手加減してくれていたかがよく分かる。少なくとも彼は、ギリギリ反応できる程度に抑えられていた。
痛みで視界が点滅する炭治郎に、今度は視界の全てが染められる。それが禰豆子の入った筺だと気がついたのは、顔面に強烈な接吻を交わし、地面の上で一回転した後だった。
「いたた……」
全身が痺れるように痛いし、とりわけ首はむち打ちになっている。危険信号を訴える体を、手が使えない状態でなんとか起こす。顔を上げた時には、実弥はもう、柱が並ぶ方へと歩いていた。
炭治郎が起きたのと同時に、彼は視線だけ向けて吐き捨てた。
「言っとくが、俺はテメェを認めちゃいねェ。ただお館様に判断を任せるだけだ、分かったなァ!」
「あ……ありがとう、不死川さん!」
「認めてねえっつってんだろうがァぶっ殺すぞォ!」
怒鳴られてしまうが、それでも炭治郎は笑みを浮かべた。匂いからはもう、殺意に限りなく近い敵意は感じない。
他の柱は、承服しかねるか興味ない顔ばかりだが。いずれ分かって貰おう。結果を出せば、自ずと理解してくれるはずだ。なんだか一人、甘露寺蜜璃だけは妙にほっこりした顔でこちらを見てくるが、これはちょっと意味が分からないが。
腕を使えないというのは初めての経験なので、そこそこ苦労しながら姿勢を直そうとする。手をつけないとうのは、思いのほか不便だった。
えっちらおっちら、遅々と体を動かしていると、急に襟首を引っ張られる。立たせてくれたのだ、と理解したのは、音もなく横に立っていた伊黒小芭内と視線が合ってからだった。
やり方は乱暴だし、当り前のようにこちらを認めてくれた様子もない。視線は鋭く、許されるなら今すぐ殺したいと饒舌に語っていた。だが同時に、絶対に手を出してこないという妙な気配も感じる。
きょとんとしている炭治郎に、小芭内が手を伸ばす。
「っつ」
親指が、少しだけ頬に触れた。切り口付近に、血が付かないよう避けながら、裂け目を確認している。触れられた事と時間経過で、熱した鉄の棒を当てられたような痛みが切り口近辺から発生した。指は傷口に触れてはいないものの、近くに触れて肉を動かしたので、刺激が響いた。
小芭内はしばらく断面を観察し、小さく鼻を鳴らした。
「出血ほど深く斬れてない。断面が鋭いのも、さすがは不死川だと言った所か。これならすぐ縫えば目立たない程度まで戻るだろう。おい、お前たち。とりあえず止血だけしてやれ。治したいなら、後で胡蝶にでも頼め」
「はっ」
隠が寄ってきて、布を固定される。紐で頭を一周されたので、顎を動かしにくい事この上なかった。
「あの、伊黒さん、ありがとうございます」
「黙れ。下らん事で傷口を広げようとするな。それに、お館様の指示があれば、俺がすぐ鬼もろともお前の頚を落としてやる」
険に染まった視線は、わざと作ったものだとすぐに分かった。完全に作り物という訳ではないが、見た目ほどの強さはない。
短時間だが、柱という人達について、いくつか分かったことがある。これは当然だが、全員異次元としか言い様がない程強い事。鬼殺隊の中でも飛び抜けて、鬼に対して容赦がない事。しかしそれ以上に、皆が皆、優しい事。
なんとなく、この人達がなぜ柱なのかが分かった気がした。
「お話は済みましたか?」
小芭内が戻った所で予想外の方向から声を掛けられ、炭治郎はびくりとした。
屋敷の方を見る。いつの間にか、着物の女の子二人が襖の前で座っていた。
(いつの間に?)
匂いも気配もなかった。
いや、どちらも存在はする。そこにいると分かれば、確かに気配も匂いも感じ取れた。逆に言えば、存在を教えて貰うまでは感知できないという事なのだろうか。
そんなことがあり得るのだろうか。鬼にも、上手く痕跡を隠すような存在はいた。かつて戦った鬼のように、匂いすらも血鬼術で隠蔽するような奴が。しかし、そこにいる事が
(多分、人となりそのものが恐ろしく自然なんだ。どれだけ気を張っていようと、そこにいる事が当り前だと思わせる程に)
予想を立てておいて、しかし炭治郎は信じがたかった。
意図しての行為かどうかは分からない。だが、どちらであったとして、鬼よりよほど化け物じみている。
世界は広く、そして深い。炭治郎程度の矮小な考えなど、簡単に超えるような力を持った者がいる。誰かの思考以上の事など、世界のどこかでいくらでも起こっているのだろう。鬼も、鬼殺隊上層部も、その一部でしかないのかも知れない。
「お館様のお成りです」
二人の少女が、静かに襖を開けた。
出てきたのは、静謐という言葉を具現化したかのような男だった。動作から仕草から人格から、全てに至るまで極端に穏やか。彼の様子は、千年を経た大樹を思わせる。顔立ちも極端に整っていた。
それだけに、これは病なのだろうか、顔半分を覆う腫瘍が痛々しい。まるで浸食でもされるように、歪に膨れて変色している。そのよく分からない病に飲まれてなのか、瞳も濁っていた。焦点が合っておらず、恐らく視力が極端に悪い。それこそ、行冥とどちらがまだしも見えているかと比べる程だろう。
炭治郎がある種の超人である男に呆けている間に、柱は全員一列に並んで跪いていた。そして、全員が見惚れていた炭治郎を睨んでいる。というか正直、禰豆子を庇った時より殺意が強いのではなかろうか。
あわわ、と慌てながら、炭治郎はとりあえずその場で正座した。なんとなく、柱の隣に座ってはいけない気がしたので、移動はしない。
とりあえず正解だったようで、炭治郎から視線は外れる。直後に、行冥が代表して声を上げた。
「ご勇健で何よりです、お館様。我ら一同もお館様がいらっしゃればのもの、伏して、さらなるご健康をお祈り申し上げます」
「ありがとう、行冥。私も無事、“柱合会議”を開けたこと、嬉しく思うよ。よく一人も欠ける事無く揃ってくれた。私の
「勿体なきお言葉です」
短い会話に、しかし炭治郎は不思議な安心感を味わっていた。
妙な感覚だ。
お館様なる人物からは、全く力の匂いが感じられなかった。隊士は言うに及ばず、恐らく平均的な成人男性よりも極端に弱いだろう。しかし、挙動の一つ一つ、言葉の一句一句に安らぎを感じる。
逆の形でそれを味わったことはあった。冨岡義勇、鱗滝左近次、獪岳、あと最近では胡蝶しのぶ。全員が、その力強さ故に安堵を与えた。しかし彼は違う。言い方は悪いが、庇護の対象であるにも関わらず、頼りたくなるような魅力がある。初めての感覚だ。釣り合いが取れなさすぎて、違和感すら感じる。
「さて、柱合会議を始める前に……皆も気になっているだろう、竈門炭治郎および竈門禰豆子についての話だね」
「はっ。差し出がましい真似をして恐縮でございますが、状況から判断するに、お館様は鬼をわざと見逃していたとしか思えませぬ。我々柱一同、お館様に尽くす心に変わりはございませぬが、さすがにこれは理解しがたく、また容認しかねます。聞けば、隊士四名もが鬼を認許、ないしは沈黙していたとの事。これが血鬼術の力であるならば、恐るべき脅威です。いざとなればお館様の御心に反してでも討伐すべき、と考えております」
代表した悲鳴嶼行冥が、すらすらと答える。言葉に同調するように、天元、小芭内、杏寿郎、実弥が続いた。
「俺も悲鳴嶼さんに賛成だ。最悪、今この瞬間もお館様が操られてる可能性がある。隊士の方は、まあまあ派手に気合いの入った野郎だ。生かしてもいい」
「どちらも斬首に決まっている。そもそも鬼を庇うという時点で論外だ」
「竈門少年はともかく鬼は始末すべきだ! 人を惑わす血鬼術ではないと仮定しても、鬼を生かす理由にはならない! 百害あり得ても一理ある事などないと進言する!」
「……百歩譲って竈門炭治郎は見逃してもいいです。しかし鬼となれば話は別、即刻の処分を願います。あと冨岡にも厳罰を。何なら死んで貰っても構いません」
流れ弾を喰らった義勇が、愕然としながら実弥を見た。吐き捨てた張本人は見向きもしないが。
残りの者は何も言葉にしなかった。様子を見るに、蜜璃と無一郎は中立。しのぶは言葉にこそしないが、態度は不服である事を語っていた。義勇は……正直よく分からない。かつて炭治郎の恩人であり、先の戦いでも禰豆子を助けてくれた。敵対的だとは思いたくないが、匂いからも判断できないというのは中々難しい。
「君たちの言うことももっともだ。では、ひなき」
「はい」
ひなきと呼ばれた少女は、手元に用意してあった紙を広げた。彼女からもまた、お館様ほどとは言わないが、形容しがたい魅力がある。
「こちらは、元柱である鱗滝左近次様より上奏頂いたものです。時節の挨拶などは省略させていただき、要点をかいつまんで語らせていただきます」
前置きして、読み上げ始めた。
それは簡潔に言えば、嘆願書だった。禰豆子を認めて貰う為の。
禰豆子が二年以上も人を食っていない事。飢餓状態でも人に手出ししない事。恐らくは睡眠で、本来食事で得られる栄養を代替している事。そして――もしも禰豆子が道を違えた場合、炭治郎のみならず、左近次と義勇すらも、腹を切って詫びる事。
いつの間にか、炭治郎の瞳からは涙が溢れていた。自分以外にも、こんなにも禰豆子を大事にしてくれている人がいる。信じてくれている。命まで、かけてくれている。まだ何も成し遂げていない。なのに、たったそれだけで、救われた気がした。
だが。当り前に、それで納得してくれる筈もなかった。
「命をかけたらどうなると言うのですか。鬼が人を食わなくなるとでも? それなら鬼殺隊など、最初からいりません」
「俺も不死川に同意です! これから失われようとする命と、今口先だけで掛ける命が釣り合うはずありません!」
吐き出される強い拒絶反応は、その場にいるほぼ全員の気持ちを代弁したものだろう。それこそ、中立を保っている蜜璃や無一郎、好意的な義勇すら否定できまい。炭治郎自身、鬼になった者が妹である事、かつて出会った鬼舞辻無惨と敵対する鬼、珠世と愈史郎に出会ってなければ信じ切れた保証はない。
「確かに、この一筆だけで禰豆子が人を襲わない証明にはならない。しかし、襲うという証明も、またない」
「詭弁です! 仮に今まで本当に人を喰ったことがないとして、これからもそうであるとは思えません! 命は失われれば戻らない! 被害者が出てからでは遅いのです!」
真っ先に、実弥が食ってかかった。それこそ目を血走らせながら。
気持ちが分からない、などと言うことはできない。鬼殺隊はいつだって後手であり、同時に手遅れの状態でしかたどり着けないのだから。被害が出るまで、そこに鬼がいると分からない。できるとすれば、それは炭治郎や善逸のような超感覚を持った者だけだろう。それですら、被害に先制できた例はない。
空気は完全に禰豆子滅殺だった。いや、最初からそうだったのを、変えられなかったと言うべきか。
(何か……今こそ何か言わなきゃいけないのに!)
炭治郎は歯噛みしながらうつむいた。こんな時、はったりでも何でもいい、とにかく何かが言えるほど頭の回転が速ければよかったのに。
嘘は苦手だ。ましてや根も葉もない欺瞞などさらに。
敗北が迫り、急ぐ気持ちを抑えきれない。しかし同時に、どれだけ思い悩んだ所で解決策がない事も分かっている。
「困ったな」
などと言いながら、全く表情を変えずに、お館様。
「彼女を肯定する側は、命を掛けている。否定するなら同じだけの何かを掛けて欲しいと考えているが……しかし、釣り合いが崩れたときには手遅れというのも一理ある。どうしたものかな」
実際の所はどうか分からないが、顎に指を当てて悩むような仕草を見せ。
その様子に、義勇がはっとした。懐を探り、小さく折りたたまれた紙を取り出した。あれは確か、獪岳が預けた『保険』だ。当人が急ぎ任務にかり出された上、炭治郎も説明無くこの場に連れてこられたので、中身が何か知る機会もなかった。
義勇が軽く目を通す。そして、小さく目を見開いた。時間的に、確認できたのは序文程度の筈だが。
「お館様。この場にて意見することを許していただきたく存じます」
「義勇がかい? 構わないよ、言ってごらん」
彼の挙手は少々予想外、という様子を見せながらも、発言を認める。
義勇は紙を広げて、内容を読み上げ始めた。その書類が何なのかと疑問に思う者も少なくない。
「竈門禰豆子は稀少な存在であります。鬼と敵対するだけならまだしも、明確に鬼殺隊へ与しながらも鬼舞辻無惨から
すらすらと読み上げる義勇に、皆は一様に驚愕の顔を見せた。一部は内容の正当性にだと匂いで分かる。が、もう片方は、よく読み取れない。
「冨岡、お前すらすらしゃべれんじゃねえか。なんでいつも地味に黙ってやがる」
さすがに失礼ではないだろうか。
義勇から傷ついた匂いが漂ってきたが、それでもなんとか彼は続けた。
「鬼舞辻無惨にとって竈門禰豆子が邪魔な存在である場合、こちらで囲う価値があります。もしもの時、対鬼舞辻無惨の切り札となるでしょう。もしやすれば、上弦の鬼を迎撃する好機ですらあるかもしれません」
「あァ!? もしクソの無惨に良い何かだったらどうする気だテメェ!」
「同時に、鬼舞辻無惨にとって都合がいい存在であった場合、これこそなお好都合です」
「っ……!」
被せる事を意図した訳ではないだろうが。実弥の言葉を、義勇は真っ向から否定した。
「竈門禰豆子が奴の求める何かに成った時、必ず鬼舞辻無惨
ここまで語られ、全員が沈黙した。それこそ、変化らしい変化がないのは、お館様くらいだ。穿ちすぎかもしれないが、あるいはお館様は、既にそこまで考慮の上だったのかもしれないとすら思える。
「どちらでもないならば、それこそ人を喰わぬ鬼というだけの話。存在しようがしまいが、声を荒らげる程の価値はございません。仮に人を喰った場合、最初の被害者は一番近くにいる竈門炭治郎となるでしょう。隊士であれば命の覚悟もあるはず。その後は粛々と、隊則に則って処理をすれば終わる話ではないでしょうか」
どこからも反論は出なかった。皆の頭によぎったのだ。もし言うとおりだとしたら、という考えが。
十二鬼月にこちらの都合がいい場所で挑める。これだけでも魅力的な話だ。少なくとも炭治郎程度の、十二鬼月の討伐が限りなく不可能な程度の力しか無い者の場合、地の利を得られる事は何にも代えがたい。倒せる可能性が一厘でも増えるならばそうするべきだ。
しかも鬼舞辻無惨を呼び込める可能性があるというのは、それこそ麻薬のようですらある。彼を倒せば全て終わる。始まりの鬼にして、鬼の首魁であり、鬼という種族そのもの。奴に集中できるかもしれない未来を捨てるというのは、あまりにも惜しすぎた。
論じていた義勇は、粛々と締めの言葉を発する。
「――とでも言っておけば、言い訳は立つだろ。後は上手く使え」
と、終えて。
今までとは別種の沈黙。柱達が震えている。この、全員が圧倒的な実力と鋼鉄の精神を持つ選りすぐりの剣士たちがだ。
義勇は俯き、やや顔を赤らめながら呟いた。
「最後のはなしで」
「ブフッ」
最初に耐えきれなくなったのは、蜜璃だった。口元を押さえて、なんとか吹き出る息を止めようとしている。だが、後から後からこみ上げてくる衝動に負け、何度も噴き出している。
釣られるようにして、耐えきれない者が続出した。
「ふっ……ふぐっ……!」
「ひひっ、お前、そんなところまで読まなくてもよ」
「ぐっ、ごふぅ……何も考えずに読むんじゃねえよ、腹痛ェ」
「……ふふっ」
それぞれが爆笑と含み笑いの狭間にいる中、お館様だけは小さく、微笑ましそうに笑っている。
義勇は空気に負け、首まで真っ赤にして顔を押さえ、かがみ込んでしまった。
彼はいろんな意味で、場の雰囲気をひっくり返した。意図した形では全くないだろうが。正直なところ、炭治郎の腹も引きつっていたが、さすがに庇われた状態で笑うのはあり得ない。頑張って息を止め、ギリギリの部分で踏ん張っていた。別の意味で涙が漏れる。
が、それもお館様の次の言葉で一瞬にして消えた。
「それにね、炭治郎は鬼舞辻と接触している。人喰を必要としない鬼と鬼舞辻。果たしてこれは偶然かな? 私は、運命だと思っている」
「はっ……あ?」
愕然と、声が詰まった。
柱達が顔色を変えて、炭治郎を質問攻めにする。いきなりあまりに多くの事を投げかけられるので、聞き分ける事すらままならなかった。
慌てふためく彼を庇うように、お館様は静かに人差し指を口元に置く。ただそれだけの動作で、全員が一瞬にして黙った。
「しかも鬼舞辻は、彼に向かって追っ手を放っている。理由は分からないし、知る術もない。しかし少なくとも、奴は行動を起こしてしまった。自ら炭治郎か禰豆子、そのどちらかを無視できないと証明してしまったんだ。私はこの機を逃したくない」
上げた手を膝の上に戻して、続けられる。
「鬼舞辻が現れた浅草の件に関しては、こちらも大筋を把握している。炭治郎には治療と日輪刀の打ち直しも兼ねて調書を取るから、後から情報共有しよう。義勇……というか彼に話を持って行った隊士の意見は私ももっともだと思っているよ。これが、鬼でありながら禰豆子を見逃している理由だ。それぞれ思うところはあるだろうが、どうか飲み込んで欲しい」
「っ……承服しかねます! ならばせめて、一つだけ試させて下さい! 失礼!」
瞬間、実弥の姿が消えた。どこに行ったのだろう、と思いながら視線を巡らせる。
彼はいつの間にか、屋敷の中にいた。禰豆子の入った筺を持って。
驚愕しながら振り返る。背中に庇っていた筈の筺は忽然と消えていた。気配は全く感じなかった。それどころか、違和感すら感じていない。ただ早いだけではなかった。どれだけ精緻に、そして周囲に影響を与えぬよう繊細な動きをしたら、こんな真似ができるのか。
理解の及ばない事だらけだが、今はそれを気にしている場合ではない。炭治郎は泡を食って止めに入った。
「何をする気ですか!? 禰豆子を返して……」
「炭治郎君」
言葉を柔らかく、しかし分厚い鉄板のように重く遮られる。
胡蝶しのぶが、相変わらず表情だけ柔らかく、こちらを見ていた。
「真に妹を信じるならば、これくらいの事は耐えなさい。できないなら、私も君を認めませんよ」
「っ……!」
上げた足の行き場を無くし、そのまま静かに下ろす。つま先が草履の上から、強く地面を噛んだ。
実弥は箱を開け、禰豆子を引っ張り出す。体を小さくし、十歳くらいの体躯になっている少女が、襟首から吊り下げられて、迷惑そうにしていた。さらにそのまま落とされ、嫌そうに眉をひそめる。
子供の様子など無視して、実弥は刀を引き抜いた。
もしここで、僅かでも禰豆子に斬りかかる様子を見せれば、炭治郎はたとえ誰に非難されようとも、彼を止めに入っただろう。しかし、その刃が向かった先は妹に対してではなかった。おもむろに左腕を上げると、その傷だらけの腕に、新たな一筋を加える。
何のつもりかと、最初は意味が分からなかったが。次の瞬間、鼻に強烈な匂いが漂ってきた。ただの血の匂いではない。近い物を上げるとするならば、そう、前に嗅いだ稀血とかいうものに似ている。ただし、あれよりも数段香りが強く、まるで鼻腔を突き刺されるようだ。
禰豆子の表情は変わらないが、しかし竹の端から、小さく涎を垂らしていた。ただの血どころか、今まで稀血にも反応しなかった彼女がだ。つまり彼の血は、鬼にとってそれほど『おいしそう』なのだろう。
「おら鬼ィ! 餌の時間だ、どうすんだァ!」
禰豆子はきょとんと、実弥の顔と腕の傷を交互に見比べる。
やがて、着物の端を引き裂き始めた。動いた瞬間、いつでも首を飛ばせるようにと構えていた実弥の腕が、ぴくりと動くが。結局、振り下ろされる事はなかった。
細く裂かれた布が、実弥の左腕に巻き付けられる。丁度、傷口を綺麗に押さえる形で。最後に結び目を作って、傷口の上あたりを優しく撫でた。
実弥の表情が歪む。その中には、一体どんな感情が渦巻いていたのだろうか。恐らくは本人でも表現しがたいものだと語っていた。やり場のなさを腕の震えに蓄えて、ついぞそれを発散することなく、鞘の中に収める。
禰豆子が腰に手を当てて胸を張る姿に、実弥が吐き捨てた。
「なンだよ」
「褒めてって言ってるんですよ」
「ケッ」
屋敷の中でなければ痰でも吐きそうな様子で、少女の頭を叩いた。
とてもいい対応とは言えないはずだが、彼女の顔は妙に満足げだ。
彼が斬らなかった時点で、炭治郎はこの未来を分かっていた。そうだよな、と思う。禰豆子はいつだって、家族の事を考え、誰かの為に動いていた。父の体が弱かった事もあり、傷の手当てなどは重に禰豆子の役割だったのだ。だから、人の心を失っていない妹は、絶対に治療する。故なければ斬られないのだから、必ず無事に帰ってくる。全て分かっていた。
顔を顰めながら、しかし実弥は外へと戻った。膝を突き、頭を垂れる。
「……未だ納得し切れはしませんが、承知はしました。しかし、竈門禰豆子の管理はどうなさるのですか?」
実弥の言葉を皮切りに、各々が意見を出し始めた。
「私は胡蝶の所か煉獄の所が適任だと考えている。他に囲い続けられるような場所というのも思いつかない」
「私の所はちょっと……。何分人の出入りが激しすぎるので」
「俺の家では父上が問題だな! お館様の決定と言えど鬼を見たら切り捨ててしまうやもしれん!」
「いっそ刀鍛冶の里というのはどうだ? 隠蔽という一点に限って言えば、鬼にすら見つかっていない」
「そいつだといざという時に始末できる人間がいないのが問題だぜ。あと、刀鍛冶の里は不定期に所在を変える。移動させるときの手間も地味に厄介だ」
話題に、炭治郎は言葉を迷った。
気持ちの上で言えば、禰豆子と離れたくない。だが安全さえ保証されるのであれば、たとえ分かれてでも囲われた方がいいとも思った。自分の感情論だけで妹を拘束などできない。が、一応の納得を貰えたところで鬼は鬼、自分の見ていない所で何がどうにかなるのではという不安もある。
どちらが正解か。分からない。
不意に、獪岳の言葉が思い出された。選ぶのは己。
選択に後悔しないかどうかなど分からない。だからこそ、より良いと思える物を模索する。一体何を選べば、選択したことを嫌悪せずに済むのか。
喧々諤々とした話を止めたのは、またしてもお館様だった。
「それについてだけど、引き続き炭治郎に見て貰おうと思っている。鬼舞辻は彼らに追っ手こそ放っているものの、その後の様子を見るにさほど積極的ではない。まだその程度の価値しかないんだろうね。善悪どちらであれ、成長、もしくは進化が鍵になる可能性が高い。それを促すには、現状維持が一番だと思うんだ」
言葉に、反論はなかった。決定に従ったというよりは、言葉を遮ってまで言うほど興味が無い、といった様子だ。事実、禰豆子の扱いに関しては私情こそほとんど挟まれていなかったものの、ほぼたらい回しだった。
が、どうであれ、禰豆子と離れなくてよくなった事実にほっとする。一つ、そのために自分が何かしたわけではないというのが口惜しいが。
「炭治郎」
「は、はいっ!」
「これで認められたと思ってはいけないよ」
子供を諫めるような指摘に、思わずぎょっとする。
まるで胸の内を読み取られたように、的確な注意をされた。いや、もしかしたら本当に見えているのかも知れない。炭治郎の鼻のように、善逸の耳のように、伊之助の肌のように。お館様にも何か特殊な感覚があり、それが心を読み分けているのかも。
お館様の顔がこちらに向く。やはり目の焦点は合っていない、目は見えていない筈だ。が、それは物質的なものを透過し、もっと深い本質を覗いているように思える。
「君がまずすべきことは、自分たちに鬼を助けるだけの価値があると証明する事だ。ここにいる柱たちは、言葉を飲んでくれた。しかし他の隊士はそうではない。むしろ、炭治郎を禰豆子ごと嫌悪する者が大半だろう。彼らに認められる為には、君は何もかもが足りない」
「じゃあ……どうすればいいんでしょうか」
――忘れる訳がない。那田蜘蛛山の帰り際、隊士らから集中した、殺意が混じった奇異の目。あからさまに禰豆子を定義したそれ。善逸の(酷い言い方だが、かなり無様な)件がなければ、もろとも斬りかかられていた可能性すらある。
強い鬼、多くの鬼を倒したとはいえ、所詮は“新人としては”という域を出ない。そもそも獪岳に聞くまで、ろくに鬼殺隊の組織構造も理解していなかった。こんな状態で、自分がすべきことなど分かる訳がない。
惑う炭治郎に、お館様は安心させるような微笑みを作る。
「まずは甲を目指しなさい。そして、十二鬼月を倒すんだ。そうすれば、少なくとも鬼殺隊の中で炭治郎と禰豆子の価値は激変する。分かるかい? 誰も聞かなかった君の言葉を、誰も無視できなくなる。価値が生まれるんだ。妹の無事を、自分の手で勝ち取りなさい」
「はい! 必ず十二鬼月を倒して、禰豆子だけじゃない、もう誰も悲しまなくていいようにしてみせます!」
「うん、期待しているよ」
再び笑みを向けられると、炭治郎は顔が熱くなった。
これは一体何なのだろう。敬意ともまた違う。彼には、その感情を正しく言葉にするほどの語彙はなかった。お館様が信用できる事、お館様に信用される事に、大きな胸の高鳴りを覚える。
柱達は、似たものを感じて使えているのではないか。ただの想像でしかないが、間違いだとは思えなかった。
「うん。実弥と小芭内もよく堪えてくれたね。君たちの憎しみは鬼殺隊でも飛び抜けていること、よく理解しているよ。私の勝手な願いに耳を傾けてくれて、本当にありがとう」
「いえ、とんでもございません」
「勿体なきお言葉」
柱の中でも飛び抜けて荒っぽく見えていた二人が、ただの一言で静まる。これが鬼殺隊の頭領。天性の先導者。
獪岳曰く、鬼殺隊には千年近い歴史がある。その間どれだけ死体の山が積み上がったかは、もう考えたくない程だ。炭治郎も、殺されゆく者を無数に見たし、介錯されて逝く者すら目撃した。これだけ死が重なって、なお見限られない本部。歴代がそんな魅力を持っているのだとしたら、鬼に対抗できるのも頷ける。
「では、柱合会議へと移ろう。炭治郎にはここで失礼してもらおうか。しのぶ、頼めるかな」
「承知しました。隠の皆さん、炭治郎君を私の屋敷へお願いしますね」
「はっ。おいお前、背中に乗れ」
と、一人の隠が腕の縄を解き、炭治郎の前で膝を突いた。
ちらりと禰豆子の方を確認すると、筺に戻った彼女をもう一人の隠が背負っている所だった。放置されない事に安心して、炭治郎も隠の背に乗る。
おんぶされると同時に、禰豆子の筺を抱えた隠に、目隠しをされた。既に匂いでここのおおよその位置を把握しているのだが、多分それは言わない方がいいのだろう。主に彼らの心が安寧を得る為に。
隠に連れられすれ違い様、お館様が挨拶でもするような気軽さで呟く。
「珠世さんによろしくね」
「え?」
なんでその名を。疑問に思う。だが、口に出す前に、隠に屋敷の外へと連れ出されてしまった。
珠世と愈史郎。この両者は共に鬼であり、同時に禰豆子と同じく、鬼舞辻無惨の制御下から離れた存在でもある。二人は極めて慎重に身を隠していた。なのに、お館様はどうやって彼女らを捕捉したのだろうか。
いや、本部は炭治郎が無惨と接触した事、その後追っ手を差し向けられた事まで知っていた。ということは、一連の流れをかなり細かく監視していたのだろう。その過程で知られたというのは、確かにあり得ない事でもない。炭治郎の鼻はおろか、善逸や伊之助の感覚まで掻い潜っていたという点を除けば、だが。
(鬼殺隊には、柱すら知らない何かがある?)
禰豆子が知られた時点で柱とは言わずとも、誰も討伐しに来なかったのを考慮すれば、そう考えるしかない。
でも、少なくとも敵ではない。一定の理解は示してくれている。たとえそこにあるのが打算だけだったとしても。間違いなく心強いものだ。
(でも、よろしくって言うのはどういう事だろう)
ただ単に敵ではないという事なのか、それとも彼女らに対しても可能性を感じているのか。偉い人がどこまで考えているかなど、炭治郎に理解できようはずもなかった。
一つ、あの場で何気なく違和感がないように言ったのは、多分真実を誰にも知らせるつもりがないからだろう。であれば、炭治郎ができるのも一つだけ。珠世の存在を絶対に隠しつつ、関係を維持し続ける。
それでいいのだろうかという疑念はあった。もしお館様が自分を買いかぶっていた場合、期待を裏切る事になる。が、さすがにそこまではどうしようもない。
どうであれ、全ては十二鬼月の討伐、そこに収束する。でなければ、お館様の期待へも、珠世との契約も果たせない。
(強く……もっと強くならないと)
炭治郎が唯一知っている甲は(正確に言えば柱は甲の名誉称号らしいのだが、これは除く)、獪岳のみ。あれほどの実力を手に入れるまで、一体どれほどかかるのか。いや、そもそもたどり着けるかどうかすら分からない。
ひとまずは、呼吸と型の精度を上げよう。柱と言えど素の身体能力にそれほど差が無い者がいると分かった以上、違いがあるとすればそこしかない。今までの、なんと己の技術が雑だったことか。
素直に背負われているうち、町の外縁部を半周ほどした所で放り出された。
目隠しを取ると、隠は頭巾を外し、羽織を着ている。装いに黒が目立つものの、さほど違和感のある格好ではなくなっていた。
隠は、言葉を発する代わりに、指で小さく着いてこいと指示してきた。なんとなく返事はためらわれて、小さく頷いて返す。
誰も自分に注意しない町中を、静かに歩く。
目的地に着けば治療して貰える事を思い出し、頬の裂け目が、存在を主張するようにじくじくと痛んだ。