獪岳と善逸   作:山筋

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善逸の章
再集合


 望まぬ沈黙には痛みがある。かつて誰かが言った言葉だが、誰だったかまでは覚えていない。理由は簡単だった。そんなものは起こった事を改めて言語化しただけであり、実感としてはさほど珍しい事ではなかったのだから。

 以前それを味わったのはいつだっただろうか。頭の中を探って、すぐに思い出した。姉、胡蝶カナエが殉職した時。あの時も、最愛にして最後の肉親を失った悲しみと共に、苦痛を伴う沈黙があった。

 そして、静寂を溶かすのはいつだって涙だ。

 

「う……お、おぉ……」

 

 鬼殺隊最強の隊士、悲鳴嶼行冥が泣いていた。

 しのぶと行冥の身長は二尺以上も差がある。普段は至近距離だと首が痛くなるほど見上げてもなお顔が見えないのに、今は見下ろしていた。小さくうずくまって顔を押さえ、悲しみに暮れている。

 掛けられる言葉など無い。探そうともしなかった。何を言ったところで、全く無意味だと知っている。鬼殺隊に所属するほぼ全ての人間が知っている。親しい者を殺された苦しみは、慰められるものではないという事を。

 泣くしかないのだ。泣いて泣いて涙に明け暮れて、自分で立ち上がる。ただそれだけが、唯一の解決方法。

 言葉を発する代わりに、せめてもと背中をさすった。鬼殺隊の歴史でも二人といない巨躯が、歴代隊士の中でも飛び抜けた力が、今はとても小さく見える。

 先日柱合会議をしたばかりでありながらの再招集。既に任務へ旅立ってしまった者も多いため、集まれたのは五人だった。これをたったと思うか五人もと思うかは、人によるだろう。だが、どちらであれ、柱の緊急招集という異常事態であるのは変わりない。

 行冥の嗚咽は止まらない。誰もが、彼の姿を痛ましげに見ていた。

 

(まさか、悲鳴嶼さんが獪岳さんと知り合いだったなんて)

 

 彼が獪岳の名を知り、しのぶと蜜璃から人となりを聞き、確信に至った事実。獪岳が行冥の元養い子であり、鬼によって家族を喪った者と、鬼に追い立てられて故郷から離れた者。二人が二人とも鬼殺隊に入っていたというのは、運命の皮肉と言うよりも、鬼の悪意を感じさせる。それを知ることができたのが、片方が死んだ後など特に。

 

「……獪岳は」

 

 庭に滴る涙が、砂利に落ちては空気に溶かしながら。ぽつりぽつりと、行冥が呟いた。

 

「良い子であった。とても、良い子だった。口と素行の悪さが目立ち、反感を買うことも多かったが。誰よりも、人を愛した子だったのだ。自ら労力を買い、下の子を良く見て、時には己の食事すら分け与えた。自分自身が飢えに目眩を覚えるほどであってもだ。経験した事がある者ならば分かるだろう、空腹とは時に人を殺しへと動かすのだ。それでも、獪岳は自制をし続けた。鬼から我らを逃がすために囮となって、そして、隊士となった後も私たちの為に戦い続けた……」

 

 言葉は、獪岳を誇るものと、そして自らの愚かさを告白するものだった。心の吐露は、精神を安定させる。だがそれすら憎むように、行冥は歯を食いしばった。言わずにはいられない、さりとて言葉にするのは獪岳に対する侮辱。

 心の秤がぐちゃぐちゃに揺れて、自分でも何をしているかが分からなくなる。親しい者を殺された人間によく見られる姿。鬼殺隊の、それも医療など担当していれば、いくらでも見る。本当に、嫌になるほど。

 無知で、矮小で、蒙昧。ただ腕力があるだけの自分を嘲っている。

 

「そうですね、悲鳴嶼さん。獪岳さんは素晴らしい隊士でした」

 

 しのぶにできるのは、無条件の肯定だけだった。今否定し叱咤した所で、絶対に届かない。かつての自分がそうだったように。

 それに、自分を貶める言葉はともかく、獪岳の能力に関しては、否定のしようがなかった。これだけは、獪岳を嫌う者ですら無視できない事実だ。

 彼が何をどうやってきたのかは、共闘経験が低い階級の時しかないしのぶには、計る事はできない。しかし明確な成果を二つ残している。獪岳と共闘した者は、生存率が高い。そして、彼に指導された者は強くなる。

 剣士の能力を生かす、この点に関してだけは、それこそ柱でも届かない域にいた。育手になっていれば、さぞや優秀な隊士を多く生み出しただろう。……死に向かわせるために剣を教える事を、彼が喜んだとは全く思わないが。

 身内に甘すぎる。それが、恐らく獪岳最大の欠点だろう。だから――彼は死んだのだ。他の隊士を生かして帰す代わりに。

 しばらく背中を撫でていると、襖が開く音がした。介抱はいったん止めて、一列に並び膝を突く。見れば、行冥もなんとか形だけは取り繕っていた。

 出てきたのは、お館様ではなかった。

 

「柱の皆様、失礼いたします。父は起き上がる事ができず、母が診ています。そのため、未熟ながら私、産屋敷輝利哉がお目通りさせていただく事、平にご容赦いただきたく存じます」

「いえ、お館様にはお見舞い申し上げます。輝利哉様におかれましても、我ら一同、変わらぬ忠誠心を持っております故。どうか、そのように扱い下さい」

「柱の方々のお心、誠に感謝いたします」

 

 実弥が代表して語る。

 その場にいた柱、行冥、蜜璃、義勇、実弥、そしてしのぶ。全員の表情は冴えなかった。もはや起き上がることも困難なほど、お館様の調子は悪い。

 産屋敷家当主は代々短命であり、原因不明の病に倒れている。時期はまちまちでも、三十歳まで保つ者はいないという。もう遠くないのだ。お館様もとい、産屋敷耀哉が鬼殺隊を背負って立てるのは。

 

「炎柱・煉獄杏寿郎殿は駅舎連続失踪事件の調査、音柱・宇随天元殿は吉原の定時連絡、時透無一郎殿は鬼の収入源と思わしき美術品の潜入、伊黒小芭内殿は万世極楽教の監視および捜索を行っており、不在となっています」

 

 輝利哉がすらすらと、よどみなく諳んじて見せる。確か、まだ七歳、もうすぐ八歳という程度だったはずだ。その程度の年齢で貫禄を感じさせる様は、頼りになると同時に、どうしようもなく悲しかった。

 柱たちですら、まだ選べる場所があった。だが、少年には存在しない。子供でいる事も、産屋敷でなくなる事も、何一つ許されないのだ。

 

「本題に入る前に……悲鳴嶼殿」

「はっ」

「此度の件は、我々の落ち度です。もう少し獪岳殿の痕跡について深く調べていれば、今回の死亡はともかく、一度でも語り合う場を設けることができました。産屋敷を代表して、深くお詫び申し上げます」

 

 深々と下げられた頭に、同じく行冥も返す。

 

「いえ、若様やお館様らに非はございません。私もあの夜、獪岳は昔から全てを語らぬ男でしたし、なにより私も死んだと思っておりました。それに……良くあることでしかないのです。どうか、頭をお上げください」

「お気遣い、感謝いたします」

 

 両者、頭を上げたが、悲壮さは消せるものではなかった。

 良くあること。突き放したような言葉だが、実のところ、全くの事実であり現実でしかない。

 昔獪岳から聞いた話と、弱気になった行冥が漏らした言葉を総合すれば浮かんでくる。獪岳は地名も分からぬ小村で保護者もいない孤児をしており、流行病で全滅した後行冥に拾われ、そこで鬼に襲われ逃れた先で育手に助けられた。獪岳が語ったのは出生地と修行地だけであり、その間は雑談程度にしか語っていなかった(しのぶも寺小屋の主がまさか行冥だとは思いもしなかった)。つまり、本部はそこを把握しておらず、故にすれ違いが生まれる。

 鬼に殺されかかって、鬼に身内を殺されて鬼殺隊入り。言ってはなんだが、どちらの境遇もありふれたものだ。

 また、獪岳が人伝いに孤児院へ寄付をしたのも悪かった。行冥も同じように定期的な支援を行っているので、他の者が寄付を行っていた点までは知っていた。だが、匿名故に金持ちの道楽程度にしか認識していなかったのだ。ここでもし獪岳が名を明かしていたら、本部に問い合わせるなりしてお互いを認識する可能性もあっただろう。

 ……全てはもしもでしかない。今あるのは、獪岳は名を明かさずに死に、行冥が手遅れになってから嘆くしかなかった。それだけが残る。

 

「それで、今回の事件について説明させていただきます」

 

 輝利哉が姿勢を正し、改めた。

 

「京都は化野へ向かったのは、甲一名乙一名丙二名を含む、二一人となります。このうち、一〇名が死亡、六名が再起不能の怪我を負いました。死者の中には上位階級の者全てが含まれています」

「それは……甚大な被害ですね」

 

 しのぶは思わず呻く。

 鬼殺隊には十段階の階級があり、甲から丙までを上位、丁から己までを中位、庚から壬までを下位としている。最下位である癸は新人にのみ与えられる階級であり、一人でも鬼を倒せば壬に任ぜられるのだ。もっとも、階級の決定が成されるまで時間がかかり、その間にも任務はある。そのため壬を跳び越えて上の階級に行くか死ぬかがほとんどであり、数はむしろ癸より少ないくらいなのだが。

 

「鬼が複数いるという程度の情報しかなかった那田蜘蛛山と違い、十二鬼月ないしはそれに準ずる鬼がいると分かっていたので、最低でも甲以上の派遣は不可避でした」

 

 柱を派兵させられない以上、甲を動かすしかない。これは当然のことだ。といっても、下弦の鬼を相手にするならば、甲でも分が悪くはある。

 だが、それにしたって不可解だ。

 今回の大量死は、前回とは訳が違う。そもそも丙以上の隊士が、全体の一割半程度しかいないのだ。向かわされた総数は那田蜘蛛山と同程度、被害規模で言うなら精々半分と行ったところ。だが、戦力の減り具合で言うなら十倍以上にもなる。文字通り桁違いだ。

 柱が骨なのだとしたら、階級上位は肉か。鬼殺隊という体を上手く動かすため、そして柱という戦術兵器を運用するための土台とでも言うべきもの。

 はっきり言って、戊以下は戦力面ではさほど期待できない。それだけに、もしかしたらこの被害は柱一人が欠けるより厳しいかも知れなかった。

 

「実際、その決定は正しく、獪岳甲隊士は指揮を執り一名の被害もなく討伐を成功させたのです」

 

 言葉に、その場にいた柱全員が疑問に思った。討伐が成功したのならば、なぜ十六名もの損害が出たのか。

 輝利哉は深刻な顔を作り、同時に悔しげに唇を噛みながら、呟いた。

 

「問題は討伐を終えた後でした。それも、上弦の鬼が」

 

 言葉に。しのぶの中から、烈火が溢れた。頭の中で何度も流れる、かつての光景。青白く濁った、永遠に息をすることがないだろう姉の顔。それを、ふざけた悲しそうな作り笑いで見下ろす、極彩色の瞳――

 瞳の裏側を、ちかちかと稲妻が走った。視界が点滅する。感情の激しい高まりに、吐き気すら覚えた。

 

「胡蝶」

 

 肩を掴まれ、はっと振り向く。

 義勇が視線だけをこちらに向けていた。相変わらず感情の読めない目。だが、いつもそこに断固としたものがあるのだけは分かる。

 

「殺気が漏れている。若様の御前だ」

「……ええ、そうですね。申し訳ありません輝利哉様。我を失っていました」

「いえ、胡蝶殿の姉上は上弦の月に惨たらしく殺されたのは存じています。感情を抑えられぬのはもっともです」

「ご配慮、感謝いたします」

 

 しのぶが一礼をすると、話は続けられる。

 

「現れたのは上弦の壱です。この時点で、指揮官をしていた獪岳殿は討伐を諦め、情報収集と時間稼ぎに徹しました。血鬼術――戦法――能力を暴くごとに、階級が下の者から逃がし、情報を持ち帰らせたのです。試みは成功し、あと半刻もあれば夜明けという所まで粘ったようです。しかし――ここで上弦の弐まで現れてしまいました」

 

 今度こそ、心臓が破裂するかと思った。このまま自分が消えて無くなるのではないかと言うほど、感情が燃えさかる。

 上弦の月が敵に近い存在だとするならば、上弦の弐は敵そのもの。怨敵の中の怨敵。地獄の底にたたき落としてもなお足りない存在。

 口の中で、ぱきりと音がした。噛みしめた奥歯が割れたのだろう。それでもとにかく歯を食いしばり、無様だけは晒すまいと耐える。落ち着くべきだ。皆そうなのだから。ほとんどの者が鬼に、そして鬼舞辻無惨に怨みを抱えている。自分だけがそれを発散するなど、そんな道理は、例えお館様が許しても自分自身が許せない。

 

「上弦の壱及び上弦の弐により、残った者は全滅。これが今事件の全てです。慰めにもならないでしょうが、彼ら英霊のおかげで、上弦の月二人の血鬼術や戦闘方法をかなり詳しく知ることができました。我らは彼らの献身に報いて、必ずやこれを有効活用しなければなりません」

「凄いわ、そこまで」

「……獪岳らの死、決して無駄にはいたしませぬ」

 

 感嘆の声が漏れる。しのぶの柱である部分も、歓喜の声を上げていた。

 ただでさえ上弦の鬼と遭遇するのは難しい。その上、鬼殺隊の歴史上、上弦の鬼に勝てた例はただの一つたりとてなかった。いや、血鬼術の詳細を持ち帰れた事すらない。精々、顔ぶれが変わったのを確認できた他程度か。姉、胡蝶カナエが上弦の弐に殺された時ですら、大量の吐血があった、つまり体の内部から攻撃する手段がある程度しか分からなかった。

 上弦の鬼上位二名の血鬼術発覚。これは、それこそ竈門禰豆子などよりよほど大きな成果だ。

 

「上弦の壱と弐の血鬼術は……」

 

 語りかけた所で、隠が入ってきて、輝利哉に耳打ちした。

 いくらかの会話――輝利哉は難色を示しているようだったが――の後、両者が小さく頷き、隠が飛び去っていく。

 

「私が言うより、直に観た者より語っていただこうと思います。先に言うと、彼は重傷を負っており、一人では動けぬ状態です。くれぐれも負担を掛けるような事は控えてください」

 

 否などと言う者がいるはずもなく、全員が無言で頷く。

 間を置かずに、三人の隠が飛び込んできた。一人は茣蓙と座布団を敷く。その上に二人がかりで慎重に担がれた一人の男が、そっと座らせられた。

 ……男は、悲惨な有様だった。左足は太ももの半ばから先を失い、左腕も丁度肘の辺りから存在しない。目隠しを取られ、右目をすっぽりと覆う包帯が覗く。その下から赤紫に変色した肌が見えるあたり、ただの怪我という風ではなかった。傷口を負った布のどこからも、赤黒い斑点が見えており、未だ止血も完全ではないのが分かる。最低限の処置は無論してあるだろうが、動かしていい状態でもない。輝利哉が中々首を縦に振らなかったのもうなずける。

 はっきり言って、なぜまだ生きているのかが分からないほどの大怪我だ。よほど処置が早かったのか、あるいは気合いだけで命を繋いでいるか。

 男は、大粒の涙を流しながら、必死に動かないだろう体を動かして礼をした。

 

「は、柱の皆様……若様……、この、ような、無様な姿でお目汚しをする事、ご容赦ください」

 

 つっかえつっかえ、嘔吐きながら呟く男。酷い痛痒を堪えているのが一目で分かった。

 物理的な痛みのそれではない。しのぶも、かつて似たような顔をしていた。恥辱と後悔に苛まれながら、どうして自分はこんなに弱いのか、どうして生き恥を晒しているのか、幾度も煩悶してしまう。

 無力と、何より仲間を見捨てざるを得なかった己の無様を悔いる顔。それが、手足を失った程度よりよほど辛いと知っている。

 

「挨拶など構いません。それより、上弦の血鬼術がどのようなものかをお願いいたします。そして、一刻も早く治療を受けて下さい」

「わ、私のような、無能にまで、お優しい言葉を……ありがとうございます……ありがとうございます……」

 

 男は、涙も止められぬままに顔を上げた。

 彼の鈍い反応に、しかしそれを指摘するようは者はいなかった。鬼殺隊を長く務めていれば、誰であれ、こういう屈辱を一度は経験している。誰かに叱咤された程度はで立ち直れない事も。

 ひとしきり嗚咽した男は、なんとかぽつりぽつりと話し始めた。

 

「当初想定されていた鬼は、問題なく討伐できました。獪岳甲隊士の手腕もあり、一人の怪我人すら出なかったのです。ですが、そ、そ……その直後に、あの悪魔が……」

 

 語るのも悍ましい。そう言いたげに、男は肩をふるわせる。

 

「悪魔は……六つの目を持ち、うち二つの目に上弦、壱と書かれていました。上等な着物に、刀を佩いていたのです。悪魔は、動きを一つとして急ぎませんでした。まるでいつでも全滅させられるとでも言うように……。そのおかげで、獪岳甲隊士は最低限の指示を出すことができたのです」

 

 上弦の鬼と接触した隊士は例外なく死んでおり、その容姿すら伝わっていない。この油断とも取れる余裕が上弦の常なのかも、比較対象がなかった。

 そもそも、隊士が普通の鬼と戦って負けたのか、運悪く上弦の鬼と遭遇して殺されたのかすら分からない事がほとんどだ。少なくとも今の時代で明確に上弦の鬼と遭遇できたのは、花柱・胡蝶カナエ死亡の折と、今回のたった二件だけ。

 

「上弦の壱が無造作に刀を抜き放ちました。まるでなんでもない事だとでも言いたげに、腕だけで振るい……そして間合いにいた者が全員殺されたのです」

 

 そこで、ふと違和感を感じた。しのぶだけではなく、他の柱も似たような感情を持っている風ではある。ただ一人、輝利哉だけが苦しげに目を伏せていた。

 いかな上弦と言えど、剣士に対して隊士がそうそう後れを取る筈がない。剣術は汎用性が高く、また熟練していれば、下位の鬼であったとしても侮れない力を持つ。当然、反面はあった。所詮は人が人に対するため生まれた技だ。それに、古代より存在し研鑽させられ続けた故に、大方の技は出揃っている。はっきり言ってしまえば、予測不可能な血鬼術と違い、してきそうな事は大体予想ができた。そもそも鬼殺隊隊士自体が剣術の専門家ですらある。

 今回は獪岳に限らず、上位、中位の隊士もそこそこいた。それでありながらも後れを取る。胸の中を、ざわめくものが現れた。

 

「奴は……独特の呼吸を行っていました。まるで透き通る静かな月光を思わせる……それと同時に、身体能力が跳ね上がったのです」

「……なんてェこった」

 

 実弥が思わず頭を押さえて呻く。

 隊士が寝返って鬼になる。この例は無いわけではない。鬼殺隊には怒りを持つ者だけではなく、生活の糧にするため入ってくる人間もいるのだ。いくら隊則で切腹物だと叫んだ所で、命を天秤にかけられた以上、寝返りを卑劣だと非難する事こそ卑怯だ。

 が、ただの鬼ではなく、しかも上弦ともなれば話が違う。

 ただでさえ人間は、呼吸という肉体を過剰運用する技能と型という技を連動させ、辛うじて食らいついているに過ぎない。ましてや上弦の鬼ともなれば、肉体の強度も飛び抜けているだろう。そんな化け物が、化け物になる為の技術を運用する。悪夢としか言い様がない。

 

「獪岳甲隊士は、即座に判断し伝令させました。『上弦の壱、元鬼殺隊なり。技ですら及ぶ者なし。柱複数名が必須である』と」

「獪岳さんが言うのであれば、間違いないでしょうね。柱の中でも、戦力を選別する必要がありそうですし」

 

 少なくとも、自分は戦力外だろうとしのぶは思った。ただでさえ筋力に乏しい身では、足手まといにしかならない。

 

「何より厄介なのは、血鬼術でした。上弦の壱が扱う呼吸は月の呼吸――便宜上こう呼びます――を拡張するものだったのです」

「拡張っていうのはなに?」

「その、私も説明が難しいのですが。刀に宿る印象をそのまま具象した、というのが一番近いと思われます」

 

 どういう意味だろうか、と一同が首を傾げる。

 

「自分でも訳の分からない事を言っている自覚はあります。ですが、本当なのです。刃から現れる無数の三日月に見える印象が、そのまま物理的な力を持っていました」

 

 呼吸に、何の、と付くのはそれなりに理由があった。

 例えば変幻自在に姿を変える流麗な動きが水に見えるそれは、水の呼吸と名付けられた。電光石火に迸るそれは雷の呼吸と、疾風迅雷に駆け回るそれが風の呼吸と呼ばれる。だが、これらはあくまで型に付随する印象、現象の()()()見えるというだけでしかない。

 もし、それに影響力が宿ったら。単純で予測がしやすい。しかし、型に乗せられるならば、それこそまさしく必殺になる。何より、根幹はただの斬撃でしかないというところが厄介だ。根本的に、対処法がない。

 認めざるを得なかった。上弦の壱は隊士の、いや、古今あらゆる鬼殺隊の上位互換だ。

 

「刀から発生する三日月の刃は、数が多く、そして不揃いでした。単純に間合いが広がるだけでなく、歪故に読みづらく、同時に威力までもが高まっていたのです。獪岳甲隊士ですら、時間稼ぎが精一杯でした。この時点で半数ほどが討ち取られ、残りも満身創痍でした。それは、一番強かったとは言え矢面に立っていた獪岳甲隊士も例外ではありません」

 

 半透明に輝く刃を無数に散らす血鬼術。その厄介さは、相手の術を暴き、対処能力も高い獪岳がほぼ何もできなかったことが証明している。

 もし初見で遭遇したのが自分であったら。高確率で、最初の一手にひれ伏す羽目になっていただろう。と言っても、手口を暴いたところでおいそれとどうにかなる程度の血鬼術でもなさそうだが。そもそも血鬼術がなくとも、恐らく柱最強たる悲鳴嶼行冥ですら単独では勝ち目のない地力がある。

 

「それでも、まだ希望はありました。上弦の壱の血鬼術を暴き、夜明けも近づいていました。深追いさえしなければ退散する。そう思って奮起していたときに、現れたのです。――上弦の弐が」

 

 唇を噛み、拳を強く握る。覚悟をしていたため、今度はその程度で済ませられた。怨敵の名を前に怒りをごまかせた、とまでは思わないが、少なくとも指摘されない程度にはとどめられる。

 

「……もう、士気が崩壊する間もありませんでした。残った上位階級の者も即座に討ち取られ、中位以上で残ったのは獪岳甲隊士ただ一人になってしまったのです」

「それで――」

 

 心が逸る。心臓が高鳴る。それらをなんとか制御しながら、自分は柱であると幾度も念じ、言葉を続けた。

 

「上弦の弐の血鬼術、及び戦闘方法は?」

「氷、というか冷気……だと獪岳甲隊士は言っていました」

「冷気……?」

「胡蝶、気持ちが逸るのは分かるが結論を急ぎすぎだ。順序立てて話を続けてくれ」

 

 行冥にたしなめられる。

 落ち着け。まだ胸裏がざわめいている。まだその時ではない。怒りを爆発させるのは、それこそ上弦の弐と直接対峙してからだ。

 

「上弦の弐からは、本音かどうかまでは分かりませんでしたが、全くやる気が感じられませんでした。ただふらりと立ち寄ったように見えましたが……如何せん、うさんくさい男でした。天然の嘘つきとでも言うのか、相手の何一つとして信じてはいけない、そう思わせました」

 

 男の声に、感情が籠る。上弦の壱より、むしろ弐の方が憎いように聞こえた。

 

「鬼は、鉄の扇を扱っていました」

「扇? 何かの隠語ですか?」

「いえ、言葉通りの扇子です。おまけに特別上等な着物を着込んでおり、かなりの資産を持つことが想像できました」

 

 成る程、と頷く。

 大量の資産を持ち、なおかつ日中外に出なくていい者。これだけでも大分絞れる。人前に出る機会が限られるため、前々から政府などの交渉を必要とする職業には向かないと考えられていた。投資家、宗教家……その中でも失踪事件が囁かれている者。外見はどうとでもなってしまうが、武器を常備しているなら鉄の扇を持つというのも大きな情報だ。相手を特定するのはそう遠くない未来。仄暗い殺意を抱きながら、頭の中で計算する。

 

(毒の服薬、急ぐ必要がありそうですね)

 

 姉を殺した鬼に対する怨念の結晶、藤毒の複合投薬。

 鬼には言わずもがな、藤は人に対しても有毒だ。人体への影響を限りなく減らし、鬼への影響を最大まで増やす。最初は少しずつ服用して体に慣らし、量を少しずつ増やして、今や胡蝶しのぶそのものが毒袋になっていた。

 だが、恐らくはまだ上弦を始末するには足りない。それこそ全身、細胞の一片に至るまで浸透させなければ。

 当然、そこまでして体がただで済む筈もない。代償に捧げるのはあらゆる身体機能、つまりは寿命そのものだ。計算上では、どれだけ甘く見積もっても最大まで毒をため込めば一年と持たない。上手く上弦の弐と戦える時に調整する必要がある。

 後は上手く負けて喰われるようにするのだが、こちらに関しては心配していない。自分程度の力で上弦に勝てるなど、一欠片も思っていないのだから。全力で戦って自然に負け、後は喰われるだろう。

 柱一人の命で、上弦の一人を撃破。鬼殺隊の歴史で上弦を倒した事がないのを鑑みれば、十二分な成果だ。

 

「真っ先に鬼の接近に気がついた隊士が斬りかかり……そして血を吐いて死にました」

「記録にあるカナエの死に方と同じだなァ」

 

 実弥から、強い毒と棘を感じた。

 彼女は全く気がついていなかったが、行冥曰く、姉と実弥はかなり()()仲だっただらしい。鬼殺隊最強の男は、それを微笑ましく見守っていたが、後に後悔したと言っていた。多少強引でも近づけるべきだったと。そうすれば、実弥に怨みはあっても、後悔に苛まれなかったかも知れない。

 

「獪岳甲隊士がそれを目に見えぬ程小さい氷の礫で、呼吸の際に内臓をズタズタに切り裂いた、と見抜きました。上弦の弐はそれを肯定していました」

 

 言葉を聞いて、全員が一斉に顔を歪めた。事実であるならば、呼吸の剣士の天敵に等しい。

 

「援助の手を全て失いながらも、獪岳甲隊士は単独で食らいついていました。上弦の壱は元より、上弦の弐の攻撃も多彩でした。不可視の氷は元より、人や花に模した氷像、果ては遠距離に突如氷柱を生み出したりなど。獪岳甲隊士は、化け物じみた力で抵抗しました。しかし……さすがに上弦の鬼二体相手には健闘空しく、相打ち覚悟で上弦の弐に斬りかかり、く、頚を半ばまで断った所で……腹を貫かれ……」

 

 再度の、止まらぬ嗚咽。

 

「か、獪岳甲隊士は、私を、仲間の亡骸を被せて隠しました……。私が……最後の生き残りだった、からです。手足を失い、顔の半分を冷気に灼かれ、虫の息だったため気付かれず……。そ、そうです。私は逃げたんです。甘えたんです。獪岳甲隊士の「情報を持ち帰ることこそ最優先」という命令に……。見捨てた! 見捨ててしまった! もし私が一瞬でも気を引いていれば、獪岳甲隊士は逃げ切れたかも知れない! 私が生き残るよりよほど価値があった! なのに私は、最後の一歩を踏み出せなかった!」

 

 言ったきり、男は慟哭のままに泣き崩れてしまった。

 無力の涙。恐らくは、隊士の大半が経験しただろう。だが、それに慣れる事はどうしてもできなかった。聞くのも、自分が叫ぶのも。

 傷口が開いて斑点が広がるのも気にせず泣き、嗚咽も消えた頃。男は虚ろな表情で顔を上げ、ぽつりと呟いた。

 

「お願いがあります。どうか、私を処分して下さい」

 

 生気という生気が抜け落ちている。己の役割は全て終え、後は断罪されるだけ。酷い言い方だが、負けて生き残って()()()()隊士に良くある顔だった。

 言葉を聞き届け、立ったのは実弥だった。静かに、男へと歩み寄る。

 

「え? え? 不死川さん?」

「大丈夫だ、甘露寺」

 

 慌てふためく蜜璃を、行冥が制する。

 実弥が男の前でしゃがみ込むと、半ば胸ぐらを掴むような乱暴さで、体を持ち上げた。

 隠がやや慌て始める。彼を止めたいが、さりとて柱に意見もできない。お館様代理である輝利哉も無言なのだからなおさらだ。

 

「勘違いをするんじゃねェ」

 

 ともすれば恫喝とも取れる声。普段の彼を知っている者ならば、これが精一杯相手に気を遣っている事が分かる。

 

「お前は勝手な判断で逃げ出したんじゃなければ、臆病風に吹かれたわけでもねェ。甲の命令を、忠実に果たしたんだよ」

 

 実弥が、男の顔を軽く叩いた。未だ呆けたままの顔だが――目に少しだけ、意志が戻った。

 

「いいか、もういっぺん言うぞ。お前は命令を()()()()んだ。一つの抜け落ちもなく、全てを俺たちに伝えた。確かにお前が気を引けば、獪岳とやらは逃げ出せたかもしれねェ。だが、かも、でしかねえんだ。お前と、そして上官は、確実に俺たちへ情報が渡る方法を選んだ」

 

 男が、静かに涙を流した。

 その台詞は、一番聞きたかった言葉であり……同時に、一番聞きたくなかった言葉。

 

「だから、お前は良くやった。後は――任せろ。必ずブチ殺す」

 

 言い終え、肩を強く抱くと。男は声を押し殺して、か細く言った。

 

「ありがとうございます……ごめんなさい……お願いします……。皆……死んだ甲斐がありました……」

 

 しばらく実弥の肩に頭を埋め、震えていたが。やがて糸が切れたように、くたりと力を失った。

 

「急いで連れて行け、治療しろ! 絶対死なせんじゃねえぞォ!」

「は、はい!」

 

 隠が跳ねるように動き出し、意識を失った男を連れて行く。胡蝶邸には連絡済みであるため、処置は速やかに行われるだろう。と言っても、あの状態で生きられるかは、本人の気力次第になってしまう。手足の欠損はまだしも、さすがに失血量はごまかせない。

 実弥はすぐさま踵を返し、輝利哉へ向かって頭を下げる。

 

「お見苦しいところを」

「いえ、構いません。本来ならば私がすべき所を替わっていただいたこと、感謝いたします」

「勿体なきお言葉」

 

 彼が元の位置へ戻ったのを確認して、輝利哉は続けた。

 

「さしあたって、判明した上弦への対策ですが……申し訳ないですが、私には武才がありません。皆様に各自で対策していただく事になります」

「無論です」

 

 しのぶが即答する。

 鬼殺隊の歴史上、倒せたことのない上弦の鬼。これが、ただ単に事前情報がなかっただけだなどと考える者はいない。間違いなく、血鬼術だ小手先だという所の外側でひたすら強い。最終的に――身も蓋もないが――柱が個別に対策を立てる以外になかった。それこそ、精々上弦の弐相手の際には、距離に特別気をつけるっと言った程度だろう。

 

「あくまでお館様に話を通してからになりますが……上弦の壱発見は難しいと考えられます。逆に上弦の弐は、発見のしやすさはともかく、鬼の資金源である可能性が高いため放置は非常に危険であり、優先的に炙り出しを行うでしょう。加えて、人に交ざって生きているならば、奇襲がしやすい環境である可能性も高い。恐らくは鬼殺隊を挙げての捜索になり、発見も遠くはないでしょう。優先して上弦の弐対策をお願いいたします」

「はっ!」

 

 これからしばらくは大変だろうな、と密かに考えた。

 鬼の捜索討伐後処理と、鬼殺隊は常に圧迫されている。ここから、手がかりを得たとはいえ鬼一匹を探し出すのは、明らかに過剰な要求だ。正直なところ、現状ですら既に人手は圧倒的に足りていない。戦闘員に限らず全てにおいて。これで資金的に破綻させていない産屋敷の異常性こそ目立つ。

 

「他に注釈すべき点があれば忌憚なくお願いします」

「そうですね……不死川、君か時透が、恐らく柱で一番早い。どうだ、上弦の壱に対抗できると思うか?」

「任せろ、と言いてえ所だが……胡蝶、俺は例の甲と比べてどうだ?」

「そうですね、瞬間的には獪岳さん、平均なら不死川さん、総合値はほぼ同等だと思います」

「獪岳くん、凄い早いですもんね」

「……基礎は隊士、であれば囲めば十分な勝算がある。やはり問題は、包囲に意味のなさそうな弐か」

 

 最後に義勇の呟きで、言葉が途切れる。

 強さで言うならば、上弦の壱の方が強いのだろう。実際、鬼が呼吸を使うと言うだけでも柱が出動する事案だ。だが、全員が思っている。戦って転ぶ可能性があるのは、上弦の弐の方だと。

 上弦の壱の力は、良くも悪くも想像できる。勝てるかどうかはさておいて。しかし上弦の弐の力は、単に似たような血鬼術の規模が増すのとは訳が違うだろう。もっとも、実際に戦ったとき、想像以上と想定外のどちらがマシかは分からないが。

 それでは、と輝利哉が前置きをして。

 

「本日はこれで終わりとさせていただきます。追加に情報等あれば、鎹鴉伝手に知らせさせていただきます」

 

 輝利哉が一礼し、皆がそれに返す。

 これが柱合会議ならば、雑談でもしながら帰るのだが。残念ながら緊急招集であり、全員が急ぎ任務に戻ることとなる。

 別れの挨拶を済ませた後、しのぶは頭の中でそろばんを弾いた。

 上弦の弐(及び可能ならば壱)の捜索。しかも、相手に逃走されぬよう気をつけて探る必要がある。探索に関してしのぶに口を出す権限はないが、しかしその過程で負傷した者をどうにかするのは、間違いなく彼女の役割だ。

 救護班は一番専門技術が必要で、かつ体力の必要ない部隊だ。現状を維持していては確実にあぶれる。今いる者を多少未熟でも昇進させ、単純作業だけこなさせる人員を増やせばなんとかなるだろうか。いや、だろうかではない。なんとかしなければならない。

 

(またお館様に経済的負担を強いてしまいますね)

 

 大分憂鬱な考えに、頭を抱えたくなる。

 とは言っても、鬼殺隊こそが元々営利団体でなければ、採算を考えられた組織でもない。こればかりは、仕方ないと割り切るしかないのだろう。

 

(憂鬱と言えば……)

 

 屋敷に帰れば、もう一つ大きな問題が待っている。とてつもない、先の戦いにおける負の遺産。

 今日明日なんとかできるわけではない問題より、そちらを優先しなければならない。

 心配事を一つずつ確実に潰すべく、しのぶは足を速めた。家へ、というより、愛弟子の元へ向けて。

 

 

 

 しのぶは胡蝶邸の門を叩いて、中へ入っていった。

 胡蝶邸は診療所や入院施設もあってか、規模そのもので言えば産屋敷邸よりも広い。とはいえ仰々しい物ではなく、ただ単に間取りが広いという程度のものでしかない。建築物は主に三つに分かれており、一つは医療施設、一つは居住施設、そして最後に研究所だ。最後については利用者はほぼしのぶだけであるため、外観は小さめの蔵という趣だが、作られたのは最近であるため新しい。

 “胡蝶”は、鬼殺隊の中でも名門に位置し、代々隊士の医師を担当している。これに匹敵し、なおかつ現存しているのは“煉獄”だけだ。

 そもそも、鬼殺隊の派閥(というほど反目しているような区分でもないが)は、主に二種類ある。“家”と“武門”だ。家は、文字通り血筋である。胡蝶は、昔は薬師を、現在では医者を担当している。煉獄は完全な武闘派であり、かなりの数の上位隊士を、その上片手の数では足りないほどの柱まで輩出している。

 家に対なすのは武門だが、こちらは単純に呼吸の系譜だ。今は名も残っていない、始まりの呼吸。そこから分派した複数の、現在では五つしか残っていない直系の呼吸。これらを育手から伝授された者が武門と分けられる。呼吸の分派も同じく数えられていた。ただし、水の呼吸の派生である花の呼吸、さらにそこから生まれた蟲の呼吸は、育手ないしは水の呼吸の使い手から伝授されたわけではないため、武門扱いとはならない。

 ちなみに家と武門は厳密な線引きがあるわけではなく、例えば炎の呼吸から派生させた恋の呼吸を使用する甘露寺蜜璃は、煉獄家の武門という扱いだった。

 まあ何が言いたいのかと言えば、胡蝶家は鬼殺隊でも五指に入る名家という事だ。だだっ広い土地を持っているのも、それが理由である。

 門から玄関までは、便利性を優先した為さほど広いとは言えない。だから、そこで顔を合わせたのは結構な偶然だった。

 

「戻りましたよ」

「お帰りなさいませ、しのぶ様」

 

 丁度荷を抱えて歩いていたアオイに声を掛ける。返答は、沈んだ声色だった。

 

「調子は……聞くまでもありませんか」

「はい。未だに……。何を食べても戻してしまっています」

 

 アオイが悲しそうに頭を振る。様子に、しのぶは静かに瞑目した。

 分かってはいた。そう簡単に割り切れるものではない。だが、理解はしていても、納得しきれるものではなかった。

 

(恨むわよ、獪岳さん)

 

 これも、分かっている。獪岳に落ち度はない。むしろ、感謝しなければいけない立場だ。しかし今のあの子を見て、到底それで済ませられる物ではなかった。

 診療所の裏手、さらに物陰に隠れた場所へと向かう。

 そこには少女がいた。といっても、矮躯もとい、身長に対して痩身すぎるのしのぶと比べ、明らかに肉の付き方がいい。今はまだ顔立ちでしのぶの方が年上に見られるが、あと何年かすると、並んで歩けば自分が妹扱いされるのではないだろうかと思っていた。

 だが、既に背丈ではしのぶを超えた少女は、今はうずくまり桶を抱えている。そして、何度も何度も嘔吐していた。既に胃の中は空っぽで、それでも薄黄色の液体を吐瀉している。

 

「カナヲ」

「…………」

 

 呼ばれた少女、カナヲは、ゆっくりと振り向いた。

 今の彼女は、貼り付けたような微笑みがなければ、感情も欠落していない。もし感情を支配しているのが、絶望と後悔でなければ、手放しで喜べただろう。その顔色は、死人を通り越して幽鬼のようだった。

 ――上弦との遭遇戦によって、傷を負わなかった者は皆無だ。例え体は無傷でも、心に致命傷を負っている。カナヲもそんな一人だった。

 獪岳の命によって逃がされた――そう、情報の為に離脱させられたのではなく、事実上逃がされた――者は、全員が『仲間を見捨てた』という罪悪感に苛まれていた。

 他に方法がなかったのは分かる。カナヲを助けてくれた事にも感謝している。これが八つ当たりだと分かっている。でも、それでも、カナヲが初めて生み出した感情が“罪”なのは、あんまりではないか。

 

「自分を責めるのは分かりますが、少し落ち着きましょう。後で鎮静剤を処方しますから」

「師範……私はなんでこんなに弱くて……弱くて……うぅ……。守られる事しかできませんでした……」

 

 言って、カナヲはまた胃液をぶちまけた。しのぶにできるのは、背中をさすってやる事だけだった。

 傷。絶望。無力。罪悪感。それらは、診療所の専属隊士とならざるをえなかった神崎アオイに似ている。昔は鬼と果敢に戦いながらも、仲間を鬼に目の前でなぶり殺され、あわや自分の番という所で助けられ、心が砕けた彼女に。

 

(カナヲは、もう駄目かもしれない……)

 

 それも仕方ない。

 運命だなどと軽々しく言える事ではないが、鬼を前に竦んでしまう隊士に待つ未来は、餌だ。だからこそ、鬼殺隊では自分で立ち直った場合を除き、無理に隊士を前線に出せない。

 自分にできるのは、背中をさすってやるくらいだ。

 

(せめて)

 

 せめて、カナヲが立ち直り、いつか負の感情以外を得てくれれば。願わくば、そのまま普通の人間みたく人生を歩んでくれれば。

 柱だなんだとおだてられても、所詮は一人の人間でしかない。胡蝶しのぶにできるのは、ただ願うことだけだった。

 

 

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