獪岳と善逸 作:山筋
胡蝶しのぶは、静かに少し冷ましたお茶をすすった。
庭を眺めると、いよいよ草木の生命力が頂点に達しようかという頃だ。季節は皐月の半ばを超え、そろそろ水無月が見えてくる。いつも、季節の変わり目を強く自覚するのはこの頃だ。羽織が暑く感じると、夏の到来を知る。
すがすがしくもあり、憂鬱でもある。
かじかむ指を気にしなくて良くなるのはありがたい。鬼の頚を断てなく、全ての型が突き技で編成された蟲の呼吸は、とにかく指先の感覚が命だ。だが、気候の上下が激しくなるこの時期は、体調を崩す隊士が多い。鬼殺隊でも診療を司る胡蝶は、真冬に並んで忙しくなる時期だった。同時に、自身の調子低下に気付かず鬼と戦って、死者が一番増える時期でもある。
まあ、十二鬼月を含む五人もの鬼に敗北したのまでは、さすがに気候や自己管理の至らなさであげつらうのは可哀想だろうが。下手をすれば柱であっても下弦の鬼に不覚を取る。それが十二鬼月なのだから。むしろ被害を最小限に抑えて事を収めた癸三人と獪岳を褒めなければいけない。
柱合会議を終え、しのぶが真っ先に行ったのは人蜘蛛化を解除する薬湯の開発だった。外科そのものは、既に神崎アオイを中心とした医療班に任せられる。だが、さすがに調薬については、しのぶが手放しに信用できるほどの者はいなかった。こればかりは仕方ない。こと薬の調合という一点において、彼女はうぬぼれを差し引いても、鬼殺隊関係無しな不世出の天才なのだから。
治療薬を開発し終えて“カルテ”を作り、それをアオイに渡したのがつい先ほど。那田蜘蛛山への派遣を合わせて都合二晩徹夜をし、やっと得られた休憩だった。もっとも、経過観察があるので長く休んでいられないのだが。
「あの……」
隣から不意に話しかけられた。
湯飲みを置きながら振り向けば、そこには似たような姿勢で縁側に座る甘露寺蜜璃がいる。
「ごめんなさい、しのぶちゃん。お邪魔だったかしら……」
「いえ、そんなことありませんよ。丁度良い息抜きです」
申し訳なさそうにする蜜璃に、しのぶは笑顔のまま答えた。
実際、相手をしてくれるのは有り難い。休みと言っても仮眠を取れるほど時間などないし、甘味まで持ってきてくれた。おまけに眠気覚ましに話し相手にまでなってくれるのだから、これで文句を言えば罰が当たるというものだ。
とはいえ。
さすがに二段もある重箱には、少しばかり思うところがある。一段目には目一杯桜餅が入っていた。二段目には、あんころ餅が入っているのだとか。
彼女が健啖家なのは知っているが、さすがにこの量は面食らう。
少し前、宇随天元が彼女に大食い対決を申し出て、完膚なきまでに負けたという噂が立った。これは根も葉もないのだが、実際に行えば噂の通りになるだろう、と思える健啖家っぷりだ。
不安そうだった蜜璃の表情が華やぎ、嬉しそうにパクパクと桜餅を食べる。見ていて気持ちがいい食べっぷり。釣られるようにして、しのぶも一つ頂戴した。舌に残らない柔らかな甘さは、抹茶と良く合う。これは錯覚なのだろうが、糖分がよく頭に回った気がした。
おやつを取りながら、しばらく雑談が弾んだ。
とは言ってもやはり鬼殺隊であり、話題のほとんどは鬼に関連する事だった。やれ、最近の鬼はどれほどの強さだの、やれ、こんな血鬼術を使う鬼がいただの。ほとんどは本部に情報が上げられ、共有済みのものだ。それでも飽きずに聞けるのは、偏に蜜璃が話し上手なためだろう。
ほとんどの時間、しのぶは聞き手に回っていた。基本的に後ろ向きな考えばかりの者な鬼殺隊において、彼女の爛漫さは貴重なものだ。
話を聞きながら。蜜璃の話がいったん途絶えた所で、ふとしのぶは聞いてみた。
「甘露寺さん、今回の柱合会議、どう思いましたか?」
「え? どうって……」
意味が分からない、と蜜璃は首を傾げ、必死に考えている。
こんな反応だろうな、とは半ば予想はしていた。なので、反応に対して思うところは何もない。
そもそも蜜璃は、鬼に対して何も考えていなかった。これは頭が悪いとか、考えなしとか言う話でない。鬼に対する姿勢そのものが、他の隊士とは違うのだ。
彼女が戦う動機は、はっきり言って鬼殺隊では非常に珍しい。
隊士の大半は、鬼に対する恨みや怒りを原動力にしている。鬼に親兄弟を殺された、もしくは家族や親しい者を鬼にされた。この辺りが、全体の九割近くを占めていた。次に多いのが、代々鬼殺隊の家系である場合。銭稼ぎの手段として割り切っている者も少なくない。今の時代、剣才で稼ごうと思ったら反社会組織に身をやつすか、こういった命がけの組織に投じる他なかった。
そんな者ばかりの中、蜜璃は『お館様への忠誠心』のみで柱にまで駆け上った異色の剣士である。極端な話、お館様の役にさえ立てれば、柱である必要が無ければ、そもそも隊士ですらなくともいい。
根本的に鬼に対する興味がない。そして、お館様に対しても何も疑う事はない。だから、そもそも鬼殺隊のあらゆる事に対して何も考えない。せいぜい仲間を殺させないとか、その程度だろう。これが甘露寺蜜璃という人柄だった。
(これが宇随さんあたりなら、違ったかもしれないけれど。いえ、言葉を飲むという意味では変わらないかしら)
今までも、違和感は多々あった。今回はそれが顕著だったというだけなのだろうと、しぶのは考えている。
お館様……というより鬼殺隊本部そのものである産屋敷家は、鬼に対する憎しみはない。むしろ鬼は被害者の一部であると考えている節すらある。千年にもなる産屋敷の怨念は、全て鬼舞辻無惨ただ一人に向いているのだろう。
害悪にしかならない鬼は逃がさない。ただし、少しでも有用であるならば、すり切れるまで使い倒す。そういった冷静さと冷酷さを持っている。
問題は。
(お館様が何を考えているか、ではない。そもそも、お館様を疑うことに意味などないのだし。知りたいのは、何をどこまで掴んでいるか)
それさえ分かれば、役に立てる事もあるだろうに。
いや、言えない理由というのも十分分かる。どこから話が鬼に漏れるか分からない以上、柱と言えど気軽に通せるものではない。鬼殺隊に知れ渡ってしまったら、というのも問題だ。故あるからと言って鬼を匿うのは、理性では理解しても感情が追いつかない者が大半だろう。もしかしたら士気が崩壊するかもしれない。
(今回禰豆子さんを周知させたのは、さすがに隠しきれなかったから? それとも秘密を投げ捨てるほどの大きな好機だと思ったから?)
あるいは、禰豆子が鬼であるかどうかなどどうでもいいのかも。鬼舞辻無惨の尻尾を掴んだ、そこだけが要なのだろうか。
ただ一つ、産屋敷は時代が動いたと考えている。そのために、信用すら含めて、全てをかなぐり捨てる覚悟すら見せていた。
何かもう少し、手がかりを見せてくれれば役立てる事もあるのだが。この秘密主義こそ、本部が鬼舞辻無惨無惨を甘く見ていない事の証左なのだろう。だが、代わりに柱が取れる手も限られてしまう。痛し痒し、としか言い様がない。
「あの、しのぶちゃん?」
「はい」
思わせぶりに言ったからか、不安そうにこちらをのぞき込んでくる蜜璃。仕草が小動物みたいで非常にかわいらしいのだが、だからと言ってこのまま放置というのは少々非道だろう。
わざわざ余計な事を言って、心労をかける必要はない。大分露骨ではあったが、話題を変えることにした。
「今回の件、獪岳さんは惜しい事をしましたね。鬼を庇いさえしなければ、お給金が上がるくらいはあったでしょうに」
「う……」
言うと、蜜璃は顔を引きつらせて言葉に詰まった。
体を強ばらせて、きょろきょろと辺りを注意深く見回している。庭も屋敷も、隅から隅まで十分に観察した後、おっかなびっくりとこちらに顔を戻す。
「獪岳さんが潜んでたりとか……しないわよね? 私を担ごうとしてる、とか」
「彼は命令で京都に直行しましたよ。鬼はもう倒したと思いますが、戻ってくるにしても二日か三日はかかります。そもそも別の任務に直行させられる可能性の方が高いですし、任務をねじ曲げてまでからかおうとは思いませんよ」
苦笑する。彼女の慌てふためく姿を見られるなら、試してみるのもいいか、などという考えはおくびにも出さずに。
「やはりまだ駄目ですか」
「うん……悪い人じゃないのは分かってるんだけど、どうしても苦手意識が消えなくて」
恥じるように頬を抑えて、蜜璃。
獪岳と、そしてしのぶにとってもだが、彼女は後輩に当たる。といっても、ほんの数ヶ月程度しか違わないのだが。低い階級だというのもあって、最初期は任務で顔を合わせる事が多かった。三人ともトントン拍子に階級を上げたため、顔を合わせる機会はほとんど無くなったが。
獪岳と蜜璃の出会いは、それはもう酷いものだった。
やたらと殺気立っていて誰も話しかけないような状態の彼に、義務感からか声を掛けたのが蜜璃だ。結果はまあ酷いもので、彼女が泣いてもひたすら罵り続けていたらしい。しのぶが合流したのは、苛立ちながら物に当たっている獪岳と、泣き疲れてへたり込んでいる蜜璃がいる場面からだった。
おかげで獪岳という存在そのものが、蜜璃にとって心的外傷となってしまった。
(獪岳さんの行動は全く正当化できませんが、でも、気持ちは分からなくもないんですよね)
持っている側の人間にはけっして分からない、疵と引け目。しのぶと獪岳で一番近しい点を挙げるとするならば、それは年齢でも入隊の時期でもなく、そこだろう。
鬼の頚が切れない女。扱う呼吸で最重要の型が使えない男。共に風当たりは強かった。周囲が思うよりずっと。それ以上に、強い申し訳なさがあった。自分であれば姉のカナエに、獪岳ならば多分師匠に。
蜜璃が彼と出会ってしまったのは、彼の心の均衡が最も崩れている時だった。
結果は出している、しかしどうしてもままならない事に苛立つ。些細な一言でもどうしようもなく責められているよう感じるのに、多くの鬼を倒しているというやっかみもあって、陰口から直接まで、無数に心ない言葉が飛んできた。
自分を保つため、しのぶは慇懃無礼になり、獪岳は直接相手にぶつけた。こんなものは些細な違いだとしのぶは思っている。心に沈み込んだ澱みは、両者同じだけ溜まっていた。無視できるようになったのは、階級が実力に追いついて、つまり本部に認められてからだ。
何が悪かったかと問われれば、正直な所、間が悪かったとしか言い様がない。
天真爛漫とすら言える甘露寺蜜璃の人となりは、相手によっては迂遠な嫌みにも聞こえてしまう。
危ないところだった、しのぶは思う。もし合う順番が獪岳と逆だったら、自分が彼女に痛烈な皮肉を浴びせたかもしれないのだから。事実、そうやって何人も撃退してきた。中には直接的な悪意を叩き付ける獪岳のそれより、数段えげつない言葉まである。
(まあ、逆に言えば、すんでの所で八つ当たりせずにすんだから、好き勝手言える訳だけど)
情状酌量の余地があろうが、悪いことは悪い。最悪でも伊黒小芭内から半殺しにされる程度だから、それくらいは甘んじて受けるべきだろう。
蜜璃の苦手意識はさておき、罪の話に戻る。
「今回の罰は有って無きが如しとも言えますし、彼を躾けるためならこの上ないとも言えますね」
「そうなの? 私は鬼を庇ったにしては破格の待遇だと思うのだけれど」
前例などいなかったので、比べようもないが(だからこそ柱合会議に乗じて裁判などという事態に発展した)。
まあ穏健派の筆頭とも言える蜜璃からそんな言葉が漏れるのだから、端から見れば無罪に等しい。とはいえ、実利という面を考慮すれば獪岳、というか甲をおいそれと切り離せるはずもなかった。
隊士の消耗は激しい。それこそ山のように補充され、ほぼ同じだけの数が死んでいく。それこそしのぶでも数え切れないほどの数が、だ。今回のように人蜘蛛にされ、完全に治りきらず引退を余儀なくされた隊士というのは、実のところ、とんでもない強運の持ち主である。
そして十二鬼月、もとい下弦の鬼は、最大で六名までしか任命されない。だが、これはあまり知られていない事実なのだが、下弦の鬼に匹敵する鬼というのは意外に多かった。柱により無数の下弦の鬼が討伐されているにも関わらず、一向に数が減らないのは、そんな事実がある。柱一人だけでは手も足も出ず負ける上弦の鬼のような存在は、おいそれとはいないのが救いか。
十二鬼月は少ないが、十二鬼月級の鬼は案外多い。柱が東奔西走させられるのは、こういう存在が原因だった。
そんな中で、下弦の鬼と単独で互角に戦える甲は非常に貴重だ。勝てはせずとも、確実に情報を持ち替えてくれるという期待が持てる。ましてや獪岳は頭二つは抜けており、もし今の柱に欠員が出れば、任命される可能性は大いにあった。
ましてや庇った対象が本部も黙認する鬼となれば、その程度では拘禁すらしたくない。恐らくこのあたりが本音だ。
とはいえ、自分がやらかした事はきっちり理解させる必要がある。急に仕事が増えたのは、何も彼を炭治郎らと離す為だけではなかった。……ここで仕事を割り込ませた事に“無理に”とつかない辺りが、鬼殺隊の人材不足を如実に表している。
「聞いたところ、獪岳さんはこの半年で本州のほぼ半分を行き来したそうですよ。それもほぼ休み無しに」
「うわぁ……」
蜜璃がやや仰け反りながら引く。
「柱だってそんな事にはならないのに」
「全隊士含めて、このような扱いされているのは獪岳さんくらいではないですかね」
現状維持こそが一番の罰になるというのは、もはやなんと言っていいのやら。
金銭に価値を見いだしているならば、減俸という手段もあり得たのだろうが。残念ながら、彼の金使いがずさんな事と、邪魔になるとすぐ捨てる癖は、知古であれば誰でも知っているほどに広まっている。
示しがどうの以前に、獪岳へ反省と意識改革を促さなければならない。今回はたまたま本部が容認できる存在だったからよかったものの、組織を挙げての人狩りになっていただろう。
測らずとも、比較的従順だと思われていた人物は、今まで逆らうだけの理由がなかっただけという事実が露呈した形になる。
「獪岳君も大変よね。もしかしたら私たちより休みが少ないんじゃないかしら」
これは柱に限らず隊士全員に言える事だが、決まった休みというのは存在しない。あえて言うならば、大きな怪我をした時が休暇だろうか。
柱は滅多に怪我をしない。なので、事実上、半年に一回開催される柱合会議の時期こそが休暇となる。逆に言えば、大怪我でもしない限り休みはないという事になり、長く仕事をこなし続ける獪岳の実力も裏付けていた。それこそ単純に剣の技量で言うならば、柱と比較しても上位にいるかもしれない。少なくとも――情けない限りだが――自分よりは確実に上だろう。
彼の様子から察するに、今までも半年に一度の休憩すらあったか怪しい。その上、この先しばらくは休み無しなのが確定したのだから、あんな捨て台詞を吐きたくもなる。
「確かに、ここまで休みがないのはちょっと可哀想ですね」
「だよね。いつか疲労で倒れちゃいそう」
普通はそうなる前に怪我で休む羽目になるのだが、そんな事がないと言い切れないのが獪岳という男だ。
ただまあ、今回に限れば同情の余地無しだが(義勇に関節技を極められた一員は彼にもあるため、怒っていない訳ではないのだ。無論、それを表に出すほど子供でもない)。どのみち本部の決定に口出しできる訳でもなし、哀れむくらいならいくらでもするからそれで許して欲しい。
「それを考慮しても、わざわざ遠方にいた獪岳さんが呼び出されたのですから、京都の鬼は中々厄介のようですね」
「そうね。あんまり危険な子じゃないといいけど」
それは無理な願いじゃないかな、と思う。
正直に言って、しのぶはあまり心配などしていなかった。
獪岳が呼ばれたのは、多分に時期の影響もある。丁度柱合会議と重なって、各地に散っていた柱が一カ所に集合しつつあった。しのぶと義勇が即座に那田蜘蛛山へ向かえたのもそのため。この隙間を埋めるために、甲たちはいつも使われており、間違いなく甲の一番忙しい時期でもあるだろう。
蜜璃がお茶を飲み、ふう、と吐息を吐いた。気付けば、重箱の二段目まで綺麗さっぱり平らげられている。あんころ餅に手をつけるのを忘れていたしのぶは、ちょっとしょんぼりした。
「それじゃあ私はそろそろおいとまするわね」
「もう出立ですか?」
「ううん。でも隠の人達と打ち合わせがあるから。休みだって言ってものんびりばかりしていられないわ」
「そうですか。お互い大変ですね」
「そう言うしのぶちゃんこそ、まだ診なきゃいけない患者さんがいるんでしょ?」
「私の場合は後進が育ってますから、さほどではありませんよ」
蜜璃が重箱を風呂敷に包んでいる内に、しのぶはお茶一式を片付け始める。
いざ別れようとした時に、鎹鴉の甲高い声が乾いた空に響いた。
鴉は何も語らない。代わりに降りてくると、足に持っていた文を渡してきた。
実のところ、この時点で嫌な予感はしていた。しゃべれる鎹鴉がわざわざ文を持ってくるのは、鴉の口では語りきれない情報量がある時か、何者にも絶対に聞かれてはいけない内容か、どちらかだ。そして、どちらであったとしても、良い知らせなど来たためしがない。
文を解く前にうんざりして顔を上げると、蜜璃にも鎹鴉がやってきた所だった。彼女の方は躊躇もなく文を広げる。そして。
「――え?」
中を確認して、驚嘆に口を開いた。呆然と、信じられないといった風に、文面を眺め続ける。
(やっぱり良くない事のようね)
あらゆる悪い知らせが、この形で届けられてきた。
見たくないという気持ちはある。だが、柱という特権(そう、特権だ)に預からせて貰いながら、都合がいい場所からだけ目をそらすなどという事は許されない。
仕方なしに、しのぶも文を開く。
中身を見て、早速彼女は後悔した。やはり悪い、それも最悪に近い知らせ。思わず思考を停止するほどに。
理解を阻害する内容に、しかし必死になって頭を回した。今自分がすべきことは何か。ため息が漏れそうになって、それはなんとか堪える。その行為は、間違いなく許されざる行いなのだろうから。
***
ふわぁ、と一つあくびをする。
今までの忙しさが嘘のように平和だ。こんな時間などそう長く続かないと理解していながらも、永遠に続けばいいと思ってしまう。通り抜ける風が、強くなりかけている日の光に心地よい。
入側縁に腰掛けて外を眺めているが、目の焦点は何にも合っていない。やや寒々とした裏庭、申し訳程度に雲がかかる空、よく手入れされているが相応の年期を感じさせる木塀、そしてクソ真面目にチャンバラをしている二人。そういったものが漠然と頭に入ってきては抜けていく。難点は、木刀のぶつかり合う音がうるさい点だろうか。
戦っているのは炭治郎と伊之助だ。
概ね伊之助が攻めて、炭治郎が受ける形となっている。これは、双方の呼吸特性差があるためだろう。水の呼吸は守勢に適していると言っていたし、獣の呼吸は論ずるまでもなく攻撃特化だ。ただ、実力は伯仲しているので、中々いい勝負にはなっている。
伊之助の攻勢を、炭治郎はやりづらそうに守っている。見たところ、これにはいくつかの理由があるようだった。
一つに、獣の呼吸の理念。正当で理屈だった剣と違い、獣の呼吸は体系にとらわれない自由な剣だ。予想不可能な動きと無茶な剣の軌道は、ある意味鬼に近い見通しのきかなさがある。
二つに、伊之助の体が柔らかいこと。これが恐らく獣の呼吸の屋台骨といっていいものだろう。間接の可動域が異様に広く、また脱着も自由自在に行う。体は骨で支えて肉で動かす、つまり骨が離れていれば力は入らない。正確に言えば入れても意味が薄い、だろうか。その筈なのだが、伊之助はどうやってか勢いを作り出してた。
三つ、これが最大の理由だろうか。阿呆の伊之助は、「小綺麗に尖った刃なんざ使い物にならねえ」などと訳の分からない事をほざいて、木刀を自分の剣に似せて斑に抉っていた。が、相手にしてみれば分かるのだが、これがなかなかの難物だった。刃を合わせるとくぼみに引っかかり、その隙に死角から剣が襲いかかってくる。ただの使い古しだと思っていた刃こぼれ満載の刀は、案外理にかなっているのだとその時知った。
なぜこんなことをしているかと言うと、端的に言えば暇だからだ。
那田蜘蛛山の一件が終わると、善逸らは治療がてら纏まった休みを貰った。と言っても、寝込むほどの怪我をした者は一人もいない。一番重傷だったのが、霹靂一閃で飛び跳ねまくった善逸の足だというのだからさもありなん。
三人が三人とも、今まで任務が途切れる事はなかった。つまり休みの使い方など知らない。はっきり言って、時間を持て余していた。
無論ずっと呆けていた訳ではない。圧倒的実力を持つ胡蝶しのぶに、指導を貰いもした。だが、彼女ほどの人間が長く見ていられる訳もなく、ほとんどは自主練である。これには教えることが少なかったというのも多分にあった。獪岳が指導者としてどれほどのものかは分からないが、一通り基礎は収めていると太鼓判をいただく。おかげで後は自分で頑張ってね、と言われる。
休みなのに暇すぎて休んでいないのは、本末転倒ではないか。善逸は思う。
まあそんな経緯で、このやや寒々しい裏庭(というより、これはちょっと広めなただの屋敷と塀の隙間だろうか)を借りていた。
伊之助の剣が奇妙な動きで唸る。一太刀目は止めた炭治郎だが、続く一撃を食らい、転がった。伊之助が勝利の高笑いをする。
「いてて」
炭治郎が二の腕をさすりながら、起き上がりこちらを見た。
「善逸もそろそろ混ざったらどうだ?」
「はあ? 馬鹿、馬鹿炭治郎。お前ほんと馬鹿」
「三回も……」
連続で罵られ、しょんぼりとしている。
「なんでしのぶさんもアオイちゃんもほなちゃんもすみちゃんもきよちゃんもいないのに、わざわざ怪我しなきゃいけないんだ。やっぱ女の子だよ女の子、柔らかくていい匂いで楽しい。男に治療されたって嬉しくもなんともないんだ」
「またそんな事言って」
炭治郎が困ったように呟くが、これだけは断じて譲るつもりはなかった。
しのぶは客人の相手(柱で甘露寺蜜璃というらしい。可愛い)をしており、神崎アオイは人蜘蛛の治療薬を量産中。高田なほ、寺内きよ、中原すみの三人衆は買い出しで方々へ散っている。他の従業員は全員男だ。
胡蝶屋敷、もとい胡蝶診療院に女の子は六名だけだ(残りの一人は那田蜘蛛山で会った栗花落カナヲ。言うまでもなく獪岳に連れられて京都へ向かった)。おまけに禰豆子は休眠中。
ほなきよすみはややこちらを警戒しているものの、優しく治療してくれる。アオイはツンツンしているがそれもいい。しのぶは語るまでもなく癒しだ。その全てが欠けている以上、怪我をして得られる利益は絶無。ましてや手加減がない伊之助となど戦いたい訳がない。
「俺は絶対やんないからな。やるとしても女の子の手が空いてからだ」
「まあいいけど……」
「おい五十六郎! いつまでくっちゃべってんだ! 早く構えろ!」
せっかちな伊之助が、地面を蹴りながら催促している。これだからやりたくない。
子守歌と言うには煩雑に過ぎる剣戟の音を聞きながら、このまま寝てしまうのもいいか、などと考え始める。太陽はほどよく暖かい。最近寝過ぎな気もするが、どうせ任務が再開すればろくな休みも取れない日々が再開するのだ。これは悪いことではない、寝貯めというやつだ、と誰にするでもない言い訳をした。
硬い板張りに寝転がり瞼を閉じる。しっかり寝るには向かないが、うたた寝くらいならこれで十分だった。
眠気を誘うように、小鳥のさえずりが聞こえた。いや、これもさえずりと言うには少々騒がしい。なんでこう、自分の周りにはうるさい奴とか暴力的な奴が集まるのか、とちょっと悲しみを覚えながら目を開いた。
必死でこちらに飛んでくる小鳥は、雀だった。というか善逸の鎹鴉であるチュン太郎だった。
なんでみんなは人語を解する鴉が宛がわれているのに、自分だけしゃべれない鳥なのだろうか。というか鴉ですらない。被害妄想ではあるのだろうが、正直悪意を感じずにはいられなかった。いや、チュン太郎が悪いという訳ではないが。
「ひえっ……もう任務じゃないよな」
チュン太郎は両足で文を掴み、必死になって翼を羽ばたかせている。
この雀は話せないため、方向を指示すればそれだけで事足りる場合以外は、指令を書いた紙を持ってくるのが常だった。鬼の存在が確定している場合は、嘴で向かう先を指すだけになる。これが中々に面倒で、どちらに向かえばいいかは分かってもどれだけ向かえばいいかが分からない。その上、目的地が分からないため、ひたすら直進を強要される。善逸は、自分を隊士一道なき道を進んできたと思っている。
どうも炭治郎に聞く限り、他の隊士はこんな事ないらしい。何かにつけてつつかれる善逸からしてみれば、うらやましい限りだ。いや、下手にしゃべれるからと口喧しく説教されるのも嫌ではあるが。
というかそもそも戦いが嫌いだ。痛いのも怖いのも。師範や獪岳への恩と絆がなければ早々に逃げ出していた自信があった。
嫌々文に手を伸ばす。ここで受け取らないと手の甲を刺されるのだ。血が出る勢いでつつくのは、かなりどうかと思う。
「チュン! チュンチュン!」
「分かってるよ。ちゃんと受け取るって。しかし、今回はやけに大きな紙だなあ」
普段寄こされる文と言えば、軽く足に結べる程度のものだ。チュン太郎が両足で持たなければならないほどの文章が記されたのは、初めてのことだった。
「今度はどんな仕事させられるんだろうなー。一人はやだなー。できれば炭治郎や伊之助と同じがいいなー」
正直、炭治郎はともかく、伊之助はまだ怖いし苦手だ。だが、実力が頭半分抜けているのも事実だ。はっきり言って、この二人がいるだけですごく戦いやすくなる。さすがに獪岳ほどではないが(そもそも獪岳ほど実力が離れてしまっていては、自分程度いても邪魔にしかならないし)。
雀でも運べるためか、かなり小さく折りたたまれた紙を拓いていく。
文字は、全体的ににじんでいた。文字を書き殴って、残った煤を払う余裕もなく畳まれたのが分かる。とりあえず任務ではなさそうだ、と思う。急を要する仕事に休暇中の、それも階級が一番下である隊士を選ぶことはないだろう。
まさか我妻善逸個人に用事があるわけでもあるまい。となると、余計に内容が予想できなかった。
(見たくないなぁ。いつも無茶苦茶言ってくるんだもん)
それで済むなら、最初から鬼殺隊になど入っていない。
指が汚れるのは嫌だったので、紙の端を持って広げた。
字は非常に読みにくい。極端に急いでいただけでないようだ。汚いというよりかは、極端なくせ字のように見える。
(読ませるなら、もうちょっと読みやすくして欲しいなあ)
善逸の識字能力は低い。師に剣の傍らでしかないが、数年間習ったので、一応一通りは読み書きできた。だが一般人のそれより低く、とりわけ読書ほどとなると全くのお手上げだ。あくまで最低限の力しかない。
「ええと、なになに。化野攻略作戦報告……? 獪岳が行かされた仕事だったような。なんでそんなもの俺に寄こすんだろ」
苦労して解読しながら――ひゅっと、喉を詰まらせた。
討伐成功、のちに鬼の増援現る――討伐失敗――重軽傷者多数――
無数の絶望的な文字が躍る。それらを上手く見ることができない。どうしても、脳が理解する事を拒絶する。視界がぼやけるのを、なんとか叱咤して戻すべく努力した。
鬼に限らず、古今東西、戦いの結果など二つしか無い。勝って生きるか、負けて死ぬか。
鬼の援軍。負け。獪岳が――獪岳が?
なんとかにじんだ文字が戻る。代償は呼吸だった。浅く狂って、か弱いものになる。頭が上手く回らない。
「――善逸! 善逸! おい、どうしたんだ善逸!」
何かが聞こえる。体を揺さぶられているような気もする。が、それらを上手く認識できない。あらゆる刺激が渺茫としている感覚は、まるで夢の中にいるようだ。代わりに、ただ一つが過敏になる。目の前の現実。どうという事の無い文字列。恐怖を知らせる鐘。
紙には一覧が記されていた。生存者一覧。重傷者一覧。うち再起不能一覧。そして、死者一覧。
その中で、ただ二文字が簡素に、しかし決して逃避させぬと記されている。否応なく叩き付けられるそれに、世界が傾く。気を抜けば、今にも自己が霧散してしまいそうだった。いや、いっそのこと消えてくれれば、どれほど楽だろうか。蒼い空、日差し、今まで心地よいと感じていた全てが皮肉に思える。
夢なら醒めて欲しい。醒めない夢を見ながら、善逸は必死に祈った。どうしても目が離せないそれを見ながら。
死者名簿一覧の三段目に、あっさりと記された名前。記号にされてしまった文字。
獪岳。
ただそれだけが、あっさりと記されていた。