獪岳と善逸 作:山筋
眠れなかった夜が明けて。次の日には、おおよその日常が戻っていた。
獪岳が鬼にされたのは確かに衝撃的な情報ではある。隊士が一度に三〇人も離脱したことだって大問題だ。が、そういった物すべて含め鬼殺隊の日常であるし、同時に何があっても止まっていい訳がない。今この瞬間だって、鬼の被害者がいるのだから。
という訳で炭治郎ら三人は、合流してから初めて散り散りにされた。自分の実力を高める為であるし、炭治郎と伊之助にとっては文句など無かったが。機能の覚悟はどこへやら、善逸はごねにごねて泣きまわり、最終的に(といってもかなり早い段階だったが)痺れを切らした実弥から鳩尾に一撃貰って昏倒し、担がれていった。
善逸が嫌がった理由は単純で、鬼狩り行脚だからだ。それも、柱が出張らなければならないほど危険な。
炭治郎と伊之助の刀は、いい加減限界がきていて新しく打ち直される事になっている。それは剣を折られた善逸も同じなのだが、彼は獪岳から引き継いだ刀がある。仲間内では一番怪我が少なかったのも一因だろう。
そんな訳で、炭治郎は義勇に連れられ、彼の所持する屋敷――というか道場――に案内されていた。そこでかれこれもう五日ほど、木刀で打ち合っている。
「やああああああ!」
最大級の気合いを入れて斬りかかった。型は使わない。迂闊に大技を使えば、簡単に返されると知っているからだ。実際、それで幾度も床板を舐める羽目になった。
水の型における基本的な戦い方は、小技や防御用の型で間を作り、生まれた隙に型をたたき込む。口にされたのは一度だが、体には嫌と言うほど教えられたため、覚えない事こそ難しい。
左切り上げ、半歩下がられて避けられる。右薙ぎ、木刀の腹を押されて上に飛ぶ。唐竹割り、と見せかけた弐ノ型・水車。型が形になる前に半身となった義勇に、横合いから思い切り叩かれて墜落した。
受け身も取れず脳天から床に激突し、うめき声が漏れる。が、そこで転がっていてはいけない。すぐに体を弾けさせ、どこにでもいいのでとにかく飛ぶ。
ほんの一瞬前まで炭治郎がいた場所から、強烈な打撃音がした。こちらを追って放たれた追撃が空振り、地面を強打した音だ。
頭の痛みよりも、むしろ木刀を喰らった脇腹こそが痛む。今すぐ手で押さえ込みたい心地だったが、生憎と義勇から意識を逸らす事も、柄から手を離す事もできない。
義勇は悠然と刀を下段に似た形で構えながら、一言。
「破れかぶれになるな」
(一応、勝算があると思って踏み込んだのに……)
分かっていた事だが。元水柱の強さは、炭治郎など軽くあしらうものだった。
彼の右足は、当り前にまともな動きを見せていない。添え木で無理矢理足を固定しているだけで、体を支えているのは完全に左足だ。だからこそ、体一つ分動かすのが精一杯だし、使える型もほとんど残っていない。それ以前に下半身の力を使えないのだから、斬撃そのものが大幅に弱体化しているか。
今の戦いだって、右足の不調がなければ追撃で……いや、もっと手前であっさりとやられている。
全盛期の半分もない力で、なおこの実力。立ち会いでは十本中三本は取れているか、それだって義勇が片足立ちになれていないが故だ。実力ではなく、運と義勇の失敗。さすがにそれが分からないほど、彼は弱くも盆暗でもなかった。
とりあえず全集中の呼吸で痛みを和らげる。怪我が治る訳ではないものの、筋肉の引きつりによる不快感はいくらか収まった。
しっかりと剣を構えながら――義勇はずっと動き続ける事ができないだけで、一歩だけなら踏み込みも可能である。これも当然、往年の鋭さにはほど遠いが――ぽつりと、声をかけてみる。
「冨岡さん」
「何だ」
意外なことだが、彼は割と話に乗ってくれる。口下手な上に表情がほとんど動かないので無視されているように感じる人もいるらしいが、しっかり話は聞いてくれているのだ。まともな答えが返ってくるかは、まあ運次第ではある。
後は、炭治郎が(訓練中は)無駄話をしないこともあるだろう。するつもりもないが、さすがに気を散らせば怒られるし、手痛い一撃を貰うが。
「俺、前々からぼんやりと思ってたんですけど、今回で確信したんです。水の呼吸が自分に合ってないって」
漠然とした違和感だけは、ずっとあった。それが善逸と伊之助に対するある種の劣等感だと気がついたのは、獪岳戦の後だ。
伊之助は、獣の呼吸から戦い方から、全てがかみ合っている。当り前のように練度も炭治郎を上回っていた。善逸は型こそ一つしか使えないものの、それを極めていると言っていい。瞬発的な力量なら、間違いなく三人の中でも頭二つは抜けている。
そんな中、炭治郎にだけ取り柄がなかった。劣等感はそのまま、自分一人が置いて行かれる事への恐怖でもある。
いくつもの可能性を考えて、思いついたのは、根本的に“水の呼吸”へ体が追いついていないという事だった。技術が未熟なのではない。呼吸と体の間にずれがある、という表現が一番合っている気がする。
「だから、派生の呼吸を見つけるなりなんなりした方がいい気がして……」
「間違っている」
義勇は言葉をぶつ切りにして、即答した。
伏せがちだった目を上げて、きょとんとする。彼は構えを解いて、あからさまに不機嫌な顔をしていた。
「水の幻影を見せられている時点で、呼吸はお前に適合している。合っていか剣士としての素養がひくければ、そもそも幻影すら現れない」
語調こそ穏やかだったが、内容はまるっきり叱りつけるものだ。
初めて会った時の激しい怒気とはまた違うそれに、思わず萎縮する。あの時は分別のない小僧を叱咤するためのものだった。しかし今は、聞き分けのない阿呆なガキに物の道理を教える為のものだ。
当然反論の余地などあろう筈もなく、静かに続きを待つ。
「呼吸に完全な適合をした肉体を持つ者は、それぞれの呼吸の“初代”のみ。言い方を変えれば“開祖”だけだ。一にはなれない。必ず劣化模倣品になる。
含みのある言い方に、炭治郎はなんとなく背を伸ばした。
「上級であり、基本的な呼吸の使い手が“柱”になるための必須技術がある。呼ばれ方は色々あるが、俺は
「成る程、だから……」
自分たちと獪岳の間には、技術や経験意外にも違う“何か”があるとは思っていた。
そこまで教えて貰えなかったのは、まあ仕方が無い。そもそも自分たちは、全集中の呼吸の上位技術にして基本技、常中すらまだ使えなかったのだから。獪岳風に言えば、「まだ教えられる段階ではなかった」という所か。炭治郎としても、あの段階で教えられた所で、ただ混乱するか理解できないだけだっただろう。
「とにかく強くなれ。俺から一〇本連続で取れるようになったら、息体融合の訓練に入る。それも終われば、『俺の型』を教える」
「俺の……型?」
「水の呼吸、拾壱ノ型・凪。防御の極みを求めて編み出した技だ」
炭治郎は目を剥いた。
型を一つ編み出す、というのは並大抵の事ではない。なぜならば、それはどこかの面で必ず『鬼に通る』技でなければならないのだから。
彼もかつて(格好いいなあという軽い動機で)型を編み出そうとした事はある。だが、全くもって上手くいかなかった。ただそれっぽく剣を振るうだけならば簡単なのだが、問題は呼吸に組み込む事だ。どう頑張っても、どこかでずれてしまう。結局型と言えるほどのものは生み出せず諦めた。
そういった意味では、伊之助は正真正銘の天才であり、かつ化け物だ。自己流で呼吸を生み出した上、型を九つも編み出している。必ずしも強さに繋がる才能という訳ではないが、それにしたって超人的だ。
自分の強さが極まったなどとは、一度たりとて思ったことはない。だが、それでも明確に強くなる道筋が見えているのとでは、気持ちに大きく違いが出てくる。陳腐な言い方だが、希望だ。義勇が進むべき道筋を強く照らしてくれている。
「構えろ」
話は終わりだ、とばかりに義勇が言った。
呼応するように、炭治郎は呼吸を最大限にまで高める。
「はい! これからもよろしくお願いします!」
大きく返事をして、かつて鬼殺隊の頂点だった男へ攻め入る。
目指す場所は遙か遠い。それでも一歩ずつ前進できている実感があれば、いくらでも進むことができた。
×××
両手を合わせて、全身の筋肉を引き締める。次から次へと叩き付けられる上からの圧力は、悲鳴嶼行冥を持ってしても楽なものだとは決して言えなかった。特に今のように、体に不調を抱えていれば。
獪岳から受けた傷は大きい。あと少し傷が深ければ、隊士として働けなくなっていたほど。当然、胡蝶しのぶからは絶対安静を言いつけられていたし、実際こんなことをしていれば復帰が遅れる。
だが、それを押してでも行冥は軽い修行を行っていた。確かに今無茶を行えば復帰が遅れるが、安静にして落ちた身体能力を機能回復訓練で取り戻す事を考えると、もっと遅くなる。故に、可能な限り傷口に悪影響がない形で、鍛錬を続けていた。
どうやら上流は荒れていたようで、岩やら木材やらが降り注いでくる。慣れている自分ならまだしも、さすがに預かっている子達は危険なので今日は滝行をさせていない。
常人には無茶どころか自殺行為の修行であるが、彼にとってはこれでもかなり軽いものだ。実際、このままの状態で鼻歌だって歌える。そんなことはしないが。
無心になって滝を浴びていると、どかどかと草木をかき分けながら乱暴な足音がした。
妙だな、と思う。継子である不死川玄弥は、短気だし粗暴でもあるが、最近は落ち着いてきている。それに、無意味な狼藉を働くような者でもない。
水縁にたどり着くと、何かを絶叫していた。常人に比べれば耳のいい行冥であるが、さすがに滝の轟音に呑まれては聞こえない。
とりあえず滝壺を出て、声が聞こえる場所まで行く。
「すまぬ、聞こえなかった。して要件は?」
「悲鳴嶼さん! 何なんですかあいつ!」
玄弥は怒り狂って、青筋まで立てている。
何があったのだろうかと思う反面、まあ大体予想はついた。大方下らない言い合いから諍いに発展したとかだろう。最初見たときから、似たもの同士で折り合いは悪いだろうな、とは思っていた。ついでに言えば、二人とも堪えることを知らない。
気付かれぬよう、ひっそりため息をついた。伊之助を預かったのは早まったかも知れない。
とはいえ、あれだけ才能のある隊士はいずれ誰かがつきっきりで育てなければならないため、選択肢もなかったのだが。
「して、どうした?」
「いちいち絡んでくるんですよ! あとやたら喧嘩しようとしてくるし! 頭おかしいんじゃないですか!?」
それはまるっきり鏡だぞ、と言ってやらないのは、行冥の優しさだった。面倒くさい事を避けたと言う意見もある。
見えない目越しに玄弥を見ると、彼の体温はかなり上昇している様子だった。確実に修行の影響ではなく頭に血が上っている。
玄弥のすぐ後から、さらに荒々しく追いかけてくる姿があった。だが、音は最小限である。うるさいのにうるさくないというのはかなり妙な感覚だった。と、思い出す。嘴平伊之助少年は山育ちならぬ獣育ちだ。鬱蒼とした森の中の歩き方など誰よりも熟知しているだろう。
「何逃げてやがんだオラ! 勝負しろ勝負勝負!」
「うっぜえええええええええ! こいつほんとうっぜええええええええええ!!」
玄弥が怒り散らかしている。既に仲は拗れに拗れているようだ。
「お前たち、丸太担ぎはどうした」
「やってましたよ! やってましたけどこいつが!」
「飽きた! 別のことやらせろ!」
あまりにもあまりな回答に、さすがの行冥も困る。
自分が課す修行ができない人間は山ほど見てきたが、飽きたと言われるのは初めてだ。
彼は継子を多く取る。求められれば応えたし、同じ数だけついていけないと去って行った。故に、修行も基本的には強制ではない。できることからやれ、できることだけやれ、が行冥の信条である。唯一の例外は玄弥のみで、彼の“呼吸が使えない”という鬼殺隊においては致命的な欠点を哀れんで引き受けた。
伊之助の事情も彼ほどではないが特殊で、さすがに修行は任意だとは言ってやれない。かといって、どうやって集中させればいいかも皆目見当がつかなかった。
「大体なんで体鍛えるばっかなんだ! 獪岳みてえに上手い呼吸の仕方とか教えろ玉ジャリ親父!」
「悲鳴嶼さんの事玉ジャリ親父なんて言うんじゃねえよボケ!」
ううむ、と小さく悩んで顎を撫でる。同時に、成る程、根底にあるのはそれかと気がついた。
獪岳に教わったというのは、恐らく全集中の呼吸・常中だろう。あれは基本的な技であるが、扱えるようになれば爆発的な成長を実感できる。つまり自分の所へついてくれば、ああいうものが実感できると思ったのだろう。
残念ながら伊之助にはもう、一瞬で実感できるほどの爆発的な成長は見込めない。呼吸は独自に編みだしたものであり、技術的には完成している上、口出しできる部分もない。基礎はあくまで基礎であって、使えて当然。それまで使えなかった方がおかしいのだ。修正できる部分が皆無だった。
ならばどうやって強くするか。彼の欠点を無くすしかない。
伊之助の肉体的な短所は、体幹が弱い事だった。これまでは他の部分に十分な筋肉がついていた上、異様な体の柔らかさでそれを補っていた――というより誤魔化していた。これで体幹を鍛えれば、全ての能力が上昇する。それこそ技術の練度まで含めて。今しているのは、そのための下準備だ。
後は反射神経と経験さえ伴えば、柱として十分やっていける、と見込んでいるのだが。
「なんだてめぇ、呼吸がつかえねえのか。雑ァ魚!」
「ぶっ殺す」
(もう駄目かも分からぬな)
ちょっと諦めの境地に入りかけていた。
負けん気の強い問題児。字面にすればなんとかなりそうに見えるが、任せられた方は堪った物ではない。
子供達はその場で取っ組み合いを始めた。戦況はほとんど互角である。
本来ならば呼吸の使える伊之助に対抗などできようはずもないのだが。玄弥は『鬼を喰っても鬼にならず、鬼の力をいくらか吸収する』という特異体質だ。動きの速さや鬼の撃破能力ならばともかく、膂力だけなら呼吸の使い手と互角に渡り合える。
ちなみに、こんな状態でも行冥にかかってこないのは、絶対に勝てないと分かっているからだ。初日に挑んできた時、上半身を地面にめり込ませたのが相当効いたらしい(怪我のせいで加減を間違えてしまったのだ)。
そんなわけで、この二人は競争相手といえば聞こえはいいが、内情は普通に仲が悪かった。まあ、殴り合いで済んでいる間は口出しするつもりはない。
二人が防御を捨てて、無駄に高度な殴り合いをしている中、行冥は考える。
伊之助の修練内容はどうするべきか。
はっきり言って、現状のままではあまり効果が無い。体幹を鍛えるような内容を指示しても、素の筋肉と柔軟性で大体そつなくこなしてしまう。とりわけ柔軟性が厄介で、これが邪魔をして負荷を上手く外側の筋肉に流してしまっていた。本人が飽き性なのも問題である。
――悲鳴嶼行冥は天才である。鍛えるまでもなく食っただけで筋肉が付き、盲目でも目が見えている人間以上に周囲を察することができた。おまけに学習能力も高く、ほんの一年足らず程度で岩の呼吸を極めてしまった。これは大天才である時透無一郎に次ぐ記録だ。
天才肌なのと口が上手くないのも手伝って、物を教えるのが非常に下手くそだ(これは面と向かって玄弥に指摘された。曰く説明と意図が足りない)。なるべく言語化しようと努力はしているものの、今のところ実を結んではいない。
(胡蝶か宇随、後は煉獄あたりに泣きつくしかないか……)
今上げた三人は、柱の中でも子供の頃から正規訓練を受けていた者だ。恐らく順序立てた訓練には詳しいだろう。
どちらにせよ話を通すまでは、今のような原始的鍛錬を繰り返させるしかない。
「もっと気合い入れて来いや雑魚助ェ!」
「うるせえチビが! とっとと死ね!」
二人はなおも激しい(そして些か知能の足りない)罵り合いをしながら、今は互い違い転がりながら、相手を押さえつけようとしている。なんだかもう見ているだけで悲しくなった。当人らは大真面目なのだろうが。
これはこれで鍛錬になるのだろう。喧嘩慣れしてどこで役立てるのかと考えると恐ろしくはある。
だが、いい加減次に響きそうなほどの止めねばならない。行冥が彼らを強くするのは、もはや責務なのだから。
とりあえず、張り手を一発ずつかまして二人を黙らせる。派手に吹き飛んでいたが、痛いだけで後の訓練に残るようなやり方はしていない。すっ飛ぶ二人が止まったのを確認すると合掌し、きっぱりと言い切った。
「元気があるのは大いに結構。これからの訓練にも身が入ろうと言うものだ。さて、君達には丸太を担ぎ中腰でいる程度、どうという事はないらしい。では次の段階、丸太を担いだ状態で山を登って貰おうか」
二人は盛大に顔を引きつらせた。下手をすれば岩を押すより苦しいのだから当然だろう。
一瞬で黙った二人に満足しながら、行冥は頷いた。これでしばらくは、修行に集中させられそうだ。
×××
とある地方都市の片隅にある、小さな宿場町。そこでは、非常に甲高く耳障りな声が二つ響いていた。
一つは女性のもの。年の頃は二十歳か少し手前といった頃だろうか。
そしてもう一人は少年だ。背丈は立派な大人なのだが、如何せん顔が童顔のため幼く見える。女性にしゃがみ込んで張り付き、顔から出しうる全ての体液を噴出しているのも一因だろう。髪は日本人にはまず見ない金髪であるが、流暢な日本語を操るため渡来人らしさは皆無だ。
もうすぐ日も暮れようという頃なのに、二人はひたすら騒ぎ、周囲の視線を集めていた。いや、実際に騒いでいるのは少年の方だけなのだが。
「だってだって俺に優しくしてくれたじゃん!? 頼むよお願いだよ結婚してくれよぉ! 俺死んじゃうから! 絶対もうすぐ死んじゃうからぁ! 頼むよぉ一度でいいから女の子に包まれて眠りたいんだ! 安心が欲しいんだよぉ!」
「ふ・ざ・け・な・い・で! なんで見ず知らずのアンタと結婚なんてするのよバァカ! いい加減離しなさいよ!」
涙ながらに縋り付く少年――善逸と名乗っていた――を、女性は着物を引っ張って押さえながら蹴りつけた。変な姿勢のためか、全く威力は出ていない。
幸いにも、と言うべきか。周囲からは、情痴のもつれとは思われていなかった。彼女がここの出身であり、かつ善逸が明らかに余所から来た人間だからだ。つまり、恐ろしく気味の悪い厄介なのに絡まれた、と見られている。まあだから誰も助け船を出さないのだが。薄情者どもめ。
「ちょっと通してくれやァ」
そんな野次馬の中を、一人の男がずかずかとかき分けて入っていく。
最初は押しのけられて、迷惑そうにする者が大半だったが。その男を確認すると、びくりと怯えて自ら避けるようになった。
そいつは大男だった。加えて言えば、非常に人相が悪かった。腕と言わず顔と言わず、そこら中に傷跡があり、目つきも非常に鋭い。控えめに言って筋者である。もっと言うなら、かなり危険な鉄砲玉だろうか。
女の動きが止まったのは、周囲が不自然に静まりかえり、推定ヤクザ者が目の前に立ったときだった。呼吸も忘れて、思い切り顔を引きつらせる。目の前にいるただの頭がおかしな変態よりよほど危険な相手だ、そう判断して、己の未来に常闇を想像した。
彼女が静止するのとほぼ同時に、善逸もそちらの方を振り返り。瞬間、腹に衝撃と、人体から決して出てはいけない音を鳴らした。
泡を吹いて崩れ落ちる善逸を、大男が肩に担ぐ。そして一言。
「迷惑かけたな」
それだけを残すと、男はとっとと去っていた。
二人の姿が消えるまで、硬直した人々は見送って。
「……結局、何だったんだ?」
誰が呟いたかは知らないが。
とりあえずその場にいる全員、片っ端から殴ってやろうと女性は決めた。
善逸は今、生きるか死ぬかの瀬戸際にいた。もっと具体的に言えば、頭を握り潰されそうになっていた。
「テメェ何やってやがるクソボケがァ……! 何しに来たか分かってんのか? あァ?」
「いだだだだだだ! すみませんごめんなさい頭割れそうです許してえ!」
ばんばんと腕を叩きながら、頭蓋骨に食い込む指をなんとか緩めて貰おうと抵抗する。
どでかい舌打ちで収めて貰えたのは、これからすぐ鬼退治があるからだろう。普段ならばもっと酷い目に遭っている。
じんじん響く頭をさすりながら、りらりと実弥を伺った。見るからに機嫌が悪い。まあ、彼の機嫌がいい時こそ見たことがないが。
はっきり言って、不死川実弥という人間との二人旅は非常に神経を使った。なにせ冗談が通じない。というか冗談と分かった上で殴り飛ばされる。獪岳も似たような所はあったが、彼の場合は殴っても『痛い』で済む程度だった。実弥の場合は悶絶するし、下手をすると半日寝込むことになる。
(怖ぇよお……柱怖えよぉ……)
そう言えば、胡蝶しのぶもかなり危険な音を出していた。いつも怒っていると言うか、何かあったら即座に手段を選ばず潰されると言うか。女性であったため当時は全く意識していなかったが、もしかしたらあの気性は柱に標準装備されているのかも知れない。
こっわ、近寄らんとこ。と簡単に言えれば良かったのだが。残念ながら善逸は柱候補として目をつけられている。ああいうのに囲まれるのもああいうのにされるのもご免だった。獪岳を裏切らないと決めてはいるが、それはそれ。さすがに人格が変わるほどの何かは受けたくない。
と、つらつら考えている姿を、半眼で見られていた。
「また下らねえ事考えてんな」
「滅相もございません」
それ以外の答えは許されない。これでもたまに殴られるのだから理不尽だ。
「いつまでもとぼけてるんじゃねェぞ。こっからは鬼と俺達の時間だ」
(うぅ、嫌だなあ)
とは思うが、やらないという選択肢もない。
今回の鬼は、隊士を三名再起不能にしている。殺している、ではないのだ。わざと隊士として活動できない程度の障害を与え、逃がしている。
つまるところ、これは挑発だった。柱なり何なりさっさと来い。俺が無惨様に見初めていただく為の肥やしとなれ、という。
下弦の鬼壊滅以降、この手の鬼は増える一方だった。誰も彼もが後釜に座る事を夢見ている。それはつまり、準下弦級がこぞって表面に出てきたという意味でもあった。これらの対処に、柱たちはかなり難儀していると聞く。
それは自分につきっきりで指導している風柱も同じだった。柱としての業務もこなしている上、未熟者の指導までしているのだ。彼の負担は想像を絶するものだろう。
付き合ってくれている事には感謝している。ここには嘘も配慮もない。ただ、もう少し……いや、目一杯優しくしてほしいとは思っているが。
「おら、クソッタレ鬼のご登場だ」
「分かってます」
音ははっきり聞こえていた。闇から染み出るような、自信と傲慢の不協和音。
のそりと現れたのは、袴姿の鬼だった。強い。一目見て分かる。
鬼の服装とは、おおよそ生まれた年代に近い物となっている。これは、服自体も鬼が作り出したものの場合が多いからだ。故に、大抵は生前愛用していたものが再現され、死した場合は一緒に消える。
そして、一部例外を除いて古い鬼ほど強い。
明治時代初期に、文明開化で西洋文化が大量流入してきた。この影響は都会は言うに及ばず、田舎すらどこかしら洋風の装いが導入されている。それらの様子が全く無いという事は、良くて幕末、下手をすれば安土桃山時代から生きている鬼だと言うことだ。
「ホ、ホ、ホ。鬼狩り、鬼狩り鬼狩り。以前の間抜け共とは比べものにならぬ程、位が高いと見える。良き哉良き哉。お前たちを倒せば、儂が下弦の鬼に任じられる可能性も高まるというもの」
にたりと鬼が笑った、と思う。断言できなかったのは、暗がりの影響もあるが、それ以前に鬼の顔が人間のものではなかったからだ。口と目が異様に裂けている。唇の端など耳元まであるし、目に至っては二つの瞼が繋がって、一つになった眼孔から無数の瞳が覗いている。恐ろしい要望もまた、判断材料の一つだった。鬼は人である部分を無くせば無くすほど強くなる。正確に言えば、血鬼術の出力が上がる。
ここまで露骨に強いと主張する鬼も珍しい。いや、鬼にとっては人ではないと誇示できる事こそ名誉なのだろうか。
いつの間にか、実弥の姿は消えていた。まあ、いつも通りと言えばいつも通り。「できる所までは一人でやれ」だ。
善逸は無言で屋根の上へと跳ねた。
鬼と相対したとき、真っ先にすべきは空間を広く取る事だ。狭い場所で鬼と対面するのは、こちらの負けを意味する。相手はただ大雑把に腕を振り回すだけで、敵を挽肉にできるのだから。
もっとも、その『広い空間をどう使うか』という方面に血鬼術を広げる場合が多いので、狭い場所よりはいくらかマシという程度でしかない。
鬼は、どうやら風柱に気付いていないようだ。周囲を警戒もせず、軽い足取りで善逸を追い、空へと跳ねる。
「ホ、ホ、ホ。儂に殺されるため広い場所に出てくるとは良い心掛け」
(遠距離型の血鬼術で確定だな)
この手の話を簡単に漏らす鬼は、実はかなり多い。理由は簡単で、本当に強い鬼殺しを知らないから。
そういった意味では、下弦の鬼達は実によく柱を理解していた。なにせ柱の気配があるだけでも全力で逃げ出すのだから。下弦の鬼になる事は特に難しくないかもしれないが、下弦の鬼で居続ける事は実に難しい。とにかく柱と接触しないようにしなければいけないのだから。
そういった事情があって、下弦の鬼は強い鬼に『舐められている』らしい。下弦の鬼が臆病である理由を知った時、それが自称“下弦の鬼より優れた鬼”の最後の日だ。どちらであっても、柱以外の隊士にとっては死の象徴に等しいのだが。
(でも、大丈夫)
心の中で念じる。
敵のおおよその強さは予想できる。この程度の相手なら、今までいくらでも戦ってきたし、倒してきた。
大丈夫だ。いつものように唱える。我妻善逸は強くなくとも、獪岳は強い。刀を信じれば、結果は自ずとついてくる。
頭の中を透き通らせた。空っぽにするのとは違う。善逸の経験上、これが最も自分の力を発揮できる状態だった。実弥には「寝てる方が強ぇ」などと意味の分からない事を言われたが、そんなわけがないので聞き流している。
鬼が口角をつり上げたのを見て、腰を少しだけ落とす。
獪岳の言葉が蘇った。
『敵の手口が分からない内は無闇に攻め急ぐんじゃねえ。いいか、攻めるなって言ってるんじゃねえぞ。不用意に踏み込むなって話だ』
修業時代にも、何度も言われたな、と苦笑しそうになる。
獪岳の攻め退きを体感できるようになると、なんで今まで自分はあれほど突っ込んでいたんだろうか、と思うようになった。はっきり言って、当時の自分はただの馬鹿だ。
鬼が人差し指を立てて持ち上げ、それを横一文字に振った。
「
体が鳴らした警告に従い、横に飛ぶ。上に逃れる事はできない。追撃があったとき、逃れる術がなくなるから。
一瞬前まで自分がいた場所が、横一文字に割れている。断面は冗談のように鋭い。それこそ消し飛ばされたと言われても納得できる程だ。
遠距離に斬撃を飛ばす血鬼術だろうか。考えて、すぐに声が響く。
『早い段階で手口を断定するんじゃねえ。嘘をつく鬼は一定数いる。あくまで初手は参考程度に考えろ。切り札の存在を、常に頭へ入れておけ』
(大丈夫、分かってるよ)
小さく返す。もう二度と、獪岳の言葉を聞き逃したりはしない。
「儂の攻撃を避けるか。ホ、ホ、ホ、小癪」
鬼が胸元あたりで指を立てる。今度はそれを、真っ直ぐ押し込んできた。
「
体をその場で回転するように捻らせた。
着地した後、足下には、拳よりやや小さいといった程度の大きさに穴が空いていた。
おおよそ血鬼術の輪郭が見えてきた。要になるのは、あの『ダン』という言葉。言霊のようなものだろう。ダン、に該当する字と同じ現象を起こす。実際にそれを起こす際には、手振りが必要。
『ネタが割れるまで下手な真似はするんじゃねえ。逆に言えば、底さえ知れちまえば迷うな。重要なのは一つ、相手に可能性を与えない事だ』
分からない、或いは理解できない。技はたったそれだけに大きな意味がある。相手の力は暴いた。ならばもう、こちらも隠し立てする必要は無い。
「チィッ! 柱でもない鬼狩り風情が! とっとと死ねぇい!
鬼が両手を大きく広げた。全ての指を立てている。その全てから血鬼術が放てる事は容易に予想がついた。つまり、脅威に能わず。
屋根を全力で踏みしめる。こういった細かい動作で、獪岳のすごさを実感した。善逸ならば、屋根を割って勢いを半減させていただろう。しかし獪岳の技術ならば、善逸より早く動き出す上に、屋根は撓む程度。全ての面において優れている。
両手を十字に重ねるような動きで、腕が振るわれた。全くもって無意味だ、と刀に宿る獪岳の意思が断じる。有効に扱うならば、面を重ねるべきではない。典型的な血鬼術に使われている鬼だ。
もっとも、使っていようが使われていようが関係ない。善逸の体は、鬼の動体視力が追いつかない速度で視界の外に消えたのだから。
「ひっ、だ、
理解できない状況に追い込まれた時は、防御をする。これ自体は正しい。しかし、棒立ちかつ相手の位置を大雑把にでも把握してなければ無意味だ。
お門違いの方向に展開された血鬼術、恐らくは壁のようなものを作るのだろう。それをすり抜けて、善逸は鍔を親指で押した。
雷の呼吸 壱ノ型・霹靂一閃
刃はそれが本来の形であるとでも言うように、するりと鬼の頚に吸い込まれて、そして通り抜けていった。
ここで油断などしない。即座に物陰へ潜り込み、相手の見えない場所から鬼の頚を観察する。頭部が崩れ始めたのを確認して、やっと刀を収めた。
「まあまあだな」
「ひぇっ」
背後からの、殺気でも籠っているのではないかと思うような声に、思わず体を跳ねさせる。
どういう理屈か、善逸の聴力すらすり抜けて実弥がそこにいた。こういう所、やはり柱は化け物揃いなのだな、と再確認した。
「これで下弦の鬼相当の鬼三匹目か。で、そろそろ獪岳の技を自分の物にしたか?」
「ええと、ある程度は自分の物にできたかな、とは思いますけど、まだ完全には……」
「チッ。まあ雑魚ばかりじゃ仕方ねェか。この程度のカスどもじゃろくな経験値にもなりゃしねえ」
現在風柱に命じられている事は、刀を頼りにするな、という事だった。つまりは、獪岳の刀ではなくとも、同じだけの動きができるようにしろ、という事だ。
俺は奇跡を信じねェ――これが、真っ先に投げつけられた言葉だった。世の中は人に都合良くなど動いてくれない。一見有利に見えて、その実必ずどこかに落とし穴がある。
言葉が、獪岳を否定するものではないというのはすぐ分かった。だが、そのうち技術を抽出できなくなるかも知れない。或いは、刀として当り前に、そのうち折れるかもしれない。だから、もしもが起こる前に備えておけ。これはそういう話だ。
彼を悲観的という事はできない。鬼殺隊は運命の悪意に晒された者が集まった組織なのだから。最悪は自分ではない誰かに降りかかるものだ、と暢気に構える者はいない。
だから現在は、鬼を倒して経験を積みつつ、獪岳の力を体にたたき込んでいる所だ。訓練としては楽な部類なのだろうが、どうしても自分と獪岳の境目が曖昧になるため、本当に体に染みついたかの判別が難しい。そういった意味ではかなり厄介な訓練だとも言えた。
「とっとと次行くぞ。今度はもうちょい訓練になる鬼だといいんだがなァ」
「はい、あの、できればもう少しお手柔らかに……」
「温い事言ってんじゃねェ。頭破裂さすぞ」
「どう控えめに見ても死んじゃいますよねそれ!?」
頻繁にとんでもない脅し(しかも冗談に聞こえない)を貰いながら。この二人旅は、もう少しだけ続きそうだった。