獪岳と善逸 作:山筋
小さいが大きい。確実に運命が動いたあの夜から、まだ数日。善逸らは、元の胡蝶邸近くへと戻されていた。
あの戦いにおける被害をどう評価すべきかは、正直なところかなり難しい。恐らくは、誰にとっても予想外の結果であっただろうから。
事後処理は、それこそ戦争が如き忙しさだった。化野近辺には人が少ないため、処理自体はさほど手こずらなかったが。問題はその後だった。
いかに藤の家紋の家に伝手があるといっても、ただかだ屋敷一軒にそう何人も休養させられる訳がない。よって近隣(と言っても県を跨ぐくらいには遠いのだが)複数に応援を頼み、それぞれ分けて送り届けられた。
また、比較的動ける人間も大変だった。
今回の戦いは、いつにも増して情報量が多い。下弦の鬼五名に、上弦の鬼に相当する鬼の討伐なのだから然もありなん。よって一応身動きのできる隊士、もとい直ちに命へ別状がない者、つまり善逸、炭治郎、伊之助、義勇、行冥の五人だけが急遽戻される事となった。
途中、たまたま関西におり、行冥が切られた時点で急遽呼び寄せられたが間に合わなかった風柱・不死川実弥が護衛として合流。汽車と馬を乗り継ぎ、最速でとんぼ返りと相成った。
そして、善逸にとっては初めて、炭治郎にとっては二度目の産屋敷邸となった訳なのだが。
(……気まずい)
はっきり言って、非常に居心地が悪かった。理由は明々白々、不死川実弥だ。
音を聞かずとも分かるほど苛立っている。というかもう隠すつもりすら見えない。この理由もまた簡単で、柱でも本部直属の隠でもない者が、位置を隠されず産屋敷邸に入場したからだ。入ってから知ったのだが、普通はそもそも存在すら教えられないものらしい。
人員不足(ろくに地力で動けない行冥と義勇が隠に背負われていた)のもあって、たかだか平隊士が、鬼殺隊の最高機密を図らずとも知ることとなった。当り前にこれは大変危険で、最悪彼ら三人の内誰かから情報を抜き出されて強襲されかねない。かといって善逸らを責めるのもお門違いであるため、不満とすら言えない苛立ちを言葉にされる事はなかったが。その代わりがこれだと言うのならば、いっそ当たり散らしてくれた方がよかったとすら思う。
救いは、急な呼び出しであるために、待機時間もそう長いものではない、という点だろうか。
産屋敷邸に着いて、四半刻もしない内に周囲が慌ただしくなる。
やがて襖が開かれると、中から出てきたのは、妻らしき人物に支えられる病人、いや、半死人だった。
(この人が、お館様)
産屋敷耀哉。鬼殺隊創設一族の直系にして、現組織の頂点。
事前に名前くらいは聞いていたし、炭治郎にも問いかけてみてはいた。炭治郎については、機密情報らしく明朗な答えは返ってこなかったが、それでもあまりよろしくない状態なのだという程度は察せられた。察せられたが、これは想像以上だ。
まず、目が見えていない。そして、地力で立つ事すらも。柱の様子を見るに、今が特別調子が悪い訳ではないらしい。こんな状態で鬼に抗い続けているのだから、頭が下がる。
ケフ、コフ、とお館様が咳をした。明らかに咳払いのそれではない。こうして立っているだけで、尋常ではないほど体力を使っているのだろう。
「急な招集に応じてくれてありがとう。特に化野から戻ってきてくれた五人には、とても感謝しているよ」
前置きを飛ばした言葉に、皆が一斉に礼をしていた。善逸も慌てて続く。伊之助だけは、隣に座っていた実弥に無理矢理頭を掴まれていたが。
と、早速話が始まるかと言った所で、隠が飛び込んでくる。
「不調法、お許し下さい。報告を持って参りました。お話の後に報告させて頂きます」
「いや、先に言っておくれ」
「それでは」
小さく断ってから、すらすらと読み上げられる。
「化野での戦闘において、死者は零でした。ただし、現在収容中の全員が再起不能です。それこそ甘露寺様までです」
言葉に、善逸は小さく目を見開いた。
戦闘終了時点で死者がいなかった事は知っている。だからこそ、事後処理に大変な労力を要した。これは、現実的な事を言ってしまえば、獪岳の血鬼術と隊士との間合いが広かったため、殺しきるまでの威力がなかったとなるが。善逸は、獪岳が誰も殺さぬよう操られている中で自制してくれたのだと、そう信じていた。
が、その後から死者を出さなかったのは初耳である。なにせ全員が全員、重傷だった。それこそ、立ちこめる血の匂いで炭治郎の鼻が馬鹿になるほど。今死んでいないだけで生存が絶望的な者が大多数を占める中、それを覆したのは、どれほど隠が優秀だったかを物語っている。
「さらに、血鬼術を浴びた者は、全員肉が足りていません。体を切られたというよりは、抉られたような状態であり、筋肉同士を繋げても以前のようには動かない、というのは医者の見立てです。日常生活にまで支障が出る者は少なそうですが……」
「そこら辺はどうだい、義勇」
お館様の問いかけに、はっとする。
行冥は普通に切られただけだが、義勇は明確に血鬼術を浴びていた。今まで、それほど酷いものだとは考えもしなかった。
義勇は小さく目を伏せ、そして深々と一礼する。
「ご報告遅れましたが、俺にはもう膝から下の感覚がありません。恐らく神経まで届いたと思われます。今後お館様の役に立てぬ事、伏してお詫び申し上げます」
「……そうか。残念だよ。今までよく頑張ってくれたね」
「俺などには勿体ないお言葉です」
これで、柱二名が引退、一名が一時戦線離脱となった。数の上ではたいしたことが無いように思えるが、戦力が三分の二になってしまったと考えると、とんでもない痛手である。
いや、と善逸は否定した。獪岳が自らの頚を切らなければ、確実にあの場で全滅していたのだ。それを考慮すると、これでも考え得る限り最高の結果だったと言うしかない。それほどまでに、あのときの獪岳は圧倒的だった。
もし仮に、獪岳の自制心がなかったら、鬼の支配が完全に及んでいたとしたら。自分たちが死んだ後も、暴虐を振るい続けただろう。
それだけで鬼殺隊が壊滅したとまでは、さすがに思わない。それでも、あと何人の隊士が犠牲になったか。やはり獪岳は強かったんだと思うと同時に、突き刺さるような恐怖が背筋を凍らせる。
言うだけ言って、隠は煙のように去って行った。耳ほどとは言わずとも、目もそれなりにいいと自負している善逸ですら捉えるのが難しいほど。やはり、本部周辺は高い能力の者が多めに集められているのだろうか。
「さて、まずは報告を貰おうか。行冥」
「はっ」
小さく答え、行冥は姿勢良く正座した。まだ胸元には痛々しい傷跡が残っている。正直、背を伸ばすだけでも辛いだろうに、そんな様子はおくびにも出さない。
行冥が上げた報告は、まあ当り前に、善逸らにとって真新しいものはなかった。獪岳が鬼にされた事。鬼となった獪岳は外的要因に完全な無反応だった事。二人がかり、というか二種類の血鬼術で戦闘用に調整されていた事。こちらが全滅し、打つ手がなくなった所で、彼が自ら頚を切った事。その後、半ば動揺につけ込む形で、なんとか動くことができた善逸ら三人が、下弦の肆と下弦の壱を討伐した事。
全てよどみなく整然と答えられている。事前に頭の中で話は纏めていたのだろう。
「そして、ここからは私の推測になりますが」
前置きをしながらも。どこか迷った様子で、しかし決断し、行冥は続けた。
「獪岳は、鬼にされた時点で自己を喪失していたのではないかと思われます。以前の話を聞く限りでも、獪岳は鬼にされる前の時点で既に死んでいたかと。であれば、鬼が血鬼術を使ったのは、獪岳の意思を無視して戦わせるためではなく、放っておけば何もしない獪岳の体を無理矢理働かせるために使ったのではないか、と愚考します」
「うん。私もそう思う。前例がないから判断が難しいけれど……無惨は鬼にしたいが都合が悪い相手に対しては、記憶を失わせる事が多々発見されている。普通に扱うというだけなら、そうすればよかった。やらなかったのは、そもそも奪う記憶、というより精神がなくなったせいなんじゃないかな」
そうなのか、と善逸は呆けながら聞いた。
鬼になると極端に攻撃的な性格になるのは、改めて言うような事でもない。し、実のところ、それほど問題視する点でもなかった。
鬼化する最大の問題は、攻撃性と食欲が直結してしまうこと。道徳の箍をあっさりと外される事だ。鬼が人を同等の生物と見なくなるが故に、鬼は被害を拡大させる。つまるところ、鬼の問題とは、強さでも食人生物な所でもなく、それだった。
鬼の本能がない鬼をどう扱うかは、この際置いておくとして。確かにそれならば、獪岳の後ろに鬼が控えていた理由になる。この場合、十二鬼月かどうかは関係ない。必要だったのは精神および肉体に干渉する血鬼術持ちだったのだろう。
「この予想が合っていたという前提で考えると……」
「此度の騒ぎは、性能の実証実験だった、と考えられる訳ですか」
お館様と行冥、二人が重々しく言葉を沈めている。義勇と実弥の顔も大分暗い。
それがどれほど大事なのか、というのは、善逸にはあまり理解できていなかった。持っている情報量に差があるというのもあるだろうが、それ以上に、頭の作りが違うのだろうなと思った。
善逸がついていけいない話題に、他の二人がついて行けるわけもない。炭治郎はとりあえず黙って聞いていたが。伊之助などは早々に飽き、船をこいでいた。よく真横の風柱にとんでもない圧力の殺気を向けられて眠れるものだ。向けられているのが自分だったら早々に気絶していたかも、とすら善逸はぼやいた。
「いくらかの知らせ、そうだね。まずは良い報から行こうか。此度の討伐で下弦五鬼を倒した事により、下弦の鬼は全滅した。いずれ補充はされてしまうだろうけれど、少なくともそれは今ではない。一時的に
とは語るものの、お館様の言葉は、とても喜んでいる風ではない。本当に、悪い状況の中からなんとかいい話を拾い上げた、という様子だ。
「二つに、上弦の鬼に対する戦力評価。鬼となった獪岳は、間違いなく上弦の鬼と同等の戦力を持っていただろうね。彼が上弦の鬼と比べて最底辺の力だったとは考えたくないけど……どちらにしても、上弦の鬼と対峙する時は最低でも柱二人、可能ならば柱四人を当てたい。これを知ることができたのも、大きな収穫だ」
聞きながら、それを本当に収穫だと言っていいのだろうかと悩む。
上弦の鬼は最大で六名。対し、現在動員可能な柱も総勢六名。鬼は基本的に党勢を組まないため、単純な比較はできないが。もし正面からぶつかった場合、鬼殺隊の完敗となるだろう。
根本的に種族として差がありすぎるのだから仕方が無い、と言ってしまえばそれまでだが。いくら何でも絶望的すぎる。
「最後に、悪い知らせだけど……」
お館様は言葉を詰まらせ、小さく、本当に小さく苦しげな嘆息をした。
その姿に、少しだけ驚く。目の前の男は、いついかなる時も微笑を絶やさない、そんな人間に見えた。いや、努めてそうしている、が正しいだろうか。
どちらにしろ、人に不安を与えない事が最重要だと考えている人間が、弱さを見せた。迫る心労を隠しきれないほどに、それは大事だったのだろう。
「今回の件で、鬼舞辻無惨は
苦しげに呟くお館様に、恐らく彼が感じているものと同じだろう吐き気を覚える。
「未知数な部分は多い。私たちにとっても、鬼舞辻無惨にとってもね。ただし、いったん殺して自我を壊した人間を鬼にし、それを鬼舞辻無惨に忠実な鬼が操る、この方法は必ず相手も研究してくるだろう。獪岳は技能だけを見れば柱と同等だったから例外だとしても、恐らくは丙以上を鬼にされたら、柱と同等になると目算されている。とりわけ柱の死体は、絶対に渡すことができない。三人……いや、二人かな。柱二人を傀儡鬼にされてしまえば、我々は負ける」
言われて、善逸ははっと気がついた。先ほどの性能実証実験という言葉。それは、ここに繋がっているのだ。
勝手に強くなった人間を鬼にして戦力化、なるほど、確かに割がいい。それが自分たちに徒なす者であるならばなおさらだ。最悪を考えた場合、鬼は敵の力でいくらでも戦力補強ができるという事になる。さらに悪いのは、その可能性は決して低くないという事だ。
「引退した柱に注意喚起を促し、現役の柱も、原則単独行動は禁じる形になる。もしもの時は、首だけでも持ち帰って貰うようにするしかない。……本当に、済まないと思っている。ただでさえ命を賭して戦ってくれている君たちを、さらに死した後も辱めるようになってしまうのだから」
「いいえ、当然の措置です。どうか、お館様がお気に病まれませぬよう。我々とて最初から覚悟はできています」
「悲鳴嶼さんの言うとおりです。鬼なんぞの奴隷にされるくらいなら死を選びます。それを考えれば、首くらいなんてことありません」
一瞬の逡巡もなしに、きっぱりと断じる柱二人。それに、いっそ寒気がするほどの敬意を感じた。柱ともなれば、これほどの覚悟を持って挑んでいる。
獪岳なら、どう答えただろうか。多分、自分が死んだ後の事なんざ隙にしな、とでも言うのだろう。予想なんて簡単に付くのに、今は無性に声が聞きたかった。
「化野に関してはこれでいいとして。善逸、少し話を聞いていいかい?」
「へ? あ、は、はいっ!」
急に話を振られて、しどろもどろに返事する。正直、なんで自分(と炭治郎と伊之助)がここに呼ばれていたのか疑問に思っていた所だった。
「君は鬼となった獪岳から刀を受け取って、力を継承したという話だけど、それは本当かい?」
「ええと……」
どう言えばいいのだろう、と頭を悩ませる。
特に隠し立てするような事もなし、全てを明朗に答えたくはあるのだが。何しろ言語化が難しい。力を継承したという言い方も違和感がある。
技術を受け取った? 経験を引き継いだ? それらも違う気がする。とはいえ、感覚自体ははっきりしているのだ。自分の頭の悪さが恨めしい。
結局できた事は、曖昧に手を泳がせながらぐだぐだと言葉を続ける事だけだった。
「正直、上手い言葉が浮かびません。 託されたというか入ってきたというか……結果として、獪岳ができる事は俺もできるようになった、としか。ただ、刀から『獪岳』が伝わってくる、これだけは確かです」
「それだけ聞ければ十分だよ。すまないね。難し事を聞いてしまって」
はい、と善逸は、小さくなりながら辛うじて呟いた。
それ以上話を振られなかったのは、正直言って幸運だった。上手く伝えられるかを抜きにしても、こういった空気そのものが苦手だ。なるべく黒子に徹したい。
「実際に抗戦した二人に聞きたい。これをどう思う?」
「……直接血鬼術を喰らった身としては、“対象を抉る”もしくは“接触部位を分解する”血鬼術だと思いました」
「私も考えには大差ありませぬ。一体どういった理屈で何が我妻に渡ったのか、皆目見当が付きません。ただ、刀は日輪刀のままのようですし、悪いものではないだろうとは思います。ただ、この意見は、私の獪岳に対する贔屓目が多分にございます故、あまり参考にはしないで頂きたく」
勘違いされがちだが、鬼にとって血鬼術は、別に一種類しか持てないものではない。それでも一種類の血鬼術を多彩に扱う鬼がほぼ全てな理由は二つ。
一つは、そもそも異能の開花自体が簡単ではない点。異能の鬼は、それだけで鬼の上位半分以上に入る。使えるだけで珍しく、同時に強くなれるものなのだ。
そしてもう一つ。恐らくはこちらの方が重要で、血鬼術を複数持って器用貧乏になるより、一つを高めて出力、応用力、技術を高めた方が格段に強くなれるからだ。人に例えるならば、一つの武器を極めるか、複数の武器を扱うかの違いが近い。複数の武器に通ずる価値を否定はしないが。一見、一度限り殺し合う相手に、半端な手札を増やす価値が高まりきった技術に勝る事はほぼなかった。
さらに言うならば、血鬼術とは言うなれば、“増えた手足”だ。増えた腕一本一本の筋肉をつけ、さらに効率的な扱いを覚えなければならない。確かに四肢が一つ増える利点は絶大だが、代わりに先達の手本もなかった。全て手探りで行う必要がある。いくら鬼とは言えど元は人間だ。妙な要素が増えて便利に扱えるようにはできていない。故に、鬼は血鬼術を“一つしか持てない”のではなく“一つしか持たない”のだった。もっとも、単純明快で応用性もなく、また極める必要も無い血鬼術などがあれば、その限りではないだろうが。
獪岳がその手の血鬼術を持っていた可能性がないとは言えないが、血鬼術の力とは概ね生きた時間に比例する。鬼であった期間が僅か数週間程度だった彼に、その可能性は限りなく低い。本来ならば十二鬼月級でやっと二つ目と言ったところであり、そもそもこの短時間で強大な血鬼術を得た獪岳が例外だ。
「獪岳が二つの血鬼術を持っていた――鬼に早い段階で異能を目覚めさせる方法を編み出したのか、それとも血鬼術の本質そのものが違ったのか、今は論じても仕方が無いね。前者である可能性を考慮して、皆に気をつけて貰おう」
でもね、とお館様は続けて。
「自分で言うのもなんだけど、私は結構な夢想家なんだ」
「はっ? はあ……」
小さく、善逸に笑いかけてくる。意味も分からず、とりあえず相づちを打ったが。
「つまらない妄言だと言われようね、獪岳の想いが奇跡を起こした、そんな風に言う方が私は好きだよ」
「それは、確かに夢想家ですね」
鬼に人間性を求めてはいけない。鬼殺隊の中で広く使われる言葉だ。
これは、鬼にされた者が『人に戻るかも知れない』という妄想を自戒する意味もある。だがそれ以上に、鬼を人として認識しないためのものでもあった。
誰だってそうだ。好んで人殺しなどしたくない。もし“人”と思ってしまえば、刃が鈍る。それは、ともすれば『鬼が人に戻れた例はない』という話以上に危険なものだった。鬼殺隊がいっそ頑なな程に鬼を認めないのは、そういった側面がある事は絶対に否定してはいけない。
お館様だって、承知していない筈がない。その上で、獪岳の精神力を信じてくれた――信じてくれる人がいた。
当り前に、そこに救いなどありはしない。でも、ほんの少しだけ嬉しかった。
「さて、もののついでだから、言ってしまおうか。此度下弦討伐の功において、竈門炭治郎、我妻善逸、嘴平伊之助、以上三名を丙に任命する」
「はっ、えっ」
「はい!」
「んぁ……なんだかよく分かんねえけど任せとけ!」
戸惑いを見せる善逸とは対照的に、残りの二人は威勢良く答える。
途中、めこっ、という鈍い音がした。が、これは誰も気にしなかった。さすがにこの場で寝ているような奴には擁護のしようもない。
「さらに、君達は柱の就任条項たる『十二鬼月の撃破もしくは鬼五〇体以上の討伐』を満たした。よって、甲になった時点で柱に任ずるものとする」
当り前のように出た言葉に、思わず固まってしまう。現実に理解が届かない。最下位から一気に上から三つ目まで昇級するだけでも破格なのに、その上柱など。いっそお館様の正気を疑った。
「特に善逸、君には期待している……というより、是が非でも柱になって貰わなければならない。唯一の欠点を克服した獪岳というのは、これだけ戦力を減らされた現状、決して無視できる存在ではないんだ」
「む、無理です!」
悲鳴を自覚したのは、既に声を張り上げた後だった。
だって、できるわけがない。獪岳は強くて偉大で――自分は、とても弱くて情けない。比べることそのものが間違っている。獪岳の力を得た所で、獪岳の代わりなど務まる訳がなかった。
我妻善逸という人間には期待するべきではない。生まれてから、ただの一度として捨てることのできなかった考え。
「てめェ……!」
底冷えのするような声と共に、強烈な怒気が突き刺さる。
怯えて振り向こうとした時には、既に胸ぐらを掴まれ、無理矢理立ち上がらせられていた。鼻先に、顔面すら傷だらけの、歴戦を思わせる顔が迫る。
「何腑抜けた事言ってやがる。てめェ自身がどう思おうが、受け継いでんだよォ。それを無理だァ? じゃあてめェの兄弟子はなんだ! 無駄死にか!」
「ちょ、ちょっと不死川さん!」
「おうなんだ? 喧嘩か? いいぞ紋逸、その傷おっさんぶっ飛ばしてやれ!」
「やめぬか不死川、お館様の御前だぞ!」
皆が止めに入ってくれる中、言葉も出なかったのは。突きつけられたそれが全くの正論であり、同時に彼が最も恐れていた事だったからだ。
秤が揺れて、自分でも自分が分からなくなる。期待に応えたい。でも、自分如きが獪岳に届くわけがない。どうしても出ない答えに、吐き気がこみ上げてくる。心の均衡が保てない。頭がぐちゃぐちゃにかき回される。
腰から、すしりと慣れているはずの刀の重さが伝わってきた。
ただでさえ騒然としてた場が、さらに混沌となる。それを収めたのは。
善逸を振り向かせ、頬を張った義勇だった。
しばしの沈黙。皆は元より、張本人である義勇ですら何が起きたか理解しきれていない様子だった。
どういう意図があったのかは全く分からないが。何かに強く悩んでいる事だけは分かった。恐らく、叩いた事そのものではない。もっと深く。どんな言葉にすべきか、或いは伝えるか否か。
彼が悩む間、誰一人として答えを急かしたりはしなかった。静かに目して、義勇の決断を待つ。
何かを押さえ込むように、もしくは奮い立たせるように、目を閉じながら一度深く息を吸って。開かれた瞳には、確かに決意の色が宿っていた。
「俺は柱ではない」
「……はァ?」
飛び出た言葉は、さすがに大分意味不明だった。実弥が妙な声を上げるのも頷ける。
「何言ってんだおめェ」
「分からないか?」
「今ので何が分かると思ったんだよアホか。一から十まで全部言え」
「むぅ……」
何でだか納得いかなげに、義勇。
頭の中で言葉を整理した――かどうかは定かではないが。彼なりに順序立てながら、ぽつぽつと語り始めた。
「俺は最終選別を突破していない」
多分、皆が何の話だ、だとかそこから、だとか思っただろう。いや、お館様だけは訳知り顔か。
ともあれ、疑問は残れど無意味な話ではないのだろう。誰も、それこそ実弥ですら一先ずは横やりを入れずに、話を聞く姿勢を取った。
「最終選別において、俺は錆兎……兄弟弟子と向かった。結果は……語るべくもなく無様なものだった。俺は鬼に対し怯えた。怯えて、ただの一匹も倒せずに負傷し、錆兎に庇われ、負傷者を任されて生き残った。ほとんど意識がないまま七日が過ぎて、最終選別の死者は一人だった……錆兎だ。そんな奴が最終選別を突破したと言えるわけがない。誰が許そうとも、俺が許せない。本来なら……俺如きに鬼殺隊の中での立場など無いはずだ。俺は柱達とは違う。共に立っていい存在ではない。柱という地位は、俺のような卑劣な者がいるなど烏滸がましい場所だ」
善逸は義勇の気持ちがとてもよく分かった。と同時に、とてつもなく居心地が悪くなった。
鬼を倒していなければ最終選別を突破していると言えないならば、善逸もそうだ。むしろ彼などもっと悪い。なにせ七日間ずっと鬼を見ては全力で逃げ惑い、あまりの恐怖に気絶している間、誰かが鬼を追い払うか倒すかしてくれただけなのだから。
違いは、善逸がさほど気にしていなかったのに対し、義勇は今になってすら気に病んでいる事だろう。
ビビリなのは生来の気性だし、先生はともかく兄弟子からも、無駄死にするくらいならとっとと逃げろ、ただし周囲に被害が及ばない範疇で、と言われている。なので、鬼を裂ける事そのものについては、気に病む様な土壌そのものがなかった。元々一人で戦う類いの能力ではなかったというのもある。事実、炭治郎らと合流してからは、それなりに役に立っている自信があった。
義勇を病ませたのは、恐らく二つ。かつての弱く情けない自分と、何より兄弟弟子をむざむざ殺させてしまった点だろう。むしろよく今まで自殺しなかったものだ、とすら思う。
「あァ? てめェ何腑抜けた女々しい事言ってやが……」
義勇に掴みかかりそうになった実弥は、行冥に手で制された。不満はありありと見えたが、それでもいったん牙を引っ込める。
「そう思って
決して強い言葉ではなかったが。しかしはっきりと、義勇は断じた。
「間違っていたと、お前たちを見て気がついた。どれほど情けなくとも……いや、情けないからこそ、錆兎に胸を張って柱だと言えるよう、誇りを持つべきだった。柱としての自負を持つべきだったんだ。それだけが唯一、錆兎の献身に報いる手段だったのに。結局俺は、最後まで気がつけなかった……」
小さく首を傾ける。自嘲から来るそれだ。
意識しているのは、今や感覚も無い足だろう。幾度か地面を踏んでいる。多分、本人としては蹴っているつもりなのだろう。二度と力を入れることも叶わないそれは、空しく砂利を少しだけこする程度でしかない。
「俺のようになるな、我妻善逸。お前ならば、まだやり直せるだろう? 獪岳に誇れる自分になれ」
それを夢見なかった事が、一度もない筈がない――真っ直ぐ、そして背けることを許さない目が、そう言っている。
本当は、分かってはいた。先生と兄弟子に失望されない自分。壱ノ型しか使えないならば、どうしたって現実不可能だった。でも、獪岳の助けがあるならば。今ならばできるのではないだろうか。
そんなものは獪岳の力に寄りかかっているだけ、これも分かっている。それでも、失望されるような自分であるよりは、貰い物の力に驕っていた方がずっといい。
今更、叩かれた頬がじんじんと痛み出した。心にまで響く痛み。
「俺……自信ないです。でも」
喉が渇く。粘膜同士が張り付いて、上手く言葉を発せられなかった。
それでも言わなければならない。我妻善逸は、前に進むと決めたのだから。何度も何度もつばを飲み込んで、やっと続けることができた。
「精一杯、やろうと思います。どれだけ怖くても、自信が無くても、獪岳だけは裏切れない。だから、頑張ります」
責任を前に、つまらなさすぎる言葉だという自覚はあった。それでもこれが、彼に今できる精一杯だ。
言ってから、しまったという思いが拭えない。どう見たところで柄ではなかった。我妻善逸は弱くて小物で及び腰。その事実は変わらないが、そうであっていい時期が終わりを告げようともしている。
言い切った善逸に、炭治郎と伊之助が寄ってきた。
「善逸、よく言ったな! 俺も頑張るから一緒に頑張ろう!」
「よく分かんねえけど、とりあえず鬼ぶっ殺すんだな? 今まで通りじゃねえか」
炭治郎が肩を叩き、伊之助はそれを眺めながら腕を頭の後ろで組んでいる。
そんな三人の脇を、つかつかと実弥が通り抜ける。義勇の正面に立つと、おもむろに手を振り抜いた。
スパァン、といい音を立てて、義勇の頭が引っぱたかれる。音に驚いて、思わず皆がそちらを向いた。
「てめェな、そういうことは俺たちに言えよ。俺だって俺を誇れたもんじゃねェ。……柱になる直前、下弦の鬼を倒した時、戦ったのは俺だけじゃなかった。もう一人いたのに、生き残って、柱になったのは俺だけだった。いや、柱たちに限らねえ、大体みんなそんなもんだ」
言葉に、覚えがない筈がない。鬼殺隊というのは、そもそもが『置いて行かれた者』の集まりなのだから。
「てめェがアホみてえなクソ吐き散らかしてるのは今に始まった事じゃねェ。だから、なんかあんなら言え。メシのついでに聞くくらいはしてやるし、馬鹿馬鹿しけりゃ笑い飛ばしてやんよ」
言い終えて背を向けた実弥を、善逸は目を丸くして驚いた。
不死川実弥という男は恐ろしい。これは見た目もそうなのだが、体から奏でられる音も飛び抜けて殺伐としている。誰が一番強いかと問われれば悲鳴嶼行冥だろうが、誰を一番敵に回したくないかと問われればぶっちぎりで彼だ。まるで鬼を殺すという意思を煮染めたような男、と善逸ならば評する。
だから、この手の優しさがあるのは予想外だった。
その優しさをちょっとでも自分にくれたらしいのに、とは思うが。実弥にとっては、鬼に対してへたれる時点で駄目なのだろう。多分今後も一生言われ続けるだろうな、と考えると少し憂鬱だった。
「義勇、よく乗り越えてくれたね。実弥、行冥。これからも義勇のような子は出てくるだろう。支えてあげて、とまでは言えない。でも、ほんの少しだけ寄り添ってあげておくれ」
お館様の言葉は、どこまでも優しげだった。
そこに、ほんの少しだけ違和感を持つ。どうしてお館様、というか産屋敷一族は、ここまで執拗に鬼を追っているのだろうか。とりわけ今代などは、鬼との和解すら考えてもおかしくなさそうなほど物腰が柔らかい。
もしかしたら、お館様にとっては鬼ですらただのついでであり、因縁があるのは鬼舞辻無惨だけなのかもしれない。
そこまで考えて、さすがに馬鹿馬鹿しいと頭を振った。鬼舞辻無惨が誕生したのは、推定で一〇〇〇年前後前らしい。さすがにそこまで遡って考えるのは、穿ちすぎを通り越してただの陰謀論か。
「善逸、刀を大切にね。念のため、日光の元で刀を抜いてはいけないよ」
「もちろんです」
これで話は終わりなのだろう、という所で。実弥が声を上げた。
「お館様、我妻善逸を俺にお預け下さい。必ずや、こいつを柱に相応しいよう教育します」
「えっ」
「なんだァ今の声は。文句でもあんのかァ?」
「いいえ滅相もございません」
本当はありまくる。怖いし凄そうだしおまけに痛そうな彼に師事されるなどご免だった。言葉にしたら何をされるか分からないという恐怖が口をつぐませたが。
却下してくれ、とひたすら年を送る。返ってきたのは、お館様の微笑みだった。菩薩のような顔が初めて悪魔に見えた。
「いい案だね。是非とも頼むよ」
死んだわ。確信し、魂が口から抜ける。
半ば意識を飛ばしている善逸を無視して、話は続けられた。
「では、俺は炭治郎を。必ずや、全ての力を引き継いで見せます」
「はい! 冨岡さんお願いします!」
「それでは、私は嘴平か。療養がてらになってしまうが、よろしく頼む」
「すぐお前より強くなってやるからな、玉ジャリ親父」
あれよあれよという間に、誰がどこに所属していくか決まっていく。
どうせ指導されるなら胡蝶しのぶあたりがよかった、などと考える。多分やることに大差はないだろうが、それでも美人に教えて貰えるというだけで全てを許せる。言ったらどつかれそうなので口は閉じたままだが。
話は、さして長くもなかったが、お館様の負担には十分なものだったのだろう。ここまで終えて、彼の体から急速に力が失われる。
座っている状態からいきなり体が折れ、手をついたがそれでも支えきれず、板間に転がる。柱たちがざわめいたが、彼の妻あまねの一声によりすぐ収まる。行冥と実弥が二人で肩を貸し床に戻しに向かった。
残された善逸らは、なし崩しに解散となった。もう隠す理由もないので、産屋敷邸は普通に出て行く。
来るときは危なっかしかった、松葉杖をつく義勇も、こなれた様子になって歩いている。
一応人目につかないよう外に出ながら、ふと善逸は振り返った。そこには、大きな屋敷に似つかわしくない寂れた裏門があるだけ。
そんなものを見ようと思ったわけではない。ただ。
ここを通った以上、もう戻ってはいけないのだと、それだけを強く意識する。
残された刀を撫でながら、敷地境界線の向こう側に、獪岳を幻視する。言葉は発さない。睨みもしない。ただじっと、こちらを見ている。どうするつもりだ? そう問われている気がした。答えは決まっている。
善逸は視線を前に戻した。それだけが唯一、正しい答えなのだから。