獪岳と善逸   作:山筋

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女の子

 炭治郎はふわふわとした心地で、胡蝶邸の庭に佇んでいた。

 迫るものがないというのは、ある意味において毒のようだった。急ぎ始末すべき仕事がない。おかげで、余計なことを考える時間が山のようにある。頭を使いたくないときに限って、こういうものは降りかってきた。

 ぼんやりと、夢のように現実をたゆたっている。いや、もしかしたら本当に夢なのかも知れない。どちらかと断言できないほどに、彼の頭は浮ついていた。

 獪岳が死んだ。

 実のところ、その情報に衝撃は全く感じていなかった。

 獪岳の死を悼んでいない訳ではない。ただ単に、あれほど強かった獪岳が簡単に死ぬと思えなかった。実は誤解であり、ひょっこり現れて、善逸の頭でも引っぱたく。そして炭治郎と伊之助が強くなってない事にも体操怒り、再び地獄の特訓が始まる。まだ、そうなるでのはないかと思えてならなかった。

 現実をまだ受け入れられていない。頭がぼやけているのもそれが原因だ。分かっていたが、分かっただけでなんとかなるものでもなかった。

 獪岳死亡の報が入ってから、善逸は目に見えて落ち込んでいた。いや、それどころか、放っておけば勝手に後を追いそうですらある。伊之助は普段通りに見えるが、それも上辺だけ。よく見れば、おかしな行動や、ちょっとした事で苛立ち八つ当たりをする姿が見える。

 二人は、炭治郎より大分ましだと言えた。現実を理解するという意味において。

 

(いつか)

 

 呆けながら考える。肩に禰豆子の体重を感じないのが、今はとてつもなく頼りなかった。

 

(いつか俺も、獪岳の死を受け入れられる日がくるのかな)

 

 その時、自分はどうするのだろうか。家族の時のように泣くのか。それとも、別の何かか。

 獪岳を殺した鬼が誰かも分からない以上、当たる先もない。どのみち、彼を殺した程の鬼に自分が向かわせて貰える事もないだろうが。

 あれだけ望んでいた、纏まった休みなのに、今は仕事がしたくて堪らなかった。忙殺されていれば、余計な事を考えなくていい。いずれ自然にそれを理解する時まで。

 

(そうか、だから上の人って大変なんだな)

 

 本部の人は、年中こんな悩みに圧されているのだろう。考えない事は許されない。命の重みを忘れることも、また許されない。全て受け止めた上でなお前進し続けるのは、想像するだけで地獄のようだった。自分には一生真似できそうにない。

 ぼんやりふわふわと歩く。どこに向かっているのか、自分でも分からなかった。さっきから胡蝶邸の柵周りをぐるぐる回っている気がするが、確証もなかった。

 ふらふらしながら、どれほどの時間が経っただろうか。咳き込む声が聞こえて、はっとした。

 気がつけば日陰だった。というか、屋敷と塀の間隔を考えると、ここは年中影になってるのだろう。それを証明するように、縁石が小さく苔むしている。

 急激に、意識を現実へ引き戻される。

 そこにいたのは女の子だった。桶に覆い被さるようにして、なんとか呼吸を整えている。饐えた匂いがする事から、ここで吐いていたのだろう。それも、かなり長い間ずっと。こんな何もなく誰も来ないような場所にいるのは、邪魔にならないためか。

 胃液独特の酸っぱい匂いは苦手だったが、炭治郎は少女に近づいていった。自分のことで一杯一杯だったが、それでも、誰かを見て見ぬふりなどする気になれない。

 

「あの……」

 

 声に、少女が振り返ってくる。

 いくらか間を置いて、彼女が栗花落カナヲだと気がついた。那田蜘蛛山の時にも会ってるし、なんなら最終選別でも顔を合わせている。気付けなかったのは、この短期間で随分と姿が変わってしまったかだ。

 顔は痩せこけ、目も落ちくぼんで隈までできている。なにより顔色だ。肌は土気色で荒れており、もし眠っていたら死人と誤解していただろう。

 炭治郎の記憶にある彼女は、いつもニコニコしていた。それは何かが楽しいという訳ではなく、他の表情の作り方を知らない、とでもいう風だった。間違っても今のような、放っておけば自殺しそうな顔ではない。

 黙って、カナヲの隣に座った。桶の中身は、液体しかない。既に固形のものは受け付けず、その上で何度も嘔吐している。であれば、この衰弱ぶりも納得がいった。

 背中をさする。帰ってきたのは、拒絶だった。

 

「私のことは……私なんかの事は、放っておいて……」

「俺はカナヲの事情を知らないし、何かを言える訳でもない。でも、誰かに話すだけで気が楽になるかも知れないよ。だから、独り言でもいい、俺を石か何かだと思ってもいい、何に苦しんでいるか語ってくれないかな」

 

 あえて彼女の方は見ずに、さする手は止めないまま言う。

 カナヲはいくらか悩んでいたようだったが、やがてぽつぽつと言葉を紡いだ。自分の罪を告白する、懺悔の言葉を。

 

「仲間を裏切った……」

 

 静々と、血を吐き出すような囁き。

 

「私は自分では何も決められない、出来損ないの人間……。だからいつも師範の言葉に従ってきた。それ以外に、何も求めて……ううん、それすらも求めていなかった。自分で自分を決めない卑怯者……」

 

 うっ、と、カナヲの喉が異音を鳴らす。恐らく吐き気を催したのだろう。だが、何も出てこなかった。既に腹の中には、胃液すら残っていない。出る物もなく内臓をひっくり返す感覚は、普通に吐くより苦しいはずだ。

 

「あの時もそう。化野に攻め込んで……上弦の鬼が現れて……獪岳甲隊士に、情報の持ち帰りと撤退を命じられた。戦わなきゃ、いけなかったのに……! 本当は分かっていたの。私は体よく()()()()()。あの時点で情報を伝える為なら、鎹鴉で事足りた筈なのに。私は、私は――」

 

 歯を食いしばりながら頭を抱え、顔をくしゃりと歪ませる。

 

「命令に従ってしまった! あの後、何人も何人も死んだ! 私を逃がしてくれた獪岳甲隊士も死んだ! なのに、私はのうのうと生きている。どう考えたって甲が生き残った方がいいのに、私は、真っ先に逃げ出した……」

 

 呼吸が速くなる。目は虚ろで、何も見ていない。いや、もしかしたら、その後に死んでいった者達の顔を幻視しているのかもしれない。

 

「こんなになるまで、私は私がどれだけ卑劣なのかも分からなかった……。責任を全部他者におしつけて……命まで差し出されるまで、どれだけ愚かかも分からなかった」

 

 歪んでいた顔が、無に戻る。

 最後に出た言葉は、死者のそれに思えた。

 

「――死ぬべきは、私だった」

 

 そこで、彼女の言葉は終わった。

 懺悔に、一体どれほどの苦痛を要しただろう。

 背中を丸めて小さくなる姿に、一体なんと言葉を掛ければいいのか。慰めか。正当化か。いや、そのどれもが、彼女を苦しめるだけだ。

 最終的に選んだ言葉は、自分でも訳の分からないものだった。

 

「俺はさ、短い間だけど、獪岳と一緒にいたんだ」

「……?」

 

 急に何を、と言った様子で、カナヲがこちらを見てくる。

 

「何度も助けられたし、いろんな事を教わったよ。全集中の呼吸・常中を使えるようにしてもらって、一回り強くなった。鬼の倒し方とか、経験も沢山貰って、実践の時には凄く助けられたんだ」

 

 思い出が溢れる。

 最初に見た時から、獪岳を怖いと思ったことはない。目つきは鋭くぶっきらぼうで言葉も乱暴だったが、匂いには常に優しさがあった。

 指導はとてもわかりやすく的確。投石に関しては、ちょっと理不尽だと思った事もあったが、終えてみれば回避能力と感知能力が上がったのを実感した。ついでに、常中を運用したまま動くやり方も。意味が無い事など一つも無かった。

 戦いは、それこそ圧巻の一言に尽きる。自分ではどう足掻いても勝てないような鬼をあしらいながら、こちらの戦いも常に気に掛けていた。事実、危険な所では投擲で都度助けられていたし。

 こう言っては語弊があるかもしれないが、獪岳は兄のような存在だった。長男の炭治郎には、新鮮な経験ばかりだ。喜び、悲しみ、そして少しばかりの喧嘩なども。

 楽しい日々だった。家族とはまた違うが、それでも、在りし日が帰ってきたような気がした。

 そして。

 そして――

 恩を返せる日は、もう二度と来ない。

 

「え……あれ……?」

 

 気付けば、視界が滲んでいた。何度目をこすっても元に戻らない。数瞬経って、やっと自分が泣いているのだと理解した。

 そうだ。戻らない。消えた命は、決して元に戻ることはない。

 死んだのか。獪岳は、死んだのだ。

 やっと――今更になってやっと理解して、溢れるそれを止めるのはやめた。

 久しく忘れていた感覚。家族が禰豆子だけになった時と同じもの。親しい人が永遠に消えた空虚と、それをどうにもできない無力。

 

「そうだ……俺も、何もできなかったんだ。そこに居合わせる事すらも。何も……返せていない。獪岳から沢山のものを貰ったのに、まだ一つも返せてないよ……」

 

 いつもそうだ。いつもこうだ。自分は肝心なときに、その場にいない。獪岳に至っては、今の今まで涙すら流せなかった。

 とてつもなく憎い。いつだって間に合わない自分が。

 

(ああ、そうか)

 

 カナヲが抱えているものは、これだったのだ。だからやるせなくて、自分を許せない。

 毒だ。一生涯消えることも、ましてや薄まることもない毒。だから、いつか死ぬその時まで、永遠に戦い続けなければならない。

 気がつけば、カナヲも涙を流していた。もう死人のような瞳ではない。代わりに、炭治郎と同じ、深い後悔がある。

 カナヲが力なく体を倒し、炭治郎の肩に頭を乗せた。そのまま顔を埋めてくる。炭治郎は彼女の小さな体を抱きしめた。なぜだか、そうしなければならない気がした。額と額が触れ合い。流れ出るままに地面を濡らす。

 二人分の嗚咽が続く。こんなものは、ただの傷の舐め合いでしかないのかもしれない。それでも、どちらも止めることはしなかった。終われば必ず立ち直るから、このときだけは許して欲しい。願いながら、ずっと涙し続ける。

 

「ねえ、カナヲ。俺たちは、弱いな」

「……うん」

 

 日の光が届かないのが、今はありがたい。

 影は優しく、全てを包み隠してくれる。弱音も、慙悔も、愚かな過ちも、遠くへと覆う。

 

「強くなろう。階級を上げよう。二度と……こんな思いをしなくていいように。二度と、こんな思いを誰にもさせないように」

「…………うん」

 

 二人で抱き合って、思うさま静かに慟哭して。

 すぐ立ち直るから。絶対に強くなるから。今だけは、こんなにも脆くて幼い自分たちを許して欲しい。

 ここで全てを吐き出し終えたら、また戦うから。

 今度こそ、ちゃんとした隊士になるから。

 

 

 

   ×××

 

 

 

「どうにか立ち直ってくれたみたいね」

 

 少年少女が抱き合って涙する光景を見下ろしながら、独り言が風に消える。

 暖かいと言うには少々強すぎる太陽光を背にし、立ち直った二人の子供に、しのぶは安堵する。特にカナヲの方を。

 炭治郎に危うさを感じていたものの、彼に対しては自力で立ち直る事を特に疑っていなかった。心の強さがどうというのではない。酷い言い方かもしれないが、家族が皆殺しにされたのより大分マシなのだから。

 問題のカナヲ、こちらは最悪自殺まで考慮されていた。悲しいことに、同じような目に遭って自ら命を絶った隊士は少なくない。だからこそこうして、暇を見ては遠くから監視していたのだが。これでもう見張る必要などないだろう。

 

「炭治郎君には感謝しないと」

 

 本来、この役割はしのぶがすべき事だった。

 それでもしなかったのは、自殺はともかく、カナヲが隊士を止めるならその方がいいと思ってしまったからだ。隊士を止めて、多少足踏みをしてもいいから普通に物事を感じられるようになって、いつか所帯を持って、普通に人としての一生を過ごす。そんな未来を期待してしまった。いや、押しつけてしまった、か。

 これも、隊士病の一つと言えばそうなのかも知れない。

 多くの隊士は、何かしらの志を持っている。それを折ってまで、大事な人に『普通』を求めてしまう。本人が望まないとしても。

 

(私が言えた義理ではないのだけど……)

 

 愚かしさに呻く。

 姉の敵を原動力にしている者が、同じ思いを持つ者をどうして排除できるのか。カナエに何度も言われた。しのぶには普通に生きて欲しい。言葉を拒否した自分が、似たような事を願っている。

 ――自分が、上弦の弐と差し違えようなどという考えが知られれば一体どんな反応をするだろう。

 怒るだろうか。悲しむだろうか。力尽くで止めるだろうか。それとも、受け入れてくれるだろうか。恐らく手遅れになるまで、知られる事はないだろう。だが。その時が来たら、少しでも自分のことを想ってくれたら嬉しい。そんな、他愛なく下らない事を考えた。

 これ以上見ているのは野暮というものだろう。立ち去ろうと膝を持ち上げた所で、表の方から騒ぎが聞こえてきた。

 

(何かしら?)

 

 胡蝶邸は、騒がしさ疎んじている(診療所なのだから当然だ)が、かといって厳かであるのを求められている訳でもない。なんだかんだ、治療に騒ぎは付きものだ。何しろ大抵の場合、怪我の快癒を求められる場所であり、当然患者が大人しくしている訳がないから。

 が、今回の騒ぎは、どうもそれらと別種であるようだ。

 まさか鬼が攻めてきた、とは思わない。真っ昼間であるし、それ以上に、産屋敷邸や刀鍛冶の里ならいざ知らず、ここを鬼が襲撃する価値など皆無なのだから。

 厳重に隠されている産屋敷邸や刀鍛冶の里とは違い、胡蝶邸は鬼に知れているだろう。そもそも、人の出入り数を考慮すれば、隠すという発想自体が非現実的だ。それでも攻略対象にされないのは、単に無意味だからである。

 そもそも治療自体は、藤の花の家紋がある場所ならどこでも受けられる。さすがに収容人数で言えば胡蝶邸が一番であるものの、隊士が常駐している危険と、どれほどの力かも分からない怪我人を撃滅する利益を秤に掛けた時、どちらに転ぶか。まあ下らない比較ではある。

 だいたい替えの効かない技術を持っているのは、胡蝶邸ではなくしのぶ個人なのだし。鬼がしのぶの価値を知っていればの話だが、ならば上弦を差し向ける価値はあるかもしれない。

 どうであれ、職員の悲鳴(怒号?)が響くような場所ではなかった。

 止めようかと一瞬考えたが、とりあえず様子を見てからにしようと改めた。音がどんどんこちらへ近づいてきたからというのもある。

 ぎゃんぎゃん喚きながら庭を進んでいるのは、ひょっとこ仮面の男だった。彼を止めようと、なほが三つ編みを振って飛びついている。様子から、明らかに怒り狂っているのは分かったが。

 

(ああ、刀鍛冶の方ですか)

 

 理解し、しのぶは少しげんなりした。恐らく炭治郎の刀を直し、持ってきたのだろう。

 鬼殺隊専属刀鍛冶。その里は秘匿性がとても高く、ともすれば産屋敷耀哉より厳重に秘されている。同時に刀鍛冶はよく言えば情熱的、悪く言えば偏屈な人間の集まりだ。しのぶも普通ではない刀を作って貰ったためとても世話になったが、それはそれとして苦手な類いの人間だった。

 予想に反することなく、刀鍛冶は炭治郎を見つけると走り出し……何故か両手に包丁を持って襲いかかった。

 

「このクソガキぃ! 俺の打った刀をガタガタにしやがって、ぶっ殺してやる!」

「え、鋼鐵塚さ……ちょ、わ、あああぁぁぁ!」

 

 形相と両手に持つ刀に恐れをなし、炭治郎が逃げ出す。一体どういう身体能力をしているのか、近づけはしないものの離されもせず、刀鍛冶――鋼鐵塚は追いすがっていた。曲がりなりにも現役隊士に走力で匹敵するなど、一体どういう足腰をしているのか。

 

「まあ、危険が無い事は分かったからいいでしょう。そのうち落ち着くでしょうし」

 

 関わりたくない、という思考は脳の裏側に隠したまま。しのぶはそっと退散を始める。

 彼女の、次の任務はもう決まっていた。伊黒小芭内の補助をしつつ、万世極楽教及びその他鬼が隠れ蓑にしている可能性の高い組織の調査。外見だけであからさまに目立つ者ではなく、かつある程度の戦闘力が保証されているとして選ばれた。

 もはや後先も考えず。しのぶは上弦の弐ただ一人に、意識を全て割り振った。

 

 

 

   ×××

 

 

 

 ぼんやりと。眼球すら動かすことなく、善逸は座っていた。

 全身が緩やかに腐っていくような感覚。あるいは、我妻善逸という存在が内側から消えて無くなっていく感覚。それに抵抗する気力もなく、いや、抵抗するという発想すら浮かばず、ただされるがままになっていた。

 頭を撫でられている、のだと思う。髪の毛をくしゃくしゃにかき回されている感触はあった。多分禰豆子だろう。

 女の子は好きだった。優しい女の子は、大好きだった。今は、どうだろう。分からない。ただ、あれだけ憧れていた相手からの接触でも、善逸の心が動くことはなかった。

 獪岳の死亡。この情報について、それ以上の何かが善逸に知らされる事はなかった。

 所詮隊士の下っ端には、公開できないのか。それとも、関係を知っているため知らせない方がいいと判断されたか。

 どちらでもいい。どうでもいい。なんでもいい。

 ただ、善逸は今、全てを見失おうとしていた。

 いっそ仇でも分かれば、そいつに全てをぶつけようと考えられたかも知れない。だが、現実は全てが宙吊り。鬼だから、と全てを一纏めにして憎めるほど、彼の心は強靱ではなかった。

 

(これから……どうしよう)

 

 思って思わず苦笑した――した気になった。

 どう、とは一体何を指しているのか。そんなものが分かっていれば、とっくに動けている。すべき事も、義務も、責任も、仇も、何も分からない。

 他者に愛を求める馬鹿な子供をやっていて、泣いて逃げ回りながら剣の修行などをして、命からがら死ぬ思いなどして鬼と戦って。自分のあずかり知らぬ所で兄弟子が死に、あっという間に抜け殻。

 多分、自分で何かをしてこなかった人間にはお似合いの末路なのだろうな、と思った。

 その時。頭に、軽く硬い感触が響いた。

 

「んムゥー!」

「うるせえ、少しあっち行ってろ」

 

 頭に触れていた感触がなくなる。くぐもった声が遠くなっていく辺り、無理矢理追いやられているようだが。

 どれほど間も置かず、荒々しい音を立てる方だけが戻ってくる。善逸の真正面に立ち、仁王立ちの状態で見下した。

 

「テメェ、まだ死んでんのか」

 

 苛立った声が突き刺さる。

 誰だろう、などと思ったわけではない。ただ反射的に、眼球が動いただけだ。

 姿ははっきりと見えている。ただ、どうしてもそれが誰だか分からなかった。人を索引する能力が、いや、脳の機能そのものが極端に低下している。相手が嘴平伊之助だと気付いたのは、何秒も経った後だった。

 

「なんとか言ったらどうなんだ、オイ」

 

 あからさまな不機嫌で、伊之助が吐き捨てる。だが、殴っては来なかった。

 知っている。彼は胆力のない者相手には、一度しか殴らない。その後は殴る価値もないと思っているのか、それもとただ単に張り合いがないだけか、そこまでは分からないが。とにかく、一発だけなのだ。

 気概のない者は自分の前に立つ資格もないと言うならば、それは正しい。全くもって正しい。今の善逸など、脇に退けられてしかるべき存在だ。

 

「チッ!」

 

 情け容赦の無い舌打ちが降りかかる。そして、伊之助は何かを顔に叩き付けてきた。

 

「見てみろ」

 

 見上げると、彼は既にそっぽを向いている。視界に入れたくないとばかりに。

 投げられた紙を拾い上げると、一番上には『辞令』と書いてあった。遅々としながらも読み進める。善逸の体が、初めて鋭くぴくりと動いた。

 

「まだ化野に鬼がいるみたいだから、俺らも行けってよ。獪岳を殺した鬼がまだいるとは思わねえが、そんでもなんかあんだろ。形見とか」

 

 一気に。視界にあるもの全てを認識できるようになった。今まで聞き分けられなかった、遠くの声までつぶさに捉えられるようになる(なんでだか炭治郎の悲鳴が聞こえた)。獪岳に、絶対に絶やすなと言われていた全集中の呼吸・常中。浅い呼吸しかしていなかったため途切れていたそれを、全力で回す。体の隅々にまで電流が走り、一気に全身を起動させた。

 まるで型でも放つときのように、呼吸が響く。雷だ。心臓が雷を生み出し、全身に纏わせている。

 紙が読めなくなるのも気にせず握りしめて、立ち上がる。あまりに強くしたため、指が紙を裂いてしまった。が、そんなものはどうでもいい。本当に。何もかも。ただ一つを覗いて。

 焦点が定まった。

 

「伊之助」

「ハハハハ! いい顔するようになったじゃねえか!」

 

 笑い声だけ響く面の下にある、狂暴な笑みの形が簡単に予想できた。そして、恐らく、彼も怒っている。

 

「出発まで、稽古の相手してくれ。短い間で、どれだけ調子戻せるか分からないけど」

「安心しろ、死ぬほど扱き倒してやるぜ!」

 

 木刀を取りに走る。

 ひとまず自分がすべきことは分かった。その後どうなるか分からなくとも、今を原動力にできるもの。

 弔いだ。

 

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