獪岳と善逸 作:山筋
血の池が広がる中。少女のか細い呼吸音が、妙に生々しく聞こえる。
甘露寺蜜璃の傷は、控えめに言って致命傷一歩手前だった。ひゅーひゅーという呼吸をする、というよりは息が漏れている音は、全集中の呼吸・常中を極めた証だろう。こんな状態になっても、延命をやめない。今すぐ死ぬことはないだろうが、それも時間の問題。遠からず治療を受けなければ、間違いなく命の灯火が消える。
彼女の脱落は、絶望を与えるのに十分なものだった。
ただでさえ五人がかりでなんとか接戦を演じていた状況。その中でも、柱という最上位者の敗北。精神的支柱を奪われたに等しい。同時に、援護ありきで戦いっていた義勇が、これからは孤軍奮闘を余儀なくされたという意味でもあった。
「時間を稼げ! とにかく……なんとか引き延ばすのだ!」
行冥の叱咤聞こえる。ありがたい。が、同時に、信頼性の全くない根性論だった。
分かっている。他に何もないならば、最後に頼るのはそれしかない。分かっていてなお、失意は隠せなかった。
臆病風に吹かれた、とまでは言えないが。回避し得ぬ絶望に、奥が場かみ合わな事くらいは許して欲しい。鬼となった獪岳の剣と異能を捌ききるというのは、絶望という言葉以外では何も言い表せない。
行冥は全身全霊で呼吸を貯め、立ち上がった。が、それは本当に立ち上がっただけだ。両手で己の武器を保持することすらできない、どころか、腕を持ち上げることすらできそうになかった。
最初、行冥がやられたのは、想定外の自分物が現れたことにより、不意打ちが原因だから仕方ないにしても。蜜璃のそれは、完全な力負けだ。柱の間でどれほど実力者があるか分からないが、少なくとも獪岳は平均的な柱数人分の力を持っている。
鬼でも化け物でもない。超越者。獪岳を表するのに、これ以上の言葉はないだろう。それも、絶対に間違えない強さ。
戦力を一つ潰した。そのことにすら気に掛けず、獪岳は血糊を払って刀を構えた。
それを見て悲しくなる。
今の獪岳はどう見ても、言い訳のしようも無いほどに、鬼の奴隷だった。
かつての笑みが思い出せない。どうしようもない弟を見る目。阿呆な事を言ったからと愚図扱いする目。サボった善逸を小馬鹿にして振り回す目。そして、珍しく訓練が上手くいって、不器用ながらも喜んでくれる目。
全てが色褪せそうで、同時に決して消えてくれない。
ここにいるのが獪岳だと、本当に信じたかった。疑いたくなかった。
炭治郎の胃から溢れる饐えた匂いを堪えた戦意。伊之助から溢れる激情。あらゆるものを総動員して、なお足下にも及ばない。
分かってしまった。これは終わりの始まりだ。
「楽しいなあ、楽しいなあ! 今まで私を塵のように扱ってくれた柱が、塵芥も同然だ! 人など所詮我々の餌になっていればいい物を、調子に乗るからこうなるのだ!」
「零余子、君はひたすら情けない事を言っている自覚はあるかい? でもまあ、ここであのお方の御心に添えるのは悪くない。お前たちを滅して、是非ともご寵愛を頂くんだ。さすれば上弦の鬼に挑むことも夢ではなくなるね。ああ、今から楽しみだよ。あのお方の血を分けてた抱く栄誉を賜れることが、楽しみで仕方ない」
恐らくは、柱二人の撃破。これで十分成果は果たしたのだろう。
だが、それで満足する様子は、どちらの鬼にもなかった。絶対的優位とは、過大な戦果を求める物だ。それは鬼も例外ではない。人間の上位種を気取ったところで、元が人だった事に嘘はつけなかった。根元の欲求まで様変わりするわけではない。それが矮小だと見下す人間と同質であると、自覚はあるのだろうか。
侮りはありがたいが、かといって為す術もない。蜜璃離脱による戦力の低下は、鬼の驕りを考慮してもなお致命的だ。
「さあ、そろそろ始末をつけるのだ、人形よ! 刻んで刻んで刻んで刻んで、私に刃を向けたことを後悔させながら殺せ!」
「ここで滅してもまた次がある。苦悶の表情は、また別の隊士に期待するとしよう。ああ、でも最後に世界全てを呪うような失意を見せてくれると嬉しいな。やっぱり俺は、そういう顔を何度でも、永遠にでも見たいんだ」
「下衆どもが……!」
完全に図に乗った鬼達の言葉に、義勇が吐き捨てた。今の状況では、空しいだけでしかない。
二人の鬼が手を掲げた。そこから漂う妙な気配は、血鬼術の残滓とでも言うものだろうか。術は真っ直ぐ獪岳に突き刺さり――そして敵意も殺意もないまま、気配だけが爆発的に膨れ上がった。
これが全力にさせたのか、それとも限界以上の力を引き出させたのか、どちらかは分からない。理解できたのは、今まででさえ柱を圧倒していた戦闘力が、さらに高まったという事だ。
雷鳴のような疾走とはまた別の、空気を弾き飛ばす音。もはや残像すら捉えられなかった。
「止まるな!」
義勇の絶叫が響く。
同時に、皆が全力疾走を始めた。目的など無い無茶苦茶な走り方。そんなものでも、棒立ちで迎撃するよりはいくらか生き残れる可能性がある。当然、分かっていない訳がない。鬼化獪岳を前には、そんなもの気休め程度の意味も無いと。
颶風という言葉すら生ぬるい。獪岳の動きは、もはや瞬間移動としか言えなかった。地面への影響を最小限に、つまり脚力の全てを無駄なく推力にしている。恐らくは現鬼殺隊の誰一人として再現不能な超高速移動。
混戦に紛れて、義勇が下弦の鬼へと襲いかかろうとしたが。それはあっさりと獪岳に回り込まれ、止められてしまった。
彼は遅いわけでなければ、ましてや弱い訳では決してない。単純に相手が悪かった。
生前の時点で、こと走る速度という一点において、間違いなく獪岳は鬼殺隊最速だっただろう。その上で鬼の肉体を得た現在、鬼でも五指に、いや、それどころか鬼最速であっても何ら不思議はない。
速度もとい機動力は、鬼殺隊が鬼に対して持つ唯一の優位だ。これが崩れた場合、人が鬼に対抗できる手段はあまりに少ない。
「ぐっ……クソッ!」
「何か、なんとか……!」
炭治郎と伊之助の負担が極端に増えたのは、獪岳が全力になったからだけではない。
義勇は蜜璃の援護を失ったが、代わりに対獪岳の戦闘には慣れた。それで傾いた秤が戻るほど彼女の存在は小さくないが、多少なりとも楽になったのは変わりない。事実、彼は傷を大量に増やしながらも、三人の負担を軽くしてくれている。
最大の問題は何か。そんなものは分かっている。我妻善逸自身だ。
この戦いの中、善逸は一度として納刀、つまり鬼に通用する攻撃態勢を取っていなかった。特攻して必殺の一撃を見舞うしか能が無いにも関わらず、だ。それは、何も善逸に霹靂一閃を放つ余裕がないというだけではない。
雷の呼吸において壱ノ型は必殺必勝の技。逆に言えば、殺す以外の使い方がないという意味でもある。
善逸にとって獪岳が兄も同然の存在だというのは、この場にいる隊士全員が知っていた。同じように、愛する者を手に掛ける事ができた者は、あまりにも少ない。
ある意味において、強い理解があった。善逸が獪岳を直接手に掛ける事はできない。させてはいけない、と。
彼らの温情に甘えたわけではない、などとは口が裂けても言えない。実際に、獪岳の命に届く可能性のある行動は、一度として取っていないのだから。これは忌避感なのか、それとも恐怖なのか、善逸には判断できない。ただ、意地が悪く厳しいが、とても優しい兄を殺す覚悟だけは、どうしても持てなかった。
心情を理解しているから、炭治郎と伊之助は、極端に大きくなった負荷を黙って請け負ってくれている。善逸に無理をさせないように。
最悪の気分だった。獪岳を殺せなければ仲間を生け贄に捧げ、仲間を助けたくば義兄の頚を自ら落とさなければならない。何より酷いのは、そのどちらを選ぶこともできず、いたずらに引き延ばし、ただただ負担を強いている自分自身だ。
善逸が何も決められない間にも、状況は悪化の一途を辿っていた。味方の疲弊はいよいよ限界に達し始め、逆に獪岳は剣士との上手い戦い方を習熟させている。
次第に、皆が鞠のように跳ね飛ばされるようになっていった。
「あがっ! 重っ、てえ!」
「づっ!」
「あぎっ!」
「……くっ!」
これは単に、受け流せなくなっていったというだけではない。獪岳が工夫をしなくなったのだ。
一見良い事のように聞こえるが、実のところ、この選択は鬼殺隊にとって最悪のものだった。
鬼と人、最大の差は何か。言うまでも無く血鬼術の有無である。ならば次は。これも簡単、身体能力だ。最下級の成り立て鬼ですら、膂力で鬼に敵いはしない。それは、呼吸といういかさまじみた力を使ってなお速度だけは互角になれる、という点を見ても明らかだ。
技術を前面に出してくれれば、少なくとも義勇は傷つきながらも受け流せる。だが、単純な力のぶつかり合いに持ち込まれればどうか。答えは至って単純、抗う術の一切合切を失う。
「…………」
「ぐ、ぅ」
「冨岡さん!」
火花散らし、十文字に交差する水と雷の刃。競り合いを制したのは、当り前に雷だった。
獪岳は技術を捨てたわけではない。むしろ、技術を総動員しているとすら言える。種は明かしてしまえば簡単、相手の刃に対し直角に剣を当てるようにした、それだけだ。
双方素人ではないのだから、上手い殺し方ができる軌道というのは自ずと限定されてくる。ましてや鬼殺隊のように、頚を狙う習性とでも言うべきか、そんなものがあるならばなおさらだ。数の利もあるのだから、立ち回りによっても軌跡を限定できる(普段の獪岳ならばそれを裏切るよう考えただろうが、人形と化した彼には望むべくもない)。
回らない頭を体で補う。恐らく獪岳はそう判断し、そして実行した。
技術で勝負してくれれば、対処の方法はまだある。だが、無理矢理筋力勝負に持ち込まれてしまえば、為す術があるはずもなかった。無論、そうするのが簡単でないのなど言うまでもない。卓越した技術と判断力あっての技だ。もしこんな真似が簡単にできるのならば、いかな柱であっても、下弦の鬼にすら劣るだろう。
一瞬気を抜いて命を刈り取られる心配がなくなった代わりに、大きな槌で体をすり潰されていく。そんな心地だった。一撃一撃がとにかく重い上、刃を受け流せる角度で放ってくれない。そしてどんな絡繰りか、鬼殺隊側の剣は急速に摩耗しているにも関わらず、獪岳の剣はほとんど疲弊していない様子だった。
鬼が渾身の力で振るう刀を受け止めると、刃物同士がぶつかったとは思えない、鈍い音が響く。音は、概ね比例した衝撃を、骨と肉に伝えた。
今まで戦線を保っていた義勇が一気に劣勢となる。仕方がない。彼が善逸ら三人に勝っているのは、重に技術と経験だ。その二つを剥奪されてしまうと、両者の違いはほぼないと言ってよかった。
(火雷神……使うべきなのか?)
善逸が、獪岳と肩を並べるために考案した、台漆の型。己の弱さも相まって、恐らく今唯一獪岳に有効な手だろう。もしこれを持っているが義勇であったなら、間違いなく虚は突けない。間違いなく一番警戒している相手なのだから。
呼吸が乱れそうなのを自覚しながら、右手の指を疼かせ。しかし、終ぞ手が動くことはなかった。
(駄目だ。火雷神は未完成だし、どのみち発動できる程の隙は見せてくれない)
火雷神は、霹靂一閃を下地にした型だ。つまり、納刀という前提が必要になる。簡単にそれをさせてくれるなら、とっくに討てていた。ましてや不完全な技で半端に飛び込めば、それこそ格好の的だ。
互いに有効な手はない。が、だからこそ獪岳は、地道にすり減らしてくる事を選んでいた。
暫く金槌同士を叩き付け合うような音が続く。とてもではないが、高速戦闘をしながら鳴り響かせている音とは思えなかった。一度でも体で衝撃を受け流しそびれれば、両腕の骨を粉砕されるだろう。
だが、失敗を待たれるまでもなく、その時は訪れた。刀ががたつき始めたのだ。
(目釘が割れた!?)
今すぐすっぽ抜ける程ではない。が、戦いを続けられる状態でもなかった。どれだけ保っても、あと二桁は受け止められないだろう。
いや、それよりも刀が微細に動いてしまう事の方が問題だろうか。完璧に刃筋を立てず切れるほど、鬼の頚は柔ではない。これは、もう善逸はどんな手を使ってでも獪岳を討てない事を意味していた。今はそうでなくとも、いずれ炭治郎や善逸も、そして義勇ですら同じようになるだろう。
特段気を抜いたつもりはなかったが。それでも、瞬きに見たぬ隙間は、獪岳が付け入るのに十分だった。
獪岳の姿が消える。致命的な遅れを残して、音がどこに現れたかを教えてくれた。痛打を食らい、姿勢を崩していた伊之助の正面。
「んなっ」
驚嘆の声を上げた伊之助が、咄嗟に刀をそろえて受け止めようとする。
彼の名誉を守るために言うが、伊之助の反射神経も判断力も図抜けている。その二つに限れば獪岳すら越えるのではないかという程だ。だからこそ断言できる。伊之助の行動に、一切の落ち度はなかった。その上で、ただただ取れる手がなかった。それだけだ。
振り向くのがやっとの善逸が捉えられたのは。足下が浮いた伊之助に対し、獪岳はしっかりと地面を踏みしめて刀を振り下ろし気味に凪ぐ。伊之助は鬼と腕力勝負に持ち込まれ、当然負けた。
双剣ごと体に押し込まれ、右肩から左胸当たりまで血が噴出する。どれほどの深さかは分からない。肋骨を寸断するまではいってないようだが、今までと同じ援護を期待するのは畜生にも劣る言い分だ。
返す刀で狙われたのは、炭治郎だった。
一人落ちた同様につけ込まれた、とも言えるが。これを彼の失策と言うのは、少々酷だろう。判断速度は上位の鬼であっても十分間に合っていたし、善逸も、獪岳との長い訓練経験がなかった同じ判断をしてただろう。
後ろも見ずに放たれた煉獄の雷を纏った一閃は、正確に背後からの襲撃者へ食らいつく。
なんとか日輪刀を割り込ませて、血鬼術だけは押さえ込むものの。刃そのものの威力までは受け止めきれず、左肩に骨まで到達するほど深々と侵すのが見えた。
激痛と衝撃に負けて、炭治郎が倒れ込む。同時に、そこで緊張の糸が切れてしまったのか。見るからに体が弛緩していた。
共に致命傷ではなく、また復帰できないほどではない。しかしここで問題なのは、今すぐ援護に戻れないという点だ。
善逸には、獪岳の手札を全て知っており、さらに炭治郎と伊之助の援護があって初めて、義勇と同等の働きができていた。ここから、補助の二人が引かれてしまえばどうなるだろうか。答えは簡単、既に善逸は、足手まといにしかならない。
ちょっと経験があるだけの隊士へどう対処するか。答えは簡単だった。徹底的に無視し、柱へと全力を注ぐ。これは別の意味も示唆していた。善逸単独では、一欠片も注意を払う必要が無い。
ここに至って、獪岳は押し合いの強要なら通常戦闘へと戻る。恐らくは唯一残ったまともな戦力である善逸を参加させないためだ。
守りは義勇に分がある。技量はほぼ互角(少なくとも善逸にはそう見えた)。が、その他全ては獪岳が圧倒していた。特に速度差は、比べるのも悲惨なほどだ。
超高度な技術の応酬。そのたびに火花が舞う。舞ってしまう。
火花は、硬い物体同士が摩擦を起こし、削れて発生してしまう現象だ。つまり獪岳か義勇、そのどちらかの日輪刀が、恐ろしい勢いで減滅している。普通に考えれば、悲しいかな、命を散らされているのは義勇の刀だ。
そして。ついに、義勇は失敗をしてしまった。
これは恐らく、なるべくしてなったことなのだろう。傀儡として機能を行使する獪岳に、集中力という概念はない。対して義勇は、すぐに尽きると分かっていても全神経を尖らせた。どちらが最初に失敗を犯すかなど、考える価値もない。
下段に滑らせた刀が、義勇の右ふくらはぎを軽く裂く。が、最悪なのは、日輪刀で受ける余裕がなかったという点だった。切創からあっという間に黒い歪が全体へと広がり、膝から下を食い散らかす。雷が走り終えて消えた後、忘れていたかのように大量の血が溢れた。
もはや足に力を入れることすら敵わず、両手を突く義勇。なんとか立ち上がろうと足掻いているが、壊れた足は、気合いでどうにかなるほど甘くない。
そして。
無機質な目が、唐突に目の前へと現れた。殺意も何もない、それどころか瞳に色すらない。黒い鏡のような目。
一陣の光に刀が割り込んだのは、ほとんど偶然だった。抜刀術の構えをしていないときは、とりあえず正眼に構えておけ。そう言われ続けたからこそ、なんとなく構えていた剣が、たまたま盾の役割をしてくれた。
キィン……と、義勇の時とは真逆に軽い音が鳴る。獪岳の剣が、日輪刀を綺麗に両断された音だった。
日輪刀を折られる事はある。いかな通常の鋼より強靱とは言えど、所詮は刀だ。構造上の弱点はある。日輪刀の耐久力すら凌駕する血鬼術の一撃で、破壊される事も少なくないと聞いた。だが、日輪刀で日輪刀を寸断できるなど、初め聞いた。
「あ……かい、がく」
疲労。そんなものはどうでもいい。損耗。いくらだって無視してやる。ただ、それでも膝を突きへたりこんでしまったのは。
刀を携えた獪岳が、なんの感情もない目でこちらを見下ろしている。その事実に打ちのめされたからだった。
(次元が……違う)
根本的に思い違いをしていた。獪岳の実力、その意味を、まるで分かっていなかったのだと、嫌が応にも知る羽目になる。同時に、忘れていた事も思い出した。いや、分かっていたつもりで、実のところ全く理解していなかった事を突きつけられたと言った方がいい。
獪岳がなぜ柱になれないのか。それは雷の呼吸で唯一戦闘決定能力を持つ霹靂一閃を使えないからだ。格上に逆転の一手がないどころか、下手をすると格下にも転びかねない。だからこそ彼は、偏執的とすら言えるほどに入念な準備と、血鬼術の予見を行っていた。それでもなお柱には届かない。
自然と、もしかしたら誰もが、獪岳を柱未満だと侮っていたのだろう。
ぐうの音も出ないほど正しい。同時に、致命的に間違ってもいる。
(鬼に対しては、獪岳は“柱”たり得ない……。なら、人に対しては? 人間が相手なら、柱と称するに相応しい実力を……いや、柱の中でも特に高い実力を持っているんじゃないのか?)
柱ではない――ただそれだけで、侮っていた。忘れていた。安堵していた。
こちらには柱がいるのだから大丈夫だという根拠のない自信。登場と同時に一人やられたとしても、それはあくまで不意打ちだからという無意味な妄想。圧倒的劣勢が続いておきながら、壊滅するまで終ぞ気づけなかった蒙昧。
鬼に対して弱いなど、対人戦闘ならば僅かばかりも欠点になどならない。
無慈悲で、無遠慮で、無感動。鬼に宿るは殺戮に適しすぎた剣技。厄災の魔人。
もし柱を純粋に実力だけで計るのならば。獪岳は間違いなく、れっきとした柱の一員だった。現役の柱すらそうだと認めている。
弱いわけがない。柱に劣るわけがない。ましてや鬼になり血鬼術まで扱えば、柱のたかが二、三人、圧倒できない訳がなかった。
刀に反射して輝く黄が、嫌味なほど鈍く輝く。同時に、その光ははっきりと告げているように思えた。今更気がついても遅い。否、いつ気がつけようが関係ない。其は人。我は刃。人喰らいの牙より逃れる術はない……
もはや短い鋼の棒となったそれが、手から滑り落ちる。刀の断面が先に落ちてきた切っ先に触れ、寒々しい鈴の音を奏でた。
ほとんど同時に、体がどっと重くなる。今まで忘れていた疲労を思い出したのだ。途端に呼吸が荒れ、全身から汗が噴き出る。体の腕と言わず足と言わず、全てが痙攣を起こしていた。ただ一つ、ひたすらに冷めて痛い程の頭は、疲れのせいだけではない。
これから自分が死ぬ事の恐怖と、獪岳にそうさせてしまう罪悪。二つがない交ぜになって、頭の中をぐちゃぐちゃにかき回した。
ただ。これが無自覚な侮りのツケだと言われたところで、到底受け入れられるものでもなかった。死にたくないし、殺させたくもない。身勝手な物言いなのは分かっている。傲慢を押し通す力などないのも。
「もう終わりか、呆気ない。まあ、だがまあ、所詮この程度ではあるのだろうな」
「ああ、悲しいなあ。まだまだ苦しむ様を見ていたいのに。けど、この人形があるならまだまだ楽しめる、か。今はそれで我慢するしかないね」
二人の鬼が名残惜しそうに呟く。
そして。残酷な笑みを浮かべた零余子が、ゆっくりと白い指先を持ち上げた。
「さあ、残りを始末しろ」
ゆっくりと、刀が持ち上げられる。月光を弾いた銀と黄の煌めきは、やけに鋭く目に刺さった。
斬首剣が振り下ろされる様が、やけにゆっくりと見える。
刃は。
はっきりと、しかし確実に頚へと食い込み……獪岳の頭を跳ね上げた。
「――は?」
その呟きは、誰のものだっただろうか。ただ、声は誰のものであってもおかしくない。真正面にいた善逸も、状況を全く理解できないでいた。
なぜ自分は生きている。なぜ獪岳の体に頭がない。なぜ首無しの体が、よたよたと自分に近づいてくるのだ。
鬼の自殺。そんな例は聞いたことがない。ましてや意識が残っているかも分からない状態なのに。それでも仮に、仮にこの骸に獪岳が残っていたとして、彼を死を選ぶだろうか。少なくとも善逸の知っている彼であれば、全力で生き足掻く。
それでも。その上で、もし獪岳が死を選んだのだとしたら。そこに……一体どんな意思が詰まっているだろうか。
千鳥足の死体が寄ってくるのを、善逸は抵抗もせずただ眺めた。刀からは、彼の血が灰の様にはらはらと舞い散っていく。その光景に、僅かな懐かしさを感じる。昔に師と、そして獪岳と見た、季節外れの牡丹雪が切なく溶ける姿。なぜそれと、命の欠片が重なるのだろう。
動脈から吹き出る血に勢いがあったのは、本当に短時間だった。後は心臓の鼓動に合わせて、僅かずつ垂れているだけ。そんな状態でも、鬼ならば人一人の首を落とすくらい訳ないだろう。そうと分かっていてもなお、善逸は動かない。
露の溶けきった刀が、腰から抜いた鞘に収められる。拵えから何から、全て生前ままのそれ。
鬼が武器を持つ場合、自らの体を変質させたものを扱う場合が多い。出し入れが楽だとか壊れても痛手にならないとか理由は様々あるが、一番は強度だろう。鬼の体は元から鋼より強靱な上、鬼としての力が強くなるに比例して強度が上がる。日輪刀に弱いという欠点を加味してもなお、普通の武器にこだわる理由はない。
この刀は、どうなのだろう。元の刀に似せて作ったのか、もしくは生前のものをそのまま使っているのか。どちらであっても、少しだけ、救われた気がした。そこにだけは、獪岳の残滓がある。
刀が差し出された。
受け取ろうとして咄嗟に手を持ち上げたが、逡巡する。このまま握っていいのだろうか。それが正しいのだろうか。
いや、違う。正しいかどうかではない。自分にその覚悟があるか否か。
指に力を込め、鞘を両手で、大事に掴む。それを確認するかのように、獪岳の体から最後の力が抜けて。膝から倒れ込んだ。
信じて……いいのだろうか。獪岳から託されたと、我妻善逸という人間は託されるに足る人間だと。
答えは出ない。多分、永遠に。
何かしらの感情に浸かるより早く、同時に鬼が立ち直るより先に、行冥が叫んだ。
「畳みかけろぉ!」
はっとする。そうだ、まだ何も終わっていない。ただ、零に戻っただけ。
咄嗟に鬼が逃げ出そうとする。が、それは敵わなかった。行冥は、胸から血を噴き出しながらも進路上に鉄球を落とす。一瞬、鬼の足を止めた。その程度の効果しか無い、自棄とも言えるような攻撃だが。鬼に逃走を一時諦めさせるには十分だった。
降り注ぐ、と言うにはあまりにも暴力的なそれに、鬼たちは思わず蹈鞴を踏んだ。同時に、失策に顔を歪める。無視して通り抜けていれば、問答無用で自分たちの勝ちだったのに。ありもしない追撃を気にしてしまった。
開き直って振り返る。
「く……! でも、舐めて貰っては困るねえ」
「所詮は半死人と半人前の残り物よ! 十二鬼月を侮るかぁ!」
鋭い威圧が飛んでくる。獪岳と比べれば子供のようなものだと言っても、そもそも比べるのもおこがましい地力の差があるのだ。腐っても十二鬼月、依然実力では現段階で動ける三人を圧倒している。
善逸は、刀を佩く時間も惜しんで飛び出した。彼は魘夢へ、炭治郎と伊之助は零余子へと突っ込んでいく。
魘夢がこちらへ向かって、両手を掲げた。それぞれ掌と手の甲を見せている。片方には目が、片方には口が生えていた。
どうするべきか。一瞬考えそうになって、即座に思考を破棄した。自分ができることなどただ一つ、突っ込んで頚を刈る事だけ。ならば、相手の出方など気にしたところで、足が鈍る分害悪でしかない。所詮は一芸特化の一発屋――
『違え』
何かが、そう囁いた。
どこから発せられたものなのだろう。少なくとも耳朶を打ったものではない。体の中、頭か、心臓か。いや、それらですら違う。一体自分のどこから言葉を告げられているのか、今はそんなことを気にしている間などないにも関わらず探した。これは一体どこから発せられているのだろう。腕だろうか。いや。
……刀?
善逸の動揺も余所に、言葉は続けられる。
『相手の血鬼術は非接触、不可視型だって分かってんだ。真っ直ぐ突っ込みゃ先に当たるのはテメェだってなガキでも分かる。突っ込み癖はお前の悪いところだって何度も何度も、口を酸っぱくして言っただろうっが』
そんな台詞が、正確に言語化されたわけではない。大部分は想像で補っているという自覚はあった。
それでも。目頭が熱くなる。
『
それは、持ち主をそそのかす佞言なのかもしれない。もしかしたら、こうなる可能性を考えた鬼の罠かも。
だが、どうだっていいと思えた。獪岳の嘘を考えるくらいならば、一緒に自滅する。その程度の覚悟はあった。
呼吸が変化する。姿勢や筋肉、それこそ感覚の微細な動きすら変わった。全てが鋭敏になり、同時に極端な繊細さを見せる。そこにぎこちなさは欠片もない。今まで一つとして体験した事の無い力が、まるで長年付き添い研鑽を続けたかのように動いた。
雷の呼吸
壱ノ型並の速度を、不規則な軌道で走る。それこそ音や影すら置き去りにするのではないかと思うほどだった。善逸は体を魘夢の視界から消し、刀を横に倒しながら薙いで、何かを払った。
『現時点で分かってるのは、下弦の壱は精神干渉系の血鬼術を保ってるって事だ。こいつを無条件にまき散らせるってこたあほぼありえねえ。手に作った目と口がその考察を補強してる。視界に映るな。音を乱せ。そんだけできりゃあ、後はお前の敵じゃねえ』
手を。添えられた気がした。ただそれだけで、今まで限界だと思っていた体に力が入る。
「無駄な、抵抗を!」
魘夢の体が、悲鳴を上げながら蠢いた。ぶちぶちと肉を引き裂き破る音がし、その下から現れたのは、全身を覆う大量の目。こちらの変則的な高速移動に対し、物療で対処してきた。
八方全てに逃げ場がなくなる。目と視線を交わしたらいけないのか、それとも視界に入っただけで駄目なのか、或いは他の条件があるのか。さすがに測りようがない。だが、最悪を考慮するならば、発動した瞬間、自分だけではなく炭治郎と伊之助まで終わる。
『全部なます斬りにしちまえ。できんだろ、今のお前なら』
(できるさ……やってみせるよ)
言葉に、初めて応えながら。血鬼術を放たんとしてる鬼に向かって、急速に舵を切った。
雷の呼吸 弐ノ型・稲魂・多段
本来、対象を囲みながら五連撃を放つ稲魂を、さらに増やす。傷こそ浅いものの、目という目を全て両断し、魘夢は小さく苦悶の表情を浮かべた。
『仲間の安全を確保しつつ、敵の決定打を潰す。言うほど簡単なこっちゃねえが、しなきゃならねえ。これはお前の役割だ。なんせ』
一筋、涙がこぼれ落ちた。これ以上流れぬよう、歯を食いしばる。続きなど聞きたくなかった。
それでも言葉は、無理にでも理解させると言いたげに、続けられた。
『俺はもう――いねえんだからな』
漏れそうになった嗚咽を必死で耐える。
ここで息を吐けば、無駄になってしまう。獪岳が残してくれたものが、倒れた仲間達が、残された最後の好機が。
自分のことなど信用できない。できた例しがない。それでも。獪岳は馬鹿にするし貶しもするが、嘘だけはつかなかった。だから少しだけ、本当に少しだけ、信じてみようと思った。自分ではなく、獪岳の言葉を。
一人では立つことすらできなくとも、みんなとならば歩ける。それに――今は獪岳がいる。
安心してくれなどとは、とても言えないけれど。ほんの少しだけ、見守っていて欲しい。
(俺は進むよ、獪岳)
型の終わり、勢いのままに、右足のつま先だけが地面に触れる。
つい先ほどまでの自分であれば、この状態でできる事などなかっただろう。だが獪岳ならば。極まった雷の呼吸の使い手ならば、ただそれだけで事足りる。
壱の呼吸
上半身を撓ませる。筋肉を水に見立てて、通り抜けるごとに波を大きくしていき、最終的に巨大な一つの津波にした。太ももに到達したところで、ため込んだ力の波濤を一気に加速、水を雷に変換する。足全体を整然と走り抜ける衝撃、最後に足の指で、力の分散を最小限にまで抑えて弾いた。
今までに感じたことのない加速が、善逸の体を叩く。歯を食いしばって耐え、体を捻り、鯉口を切る。未だ復帰していない魘夢へ向けて。
霹靂一閃
雷の呼吸における基礎にして奥義、それが、
勢いに負け、着地に失敗しごろごろと転がる。慌てて体を起こし、鬼達の方を見た。
炭治郎と伊之助も、丁度零余子を討ち取った所らしかった。そして魘夢の体は。主を失って、どさりと倒れ込んだ。頭の方も体の方も、とりあえず動く様子はない。
警戒しながら近づいていく。動き出す様子は、ましてや復活する様子もない。観察すると、体の首から少しずつ崩れていっているのが分かった。どうやらこの刀は、日輪刀のままらしい。
「なぜ……なぜ私が……せっかく力を……手に入れたのに」
「こんな所で終わるなんて……あのお方に褒めて頂ける筈が……なんて……なんて悪夢だ……」
怨嗟に満ちた遺言がまき散らされる。それは逆に、もう彼らにできるのはその程度しかないという事でもあった。
哀れだとは思う。だが同情はしない。鬼に限らず、他者を平気で害し生きてきた者の末路は、得てしてこういうものなのだから。
と、はっと思い出す。鬼など気にしている場合ではない。
「獪岳!」
悲鳴のような絶叫を上げて、獪岳の頭がある方へ走る。気が抜けて、再度体が疲労を思い出した。今度は立ち上がる事もできそうにない。それでも善逸は、這って獪岳の元へと向かった。
獪岳の頭は、無造作に転がされていた。後頭部を中心に頭の二割が消滅し始め、既にほとんど無い出血も出た先から芥となる。それが、否が応でも、彼は既に完膚なきまでに鬼なのだと突きつけてきた。
地面を抉るほど指を立て、今にも消えそうな頭を抱える。
崩れる速度は、ゆっくりとしたものだった。だが指先に、砂のようなものが触れては消えていく。初めて感じる命そのものに、怖気が背筋まで貫通した。
「あぁ……獪岳、消えるな! 消えるなよ! まだ教えて貰ってない事が沢山あるんだ! じいちゃんの所にだって行ってない! 頼むよ、頼むから戻れよ! 戻れって言ってるじゃないか!」
いくら零れるそれを掴んだ所で無意味なのは分かっている。握った先から虚空へと消えていく。理不尽で吐き気を覚えるのだと初めて知った。
心臓が握り潰される。無力。家族を前に、こんなにもできる事がない。努力を重ねた剣だって、大成しなかった。何故自分は、こんなにも何もできないのだ。家族すら救えないのなら、本当に正真正銘の役立たずじゃないか!
「ああああああ! 戻れ! 戻れよ! 消えるな! なんで散っちゃうんだよ!」
「我妻、獪岳はもう……」
「うるさい!」
いつの間にか集まってきていた、行冥、義勇、炭治郎、伊之助。
行冥の諫める声に、感情のままに怒鳴りつけた。分かっている。そんなこと、言われなくとも善逸が一番分かっている。仕方なければ、どうしようもなければ諦められるとでも言うのか。足掻いて足掻いて反吐を吐いても何も見つからなくて、なお諦められない。
皆、そうだ。鬼殺隊の誰一人として、死を認められても諦める事はできなかった。だから鬼と戦う等という異常な組織に飛び込んでいる。
そして……皆がそうだったように、諦められずとも、受け入れるしかないのだ。
「獪岳は、さ。意地悪いしすぐ殴るし、訓練だと加減を知らないし、おまけに口も悪いしで、酷いもんだったんだ。でも、すごく……すごく優しかった。いつも自分じゃなくて、誰かの為を思っていたんだ」
「私も……よく知っている。獪岳はいつも、仲間の為に自分をなげうっていた。そして今も……鬼の支配から抜け、自刃する事を選んだ。我々の、為に。私は、獪岳より優しい子を知らぬよ」
馬鹿みたいだ。本当に、そう思った。これではまるで、別れの言葉みたいではないか。
まだ諦める事なんてできない。そうだ、禰豆子だって自分を保ったまま生き残ったんだ。獪岳の精神力なら、鬼の呪いだってねじ伏せてくれるに決まっている。それに、獪岳なら頚を切られたくらいなんてことない筈だ。後は、ええと、とにかく何か、何かがあるはずなのだ……
「あ――」
不意に漏れた声は、誰のものでもない。しかし、とても聞き慣れた、それこそ少し前までの数年間、一日たりとて聞かなかった事はない声。
「獪岳!? 俺だよ、善逸だ! 分かるか!?」
「ジジ……イ」
善逸の期待を裏切って、血の気がない顔から発せられた言葉は、ただのうわごとだった。
「体に……気をつけ……長生き……しろ……よ……」
それは、聞いたことのある言葉だった。昔、獪岳が独り立ちする時、師に残した言葉。
こんな時ですら、他者を労る言葉が出てくる。こんな時くらい自分の事を語ったって、それこそ恨み言だったとしても、誰も何かを言う権利などないというのに。どうしてそうやって人を助けて――人の為に死んでしまうんだ。
「オッサン……食え……よ……。でかい……奴が……食わねえ……で……どうすん……だ……」
「う、あぁ……あああぁぁぁ……」
今まで堪えていた行冥が、嗚咽を漏らす。それで分かった。オッサンとは行冥の事だ。こうして、自分と同じように慮られたのだろう。
そして。動かないはずの視線が、善逸へと向いた気がした。
「善逸……逃げんな……戦え……。代わりに……助けを……呼べ……。そうすりゃ……俺が……行って……や……」
言葉が途絶える。ついに顎まで消えて、声を発することすらできなくなった。
約束。いや、約束とは呼べないものだろう。獪岳が巣立った時の言葉。今でも鮮明に思い出せる。言葉は、ただの気休めだったのだろう。善逸だって、呼べばどこからともなく獪岳がやってくるなどと思っていなかった。でも、とても心強く、そして今に至るまで心の支えになり続けていた。
獪岳は嘘をつかない。少なくとも、人を悲しませる嘘は。
(助けて、くれたんだ)
元々流れ続けていた涙が、視界を曇らせる程になる。もう顔から何が流れているのかも分からない。止めようという気には全くならなかった。心の底から溢れ出るぐちゃぐちゃな感情は、そんなものの比ではなかったのだから。
獪岳は、獪岳という脅威から自分たちを守ってくれた。例え己が、全てを奪われても。
「ぐそっ、ぐっぞぉ!」
「獪岳……こんなになってまで、俺たちを守ってくれるなんて」
「う、うああぁぁぁ……」
「…………」
もう言葉にすらならず、半分も残っていない善逸の背中を、行冥がそっと叩いた。
「我妻、せめて安らかに送ってやれ。……いや、違う。獪岳が安心して逝けるようにしてやって欲しいのだ。せめてもの手向けに」
背中の暖かさに。もう、自分に嘘はつけなかった。
乱れた呼吸を無理に整えようとして、咳き込んでしまう。泣いている間にどこかを切ったのか、鉄の味が広がった。
強く抱いていた頭を、そっと地面に下ろす。獪岳の顔は、やはりぴくりともしなかった。生気が無い、瞬きもしない、お面ですらもう少し生きているように見える消えた表情。不気味にすら見えるそれを、強く目に焼き付けた。もう二度と、見られないのだから。
口を無理矢理へし曲げる。目を細める。鼻水をすすりながら、顔を強く袖で拭った。袖と顔が、血と泥と体液が交ざったもので滅茶苦茶に汚れるが、そんなものは知ったことか。
それは不格好で、不器用で、不細工な、しかしはっきりとした笑みだった。歯の根もかみ合っていないが、それでも精一杯に。
「獪岳。俺さ、まだまだてんで駄目だし、とてもじゃないけど獪岳みたいに戦えない。でも、獪岳がくれたこの命で、限界まで頑張るよ。あと、絶対死なない。いくら頑張っても簡単に死んだから、獪岳絶対怒るもんな。情けないけど、自分にできる範囲で努力する。だから、だから……」
ひぐっ、と喉が鳴る。嗚咽を無理に押さえ込んだ音。
まだだ。まだ崩してはいけない。全て言い終えてはいないのだから。最後、あと一言だけ。さよならの言葉を。
「――お休み、獪岳」
全てを聞き届けて。この世から、獪岳という人間が完全に消えて無くなった。
塵すらも夜の中に溶けて。善逸の中の、あらゆる物が決壊した。
「うあ、あああぁぁぁ……。ああああああ!」
魂が求めるままに慟哭する。吐き出しても吐き出しても、なお尽きることのない悲しみ。
地面を握りしめる。力を入れすぎて、指先から血が滲んでいた。もしかしたら爪も剥がれかけているかも知れない。全部どうでもいい。今はとにかく、心の内を全て吐き出してしまいたかった。
「よく耐えた。頑張ったな」
行冥に、幼子にそうするよう、背中をさすられる。彼が持つ感情は、恐らく善逸と同じだろうに。
大人と子供の違いなのか、それとも鬼殺隊としての経験が違うのか。分からない。今だけは分かりたくない。
「獪岳よ、どうか安らかに」
背中を丸める善逸をあやしながら、行冥が祈る。炭治郎と伊之助も習って、各々の祈りを捧げた。
泣いて泣いて、ひとしきり吐き出し、やっと善逸は顔を上げる。そのまま天を仰いだ。
嫌味なほどに冴えた、夜の蒼穹。月も星も、余すところなく全てが見える。もし天国などというものがあるとして、この先に獪岳がいるのだろうか。いてくれたらいいな、そう思う。
(さよなら)
夜の向こう側へ、一言だけ投げつけて。
短い、しかしひたすらに長かった化野の夜を、日光が裂いて照らし始めていた。